死神と乙女のファンタジア

川上桃園

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再会

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 ヴィオレッタが初めて大公と出会った日のことだ。
 その頃のヴィオレッタはカルロッタを筆頭に、ラヴァン家への復讐のための足掛かりを公国で築こうとしていた。
 「死神伯爵」として死神《アンクー》は、他国の貴族という触れ込みで公国の宮廷に出入りできるように動いていた。
もし人脈を広げて大公に会えたなら、ヴィオレッタが自ら持ち込んだレースを売り込むつもりだった。この頃のヴィオレッタは、自分が後に大公の愛妾の地位に就くことなど思いもよらず、ただ、彼女の作るレース工房の後ろ盾になってもらえたら、としか考えていなかった。大公自身も女性を信用していないというのがもっぱらの評判だった。
 運よく、ヴィオレッタは大公に会うことができた。
 今から思えば、紹介者は愛妾候補のひとりのつもりでヴィオレッタと大公を引き合わせたかもしれないが、期待していなかったとも思う。
 ヴィオレッタは大公の書庫に通された。現れた大公は開口一番に「諦めた方がいい」と警告をしてきた。

「君も愛妾になりたいのだろう? だが私にはそのつもりがないのだ。諦めてくれ」
「いえ、私はレースの話をしに参りました。レース職人ですので」
「は?」
「いえ、ですから……レースの話をしに参りました。もし気に入っていただけましたら御贔屓にしていただきたいのです」

 ヴィオレッタはサンプルとして持ってきたレースを次々と見せようとしたが、「待て」と大公が手で制した。

「私自身はレースを好まない。第一、この国でレース産業が伸びようもないのだ。レースと言えば、ラザロなのだから。見込みのない産業に力を貸すというのも難しい……」
「私は、そのラザロから参ったレース職人でございます」
「なんだと」

 大公の興味が初めて彼女に向いた。

「ラザロのレース職人といえば、技術をよそに渡さないために国側で厳重に守られていると聞くが」
「本来ならば、そうなっていたことでしょう。しかしながら、陛下。私の姓は『ラヴァン』です。ラヴァン・レースのラヴァンです。……私のレースを御引立ていただきたいというのは、陛下にお見せできるものがそれぐらいしか持ち合わせていなかったのです」

――復讐をしたいのです。

 ヴィオレッタは覚悟を決めて、大公に告げた。これで彼女を気に入ってもらえるかは未知数だ。だが、同じように復讐の気持ちを抱いていたという大公であれば、あるいは、と期待した。
 ヴィオレッタの復讐の話を一通り聞くと、大公は「持ってきたレースを見せてくれるかね?」と尋ねた。

「これを、すべて、あなたが?」

 彼女が持ってきたサンプルをひとつひとつ穴が開くほど見つめた大公ハインリヒは、念を押す。ヴィオレッタは頷いた。

「よろしければ、レースを編むところを御覧に入れましょう」

 手元に持ち合わせていた編みかけのレースと針、糸を取り出し、腰かけて少し編んでみせる。ややあって、大公は「……わかった」と根負けしたように呟いた。

「もう勘弁してほしい。あなたと話した時はまだ昼間だったのに、もう夕方になってしまった。……本当に、レースが好きなんだと思い知らされた」
「……ありがとうございます」

 大公が戸惑っている気配を感じつつも、どう返事していいものかわからないままヴィオレッタは書庫を辞去した。
 その時は、何の手ごたえも感じていなかった。この国が駄目ならば、次はどの国に行こうか、死神《アンクー》と相談しようと考えていたぐらいだ。
 しかし、次の日。大公の侍従が、ヴィオレッタへの手紙を持ってきた。中のカードには図書室への招待の旨が書かれていた。そのようなことが積み重なり、彼女はやがて大公の愛妾としての地位を確立していったのだ。

