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第3部 私達でなければならない

『そなたの名は死なのだ』

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 龍は自分を呑み込んだとヘイムは暗闇の中で思い出す。

 遠のく意識の中でそれは現れた。自分にはそれが龍だとは見えないまでも気配でそれを悟った。

 だがそれは自分の匂いとは違う臭い。血の臭さ、この龍は怪我を負っているのだろうとヘイムは尋ねず触れずともそこが分かった。

 闇の中で、負傷者と病者が二人、または二匹、あるいは一人と一匹。ヘイムは自分がいまどこにいてここはどこなのかも知らない。

 突然、闇が来たからだ。記憶の最後がどこであるのかそれすらも判然としない。

 ソグを出ていつものようにシオンがいて小母様が傍にいるそんな生活。

 それ以外のものは、なにもない。しかしその伯母様はいまはどこにもいない。いなくなってしまったのだろうとヘイムには分かっていた。

 死が追いかけて来る。自分を絡みとり喰い殺そうとしている。伯母はきっと自分の代わりにその絡み取る手に取り込まれてしまったのだろう。

 シオンは傍らにいてくれている。彼女のいつもの匂いがする。だが言葉は聞こえない。聴力を失ってしまったのか?

 呼びかける声がする。届かない。自分には、伝わってこない。そしてまた自分も言葉を発することができない。

 自分は生きているのか? という疑問も抱く。これは死んでいるのではないか?

 そうであるからこそ何も見えず、何も聞こえず、なにも感じず、なにも言えない。残されているのは嗅覚とでも? 思考力とでも。

 臭いが、濃くなる。近づいてきたのだろう。しかしどこにいるのだろう? 部屋の中? もっともここが部屋だということすら分からないことだが。

 果たしてこの龍がこの部屋の中にいるのか、自分の頭の中にいるのか判別がつかぬなか、ヘイムは鼻に苦しみ感じた。

 耐えがたいその血の臭い、その死の臭いに。この龍は死ぬのだろうか? いま、死に掛けているのかもしれない。

 龍が口を開いたような、気がした。自分を呑み込もうとしているのか? 死と血が混じった口臭を嗅ぎながら全身の苦しみは増した。

 自分の龍の血を取り込めば助かるとでもいうのか? その傷は治り血を流さなくなるとでもいうのか?

 だが、本当にそなたはどこから来た龍なのだ? 朧げな記憶の中、うなされる悪夢の中で外から聞こえてきた伯母様とシオンの会話が浮かびあがった。

 龍身様が発狂なされた……龍族を皆殺しになさるとのこと……中央に集められた皇位継承者候補は一人残らず斬られた……残るはこの子だけ……病で倒れているけど中央の追手が殺しに来る……

 龍がここにいるということは、この言葉は夢では、なかったということなのか?

 新たな龍がこの地に訪れ、狂いし龍を駆逐し、自らをこの天の下の統治者にならんとする。

 かつての伝説に近いあの龍の始祖の戦いのように……ならばどうしてこの龍はただ阿呆のように口を開けているだけなのだ?

 喰えばいいのに、この弱り切り無力な女子など丸呑みをすれば良いものを。

 それができないというのは、そうではなにというのか? お前は妾を、喰らえない? 逆だというのか?

