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第二章 なぜ私ではないのか

『ではここにいるのはもう死体ということだ』

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 歳月が人を変えたのか、それともその役目と使命が人を変えるのか、ジュシはその女を知っているが知らないものとして見ていた。

 もう自分とは関係のなくなった女の顔がそこにあり、まるでここが遥か彼方の世界であることを教えてくれるようであった。

「どうして、帰ってきた」

 刀身の冷たさが首の皮膚に伝わって来るも、男にとってそれは大事なことではなく、それよりも女の声を聞くほうに神経を集中させた。

 知っているのに知らないその声を、覚えているのに違う輝き方をしている瞳の色を。あの頃よりも若干伸びた身長に気付き、確認をする。ここに自分の居場所はないのだと。

「戻った場合は敵だと僕は宣言した。それは変わらない。今の僕ならそれができると、君なら分かるよね?」

 分かると多分目が答えたのだろうか、女の手に力が入り剣の刃が皮膚に更に近づき触れる。あとは押して引けば、このさまよいつづけた世界が終わる。

 あの夕陽の日のあの時から全く動いていないまま、またこうして対峙せざるを得なかった停止した世界が。

 だがそれでもあの瞬間の続きのように女があの日と同じ声で尋ねてきた。

「……言って名前を。いまの僕の名前がなにかを」

 男の目には女の顔と声、それどころか魂さえもあの知っている過去のものに戻ったように見えた。だから男は再び答えなくてならなかった。己の終へと向かう魂の意味を。

「――。俺は自分の死を確認するために帰ってきた」

 答えると女の瞳は碧色を交えた金色に輝く。さっきよりも強く爛々と。それはここに敵がいるという、印。だから金色の瞳を持つ女が告げた。

「言ったな。ではここにいるのはもう死体ということだ」

 男は瞼を閉じた、が世界は終わらなかった。まだ解放はされない。

「ジーナさん!!」

 叫び声に剣が縦に揺れ微かに引き二人は同じものを見た。アリバが顔面蒼白で近づいてくる。

「あっあのジュシの首に剣を掛けて、なっなにをしているんだ!」

 ジーナは不審な表情となりアリバと男を見比べ聞き返す。

「ジュシとは誰だ? これは」

「誰ってその男ですよ。なんだか内輪の深刻そうな話をしているようですけど、わしの部下に、いや相棒に手を掛けるというのなら、この取引はあり得ない、即刻破棄だ」

 青から赤に、アリバの顔色が変わりジーナは睨み返しながら応えた。

「我々は村の掟についての重要な話をしている。このことは他の何よりも優先とする」」

「ならばわしはこちらの事情を優先する。お客様であろうがこちらの身内に手を掛けるなどする人とは取引は論外です。それどころかわしの知り合い全員に掛けあってこの村とは商売をしないようにする。こいつはただの傭兵じゃない。わしらの仲間の一人だ。みんな協力する。そうしたら困るのはジーナさん側だ」

「交渉に当たったツィロは」

 と口にするとジーナは一度言葉を区切り、その首がジュシの方に微かに動いた、ように見えたが実際には動かず、言った

「私の夫が言ったはずだ。これは厳禁だとな」

 ジュシの胸に重いなにかがぶつかるも足を微塵たりとも動かさぬよう、ほんの少しの心を漏らさぬよう、立つも、動揺したせいか首に触れる刃が皮膚を僅かに割いたと自ら分かった。

 血は出ることよりもジュシは動いて女にこの心が察せられたと想像することの方が、恐ろしかった。

「それは謝罪いたします。ですがこれには事情がございます。ジュシから山には恐ろしい怪物がいると聞き我々はこうして人数を揃え武装し山に登りました。その際に彼を箱の中に入れました。これは万が一その怪物と遭遇したら一緒に戦うという保険です。もしも遭遇が無かったとしたらこのまま箱に入れたまま下山するつもりでした」

「そこだがジュシというものが望んで山に登りたいと言ったのではないのか?」

「むしろ逆でございます。彼はわしの命令と強引な誘いに断ることができなかった。何故なら命がかかった取引への同行を断ったとしたら彼は商人仲間から弾かれてしまい、こいつはどこにも行くところが無くなります。そうでもなければ箱の中にじっと入っていることなんかできません。それにこれを連れてきたのはわしらとっても良かったしジーナさん側としても良かったはずです。いまの戦いからすればそう思うしかありますまい、そうでしょ? わしは危うく呑み込まれかけました」

