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釣った魚には餌をやれ
釣った魚には餌をやれ
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私が愛好してやまないロマンス小説には恋愛描写が必須といっていいほど大切な要素として入ってくる。抱擁や口づけ、初夜の場面に至るとどきどきとしながら読み進めた読者はきっと私だけでないはず。一度は物語のような恋愛に憧れを抱く。特に初夜ともなれば、ロマンチックかつ官能的な描写が控えめながらもちりばめられているし、物語の流れではハイライト、クライマックスシーンに違いない。
けれど聞いてほしい。私だってもう大人だから、物語のように愛し愛され、情熱的な一夜を過ごす妄想は卒業している。そもそもロマンチックなセンスが欠如していそうな知人と結婚してしまった時点で現実は厳しい。
それでも義理人情や思いやりは多少なりとも持ち合わせているだろうから、最低限のマナーは心得ているものと思っていたのにあんな仕打ちはないと思う。覚悟を決め、勇気を振り絞ってこっちから誘ったのに……!
要は、怒っている。猛烈に苛立ち、そのすました顔を両側から手で挟んでぐりぐりと歪ませてやりたい。
許すまじ、アドルファス。
「おかえりなさいませ」
この日も夫は夜に帰宅した。その印象の薄い顔立ちをもの言いたげにじいっと見つめておく。
「ただいま」
いつもの「ただいまのちゅう」。私も頬にお返しをするけれどもこの数日の我慢をやめにしたので背伸びしたそのままの姿勢でこう言ってやった。
「釣った魚に餌をやらないと逃げてしまいますよ」
夫は訝しげに首を傾げていたからなおも付け足した。
「私。……魚ですよ? ばかっ」
つん、と顎を上げて、気まぐれな女王となってさっさと自分の部屋に戻る。このぐらいの意趣返しは許されたっていいはずだ。……淑女たるもの、話題が話題だから自分から口にしたくないのに夫の察しが悪いとこうなるのだ。
数日分の私の葛藤を垣間見ている家政婦が背後で呆れている気配を出しているが、これは私にも止められない。
夫は私を追いかけなかった。どうせまた子どもっぽく拗ねているとだけ思っているのだ。わりと事態は深刻なのに。
自室でむっつりしながらふて寝していたら、夫がノックして入ってきた。入っていいとは言う前だったが、そこは気にしなくなったらしい。
「マティルダ。相談がある」
「……なんです?」
夫に背中を向けたままで答えると、ぎし、とベッドに夫の体重が乗る。
「実は明日の休日、友人を招くことになった」
「……は?」
夫は何でもないことのようにさらっと言った。この状況で言いやがった。
ベッドから飛び起きた。
「……アドルファス。まさかまた私に予定を言いそびれていたのですか!」
「いや。今回は違う。あちらが突然言い出したことだよ。彼はとても気まぐれだからね」
「そうですか。でも今日はもう夜ですし、おもてなしの準備はほとんどできませんが」
うん、と夫は顎に手を当て考えている様子だったが「仕方がない。彼も承知しているさ」と言いながら立ち上がる。
「おやすみ、マティルダ」
母親が子にするような額への軽いキス。私は手元の毛布をぎゅっと引き寄せながら「……おやすみなさい」と小さく答えた。
夫は平然とした顔で私を怒らせることも多いが、同じぐらい私のツボを突くのも得意だ。だからといってなあなあで済ませてしまうのも納得いかないからまだ踏ん張ってみようと思う。
許せないのだ。行くところまで行っておきながら、その後は何もなかったように元通り、昨夜のことは錯覚でしたという顔をされてごらん? 人の純情を弄んだの、と問い詰めたくなるに決まっている。朝起きたら本人はもう仕事に出かけているし、帰ってきても何も言わない。スキンシップも「ただいまのちゅう」だけ。
「……ばか」
三歩進んで二歩下がってしまった。
とりあえず明日やってくるご友人をしっかりおもてなししよう。次の手を考えるのはそれからだ。
午後一時十分。夫の話通りに来客が来た。鳶色の髪と黒い眼をした上品な御仁で、夫が寄宿学校に通っていた時の同級生だという。
正直に言う。地味で堅実な夫よりも百倍華がある。笑い方からして玄人じみている。私が独身であったなら間違いなくきゃあきゃあ騒いでいた。自分の魅力を存分に振りまいている自覚のある人だ。
そんな人がまさか夫の友人とはつゆほども思わず、秘書の男を先ぶれにして、黒塗りの立派な四頭立て馬車から出て来た男性にぽけっと見とれてしまった。さらに少しの既視感も覚えた。彼をどこかで見たことがある気がする。
姓を名乗らないまま「エドワードです」と自己紹介をされて、流れるような仕草で手の甲にキスを贈られてからようやく思い出す。
