リトルラバー

鏡紫郎

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プロローグ 初めての日記

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 木造の古びたアパートの一室、少女はそこに立っていた。冬もまだ終わらぬというのに窓を極限まで開くと、冷たくも穏やかな風を感じている。そんな季節とは裏腹に彼女の心はとても暖かかった。

 それは偶然の出会い。けれども彼女にとっては奇跡の出会い。一人の男との邂逅が、凍てついていた彼女の心を揺り動かした。今までの寒さが、わだかまりが、嘘のようだと彼女は思う。

 止まっていた十年、死んでいた三年。その間、少女を縛り付けていた虚無と言う名の氷は溶け落ち、今は笑顔を浮かべている。少女の内は幸せで満たされていた。

「一週間前の私が見たら、たぶんそのままショック死しちゃうよね」

 そんな風に鏡に映る自分に問いかけると、彼女の笑みは一層輝きを増し、あまりのおかしさに口からも笑いを漏らしてしまう。

「なんて、何言ってるんだろうな。もうさ、いろんな事が有りすぎて死んじゃいそうなのは今なのにね」

 一昨日までなら考えられない、あまりに満ち足りた自分の表情が可笑しくて、少女は苦笑いを浮かべてしまう。それでも、初めて自分が自分らしくいられること、それがとても嬉しかった。

 十三年という長い年月からの心境の変化、人並みらしく生きてみたいという思い、そして感じたことのない心の高鳴り。はじめての気持ちに戸惑いながらも、少女はそれら全てを必死に受け止めようとしているのだ。

「そうだそうだ。そう言えば、やらなきゃいけないことがあったんだっけ」

 浮かれた気分にハニカミながら少女は風の入りを抑えようと、窓の隙間を少しだけ開けるように調節する。そして、壁際に置いてあった黒いカバンを漁り始めた。

「えっと、これじゃなくて、これでもなくて……あった!」

 書類や食べ物、キーホルダーなどを乱雑に投げ捨て、カバンの中から一冊の可愛らしいノートを取り出す。

「たはは。この性格もなんとかしないと」

 今まで生きる意味を見いだせなかった彼女にとって、整理整頓などという行為は意味をなさず、それを実行しようとすら思うことはなかったのだが、明日からは違う。一世一代の大勝負にこんな小さな事で躓くわけにはいかないのだ。

「さてさて、なんて書いたらいいんだろ……に、日記だし、思ったとおりに書けばいいよね……たぶん」

 まともに勉強してこなかった学の無さに呆れながらも、握ったペンを彼女は走らせる。


    ニ月十日 晴れ 今日から日記を書きます。はじめての日記です。
    
    思い出を残そうなんて今まで思いもしなかったけど、
    そう思えることがこないだありました。

    もしかしたらこれを読む人はいないかもしれません。
    私の命は短いけど、短いからこそ、ここに残したいと思います。
    
    これを書くきっかけになった人が、私が居なくなってから
    読んでくれたら嬉しいです。
    
    そうなれるように明日から頑張ります。
    
    だから今の私、明日からの私、これから書かれる私、
    見守って応援してください。


「って、なんかこれじゃ不思議ちゃんみたいかも。でもまあ、いっか。記念すべき一回目だもんね」

 自分の文章力の無さを嘆きながらも、少女の顔は清々しいまでの笑顔だった。

「よっし、頑張るぞー。そうだ、名前名前っと」

 このままでは誰が書いたのかわからないなと思った少女は、再びペンを握り文字を書き連ねていく。


    大事なことを忘れてました。これじゃだれが書いたか
    わからないですよね。
    
    私の名前は獅堂しどう 奈々花ななか、この日記が終わる時、だれかが
    名前をおぼえていてくれたらうれしいです。


「おおー。意外と可愛いんじゃないか私」

 自分で書いた文章を一から最後まで読み直し満足気に呟くと、気になる男性の顔を思い浮かべながら、わかりにくいように本棚の間へとしまい込んだ。

「無いとは思うけど、部屋に上がられて見つかったら恥ずかしいもんね……お、落ち着け私。考えるだけでこれとか、それこそ命がいくつあっても持たないってば」

 多少美化されてはいるものの、脳裏に描いた思い人の表情に、熱を帯びてしまった自分の頬を両手で包み込むと、彼女は部屋の隅へと屈み込み深呼吸を繰り返した。

「よし、よしよし。落ち着き完了。ん~、この感覚はお腹空いてるからかな。どっちにしても腹が減っては戦は出来ないもんね。とにかく何か食べて……あ、夕飯なんも買ってないや」

 とりあえず~コンビニで~なんか買お~。そんな言葉をリズムに刻みながら呟くと、少女は財布を握りしめ玄関のドアを開け放つ。

 外付けの階段を駆け足で降りる少女は、満面の笑みを浮かべていた。
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