「復讐をしたいというのなら、大公の愛妾という地位を使いなさい。私がそれを与えよう」

 いつか、大公がヴィオレッタにそう言ったのをよく覚えている。


 今、ヴィオレッタは公国ではなく、ラザロにいる。公国の宮廷に君臨するはずの大公が、ラヴァンの邸宅内にいる。

「本当に……大変ご無沙汰しておりました、陛下」

 ヴィオレッタが公国の宮廷にいた頃と変わらない様子で、大公は使用人の淹れた紅茶に口をつけた。
 いまだに信じられない。大公がわざわざラザロまで来る理由がわからなかった。
 一方、大公はヴィオレッタの恰好を観察していた。工房に立ち入るために、機能性だけを考えた、飾り気のないワンピース。一国の君主に会うための服装でなかった、と今更後悔した。とはいえ、大公を着替えのために待たせるよりは、と考えての判断であったのはたしかだったけれど。

「うむ。あなたも変わりないようだ。……いや、以前よりも美しくなったね。生き生きとしている」
「は……?」

 公の場でもないのに、ヴィオレッタを「美しい」とてらいもなく言ったものだから、彼女はいぶかしんだ。

「なんだね、私が女性をほめてもいいだろうに」
「い、いえ……なんだか、新鮮な気持ちになりまして」
「言わなくても伝わるなどという幻想は抱けないからね、もう」
「そう……ですか」

 かちゃり、とハインリヒがカップをソーサーに置いた音が響く。

「事前にお知らせいただけたなら、もっとおもてなしができましたのに」
「それについては申し訳なかったね。事前に知らせた方があなたも構えてしまうかと思ったから」
「陛下はラザロにお越しになるのは初めてではありませんか? せっかくですからゆっくり滞在なさってください」
「そうだな。お忍びで長い休暇を取るのは初めてなものでね、楽しみにしていたのだ。それに、ラザロにはあなたがいる」
「光栄です、陛下の楽しみのひとつにしていただけるなんて」

 しばらく近況報告など、とりとめない話をしていた。大公の前の妻の話は互いに避けた。
 ヴィオレッタは少しの居心地の悪さを感じていた。
 大公には、ヴィオレッタに会いに来た真の目的があると思ったのだ。

「あなたが復讐を終えたなら」

 大公の話の核心部分は、そこから始まった。囁きかけるように、懇願するように、大公の柔らかな声音がヴィオレッタに訴える。

「復讐が終わったなら、私の気持ちも変わるかと思っていたよ。復讐の同志でなくなったのであれば、この繋がりも消え去り、何の感慨も抱かなくなるだろうと。しかし、今、こうしてあなたを前にしていると、元気そうにしているのを純粋にうれしく思っているのだ」

 大公はおもむろに上着のポケットから小箱を取り出した。小箱に入っていたのは、小さな宝石のついた指輪だ。ためらいながらも、彼は震える手でヴィオレッタにそれを見せた。

「……私では、あなたを大公妃として遇することは難しいかもしれない。それでも、この先の人生を共にさせてくれないだろうか」

 それは、だれも愛さないはずだった大公ハインリヒの、初めての告白だった。
 ヴィオレッタは息を呑んだ。
 彼は、秘密結婚をしようというのだ。公には認められないけれども、私的にする結婚だ。「大公妃」としての称号はないが、大公の私的な伴侶になるということを意味する。それは、愛妾としての地位をはるかに凌駕するものだ。秘密結婚をしているのならば、公的に結婚することはまずない。公私の別はあるものの、大公は生涯の伴侶として、ヴィオレッタを選んだのと同じだ。

「陛下……」
「どうか受け入れてほしい」

 大公の熱烈な視線に心が震える心地になる。
 だが、その時に。

『おいおいおい、お待ちくださいませよ、大公陛下?』

 ジャンが、ぬっと大公とヴィオレッタの間に割って入った。いつの間に部屋に入ってきたのか、わからなかった。

『いやあ、困りますよ。彼女には夫がいるのですよ。夫はこの私です。別れるつもりはありませんね。ヨハン様のことと言い、親子そろって既婚の女にのめりこむ性癖をお持ちですか?』
「そなた……」
「おや、お忘れで? 死神伯爵でございます」

 『死神伯爵』に扮したジャンが仰々しく礼を取る。小馬鹿にしているのが見え見えである。ジャンは大公に喧嘩を売って何をしたいのだろう。
 なるほど、と鷹揚に頷く大公だが、さすがに不快感を隠せるものではない。