「アドルファス。……もしかしてこの方って」
面識はない。だが国民ならば誰もが知っている。その動向は新聞などでも取り上げられていて、写真も掲載されている有名人だ。
「君というやつは、説明していなかったの? 可哀そうに、顔が固まってしまっているじゃないか」
「昨日の今日で説明できるタイミングを逃していたもので」
夫は仏頂面で答えた。
「そもそも妻を会わせる気もありませんでしたし、殿下はご多忙の身ですから、僕のために時間を取らなくとも結構です」
「何を言う。仲間内でも一番結婚しそうになかった男が結婚したと聞いたら無理してでも会いたくなるし、結婚してから最近は仕事の虫も鳴りを潜めていると聞けば、どんな奥方が手綱を握っているのか知りたくもなるさ」
男は白い歯を見せて私に笑いかけた。
殿下。夫がそう呼んだなら確定だ。彼はエドワード王子。現国王の孫で王位継承権第五位。私にはそうそうお目にかかれない雲の上の人だ。
突き付けられたとんでもない現実に目が眩んでいると、エドワード王子は爽やかさそのものの顔でこう言い放つ。
「まあ、でも普通そうな子かな。昔、アドと付き合っていた何とかという女の方が色気もあったし、美人だったね」
「殿下。過去を掘り返すのはやめていただけますか」
……今、ものすごく失礼なことを言われた気がする。独身女性に夢を与えている王子の高貴な口から聞くに堪えない暴言が。うちの上の姉ですらここまで気を遣えない発言はできないだろう。
夫は冷静そのものの対処をしているが、夫がこうだから夫の友人が朴念仁を通り越してデリカシーのない王様気質なのはどうしようもないかもしれない。だって王子様だからね!
「たしかに、美人とは少し違うかもしれませんね」
我が三姉妹の中では私は不出来な出涸らしである。姉二人はよくモテた。結婚相手にすぐさま見初められたもの。
「色気も……そうですね、ありませんね」
上の姉は引き締まるところは引き締まり、出るところは出たゴージャスボディだし、下の姉は清楚さの塊でうまいこと恥じらうことができるから男心をそそることだろう。
「でも現時点でアドルファスを一番に気にかけているのは私です。どこぞの女性よりも大事にしていると思います。負けません」
「へえ。そうなのかい? 君らは恋愛感情なく結婚していると聞いたのに、うまくいっているのかい?」
信じられない、という大げさな仕草までしてみせるエドワード王子。なるほど、意地悪な煽り体質と見た。
「あ、当たり前です。アドルファスは……そのう、い、いいところもあるんです! 帰ったときは『ただいまのちゅう』をするし、最近はちょっと情熱的なぐらいですっ!」
「……マティルダ」
ひどいぐらいの噛み方をしてしまったけれど、発言は間違っていない。嘘は言っていない。
けれど横目で見たアドルファスが気の毒なほどにいたたまれない顔をしていた。
「君はなぜいつも他人から僕たちの関係を問いただされると、恥じらいを忘れるんだ。今言うべきことと言うべきでないことの区別がついていないの?」
「ごめんなさい……」
夫の発言も正論だったので一歩退いた。なにせ、相手は雲の上の王族だし、自分の身内だから許されてきたところもある。
「怒ってはいないさ。ただ……はぁ」
珍しく夫がため息をつく。
「悪いとは思っているのよ? ただ、まだ妻としての余裕が持てていないのかも……」
結婚初日の初夜さえすっぽかされた形になった花嫁だったし、いざ迎えたら迎えたでやっぱり放り出されたし。形だけでももらってくれるならアフターケアまでしっかりお願いしたい。
そんな状態で過去の女性関係を他人からほのめかされた日には動揺を隠し通せなくなってしまう。
夫婦であれやこれや言い合っていると、ぼすん、と誰かがビロードの一人用ソファーに座り込む。
「アッハッハッハ!」
王子が、一人で腹を抱えて、笑っている。目尻に涙まで浮かべて。
「くだらない。じつにばかばかしくて最高な会話だよね。羨ましいよ。僕の知っているアドはどこに行っちゃったのかな?」
「からかわないでください。だから嫌だったのですよ。殿下はきっと僕たちを暇つぶしの道具にしようとするから」
「言うな言うな。確かめたいこともあったからこうして尋ねてみたが正解だった。安心したよ。私のせいでまた一組の夫婦が不幸な結末を迎えるのは見たくないからね」
王子はひとしきり笑い終えると、しゃっきりと立ち上がり、暇を乞う。
「私の負けだね。得難い友人のひとりがこうして良き伴侶を得たのはよろこばしい。遅ればせながら祝いの品でも贈っておこう」
その動作を眺めるうちに思い出した。彼はゴシップ誌で人妻とのスキャンダルを暴露されたことがあり、その人妻夫婦は後に離婚まで至ったという話だ。
けれど彼の言いぶりから考えるに、低俗なゴシップ誌は事実と反するところもあるのだろう。王室の一員も絶えず人に注目されるから大変だ。
