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第3部 私達でなければならない

ジーナを討つ

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 そんなのはすぐに思い出せる。この世界を否定するためにだった。

 どうして否定し拒絶するのか? そんなのは簡単な理由だとシオンは記憶の果てへ意識を飛ばし、笑う。

 あなたがそうであったからだ。あなたが……そのような姿になったから。

 私はそれを見下ろす……見下ろしていた……左半身が壊れだしたあなたの姿を。

 脚は捻じれ指は欠け瞳は失い、なによりも紫色のまるで死を思わせる色へと変わっていくのを私は見るより他になす術はなかった。

 あなたが目覚めたらこの変貌と欠落をみて、どう感じるのか……私にはそれを想像することが耐えられなかった。

 あなたが苦しむことよりも、あなただけが苦しむことに私は耐えられない。共に、いられない、共にいるためには……感傷から私はすぐにハサミを手に取り、鏡を見ながら一瞬の迷いと苦痛もろとも髪の束を切り落した。

 束は床に落ち死骸のように転がり、やがて止まった。ひとつの死を感じながら私は込み上がる気分の悪さと降り下る快楽を同時に味わっていた。

 これでいい、と笑い泣きながらもう一房の髪の束を切り落とし、そのふたつを窓の外に投げ捨てた。

 鏡の中には知らない妙な女がそこにいた。ずっとずっと自慢だった長い髪を失った女。

 男には見えないが、かといって女にも見え難い、どちらでもない奇妙な存在がそこにいて、それが私であった。私となったものだ。

 これでいいと私は思いながら口にした。これでいいんだと自分に言い聞かせるために。

 あなたが好きだった私の髪は、こうしてなくなった。

 あなたは私の好きだった自身の半分を失ったのだから、私はあなたにこれを捧げる。

 この歪み狂い出した世界に、生きるために。

 あなたは私を一目見て、分かり気付く……自分はいま違う世界にいるのだと。

 知る。自分は変わったのだと。この私と共に。大切なものを欠落してしまった世界を生きるのだと。

 事実あなたは目覚め私を一目見た時に、変な表情となった。知っているのに知らない人を見るというあまり経験のないことをしたはずだ。

 右眼でジロジロと時間をかけ確認してから、他人に対するような口調であなたは尋ねた。

「そなたは、その、シオン、なのか?」

 その声に一堂は私に目を注ぎ、すぐに逸らした。この髪形は狂気の沙汰であり皆から心底から心配をされた。乱心とすら疑われた。

 不自然なほど短く形も狂ったように歪。だが私はあえて、そうした。罰のように、罪のように、自分自身ですら気に入らなくするために。

 そうです、と私は答えるとあなたは泣きだしそうな顔をした。それほど酷いと思ってくれるのなら、それでいい。

 私はそれほど惨めな存在に見えるのなら、それがいい。なら私はもうこの髪形を基本として、この先を生きていくという決意が湧いた。

 腹の底から痛みと屈辱がこみ上げては来るが、それはあなたの左半身を見ることで癒そう。そうだ私はその半身を、醜いものだとして嫌悪したのだ。

 どこも聖なるものとは見えず、どう見ても美しさを感じさせないそれを。私の髪と同じだ、本質的には同じことだ。

「アハハッどうしたのだ? 随分とおかしな髪形になってしまったな。イメージチェンジか?」

 あなたが快活に笑い出したその声に私は聖なるものと美しさを感じた。

 泣き嘆くよりもあなたは私を慰めてくれるためにわざと笑ったことは私には分かった。

 だから私はベットの右側に座りあなたの髪を撫でた。

「なぁシオンよ。妾の身体になにかあったのか? 左眼は見えんし手も動かんのだが?」

「そうですよ。私同様にあなたも、随分とおかしなものとなってしまいました。左眼は失い左手の指は欠け左脚は歪んでしまったのです。それに皮膚の色も変わってしまって」

「……そうか、そうなのか。ならシオン。妾の手を取ってくれるか?」

「もちろんですよ。手だけではなく私があなたの左眼となり左脚となります」

「そんな髪形の女にできるのか?」

「髪は関係ないでしょうが」

「大有だろうに。そんな変な髪型の女と一緒に歩きたくはないぞ。なぁ今からでも遅くはない、髪を伸ばせ」

「ええ伸ばしますよ。でもそれはこの戦いが終わった後にです。それまで伸ばしません。戦争が終わったか終わりが見えだしたところで私は……」

 たとえ戦争が終わってもあなたの身体は元に戻らない、と思った私は哀しみを誤魔化すためにか、あなたの髪を撫でるのをやめ右手を取り引き寄せ、抱きしめる。

 あの時がそうであり、いまもそうなのである。私はいまあなたの右手を取る。

 眼の前に立つのは私が昔から知っているあなた。あの時と同じあなたがそこにいる。

 私は息を軽く吸った。

 雷のように身体を貫くような何かも感じず、胸底から逆流してくる腐敗した血などなく、私にはそれらを超越する思いがあるからこそ、私はあなたの手を取ることができ、だから言える、呼ぶことができる。

