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第3部 私達でなければならない

私はお前を救えない

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 数え切れない扉を背にするハイネは出し抜いたような顔も勝ち誇った顔もしていない。

 普段の顔よりも微笑んでいるような寂しげ表情であり、その意味をジーナは分からないものの、彼女は騙していないことは分かっていた。そして自分が騙されたとは思ってもいなかった。

 扉たちに見つめられているとジーナには感じられ、そのひとつひとつを見回すが、すぐにやめた。

 どれも、自分を迎えてくれるような顔をしていない。歓迎されてはいない。

「それで、どうしますジーナ? 大慌てで片っ端から確認しますか? ちなみに万が一正解の扉を開けましても少し階段を登ると、すぐにここと同じ部屋が現れますよ。作ったのは誰だか知りませんが、かなり意地の悪い御方ですね。奇跡を二度起こせるというのなら、どうぞ」

 ジーナはそんなつもりはなく足を動かさずに首を振った。

「それではあなたは……いいえ私達はどうすればいいのでしょうね? ここにいて龍の完成を待ちましょうか? 私はそれで良いと思っていますよ。バラしちゃいますとこの扉の部屋を見た時に思い付いたのです。あなたをここに閉じ込めてしまおうって。それで以ってこうやってダラダラとお喋りとかしながら、儀式の終わりを待つ。そういうのは駄目ですか?」

「駄目だ。私は扉を開け、龍の元へと向かう」

「いいえそれこそ駄目です。言いましたよね? あの日のことをやり直すって。だから私は扉を教えません。いかなることをなされても、ですよ」

 ハイネはそう言いながら抜刀し、構えた。

「解決方法はいくつかありますからご紹介しますね。まず手っ取り早いのは私を襲い暴力でねじ伏せ拷問し正解の扉はどれかを吐かせる。もしくは私を殺害し剣を奪い返しひとつひとつの扉を確認しながら進む。さぁどうぞ、来てください」

 馴染みのある切っ先が自分に向けられているという不思議さを感じているためかジーナの心には緊張感は広がらなかった。

 代わりに広がっているもの、それはむしろおかしな安堵感のほうがじわりと広がりつつあった。

「そんなことはできないし、しない。ハイネだって私がそうしないことは分かっているはずだ」

 ジーナが言うとハイネはすぐに剣を納刀し鞘を鳴らした。ジーナはその動きに美しさを感じながら見ていた。

「この状況下で何を呑気なことを言うのでしょうねこの人は。でも、私はあなたがそう言うとは分かっていました。しかし、あなたにはこれしかないじゃあないですか。扉の先に行くというのなら」

 ハイネは振り返りジーナに背を向けながら扉を見ながら言う。

「まさか説得をするとか言いませんよね? 誠心誠意を尽くせば私の心がほだされて……はい、わかりましたジーナ! 正解の扉はあれです。どうかあの人をよろしくお願いします……なんてことになるとか妄想しないでくださいよ。まっ口八丁に私を誑かして言いくるめるとかできるわけありませんけどね。そうですよ、あなたはいつも馬鹿みたいに真面目なことしか言わないし、私に対しては真剣なことしか言わなくて……いいえ違う。真剣だからこそ、あなたは何も言えなくて言葉が足りなくて、それが私を苦しめて……」

 その背中はジーナには小さく見え、それからハイネの言葉を思い出す。長い間の、今までの言葉を。そして自分の言葉もまた。

「あなたは私をどうしたかったのですか? 救いもせず見捨てもせずに私を扱って。苦しめて放置して、優しくして私を縛って……」

 微かに震えだしたハイネの背と肩を見てジーナもまた思う。私はハイネをどうしたかったのかと。

 拒絶し遠ざかれば、済んだではないか? それは自分の意思に全てかかっていた。そうであるのに

 こうとも言える……私はハイネとなにをしたかったのか?

