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第一章 なぜ私であるのか

冗談はおでこの広さだけにしてください

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 今日もまた自分は失われているとヘイムは鏡を覗き込みながら思った。

 鏡を見るたびに、というわけではなく今この瞬間も自分でもわからぬまま他人にも気づかれずに、失いつつあるのだろう。

 龍化が。左半身の龍が右側へと広がりつつあり、龍との一体化が進んでいる。だが最近はとみに動きが早い。儀式のせいか? そうだろう。中央に近づいているからか? そうだろう。それとも……とその先をヘイムは考えることはやめた。

 肯定も否定もしてはならない。考えてはならない。それは、考えてどうにかなるものではないのだから。瞼を閉じ開き右眼でもってまた見ると、やはりこの瞬間でも進んでいるのが分かる。目に見えずとも分かる。

 シオンは自分の髪の乱れやそんな些細で細かい点は気づくだろうが、このことは決して気づくことはないだろう。

 失っていくことについて完全に慣れていくのだから。ルーゲンは気づいているのかもしれない。彼にとってはそのことが他の何にもまして関心事であるのだから。

 心の底からその日を待っているのだろう。龍となるその日を。龍を待ち、一番初めに会いたいとも思っているのだろう。

 それにしても自分は鏡を見てどうだというのか? なにを確認しているのだ? こんな分かりきっていることを、とヘイムは自分に問いそれから自嘲する。

「なにかおかしな発見でもしましたか?」

 シオンが聞いてきた。

「それは鏡を見ているものに聞くものなのか?」

「だって笑っているじゃないですか。顔に何か変なものでもできましたか?」

「いや、妾はどうしてこんなに美しいのかなとおかしな気分になってな」

「出ましたね自惚れ。冗談はおでこの広さだけにしてくださいよ」

「その冗談みたいな髪型をしている奴が言うではない。それにしても似合っておるな」

 振り返ったヘイムが見たのは剣を手に持ったシオンであった。正装に身を固め剣を陽の光りでもって反射させている。

「さながら龍の騎士様といったところか」

「いえいえ龍の騎士なんですってば、もう。認めたくはないのですか?」

 笑うシオンの姿を見ながらヘイムは昔を思い出す。龍の騎士の家で育った令嬢を。その長い髪を。

「あんなに細くて小さかったのにのぉ。いまじゃどこかにいそうな青年にしか見えなくなって、嘆かわしい」

「いつの話ですか? 早い時期から私は背が高かったですよ。でも良かった剣の状態が良好でしかも」

 シオンは納刀した剣を再び抜き放ち剣を手に舞った。その得意の居合いを披露する。

「ほら分かりますか? この手の馴染みよう。はじめてなのに元から私に出会うことを待っていたかのようなこの感触、素晴らしいです」

 シオンは剣を愛しげに撫でるのをヘイムはなにも言わずに眺めていた。その剣はかつて龍の騎士がソグに置いたままにしていた一本であり、シオンの手元にある先祖の剣はそれだけであり、初めてであった。

「何しろ古いものであったから修繕を施したが、いい感じであるな」

「これでやっと見てくれはそれらしくなりましたね」

「見てくれもなにも既にそなたは龍の騎士だ」

 シオンも微笑み二人は目を合わせる。

「当たり前ですよ。私はずっとそうでしたよ」

「不安そうにしていた癖に」

 二人は同時に吹き出しそれからシオンは時計を見た。

「おっともうこんな時間。あともう少しでジーナが来ますが行きますね。挨拶はまた明日に」

 シオンがそう言うとヘイムの表情に陰がかかり、扉の方を凝視する。何の気配も感じぬままシオンは扉を見るが、なにも無く、またヘイムを見ると表情が元に戻っていた。

「ああそうだなシオン。ジーナが来る。妾が呼んだのだからな。そうだ、それに変わりはない。やつはここに、来るのだ」
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