惚れっぽい恋愛小説家令嬢は百戦錬磨の青年貴族に口説かれる→気づかない

川上桃園

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愛の証明

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 劇が始まってすぐは新進の学生音楽家たちによる演奏が舞台を盛り上げていく。簡易的に設置された緞帳がするすると上がる。

 舞台の上には丸テーブルが一つだけ。
 そこへジドレルが進み出る。

『さあて、言い訳を聞こうか。ここしばらく私という男を放っておいて、どこの男にうつつを抜かしていたんだ? 私を嫉妬させたかったとしたら、君は本当に悪い女だよ。ん?』

 彼の甘い微笑みはまっすぐに客席の方へ。女性陣が色めき立ち、眩暈もしたのか額に手を当てる貴婦人もいる。

 丸テーブルにはガラスの花瓶が置かれ、一輪の赤い薔薇が挿されていた。彼はたわむれにそれを引き抜いて弄ぶ。少し行儀悪くテーブルに寄りかかっているのも彼ならば様になる。

『え、違う?』

 呆然とした顔になる。くすっ、と何人かが笑った。

『むしろ、私の方がほかのところで遊びまわっていたんだろうって? 信用がないなあ……。そんなに心配するぐらいなら君が私を縛り付けてくれればいいのに。また書き物に夢中になっていたのか?』

 彼はテーブルから降り、赤い薔薇を花瓶に戻す。

『どんな話? 教えてくれたっていいだろう。……よろしい』

 テーブルの上にはもう一つ、原稿用紙が置かれている。これを取って、彼は満足げな顔で頷く。

『ほかにはまだ誰にも見せていないね? だとすれば最初の読者は私か。そうだろう、正しい選択だ』

 ふと真剣な顔をする。

『私ほど君の作品を愛している男はいないのだから』

 それでは読んでみよう――。
 ジドレルはそう『台詞』を言って、序幕を終えた。


 カンドルはへえ、と隣にいる妹に小声で囁く。

「なるほど、入れ子の構造を取り込んだのか。『ケイン・ルージュ』を思わせる女性の作家と、ファンを自称する男の会話、か」
「う、うん……。その方が面白そうかなって。せっかく脚本にも携われたんだし……でも」

 セフィーヌは胸元を押さえて言いよどむ。

「セフィ?」

 カンドルが呼びかけても反応しないで舞台を食い入るように見つめている。何か、彼女の琴線に触れるものがあったのか。
 そんなことを考えつつも、舞台は進行する。


 第二幕。エランジェ王女扮する『ジュリエッタ』とキッソン侯爵が扮する『ヴィンセント』が出会う仮面舞踏会の場面だ。

 清純な乙女の『ジュリエッタ』が思い余って『ヴィンセント』の唇を奪ってしまう。

『私ったら、何て不埒な口づけをしてしまったのかしら……』

 月の下で思い悩む『ジュリエッタ』。
 妖艶さが勝るエランジェ王女だが、クリーム色のドレスを纏い、髪型もハーフアップで上品にしていると本当にしとやかな深層の令嬢に見えてくるのだから舞台というのは恐ろしい場所である。

 彼女は人の注目を浴びるのが大好きだった。だからこそ、舞台でも手を抜くことなく、『ジュリエッタ』をやりきる。本当は最前列で見ているセフィーヌ・フラゴニアに『ヴィンセント』との口づけを思う存分見せつけてやりたかったのだが、いざ扇に隠れて顔と顔が思わせぶりに近づいた時、観客に見えないように視線で牽制された。今まで散々やろうやろうという素振りを見せていたのが仇となった。……むかむかして仕方がない。

 しかし見栄っ張りな彼女はセフィーヌ・フラゴニアの前で絶対に崩れてなるものかと思い、かえって完璧な『ジュリエッタ』にしてやろうと意気込んだ。舞台の上の『ジュリエッタ』に嫉妬すればいい。