「ジーナ、正直に言います。分かっているでしょうが、言葉にします。私はあなたが憎かったまたは憎い、です。最近のことではありません。ずっと前から、出会ってすぐの頃から私はあなたに憎しみの一欠けらを抱き、それがどんどん大きくなり、いまこうして憎しみからあなたを追ってここに来てしまったほどです。あなたを傷つけたいと思ったり殺したいと思ったりしたことは、多々あります。いまだって少しの衝動でそれが起こるかもしれない……でもこれは私だけが育てたものではなく、あなたが育てたものでもあるのですからね。二人で一緒に育てたのですよこの感情というものを。そんなのはもう嫌だからあなたから離れて遠くに逃げたいと心に決めた私を引き留めていたのは、あなたでしたよね……フフッアハハッ」

 突然、破裂したようにハイネは笑い出すもそれは低く小さく声が弾けずに沈むような自嘲気味のものだとジーナには聞こえた。

「失礼。ごめんなさいあなたばっかり責めちゃって。いま珍しく考えたのです。ジーナばかり責めるがそういうお前自身はいったいに何を望んでいるんだって、ね。そうですね……例えばあなたがここで目覚めて、分かったお前と一緒にここにいよう。全てを忘れて二人で過ごして新しい時代を……とかなんとか急に言われたとしても、多分というかきっと嬉しくはないでしょうね。そういうのじゃないと。それじゃなくて……ってほら、これですよこれ。ジーナと一緒、同じです。私も厳密にはあなたに何を望んでいるのか分かってはいないのです。こうやって分からない、分からない、とわめき続けていればいつかそのうちあなたがそれを教えてくれたり提示して貰えると、ずっと甘えていたのかもしれませんね。でも、もうそんなことは……」

 ハイネは首を振り息を一つ吐き、大きく吸い込む動きをジーナは眺めていると、一瞬でハイネはこちらを振り返り全身を向けてきた。

 顔に表情は無いのに頬は白く冷え哀しさを覚えさせるほどに透き通らせ、口端が釣り上がり歪み、声もなく笑う。

「もう、剣をお返しします」

 腰から剣を鞘ごと外しながらハイネは言う。

「もともとあなたのものですし私がいつまでも持っているものではありませんよね。それで返すついでに、どうです? 私を斬ってみませんか?」

 ハイネが両手で剣を差し出すように持ち上げながらそう言い、ジーナは一歩ずつ前に歩き出した。

「さっき新しい可能性を発見しちゃいまして、だから笑ってしまったのですよ失礼。そうあなたは私をこの剣で斬り倒し、帰るのです」

 ジーナは言葉を聞きながら歩き足を速める。

「ここまで来た階段を駆け降り、迷宮を脱し、森を抜け平原を走り、砂漠へと向かう……もと来た道へと戻るのです、そう龍から遠ざかるのです」

 ジーナはそうする自分のその姿をすぐに想像できた。それは可能だ、何よりも容易に可能だと。

「そうすべきですよ、そうすべきです。だってここはあなたのいるべき世界ではないのですからね」

 その拒絶の言葉にジーナの胸は痛み、疑問に思う。正しいことを言っているのに何だこの感情は?

「どうして私がハイネを斬らなければならない?」

「あなたが私を苦しめているからですよ。斬っているのと同じことをいつもしています。だったら直接斬ればいいのですよ。この先に行けない腹立ちを、私のせいで行けない怒りを、ぶつければいいじゃないですか。ハハッなんだかそれでもよくなってきました。これはこれで龍の側近としての正しい姿ではありますね。身を挺し命を賭けて儀式の信仰を龍を護ったということで」

 ハイネに向かうジーナの足が止まり、二人は見つめ合った。ジーナは差し出されている剣を、受け取らない。

「はい、あなたは私を斬るということは、しませんよね。受け取らないのなら、私が抜きましょうか?」

 そのハイネの言葉にジーナは身動きひとつ取らずにいた。

「そうですよね。そのために私は龍身様からこの剣を預けられたのです。この叛逆者に対して剣を振るい、斬り伏せる。こうして悪は滅び捕らわれていた私の心は解放され光り輝く世界の元へと戻れる……」

 そんなことはありえない、とジーナが心の中で思うとハイネは微笑んだ。とても挑発的に、やけ気味に、死を覚悟しているもののように。

「はい! ご存知のようにそんなことはありません。あなたを斬ったところで私はもう戻れない。あなたがいなかった時にあなたを知らなかった時に、扉を開けなかった時にまで戻れない。そうですよジーナ。やり直しなんてできない。できるというのは……折り合いをつけて我慢し、耐えることのみです。そう、だから、あなたには、私は、救えない」

 ハイネの両手によって差し出されている剣は更に高く掲げられた。

「さぁ受け取り、帰りなさい。そのあと私はひたすらに龍へ祈ります。あなたを忘れさせてくれるように、あなたたちの関係を忘却させてくれるように。もはや龍こそが救いです。なにせ記憶を消してくれるのですから。あなたはすぐに忘れるでしょうが、私にはそれが難しいでしょうから」

 そう言うハイネの両眼は熱によってか乾ききり、紅の瞳に黒みが混じり合っていた。

「いつまで待たせるのです? 早く剣を取りなさい。受け取ったら私を斬るか腰に下げて階段を降りるか……そのどちらかを、選んで」

 ジーナは手を伸ばしハイネの持つ剣を手を掛けながら思う。私は、救えないのか?