 そうだ互いの合意が必要なのだ。お前は口を開き、教えている。そちらが口を開けと。

 合意をしたら、どうなるのか? この死に掛けがお前を取り込み一つになるとするのなら、何になるのか……

 それでも妾は生きたいというのか……生きて戦い一つとなり、そして中央に戻ることが死と生の選択肢だとしたら……

 妾は口を開いた。顎を開く体力すら失われているものの少しの開きであっても、それは明確な意思表示であり、契約であり、世界を変革させていく行為でもあった。

 はじめは妾が龍を呑み込み、噛み、砕き、濁った血と共に胃というか心に落とした。

 龍は体の中に入った。このヘイムという身体の中に入った。

 だが徐々に変わっていく。かつては呑み込んだそれはいまでは龍が妾を呑みこんでいく。

 闇に死に呑み込まれていくよりも龍に呑み込まれていくことを自分は選んだ。

 目覚め、龍というものが体内にあることを意識しながら次々に訪れる使命を妾は全身で受け入れた。

 あのルーゲンが妾に言った。あなたは龍身となられたと。そういうことなのだろう。それによって世界はひっくり返ることとなった。

 あの龍はこの世界に新たなものを樹立させるべくして妾の中に入ってきたのだろう。

 みなが妾のことを龍身と呼べば呼ぶほどに世界は変わり完成されていく。

 日々、意識を失う時が増え、秒刻みで記憶は失われていく。他者からも自分からも。シオンのたまの呼び掛けも少なくなっていく。そういうものなのである。

 だがこれは緩慢なる死ではない。もとより死にゆく人間の生と同様のものではない。

 龍身は生への完成を目指すのである。偉大なる龍と一つとなり、永遠を生きるものとなる。

 龍は、死なない。次の龍へと繋がっていき、未来永劫へと向かっていく。

 龍の元に生きる全てのものそのことを受け入れ、龍身となったものもそれを受け入れる。

 至福な時であった。一点の疑念すら湧かぬ栄光の日々。

 本来なら決してこの使命を担うはずのないものが特例により認められたこの使命。

 だから誰よりも龍と一つなることのみを願い祈り生き、それ以外は捨て去ろうとしていたというのに……

 だが、そうではなならぬ時が来てしまった。

「ヘイム様、と呼ばせていただきます」

 ただ一人、呼ばないものがいる。確信的な意志で以て失われていく名を呼ぶものが。

「私はその名で呼ぶことはできません」

 ただ一人、止めるものが現れた。

 強い意思で以って妾を龍とは呼ばぬものが唯一人、現れた。

 奴が眼の前に現れその声を聞くや左半身から血の気が一気に引き、冷たさを覚えてから急に今までにない熱を感じた。

 これは怒りだな、と左半身から流れ込む血の熱さから妾はそう思った。

 龍から説明はあるはずもなく妾はあのとき、何に対して怒ったのか分からない。

 ただ拒絶すべき感情が血を巡り全身に流れ込んでいる中で、妾は考えた。何故に龍は死に掛けていた? 何故龍はあの男に激しい憎悪を燃やす?

 そなたらの間に、いったいになにがあったのだ?

 当然互いに説明などあるはずもないものの、ただこの妾にも分かることがある。

 はじめから分かっていたことが、ある。初対面の際に予感があり、試し揺さぶり、すぐに分かったこと。

 憎しみの他に違う感情が、もっともそれはとても近い姉妹のような感情がそこにあるということが。

 それは龍にはないものだ。龍だけにはなく有るとすればそれは……そしてもうひとつ、そなたが分かっていることが分かった。

「どうしてあなたはそうなのか?」

 その意味も、どうしてかすぐに分かったそなたは、見抜いていた。妾の中に二つの龍がいるということを。

 ルーゲンの他にもう一人、自分の前に現れた。ルーゲンは自分を龍とすべく全てを尽すというのに、そなたは妾を龍としないために命の限りを尽くしていた矛盾だ。

 どうしてお前らは仲が良いのだ?

 こんなものは相容れるはずもない究極的な敵同士であるというのに。

 そなたはまずいところに触れたと我に返り気まずいまま背中を向けて扉に向かい歩き出した。

 あらゆる物事に関して妾はいわば運命というものにずっと流され受け入れてきたものといえた。

 龍の意思に反することは何ひとつとして行ってきてはいなかっただろう。

 ただひとつ、あの時の、そなたの背中を見ながら、呼び止めたこと以外……

 だからいま思うにひとつだけ確かなものがある。妾ら二人は、出会わなければ良かったということを。

 そうしていれば互いに使命による恍惚さの世界のなか生きていき、そして死ぬことさえできたのだ。

 どちらが倒れようとも完全な殉教者として美しく綺麗に清らかに、生を全う出来た。

 出会ってしまったあとでそのような生き方と死に方はもうできない。

 不完全で欠落した殉教者として薄汚れ醜く薄汚く生き、惨めに死ぬのだろう。

 どうしてこうなったのだ ?ルーゲンやバルツの導きでか?

 二人のせいにもできよう、だが最も罪深い主犯は、妾なのだろう。あの時の呼び止めなのだろう。

 気付きかけていたのなら、あのまま何事もなく帰らせればよく、また二度と来ないようにすればよかったのだ。

 妾にはそれができた。他人に話せば一発で退場させられ、再度顔を合わせることなどなかったはず。

 そうであるのに、妾は言った「また明後日に必ず来るのだ」と。それは奴に対する攻撃ではなく嫌がらせではなく、そのままの意味での受け入れということであったのだろう。

 このことによって自分の運命は一変し、いまここにいる。

 つまりはあの時から自分は巻き込まれたのではなく、進んで渦の中へと入り自ら掻き回したのだ。

 この流れを、この運命を。

 そのせいで透き通っていた水は濁り汚れ、その先は見えなくなった。

 いま龍とひとつとなるはずの恍惚感からはほど遠く、ひたすらに悩み続ける時が続く。

 だが分かっていることもある。それはやつもまた妾と同じように今の自分を聖なるものであるとは完全に認識できてはいないであろうこと。

 となると、そなたは迷いながらここに来る。妾は苦しみながらここで待つ。

 なにもかも身も心も委ねられればどれほどに楽であるか。かつてのそなたや妾のように

 龍と一体化すれば……そうだ妾らはまだひとつにはならぬもの。

 そなたが龍を討つものと一体化するというのなら、妾はそなたを討つしか他あるまい。

 そなたが龍となる妾を討ちに来るというのだから。ジーナを討たねばならない。

 そう、龍を討つものを討たねばならぬ。それが妾に残された最後の意識だろう。

 もはや妾はここから出ることはできぬ。討たれるか一体化するかのそのどちらかである。

 ジーナ、そなたは龍を討ちにここに来る。妾はそなたを討つためにここで待つ。

 妾らの関係とは、つまりはそういうことであったのだ。だから声を掛け、妾を目覚めさせろ。

 そなたの声で以って意識の最後とし、龍と一体化へと向かう。

 そして妾がジーナという龍を討つものを倒すことによって……世界の秩序は完成する。

 その捧げられる命によって儀式は世界は……完成する。そうだ、そなたの名は死なのだ。
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