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第3部 私達でなければならない

ハイネをひっぱたく

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「私自身でも調査をしてみます。ハイネ、あなたは疲れているようですから今日は休みなさい。近いうちに祭壇所と広場の調査が始まるかもしれませんのでその前までに英気を養っておくこと。良いですね? 体調を整えることも重大な仕事ですよ」

 はい、と頷きハイネが椅子から立ち歩こうとするもせず、背もたれに手を掛け、シオンに問うた。

「あの一つお聞かせください。姉様はあの御方があのようなことをするかどうかを。私が信じているよりも姉様がどう思うかを、聞きたいです」

 何を変なことを? とシオンはハイネが冗談を言っているのだと思うも、その眼はそうではなかった。

 龍身様がジーナに会いたがっている? これは謎かけ? とも思うもそうではなさそうだからとシオンは首を捻り言葉を口の中に留めた。こんなことを声にして外に出していいのだろうか?

 懸念するぐらいにその質問は愚であり、返事もまた不必要であるというのに、この子はいったい何を求めているのか?

 そう思うもハイネは激しい瞬きだけをしこちらを見ている。だからシオンは諦め口を開いた。

「龍身様とジーナはそのような接点などありません。むしろあまり会いたがってはいませんよ」

「姉様のそこが分からない」

 ハイネは顔を動かさずにそう言いシオンは少し仰け反った。

 返事を予め準備していたような反射速度。自分がそういうに決まっていると分かっているからこその速度の返し。

 けれどシオンは分からない。ハイネがいったい何を言っているのかが。

「あなたはとても賢い人であるのに、そこだけどうして結びつかないのですか」

 その怒りと苛立ちを抑えつけている声にシオンは息を呑むも、その感情が分からない。

「姉様……龍身様とヘイム様は別なんですよ」

 世界の秘密を打ち明けるような呟きであるもシオンははっきりと聞こえ強い反発を覚えた。

「あなたは何を言っているのです?」

「姉様はたまに混乱して……いや、そういうんじゃない。あなたは混乱しているのです。それも今だけではなくずっと前から……ジーナと会う頃から? 違う、会う前からそうです。いつから……ヘイム様が龍身になられてから……そう、はじめから混乱している、これです」

 シオンはハイネの正気を疑い出す。疲れで頭がおかしくなってしまったのでは?

 そのやつれ青白い顔を染める上気し浮かぶ朱色に狂気すら感じた。

 混乱とは何か? 私が混乱している? いったいどこが?ヘイムとは龍身様であり龍身様はヘイムであるのは最初からそうであるのに。

 別々……とは……シオンは考え出すと冷たいものを胸の奥に感じ、思わず手を引っ込めるように思考から離れた。

 触れてはならない、そんなところがあるとシオンは気が付いた。私は何かに気付いてはならないのだと。

 氷が浮かんだ水風呂、そんなようなものが自分のなかにあるとは……そしてそれが何を意味しているのか?

 封印されているもの……ではそれはいったいだれがそのようなものを?

 自分か、この身に流れる血か、あるいは私自身を支配する……龍の力……

「ハイネ、落ち着きなさい。あなたはいまおかしなことを言っています、黙りなさい」

 シオンは考えることをやめ、ハイネにも沈黙を求めるもその口は閉じない。

「姉様聞いてください。こんなことを私は言いたくないのです。でもあなたは気づかない。絶対にこの先も気づくことはない。だからいま私が言うのです。私だけが言えるのです」