 剣はかつて自分のものであったとは思えぬぐらいに軽くよそよそしかった。そしてもう一度思う。私は救おうとしているのか?

 取り戻した剣を腰に掛けるとその重みはいつも通りのものであり、さっきの違和感は幻のようにも思えた。

 果たして私に救えるのか? この私に……呪われたこの身に……

「ハイネ」

 言葉にハイネは返事をせずに無言で見つめたままであった。ジーナはまた一度思う。私はハイネを救えるのか?

 ……そんなことはできない。

「お前の言う通りだハイネ。私はお前を救えない。元よりそのつもりはない。出会った頃から今に到るまで、そうだ。ここに来たのはお前を救うためでも何かを諦めることでもない。ただ龍に会いに行く。これ以外のことは私にはない。お前を斬ったり私が斬られることなど、そんな話はどうでもいい」

 乾き切っていたはずのハイネの両の瞳が血が滲み出してきたようにして赤黒く潤みだし、瞳を通過させた涙が溢れだしてくるのをジーナは見ていた。何故赤くないのだろう? とジーナには不思議だった。

 それは血である方が良いとも思った。私はそうしているのだから。剣でなんかで斬ったり傷つけたりなどしない。

 言葉で心で、お前を斬り裂き傷つける。それこそが私達の関係であり、それ以外のことなどなにひとつもしてはいないのだ。

「そうだ泣けハイネ。私はお前をいくらでも傷つけて苦しませ、泣かせる。涙をいくらでも流せ。それは私がさせていることだ。いつもしていることだ。出会った頃からもそうで今もそうだ。無意識にしろ、意識的にしろ、そのことには変わりなどない。いま私は意識的にそうする」

 ジーナはハイネの手を取ろうとするが、弾かれた。

「触らないで、触るな。私にこれ以上関わるな」

 ハイネは涙をとめどなく流しながら叫ぶが、ジーナはその涙の色がやはり気に入らない。

 なぜ透明なのだ? どうして血の色をしていない?

 今はそれであるべきなのに、そうでなければならないのに、なら、まだだ、まだ足りない。傷が、足りない。

 そう思いながらジーナは再びハイネを手を取ろうとするも、また弾かれる。

 だがハイネは拒絶しながらも足を動かしていない、逃げる気配を感じない。

 そうで、それでいいとジーナはそのことには安堵しながらその両手を捕えて、握った。

「触るな!」

 その言葉の通りにその掌は冷たく他人のものであった。

 他人の拒絶する壁、その皮膚。ひとつにならないしなれないという、それ。

「ハイネ。私達はこうするしかなかったんだ。ひとつに繋がるしか、なかった」

 抵抗する動きが止み、涙でぬれる瞳がジーナの眼に入る。まだ透明の涙、まだ血ではない。血を流せ。

「ひとつになるしかなかった。私は、このことを避けるためにお前からずっと遠ざかろうとしていた。だがもうそれはできないと分かった。私はお前と無関係には生きられないと分かった……私はこの関係から、お前から逃げられないと分かった。そうだハイネ……お前は正しかった。ずっとだ、ずっと」

 ハイネの瞬きから足も手も停止し、何も動いてはいなかった。涙さえも落ちず瞳の中で留まったまま、赤に溶け込んで血に見える。

 時は止まっている。戻らず、進まず、この場において静かに立ち止まった。ここが私達の到着点なのだとジーナは感じた。

 出会った時からこうなるために、扉が開いた時からここに来るために、ここはあのときの扉の裏側なのだろう。

 一周回り、扉の前に来た。ここに到達し、そして別れる。

 だからジーナは……男は言った。あの日尋ねられた名を、それだけをやり直す。

「私の、俺の名前は――だ」
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