 辺り一面に散らばる眷属の死骸に血。ジーナの足元には大きめの首が転がっており長い舌を出したまま恨みがましく天を仰いでいた。

 ジーナはそんなことは分かっているとでも言いたげに無言で前を見て、息を漏らした。ジュシがいたからこの危機は乗り越えられた、このことを肯定も否定もせず剣を首から離し鞘に納め、一歩離れた。

「ならこのジュシという名のものは、いますぐ山から降りろ」

「駄目だ! さっきみたいなことが起こったら誰が身を守るというんだ」

「我々が警護する」

 アリバの抗議にジーナはもう決定事項のように通告するが食い下がった。

「いやいやこのジュシは一人で行かせるわけにも行かない」

「ジュシとやらのことなら大丈夫だ。私はそのことをよく知っているし何が起こったとしてもこちらには」

「それならわしらも山を降りる。一人で降ろさせるほど、わしらは薄情でないしさっきの危機を救ったのはあなたが来るまでこいつだ。そんなことができるものか」

 アリバの叫びに様子を見守っていた他のものたちは荷車に手を掛けた。命令一下で山を降りる、その態度はそう告げていた。

「山はこれだけ危険だとはツィロさんからは聞いてはいない上にこんな恐ろしい目にあった。ジュシを連れてきた件はそのことで相殺させていただきませんか? ジュシとあなたのおかげでわしらの命と武器はこうして守ることができたのですから、だから」

 ジーナは首を振り拒否の動きをとろうとしたがアリバは動きを止めるべく間髪入れずねじ込んだ。

「それにあなたも彼が帰れと言って、このまま素直に真っ直ぐ山から降りると信じているわけもありますまい」

 ジーナの首が振られる前に止まり長い髪だけが音もなく左右に揺れた。意思がないからこそ動き、風に身を任せる。

「そこまで信じていないのなら、仰るように一人にさせたら時間をおいて登って来ることもあると思うのが道理ではございますまいか?」

 言葉を重ねているうちにアリバの声は小さくなっていく。そのジーナの瞳の冷たさに見いられ底冷えを感じ腹からなにかがこみ上げて来るものをアリバは感じるも、堪える。ここを乗り越えれば勝てる予感と共に。

「お荷物をお届けをしましたらわしらは長居するつもりはございません。即座に山を降ります。ですからどうぞここは」

 ジーナは動かず言葉を出さずその場に立ち、その数秒後が数十分後のように短くも長い沈黙の後、やがて口を開くとアリバにはどうしてか笑顔のように見えそれから剣は鞘に納められた。

「アリバ殿。そのジュシというものはね、呪われた身です。山に足を踏み入れると災厄が起こる、と我々は信じていますが……あなたの言うことも一理はあるかな。一人で帰らせるのは信用できない。それとこちらの不備のために危険なことが起こりこちら側の救助も間一髪だったのも認めましょう。あれは箱に入っていたようならば、箱に入れていただきたい。そうしたら私が封を致します」

 封? とは、とアリバは思わずこれ幸いとばかりに気が変わらぬうちに急いでジュシのもとへ行き引っ張り、仲間の力を借りて箱の中に無理矢理押しやるように入れた。

「これでよろしいでしょうか。あっご心配なく。この箱は頑丈な構造でこの上の蓋以外は開きようがございませんので、どうぞ封を」

 慌てているために営業口調になっているアリバを尻目にジーナは蓋に手を掛け何やら唱え出し、その中でジュシに分かった言葉が終わりにあった。

「死体には相応しいね……」

 ジュシは言葉に頷きその掌に力がこもったのを内側から感じ取った。

「この蓋は開かない。あなた方もこの蓋を開けない。そして、ここには誰もいない、存在しない。この箱は空虚のみが入っている。そういうことで、いいですね?」

 了解するアリバの声がすると遠くから呼びかける声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある声たちの中にツィロのものがあった。その変わらない声、この間の自分に向けた声とは違う声、自分がいないことで出される声をジュシはただ聞いていた。

 閉ざされた闇の中であってもジュシには印が見えあの金色の光りが眼に焼き付いており思うことはひとつであった。

 あれは自分が持つものであったはずだったと。聞こえて来るツィロの声と女の声を聞くと同じことを思った。

 それは自分が持っていたはずのものであった……あぁ呪われている、とジュシはまた闇の中で自分は笑顔となっていると感じた。

 こんな心を持つことが呪いなのだろうと、三年経っても変わらなかったことを、これを確認しにきたというのなら、このような心を抱いてはならないのだから戻らずに遠くに去らなければならない、そんなことは分かっているというのに、この身は故郷へ戻る。風と波と宿命ともいえる力が身体を持っていく。
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