 私が護り続けたそれが手中にある。今はそれ以外のなにものでもない。

 言え、とシオンは自分に命じた。私だけが言える言葉を名を、私という心で以って。

 右手に力が入る、だからここから少し外へ、跳べた。

「ヘイム」

 シオンは言った。よってヘイムがそこにいる。ここにヘイムは現れシオンは抱き寄せた。

「ヘイム、私、髪を伸ばす」

 腕の中で驚きが跳ねる。

「いまから……もう切らない。今日は切る日だけど、このままにする。前のような長さにまで伸ばし続ける」

「やっとか……ああ待ちくたびれた」

 安堵の息からその口調までシオンは久しぶりに聞いた気がした。

 変わらないものであるのに、誰も気が付かないというのにシオンには別物にしか聞こえなかった。

「ようやくそのまずい髪形を見ずに済むのか。毎朝のため息が消えてなによりだ。なら明日から毎日楽しみだな。そうだ毎日だ。毎日毎日そなたの髪形は良くなっていくのを楽しみにできるということだ。あの日から毎日毎日まずい髪形に悩まされることはないだけで嬉しいものだぞ。シオンは髪の怪我伸びるのが早いタイプなのにわざと短くしおって……」

「そこまで言いますか?」

「昔のを知っておったら到底許容できんものだ。想像してみよシオン。もし妾がその髪形になったら似合うと思うか?」

 これは誘導尋問でもあるなとシオンは思い、あえて答えを捻った。

「でも一度ぐらいしてみません? 世界が変わりますよ」

「馬鹿を言え。変えんでいいし一度だってごめんだ。まぁ良い。そうか伸ばすのか、伸ばすということは、つまりもう終わるのだな、戦いは、戦争は」

「ええ終わりますよ。明日の儀式で以って私達の戦いは」

 言い合うとヘイムはシオンから離れ右手を前に出した。

「なんだか疲れたぞ。手を取れ、引率せよ。祭壇所に戻る」

 シオンは言われるまま手を取り祭壇所まで歩き出した。距離は大したものではない、が極力ゆっくりと。

「明日までには腰から下まで伸ばしてこい。あの頃と同じようにな」

「無茶言わないでくださいよ。だったらヘイム。あなたは……」

 あなたは元に戻れるとでもいうのですか? シオンは言葉を宙に浮かすと、ヘイムも続いた。

「そなたの髪が元に戻り、そして妾のな……これが……」

 左眼が指が脚が元に戻れば、とシオンには聞こえた。声には出ていないが、聞こえた。

「まぁシオンがおればいい。代わりになるのがあれば、それでいいな」

「はい。私がいれば、もういいのですよ。あなたの脚の手の眼の代わりになりますから。もう、それで、いいのです」

「もう一人いれば、なおいいな」

 それは誰だ、などとシオンは思うはずもなかった。一人しか思い浮かばない、ルーゲンは思い浮かばない。

 いつも呼んでいたものの名が姿が手が匂いがすぐ横に現れる錯覚。そうだ、名を呼ばなければならない。私の声で以って。

「それにはジーナがうってつけですね。私がいない時は彼がヘイムの隣にいてこうやって手を取り……」

 そのままずっと手に取り……とシオンはその姿を想像、いや思い出した。あのソグの龍館の庭での光景を。

 遠い昔のように思えるのはどうしてか? もうそれは帰らないことだとでもいうのか?

「ああそうだな。あやつがいればもう完全だ。龍の館と同じやり方であるが、そうであるのなら元に戻らなくていい……戻る必要もない」

 ……にならなくていい。シオンはどこかから声が聞こえた。ヘイムは……にならなくていい?

 でも、このままではいられない。いまこうしている間にもヘイムは龍になっている。

 私はそうなるよう引っ張っている。龍の祭壇へ近づく足は歩みを止めない。もっとゆっくりでもいい。なんなら空中で停止しても良い。

 けれども足は止まらずにもう扉の前に来た。ここが開き中に入ったら、もう終わりだ。ヘイムとはお別れ。

 それどころかこの手を離したら、そうなる。今だけなのだヘイムといられるのは。今夜儀式は最後を迎え、明日にはここに龍が現れる。

 そうなればもう、もう……シオンは扉の前で思う。自分は何もできなかったのでは、と。何も出来てはいないのでは。

「私には、何ができるのだろう……」

 あなたの為に、とシオンは声を出した。龍は命じた。ルーゲンを通せ、と。龍の婿を通せと。それ以外のものは通すなと。

 龍を討つものは、ジーナは通すな、ここで戦えと。龍の騎士としてその使命は果たされる。記憶や血が自分の感情など簡単に超越する。

 手を離したら自分はその龍の騎士となる。今だけは、今だけは違う……これはそれだけなのか? これだけのものなのか? こんなことしか私にはできないのだろうか……

「シオン」

 手が強く握られシオンは握り返し、見る。ヘイムの顔を右眼を、その光を。

「頼みがある。そなたにしかできぬことを、頼む。ジーナがここに来たら、通せ。ここまで通すのだ」

 シオンはヘイムの手を振りほどきたい衝動に駆られるも、逆に強く握り返す。

 もう時間なのだという圧力を、何らかの意思に逆らい、ヘイムの声を言葉を願いを聞く。

 私にはできる、私にしかできないことが、ある。

「妾はなジーナを……龍を討つものを、この手で倒さなければならぬのだ。自らの手でだ。そのためにあやつを通し、妾に会わせてくれ。あのジーナを討つために」

 私はヘイムに会い行くんだ……ジーナの言葉が頭の中で再生されながらシオンはヘイムの言葉に頷き、手を離し、意識に靄が掛かり闇が来る。

 最後の儀式が始まる。
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