 芝居の中でなら、ジドレル・キッソンはエランジェのもの。彼とてエランジェを愛するしかない。

 第三幕。『ジュリエッタ』は努力してどんどん美しくなる。三人の求婚者が現れるが、見向きもしない。そのうちの一人が乱暴を働こうとした時、『ヴィンセント』が現れて助けてくれる。

『愛しています、ヴィンセント様』
『……私は、違う。だからさようならだ』

 『ヴィンセント』の切なそうな視線を独り占めするエランジェ。どうだ、と思ってセフィーヌ・フラゴニアをちらっと見れば、彼女は真剣な顔で舞台を見上げている。嫉妬心は見つからないが、芝居の中に引き込むことには成功しているようだった。

 どうだ、セフィーヌ・フラゴニア!

 子どもじみた優越感を抱いて、第三幕を終える。
 舞台袖に戻れば、『ヴィンセント』が額の汗を拭いながら「調子はいかがですか」と尋ねてくるので「絶好調よ!」と返してやった。失礼しました、とあと腐れなく離れていく。

 舞台から降りた途端に甘い空気だって霧散する。つまりはジドレル・キッソンにとってエランジェはそういう相手になりえないと言外にきっぱりと否定しているのだろう。

 そういえばつい先日も人づてにエランジェが聞いた話によると、彼は彼女との噂を一蹴するのにこんなことを言ったという。

「王女殿下との恋は舞台上だけに決めています。殿下のことは尊敬申し上げておりますが、私とでは上手く行かないでしょうから、ほかに良いご縁があるよう願っております」

 体のいい断り文句に腹が立ったあまりにセフィーヌ・フラゴニアの本を本人の前で燃やした。めそめそ泣くかと思いきや、意外に反抗的だったことにもむかむかする。

 つまり、ジドレル・キッソンとセフィーヌ・フラゴニアのどちらにもとても不愉快な気分にさせられた。

 『ジュリエッタ』を演じているうちに、もういいか、とも思えてきた。あんな男と女に煩わされるのも面倒だ。この芝居が終われば距離を取って忘れよう。私にふさわしい男はもっとほかにたくさんいるはずだ。国内にいなかったら世界に手を広げるのもいい。

 『ジュリエッタ』以上の妖艶な女は彼女の他に誰もいない。





 第四幕は継母の雇った暗殺者が暗躍し、『ヴィンセント』との駆け引きが繰り広げられる。
 見せ場は夫人演ずる継母との意味深なやり取りと、『ヴィンセント』が家の後継として自ら王の前に名乗り出るところ。悪い女は退治され、『ジュリエッタ』と『ヴィンセント』は結ばれるのだ。

『なるほど。そなたの言い分、あいわかった。――ブルッセルン夫人を捕縛せよ!』

 王役として特別出演を果たした夫が唯一の見せ場の台詞を吐いている。一番見やすい中央の席に座った王太子妃は膨らんできたお腹を押さえつつ、ふふ、と笑った。夫が緊張しているのがわかったからである。それと。

「キッソン侯爵は……結構、アドリブを多く入れていらっしゃるわね。セフィも目を白黒させているのかも」

 私ほど君の作品を愛している男はいない、と言い出した時は驚いてしまった。練習の時は一言も言わなかったのに。とんでもないサプライズを仕込んでくるものだとテレディアナは思う。あれは侯爵の本心だ。

 彼がしようとしていること。――それは愛の証明。

『私の心はとうに君に捧げてしまったから、君の心を私におくれ。心を分かち合って二人で幸せになろう』

 主役の二人が手に手を取って見つめあったところで「物語中の物語」は大団円を迎えた。





 もう一度だけ幕が上がる。
 最終場面、再び赤薔薇の花瓶が置かれた丸テーブルが舞台に置かれる。原稿用紙から顔を挙げた『ある男』の独白から始まる。

『タイトルは『赤薔薇の誘惑』、か……。確かに君が夢中になるのもわかるよ。『ジュリエッタ』と『ヴィンセント』の危うい関係には思わずはらはらさせられてしまう。男としても魅力的だよ、『ジュリエッタ』は……どう? 君もやきもちをやいてしまったかな』

