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第一章 なぜ私であるのか

私は欲深いんだよ

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 ソグ山の雪は確かに少なく地元の兵隊は驚きと歓喜と不安の三種類の感情が混じった声をあげていた。

 バルツ率いる龍の護軍はソグ山を登っている。目標はソグ砦であり目的はただ一つ、攻略による制圧である。

 ジーナから書状を渡されたバルツは沈思黙考による震えの中でその賭けに乗ることとした。防御態勢が完全に整わぬソグ砦に攻勢をかけ一気に陥落させる。

 だがそのためには雪がこのまま止み続ける異常気象の継続が条件であり、バルツはしばしば天を仰ぎ顔に細雪を当たるのを気にせずに睨んだ。

 それは祈りではなくどちらかというと、脅しのようにも見えた。

「天が怒ってどか雪を落すかも知れませんから、どうかにこやかに」

「俺の顔でにやけたらふざけるなと怒るかもしれないだろ。だいたい俺は睨んでいない。真剣な顔をしているだけだ」

 それが睨んでいることでは、と兵隊の誰もがそのやり取りを聞きながら声をあげずに雪の行軍は進んでいく。吐く息があちこち白く上がり、雲となるように。

 なにやら声をあげたり音を立てたりしたら、天がこの事態に気付いてもとのように雪を降らすのではないかと疑うように。

 ソグ山の山道の横幅は狭く一人か二人でいっぱいのものである。これでもこの時期に人が歩けるだけ、おかしいとソグの案内人は口を揃えて言いジーナは頷いた。

 彼は先頭にいた。ジーナ隊はここでも先導役及び最前線に配置されている。もとより隊員はこの役割に対しては一切の文句はなかった。

 あるものは恩赦をあるものは賞与をあるものは将来の地位を、あるものは……龍を。

「前回のよりかは、マシそうですね」

 斜め後ろのノイスがジーナに話しかけてきた。

「そう言うが私達は最前線だ。どっちみち危険に変わりはない」

「おっ嫌なのかジーナ隊長さん。だったら俺を先頭にしてくれ。そうしたら俺が次の近衛兵になれるからな」

 ふざけた口調でブリアンが冗談を言うと隊員はみな首を振る。あんたには無理だという意味で。

 ジーナは前回の戦いを思い出していた。半分以上の隊員がこの山で散ったと、だから思う。龍のために戦ったものが死に、そうでないものがこうして生き残っている不条理を。

「ジーナ隊長はここに来ないことも可能な立場でしたよね」

 不意にノイスがまた話しかけて来る。

「龍の護衛だからといって免責されるわけではないぞ。私はバルツ様の部下だからな」

「ですが可能でした。龍身様の依頼があるのならバルツ様が断れないのをあなただって知っているでしょ? あなたは前回の戦いでもう必要なものを全て手に入れたと俺達は見ています。勲章も地位も名誉も。それなのにどうしてここに?」

 あなたはどうしてここに? ノイスの声の後ろにいる他の隊員からの無言の声も聞こえた気がした。

「仲間、だと言われれば嬉しいですが、我々の隊はそういう隊ではありません。寄せ集めで自分の目的を達成したら脱隊する。そのことは当然誰も咎めない。咎められるはずもない。死んだら元も子もないのですから。実際に今回も脱隊し他隊に入ったものもいた。当然新しく入ったものもいる。俺達もあなたが抜けるものとほぼ想定しておりました……だがここにいる。何故?」

 ノイスのみならず隊員全員から問われているような感覚の中でジーナは答える。

「龍をこの目で見たいからと言ったら、どうだ?」

「不信仰者なのに?」

 真剣な問いなのにジーナは失笑する。その通りだ、と。そう思うのは無理もない、とそうとしか思えないのは当然だと。

「だからこそ龍に出会いたいと言ったら、どうだ。それも一番前で、誰よりも先でと言ったとしたら」

 顔を覆っているためにノイスの表情は見えないが、声からはどこか緊張が解かれたものを感じられた。冗談を言ったのかと思ったのだろう。本当のことであるのに。

「理屈ではありますね」

「とにかくだ。私の望みは大きい。ノイスのよりも誰よりもな。今の地位や名誉では到底足りない。全然足りない。ちっとも満たされていない。そうだとも私は欲深いんだよ。そのうえその罪もまた、誰よりも深くて大きい。だからまだまだこの隊にいたいし、戦いたい。追い出そうたってそうはいかないからな」

 今度は小さいながらもはっきりとした笑い声があたりから湧きあがった。それは安堵の息とも感じられた。

「そこまで望まれるのでしたら何も言いません。いえ、俺達の存在が隊長を無理矢理ここに留めていると思いましてね」

 ジーナはあえて聞こえるように声を出して笑う。

「みんなのために生きているのと違うぞ。すまないが、いやすまなくないな、目的のものを手に入れたら即座にここから出る。みんなも早くそうしろ」

 疎らであるが返事があちこちで起こりジーナは肩の荷が下りた気がした。いま自分は真実を述べたことを。何一つとして嘘はついていないうえに、言葉で以って告白をしたことに清々とした気持ちにもなった。

 誰よりも罪が深いことを。誰よりも欲望が大きいことを。

 贖罪を使命を果たすためには願いを叶えるためには、誰よりも一番に龍に会わなければならない。

 そうだ龍を……ジーナは天を仰いだ。

 雪はまだ強まらず細雪のまま弱くジーナの額に当たり溶けていくのが分かった。
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