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第3部 私達でなければならない

私とあなたの関係

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 衝撃が心臓を貫き背中へ駆け抜けていったがジーナは倒れなかった。

 剣は止まっていた。あの日のように、だがあの日と同じではない言葉によって。

「なんですかいきなり。ずいぶんと目敏くなりましたね」

 剣を鞘に納めながらシオンは答えた。

「いや、髪形が明らかに違うし」

「伸ばしてからまだ数日ですよ。パッと見で変わるわけありませんって。たしかに私は髪が伸びるのが早いタイプですけど、そんなに驚くほどでも。というよりもあなたなんかが気付いたのが意外と言うかショックですね。どうしましたジーナ? 頭でも強く打ちましたか?」

「別に打ってはいない。いや私だってそういう日もあることぐらい認めてくれ。それで髪はこれから先伸ばしていくのか?」

「ええ伸ばしますよ。ずっと、限界まで」

 シオンは自分の髪を撫で揺らす。微かではあるがそれでもいつもよりかは遥かに波うつ髪をジーナは見ていると、シオンが笑った。

「これでもう男に間違えられることはありませんよね」

 ジーナは言葉に詰まり後退りするとシオンは髪の弄りながら嘲笑気味に言う。

「もっとも間違えたのはあなただけですけど」

「なんだその言い方……そんな昔のことなんかを持ち出して」

「昔ってなんです? なに忘れようとしているのですか? ついこの間のことじゃあないですか」

「それはもう昔話だとして忘れてくれ」

「私にまで記憶の消去を求めるとか、どうしようもない男ですね。あのですね、初対面の第一声がそれだったらもう一生その印象のまま固定されるに決まっているでしょうに。髪が短いというだけで女性を男性扱いし握手してくるとか、前代未聞ですよ。私は数多くの男性の方々とお会いしましたが、そんな無礼なことをしてきたのはあなた一人だけですからね。この事実を真摯に受け止め反省するのでないのなら、どうにかこうにか過去に戻って自分にこう言い聞かせなさい。これから会うのは美青年ではなくて絶世の美女だぞ、てね」

「……ここにいるのは美青年ではなく絶世の美女だぞ」

「いまここで言ってもしょうがないでしょう! だいたいあなたから絶世の美女とか言われても嬉しくも楽しくもありません。恥を知りなさい恥を。もう本当に一から十までいちいち指摘しないといけないって、あなたってちっとも進歩していないしどうしようもなさが改善されていないってどうしてです? わざとやっていたとしてもちょっと酷いですよ。これで自然体なんですね」

「まぁ、そういうものなんだよ」

「そういうものでしょうね……はぁ……」

 シオンは風によって多少乱れた髪をかき上げ、何度もその動作を繰り返した。

 かつての癖が甦ったかそれが好きな動きなのだろうかと

 ジーナはいままでやっているのを見たことのないシオンの仕草を見ていると、不意に眼の前に髪の長いシオンが現れた。

 それをジーナはどうしてか知っていると感じてしまう。どこか、かつて見たことがある女であると……

「あとあなたって全然笑わないところとか、ね。これだけ付き合いが長いというのに大切なところが見られないだなんてなんなんですかね、まぁもういいです諦めます。人間あきらめが肝心ですから」

 ブツブツとシオンの独り言を聞いているとジーナの錯覚はどこかに消え、伸ばしだしたとはいえいまだ短髪なシオンがそこに現れ溜息をついている。

「それで、あなた、何をしにここに来たのですか?」

「ああそうだ。ヘイム様に会いに来た」

 聞こえないというかのようにシオンは無反応であったためにジーナは繰り返した。

 聞き入れられないというのなら何度だって言う。

「私はヘイム様のもとに、行くんだ」

「聞こえていますよ。はいどうぞ。ヘイムはいま待っていますからね」

 ジーナの眼の前に立っていたシオンが道を譲るために脇に退くと、今までシオンがいたために見えなかった扉が遥か先に現れた。

 このまま真っ直ぐ歩いて行けば辿り着ける。余計なことは何もせずただそのまま歩いて行けばいい。

 何の障害もなく妨害もなく扉を開きそして祭壇にいるヘイムの元に……会いに、ただ会いに行ける。だが、しかし……

「良いのか?」
「どうして悪いのです?」

 問いが問いで返されジーナの心に波が来た。何が悪いのか?

 シオンが道を開け私が祭壇へ行く、これのなにに戸惑うというのか?