「黙りなさい、と言いましたよハイネ」

「聞いてください姉様」

 言葉が交差し、一瞬だけの沈黙が眼の前を過り、シオンはハイネの強張り震え苦し気な表情を見た。

 醜いな、と感じるもシオンには不快感は無かった。

 だがその口が開くと声を聞くよりも先に下半身に冷たさを覚え不快感が全身を覆った。聞いては、ならない。

「ジーナはヘイム様を愛しています。そしてヘイム様も……」

 その表情であるのに関わらず声は美しくどこか澄んでいた。

 そうであるからこそか、シオンの全神経は全神経が拒絶反応を起こしたかのようにその身を立ち上がらせる。

 理解できない言葉のあとに聞きたくないおぞましい言葉が続く、とシオンの予感は腕に力を宿らせる。

 だがシオンはハイネの頬を叩く代わりに言葉によって叩いた。

「何を言っているのハイネ? あの男が愛しているのはあなたでしょ?」

 ハイネの表情から強張りや震えに歪みが消え左眼から涙が零れて、落ちた。

「私は認めませんが、それが事実じゃないですか」

「……そうです」

 けれどその声は震え濁り汚らしくシオンは今度はその歪みに怒りを覚える。

「そうですよ姉様。私はジーナを愛し彼も私を愛しそしてジーナはヘイム様を愛し……」

 考えるよりも神経が反射するよりも前にシオンはハイネの頬を叩いていた。良い音が鳴った。懐かしい変わらぬ響き。

 その先を言わせない。それは言ってはいけない言葉である。

 ハイネがそう答えると既に分かっていたから叩き、それからその身を抱き寄せた。

 けれどもハイネの口は調律がズレたまま奏でられる楽器のような声でそれを言った。

「ヘイム様もジーナのことを愛しております」

「うるさい! 私の耳に意味不明な言葉を流し込むな」

 シオンは叫ぶも自分の後頭部に手が添えられ撫でられる感触に呆然とした。

「姉様、真実に怯えないで。私達はその関係の中にいるのです。叩いても怒鳴っても……泣いてもそこは否定することはできません。あなたはそこに加わっているのですから」

 泣いている? 抱きしめているから手を使って確かめることはできないとはいえ、頬にはなにも感じていない。冷たいものも熱いものも、またぬるい何かも伝わってもいないのに、どうして泣いているというのか? 涙しているというのなら、私はいったいなにに? 私は何に泣いているのだ?

「……私にはあなたが何を言っているのか分からない。ずっと分からない。いいですかハイネ。あなたは真実だと言いましたが、どこに真実があるのです? 人はですね、同時に二つのものを愛せません。一人の男が二人の女を同じぐらい愛するとか……信じられない。ハイネへの愛と同じぐらいのものを違う人にも? どれだけ容量が多いのです? しかもあのジーナが、それをやる? あんな男のどこにそんな感情があるのです?」

「あるの、です」

 首を、うなじを撫でるハイネの掌の動きと熱の心地良さのなかでシオンはその声を聞いていた。

「考えるだけ、考えました。はじめから私はずっと考え続けてきた。いまの姉様のような言葉を何度思い考えてきたことか。全ては私の妄想か? そうであったらどれほどいいのか。そうでありたいと祈ることさえあった。けれども姉様、あなたは私に教えてくれました」

 撫でる手つきが止りハイネの掌はシオンのうなじを、抑えた。

 沁みこんでくるその冷たさ。それは哀しみの温度なのか? それでもハイネは振り払うということができずにそのままでいる。

 離れないでという気持ちのなか、言葉を待った。

「ジーナが私を愛していると。これによって微か過ぎる救いと希望の可能性、私の妄想であるというひとつの可能性が消えました」

「しかしもう一つは、完全なる妄想です。私はそんなこと、信じません」

「そうであったら……どれほどよいうことか」

「そうであるのです」

 うなじから手が離れるとシオンも腕を解いた。辺りは、とても寒いとシオンは久々に思った。

「もうこの話はよしましょう。頭が痛くなってくる。私はこれから龍身様に調査の依頼をしてきます。祭壇所周りで秘密の通路などが見つかったら、この件は解決ですからね」

「ええありがとうございます。龍身様ならばきっとご許可をくださるでしょう」

 その言葉にシオンは違う何かを感じ振り返ると、そこには挑発的でもあるといったよな眼つきのハイネが微笑んでいた。

「姉様、あなたはまだ気が付いていない、ただそれだけです」

「ハイネ、私をジーナみたい扱わないでくださいそれはバルツ将軍がジーナを評する言葉ですよ」

「そうでしたね、はいそうですね。ふふふっいま思ったのですけど姉様って……ジーナに似ていますね」

 何を下らないことを、とシオンは首を振りながら祭壇所に向かう階段に足を掛け、思う。

 自分のどこがジーナに似ているというのか。私はあんな分裂的な人間ではない。

 私は……シオンは足を止め耳を澄ます。

 遠くから声が、聞こえる。あの声が、聞こえなくても聞こえたような気がした。
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