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第3部 私達でなければならない

私の指を噛んでごらん

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 遠ざかる意識のなかジーナは全身に、特に足裏に力を入れた。

「それなら責任や義務といった使命などもとよりないはずだ」

 飛ばされないために、失わないために。

「何のためにここにいる?」

 自分であるために。

「龍を討つためだ。私が、ジーナだ」

「この妾の前で誤魔化すことに意味はあるのか? お前はあの時ジーナという女の傍らにいたもう一人の男だろうに」

「誤魔化などしていない」

「やれやれどういう経緯か知らんが、何故お前があの女を騙っておる? その名はそうだろう? 騙りでないのなら、代理か? だがその尋常でない様子では勝手にやっていることだろうな」

 顔を離し声をもとに戻しながら龍身がそう言うと、西の空を見上げた。

「お前がやるべきことはひとつだけだ、ひとつだけ、とても大切な、ひとつ。その印を元の場所に戻す。これならお前にだってできるし、お前にしかできぬことだ」

「……言われなくてもお前を討った後にそうする」

 同じく西の彼方を見つめながらジーナがそう言った。

「新しいのを連れてこい。お前では、無理だ。特にお前ではな。その理由は……言わなくても分かるだろう」

 ジーナはひさしぶりに故郷を思い出そうとしたが、出て来るのはツィロの最後の言葉だけだった。

 それ以上はいまは必要ないと制限が掛けられているように、他の一切は何も、どこからも出てこない。

 まるで印を持ち帰るまで、封印されているかのように……いや違うと……男は分かっていた。そうではない、と。

「お前はどうして私を殺さない」

 いい天気だな、と同じ口調でジーナは聞くと、何も返っては来なかった。

 なおもジーナは西の空を見続け龍身の方を振り返りながらまた言った。

「お前こそいまここでやれば問題は無いだろう」

 龍身はジーナの方に目を向けていた。いや、左眼はなかった。

「左眼が痛いのぉ……無いから眼孔が痛むと言おう。。おお左手の指が痛む。幻肢痛というやつか無いものほど痛むな。ああ脚が真っ直ぐにならぬ歩くたびに痛みが来る……全てお前のせいだ」

 龍身は闇しか宿していない眼孔をジーナに向けながら呟き、左掌をあげる。

「この左手で短刀をもち左眼で以ってお前を見てこの左脚でお前に向かっていけるのなら、しておったわ。だがそんなことはこの身体では、できん。確実にやれる方法は、龍となることだ」

 語る龍身をジーナはジッと見つめる。

「一方的に蹂躙してやる。この地の始祖の力も頂いてな。愚かにも残ったことを後悔させてやる」

 ジーナは龍身の口元を、見る。

「いまここでやればいいだろう」

「だからそれができる身体ではないと言っただろうが」

「いいや、やればいい、やれればな」

 龍身が何かを言おうとするその口にジーナは左人差し指を入れ、後頭部を抑えた。

「これはお前への攻撃ではない。むしろ私が攻撃をされている形になっているな。どうだ、噛んで見ろ。噛んで、噛み切れ。龍らしくな」

 龍身は呻き声を発し頭を振るうも脱出は出来そうになかった。ジーナは自分の人差し指に龍身の歯が乗っていることに全神経を集中させる。

 少しの力の入り方、その意志、自分への痛み、必要なその全てを待っていた。

「なぁ龍身。お前の理屈が成り立つというのなら、逆にこう言えるんじゃないのか? 印を持つ私に対してお前もまたなにもできない、と」

 歯が震えているがジーナは指で感じるもそれは力が入っているわけではなかった。甘噛みですらなく、ただ乗せているまま。なにも、できない。

「思った通りのようだな。どうしてだか私は知らないが、お前だって知るまい。私達が知っていることは、私達が知らないもの同士だということだ。何といったって……もとよりここにいる資格が本来はないのだからな」

 龍身の呻き声が荒くなりその身体は熱を帯びてきたが、歯は震えるばかりで縦には動かない。

 噛むということを忘れているようにそこにあるだけだった。

「そのものでもないのに、そのものになりたがる呪われた存在、存在してはならない存在。だから私は故郷のものに言われたよ。宣告のように言われた。お前の名は死であり龍の手によって命を絶たれるとな」

 龍身の身体は鎮まらずその震えはこちらの次の言葉が何であるのかを知っているように、

 抗おうと歯を動かそうとするも、ジーナには何も感じなかった。

「ここで宣告をする。お前は、ジーナの手によって、命を絶たれる。お前は俺と同じ存在であるのだからな。中央の龍で無いのに元からそうであると言っているような顔をしようとする。私は呪身と言われたが、お前はさしずめ呪龍だな。私の行いを誰が望むのかと言っていたが、ジーナが望む。それで十分だ。……いいや違うな。私達だ、私達一人で十分だ。私達でなければならない」

 告げると龍身の震えが収まり奇妙な静けさが腕の中で広がっているのが分かり、歯に僅かだが力が加わった。

 噛める!? どうしてとジーナは龍身の顔を覗き込むと右目が合い、分かった。そこには龍身はおらずヘイムがいた。

 指が口に入っているが、平素と同じ表情であり特に驚いている風でもない。ただ噛む力が徐々に増していっている。

 まさかこのまま噛み切るのでは? と思うと同時にヘイムの口が開き指が解放された。

「口の中に入っているのなら噛んでもいいものだと思ってな」

 唇を指で拭いながらヘイムが言い尋ねる。

「なんだその顔は? 妾に食わせてくれるのかと思ったからこうしたのであろう? そうでなければ何のためにこんなことをした」

 龍身中は意識が失わるのか、とジーナは思い安心するも、困った。

「あの、もしも意識を失われていたとしたら自分の方が口にしたという可能性は考えないのですか?」

「馬鹿を言え。妾はそんなことをせん。たとえ意識が眠りについていてもな」

「全く以て仰る通りです。私が入れました」

 ジーナがそう言うとヘイムは笑う。

「なんだこのやり取りは。普通の会話では滅多に出てこない、というか一生でてこないであろうな」

 お前は指を入れた、あなたが咥えた、の疑惑からの私はあなたの口の中に人差し指をいれましたという自供。

 「なんだ? そんなに自分の指の味に自信でもあったのか? どんな自信だそれは」

 自分で自分の言葉に笑いながらヘイムはジーナの手を取り人差し指をまじまじと見る。

「歯形がついて痛々しいな。そなたはこんな痕が欲しくてそんな妙なことをしたのか」

「理由がありまして」

「どんな理由だ?」

「言えません」

 またヘイムは笑う。

「おいおい妾は口の中に指を入れられたのだぞ。理由を聞く権利ぐらいあるだろうに。関係ないとは言わせぬぞ。こうなったら関係しかないのだからな」

 聞かれてもジーナは答えず口を閉ざすとヘイムは溜息を吐いて空を見上げた。

「言いたくない、か。なら構わぬぞ、そうすれば良い。その代わりに口直しに何か食べたり飲んだりをしたい。口のなかがそなたの味で気分が悪くなりそうだ。何かないか?」

 助かったとジーナはあたりを見ると机の上には何も無く茶をと言おうとすると、ヘイムは傍らのバラの花をもぎ取った。

「これがいいな。そなたが育てた花で口の中を漱ぐ。責任あるやり方であるな」
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