 何が悪いのか? 悪いところはどこにも無い。それなのにこれでいいのか? 私達は、とジーナはシオンの方を向き、思う。

 私は龍を討つものでありお前は龍の騎士。

 そうであり、それ以外のものでないというのに、お前は道を開け自分は龍に向かうというよりも……

「あなたがヘイムに会いに来る……」

 シオンはジーナの迷いなど気にせずに言った。

「これはソグの館からずっと変わらないじゃないですか? 私は違う用がありますからいまは一緒にいられません。その間はあなたにお願いするのです。私達はそういう関係から始めましたし、それを終わらせたつもりは私にはありませんよ?」

 あの頃の仕事の際の口調とまるで変わらなかった。いまにもそこの箱を持って来なさいと言い出すのではないかとジーナは思う。

 そしてそう言われたら自分は実際に命令通りに動いて箱を持ってきてしまうだろうと。

「行きなさいジーナ。私はヘイムに言われているのです。あなたを、通せとね。何の気兼ねをすることがあるのですか?」

 催促されジーナはシオンの横を通り、前に出ると駆けだしたい衝動に襲われた。危機が迫り逃げ出したいという焦燥感が全身を支配する。

 なにかが、来る? それはなんだ? 不吉な予感のなか、それでもジーナは走ることができなかった。

 龍の圧力はかかってはいない。そのようなものは自分には効かないと知っていても、どうしてか身体が抵抗感の中を進んでいくようであった。

 この先に何かがある、は当然だが、自分を引っ張る何かが背中にあるとも感じられる。

 自分を引き寄せてくる因縁のようなもの。だがそれには嫌悪を感じずに逆に心地よさすらあった。

 自分は行くべきではないのでは? ジーナの心に不可解な感情が湧いてきた。先に違う誰かが行くことになった方が良いのではないのかと?

 自分はこのままなにをなく西へと旅立てば……かつてのように、あの時のように、そしてこの地に新たなる秩序をもたらし……

「待ってジーナ」

 シオンの声にジーナの足は止まる。そう、止められる。

「ハイネに会いましたよね」

 何故その質問がここまでに来なかったのか? をジーナは不思議にも思わなかった。

 剣を帯びここまで来た。シオンはそのことを指摘しない。

 そもそも……そもそも……自分がここにいることに対して何も言わないことに対して。

 それが当然のように、約束していたように、そうであるように。

「会った。剣を返してくれて彼女はこの龍の休憩所から出ていったよ」

 ジーナは答えるもシオンから反応は返った来ない。そう、分かっているとジーナは思った。

 そういうことを聞きたいのではないのだと。大事なのはそこではない、自分が言うべきことはそれではない。

 シオンに言うことは……伝えることは……

「彼女は私にために傷つくことを望みそして私の願いを叶えるために西に行って貰った」

 背後から怒りの音が聞こえた。それから憤りが混じった悲しみの波動が伝わってくる。

 そうだ、それでいい。

「シオンはこうなってしまったのは不幸だと思っているだろうな。そうだろうな私のせいであんな目に会っている。そうさせたのは私であり、私以外の誰でもない。だけどなシオン。私とハイネはそうするしかなかったんだ。それ以外にはなにもない」

 苦しめ傷つけ血と傷痕で以って呪い縛り付ける……

「実にあなたらしい自分勝手な言い方ですね」

「ああ。私はそういうものなんだ。そういうもの以外にはなれないんだよ」

「どうしようもないぐらいの開き直り方。やはり私は正しかったですね。あなたたち二人は駄目です。悪い方へ悪い方へ、暗い方へ暗い方へ、苦しい方へ苦しい方へ、二人して手を繋いで行くというよりかは、落ちていくのような感じがしますもの。あなたはともかくハイネには違う道があり救いがあります。あなた以外のね。だから昔も今もこれからも、私はあなたたち二人を反対し続けます」

 シオンの言葉にジーナは安堵感を覚え、息を吐いた。それでいいのだと。

「どうか反対してくれ。どこまでも私を否定してくれ。私にはそれが必要だ。私にとってのお前は、そういうものなんだ」

「どういうものなのでしょうね……もういいです、急いでください。……彼が来ます。それは、私に任せて、早く」

 足が動きだし、徐々に早く、駆け出すようになるまでには時間はかからなかった。

 ジーナは駆ける、シオンの言葉の意味を考えず、挨拶もせずに、走った。

 扉が近づいてくる。ここに来るまで一度だって見たことがないこの扉を、私はやはり知っている。

 その大きさと色に見覚えがあった。荒れる息のなかジーナは把手に震える手を掛ける。

 この感触を覚えている。そして躊躇いが生まれる。また同じことを繰り返している、と。

 自分の行動のその全てが繰り返しの再生だとしたら?

 刻まれた印の宿命によって自分の行動の全てが決定されているものだとしたら?

 よってこれから起こる諸々のことやその結末も既に一度起こったことであり、それをなぞらえるためにその正しさの確認のために動かされているのだとしたら?

 ジーナの思考は乱れるも、扉の把手を引いた。そんなはずは、ないと。

 それは有り得ないと。自分はハイネとシオンに会い、これからヘイムに会いに行く。

 同じことなどあり得ない。あれはその三人がいない物語であり、これはその三人がいる物語。

 扉の中に身を入れる寸前にジーナの耳は誰かが階段を登る足音が聞こえてきた。

 遠くからのその音。聞こえるはずのない距離の音が届いた。

 宣告のようにして鳴り響くその足音を耳の奥で痛みを覚えながら聞きジーナは闇の中へ入っていった。
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