 ぱちりとウインクしてみせるジドレル。観客が湧きたったところで緩んだ顔つきを引き締めて、横を向く。

『結局、妬いてしまうのは私だけか。二人で共有したこの物語だって、君は大勢の人に読んでもらうために書いたんだろう? 私に教えてくれないか。君は何のために書き続けているのか』

客席に相手がいるように、彼は一つ一つ頷いた。

『そうか。……わかるよ。どんなに辛い現実があったとしても、一時でも自由になれる魔法。あるいは引き出し奥から夜毎そっと取り出してみる宝石のような物語。美しい世界。君は世界の真理よりも夢を語りたいんだ』

 知っているよ、と呟く。
 さあ、あと少し。
 ここから先は「脚本にはない」。
 花瓶の薔薇を引き抜く。強い視線は客席へ。ただ一人へと声を張り上げる。

『君は私を愛していないんだろう? この物語の『ヴィンセント』のように振る舞えばいいかもしれないが、君は誘惑してくれないからね。それに、私は『ヴィンセント』よりもずっと平凡な人生を歩んできたつまらない男だ。大勢のファンを抱える君の方が、私よりもずっと生き生きと、楽しそうに日々を生きていると思う。――私はそんな君を尊敬するし、愛してもいる』

 ほんの数か月前なら今の自分を笑い飛ばしていただろう。まさか自分の本心を信じてもらいたいがためにこんな子供じみたことをするとは思うまい……ここまで嵌ってしまうなんて予想外。それをよしと思っている自分はもっと予想外だ。

『どうしてそんなに驚いた顔をする。前々からはっきり態度に示していたつもりなのに』

 しかしこういう手しか思いつかなかったのも事実で、公衆の面前で堂々と自分の気持ちを表明できることが嬉しい。下手をすればもう味わえなかった幸せだ。
 「ジドレル・キッソンにとっての恋や愛は何か」。あの問いに対して、ジドレルはこう答える。

 君に捧げるもので、心に思うことだと。セフィーヌ自身から教えられたのだと。

『私が一番愛しているのは君なのに』

 そして今、セフィーヌを一番幸せにできるのもジドレルだけだから、あらゆる言葉を尽くす。けれど、普通に言うだけではきっと信じてもらえないのはわかりきっている。

 だから芝居の力を借りた。セフィーヌが愛する虚構の世界はたくさんの人の心を動かしてきた。それは嘘の中にもまじりけのない人間の真実を含んでいたから。

 演技も「本物の感情」を込めた方が本物らしくなるが、彼がしたのは「本物の感情を込めた演技」に見せかけた本心そのもの。

 彼女は自分の脚本を隅々まで把握していて、ジドレルが台詞を変えた箇所も全部わかっているはずだ。変えた箇所にこそ、ジドレルが彼女に伝えたいことなのだということも。

 セフィーヌ。セフィーヌ・フラゴニア。

 薄暗い客席にはうっすらと彼女が見えた。ジドレルの贈った首飾りをつけて、今何を考えているのだろうか。知りたくてたまらない。

 感極まって重力に従おうとする涙。最後の最後で勝手に震えだす声。どっちもどうしようもない。

『一番大好きなのは君なのに!』

 叫んだジドレルは舞台上から赤薔薇を放って背を向けた。
 静まり返る舞台にするすると緞帳が下りていく。遅れて思い出したように楽器の荘厳な演奏がついてくる。

 舞台は終幕を迎えた。



 観客からの拍手が鳴りやまない。
 にわか役者の集まりかと思いきや、ついつい最後まで見入ってしまった。カンドルは呆けたように背もたれにもたれる。
 そこへ隣の妹が袖口を引っ張った。