「申し訳ありません、陛下。彼が失礼なことを」
「構わない」

 大公が眉間に皺を寄せる。

「死神伯爵よ、そなたは以前とまるで別人のようだね、前はもっと陰気な男であったように記憶しているが」
『……へえ。わかるのか。さすが公国の黄金期を築く君主であらせられる』

 ジャンがにんまりする。
 大公ハインリヒはジャンの態度に気を取られることなく、淡々と話を戻した。

「ヴィオレッタと『死神伯爵』の結婚は利害の一致だったと聞いている。公国の愛妾となる地位を得るにも、公国の宮廷に出入りするにも既婚であることがしきたりだ。……彼女の目的《復讐》が終わった今、夫婦でいる必要もない。そして、彼女は今も私の愛妾なのだ」

 ハインリヒはヴィオレッタに向き直る。

「ヴィオレッタ、少しでもよい。考えてくれないだろうか。あの宮廷は、独りでいるにはもう寂しすぎるのだ」
『だめです、彼女は今、私と……この死神伯爵と愛し合っているのですよ! あなたには渡せない!』

 ハインリヒが彼女に手を差し出せば、ジャンは突然、声を荒げた。
 もちろん、ジャンとヴィオレッタが愛し合っているという事実はない。ジャンはあくまで大公ハインリヒの邪魔をしたいのだ。おそらく、ジャンが契約しているロレンツォにとって、その方が都合がよいから。聞いていて、気分が良いものではなかった。
 そもそも、死神伯爵はジャンではない。元は彼女の死神《アンクー》が死神伯爵だった。契約を交わしたのも彼だ。けれど、死神《アンクー》はいなくなってしまった……。
 それ以来、彼女の心にはぽっかりとした穴が開いている。きっと、それは大公が感じているものと同じ色をしているのだろう。その意味でも、二人はいまだに同志と言えるのかもしれなかった。
 一触即発の雰囲気で言葉を交わす男二人を前に、ヴィオレッタは「やめましょう」と審判の女神のような冴えた声で告げる。

「大公陛下のお申し出は身に余るほどの光栄ではありますが、ここですぐに結論を出せるものではありません。また、日を改めていただけますでしょうか。私にも考える時間が必要なのです」

 ああ、それでいい、と大公は頷く。ジャンは唇を尖らせ、頭の後ろで手を組み、全身で「不満です」と訴えている。だが、ヴィオレッタが非難の視線をやると、ふらっと部屋を出ていった。
 客間は大公と二人きりに戻った。大公はラザロにしばらく滞在すると告げ、自分の宿泊先の住所を書いたメモをヴィオレッタに渡した。そこはラザロの迎賓館だった。

「気持ちが決まったら、訪ねてきてほしい」
「はい」

 大公は名残惜しげに去っていく。玄関先まで彼を見送ると、ヴィオレッタはアルトゥルと話した別の客間へ急いで戻った。けれど。

「ヴィオレッタ様。お客様は、もう帰ってしまわれました」
「……何か、おっしゃっていた?」
「いえ。ただ、もう仕事しなければ、とだけ」

 伝言を預かった使用人の言葉に眩暈を覚えた。
 せっかく掴んだ、「三度目の偶然」。彼は最後、何を言いかけたのだろう。わざわざ、待ってくれ、と彼女を引き留めた後に、続くはずだった話。
 ヴィオレッタは強い不安に襲われた。もう取り返しがつかないのではないか、と。
 彼女は玄関を飛び出して、一番近い運河まで走った。さして広くない水路と大きく湾曲した橋。その下を、黒いゴンドラが通る。
 ゴンドラ乗りの歌が遠ざかる。ヴィオレッタに聞かせてくれた、つややかな歌声が……。



 歌声が消え、ヴィオレッタは水路の脇で長いこと佇んでいた。
 ある瞬間、ふと我に返る。
 今になって、彼女は人生の岐路に立たされたことに気付いたのだ。
 大公ハインリヒに、死神《アンクー》のジャン、ロレンツォ……アルトゥル。
 何かを選ばなければならない。何かを選んだならば、他のものは選ばなかったことになる。重い選択だった。
 いまさらながらに怖気づいたヴィオレッタは、その場で蹲りたい気持ちになったが、実際には重い足を引きずるようにして邸宅に戻るほかなかったのだった。
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