「お兄様、わたくし、どうしたらいいのかしら」
「どうかした?」

 袖口を掴む手は震えている。もう一方の手には一本の赤薔薇。
 ジドレル・キッソンが最後に投げた赤薔薇は、綺麗に放物線を描いて、セフィーヌの膝上に落ちたのだ。

「……脚本に書いていないことを喋っているの。わたくしが書いた原稿では『夢を語りたいんだ』というところで終わっているのに……。ほかにも色々……。あとね、先生……わたくしの方をよく見るの。これってどういうこと……」
「それは……そういうことなのだと思うよ」

 侯爵はセフィーヌのためだけに舞台に立っている。

「わざわざ芝居に絡んで主役をやるだなんて、ただの道楽ですることじゃない。きっと伝えたいことがあったんだよ」

 もう一度舞台の幕が上がって、カーテンコールが始まる。
 役名と役者名を侯爵が呼び、思い思いに挨拶をしていく。
 エランジュ王女は妖艶に。夫人は悪女めいた微笑みを乗せて一礼だ。
 彼は裏方の名前も列挙していく。

「そして最後に。『私』の愛する『ジュリエッタ』こと、『ケイン・ルージュ』……セフィーヌ・フラゴニア!」

 侯爵がセフィーヌの席を手で示せば、たくさんの視線がさっと集まった。静かなざわめきと混乱が場を満たす。

 シーレ氏は小さい眼を細める。

「私の愛する、とは……彼が言うと絵になりますね。いつかこんな日が来るのではないかと思っていました。こんな大衆の面前で愛を告白するとは本気なんでしょうね」

 カンドルも告げる。

「セフィ。……ほら、侯爵が呼んでいるよ。君も上がって、挨拶したらどう?」

 エメラルドグリーンを見開き、固まっているセフィーヌ。
 赤みが差した頬には一筋の涙がこぼれているが、本人はまるでそれに気づいていなかった。

 ……芝居の間、ずっと心臓を握られていた気がする。
 こみあげてくるものを幾度も押さえて、耐えていた。
 自分でもどうしてこんなに感情を揺さぶられるのかわからない。

 たとえばジドレル・キッソンが伝えたいことは「愛」だとしたら、それを受け取るのは自分しかいないのではないか。そんな夢みたいなことを考えてしまう。

「わたくしは……もしかしたらわたくしが思っている以上に、愛されているのかもしれない……」
「そうだね。見ていればわかるよ」
「でも、わたくしはあの方に何も返せていないわ……どうしよう」

 途方に暮れた子どものような顔をする妹だが、その答えはもうカンドルが教えることはできない。自分で決めることだ。

 セフィーヌと、舞台上の侯爵と。
 カンドルは二人を見比べて、妹がもうじき遠くに行ってしまうことを予感した。……シーレ氏ではないが、「いつかこんな日が来るのではないかと思っていた」。セフィーヌの一番が決まってしまう日。妹を思えば嬉しい出来事だが……とても淋しくてたまらない。

 焦れたためか、侯爵が舞台から飛び降りる。一つの舞台にほぼ出ずっぱりだった彼は体力も尽きかけているようで額には汗が浮かび、舞台の熱気を全身で発散している。

 セフィーヌは何と言えばよいのかわからなかった。
 芝居中、何度目が合ったのか。何度自分に向かって言われた台詞だと思ったのか。数え上げるときりがない。
 そのうちなぜだか恥ずかしくなってくる。だって、他の人が見ているというのに、あんなに一生懸命に気持ちを告げられてしまったら。彼の『ジュリエッタ』は、セフィーヌだと言われてしまったら。

 手に持つ赤薔薇ではとうていセフィーヌの頬を隠せなかった。

 彼女は立ち上がって、ジドレルから差し出された手を取る。力強い握手の後、彼は機嫌よく笑ってその手を口元に持っていく。セフィーヌはそれだけでびくりと肩をすくめた。

 言葉はどちらももう必要としていなかった。

 そのまま舞台上に上がり、繋いだ手を大きく掲げ。


「彼女にも、盛大な拍手を!」

 二人そろって一礼し、舞台は成功を収めた。
 


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