玄関先では秘書が端的に次の予定が押していることを告げていた。本来、彼はとても忙しい人なのだろう。だがその合間を縫ってわざわざやってきた。もしかしたら彼にとって夫の存在は思っているよりも大事なのかもしれない。
「お会いできて光栄でした。よろしかったらまたお越しください」
「ふふ。夫人、もしかして私に気がある?」
「まさか。私の頭には一人分の容量しかございません。ただ、夫の友人としておいでいただければ。……お恥ずかしい話ですが、私、ひそかに疑っていたのです」
「何をだい?」
私はわざとらしく頬に手を当て、悩ましげに息をついてみせた。
「私の旦那様には、もしかしたら友人と呼べる方がいらっしゃらないんじゃないかしらって。ご友人がたまに訪ねていらっしゃればそんな疑いを持たずに済むではありませんか」
「アッハッハッハ!」
エドワード王子はまた吹き出した。
「否定はしないよ! こいつはいろいろへたくそなんだよね、うん」
口調がぐっと砕ける。
「以前は俺をはじめとした友人連中がよく相談を受けたんだよね。『ただの知人関係だった結婚相手とどう接したらいいのか』ってさ。あ、ちなみに俺は『形から入れば?』と言っておいたんだけれど」
エドワード王子は夫をちらっと見て、実行はしているようで何より、と意味深に笑う。
「さて。友人をからかうのはこれまでにしておいて。そろそろ本当に帰るよ。試すような真似をして悪かったね」
「いいえ」
「いい息抜きになったよ。ありがとう、マティルダ夫人」
「どういたしまして」
突然の来客は滞在時間二十分ほどで慌ただしく帰っていった。
玄関扉の前で二人きりになると、夫は額に手を当てていた。
「アドルファス。熱でも?」
「ないが、疲れた」
夫はそう言いながら私の肩に顔をうずめる。
「君が暴走機関車みたいにあちこち脱線ばかりするから。おかげで君が気に入られて、余計なことまでばらされて僕が恥ずかしい目に遭った」
「意外と私のことをちゃんと考えていてくれたんですね」
彼は落ち込むけれど、私は上機嫌だ。いろいろ楽しいことも知れたことであるし。
「元から知人だったからこそ気を遣う部分もあるさ。少なくとも、僕は君の好みのタイプではなさそうだったし……あぁ、エドワード王子みたいなのがいいんだっけ。前のカーランド卿も」
この人、本当によく覚えているな。私が秋波を送った相手を全部知って分析でもしていたの。
「お互い様なので言いっこなしです。それよりも言いたいことがあるのですが」
「なに?」
彼は察していないのか、察していて気づかないふりをしているのかどちらなのだろう。
「アドルファス。私の貸したロマンス小説は読みましたか?」
「うん」
先日二度目の貸出をしたばかりのロマンス小説。返すときに「なかなか興味深かった」と感想を添えていたのが忘れられない。そしてまた私のおすすめのロマンス小説を借りていったのだ。
そう、ロマンス小説には恋愛描写がある。読んだのなら女性側のこの微妙な感情の機微にも思いを致してほしいなと思うもの。
「アドルファスには愛が足りません」
「は?」
「……初夜を迎えた女性の気持ちがわかっていないということです! もっと思いやりをください! 優しくしてください! いいですね!」
私がまくしたてると、夫は私から身体を離し、上から下まで観察の目を向ける。そしてぽつり、と。
「かなり痛がっていただろうに。痛い、痛いと泣きながら訴えていたから……かわいそうで」
一瞬、考えあぐねたが、すぐに意味がわかってかあっと赤くなる。いつ誰が来るともわからない玄関先で何を言い出すのこの人! 私? 私が振ったのが悪いのですか、神様!
あうあう、と何か言わなければならないと思うのに、言い出せない。そんな中、いつのまにか控えていた家政婦が「だから奥様は旦那様を『ばか』だとおっしゃったのですよ」と言葉を添える。
「痛い思いをするのは百も承知していた上で受け入れたということでしょうに」
女心に察しの悪い夫もさすがに意図を理解し、急に男としての自信を取り戻した。私の腰に手を回してきたりなんかして、反応の薄い顔の中にも喜色が見えた。
「ふうん」
これほど思わせぶりな「ふうん」もない。気まずい思いをしながらも夫からのスキンシップはそのまま受け入れた。こうして私はまたひとつ羞恥の壁を越え、目的を達成した。
なお、その後にエドワード王子が我が家を訪れることはほとんどなかったが、季節の折々で手紙をやり取りするようになった。唯一ある共通の話題が夫のことだから、彼からの手紙も夫についてよく書かれている。私が知らない外での夫の様子がわかるからこれはこれで非常に良い情報獲得手段を得られたものだと思う。お礼とともに書き送れば『君は王子をとりこにできる賢明な女性だから』というお世辞が戻ってきた。さすがに文面から誤解を受けるのが嫌で暖炉で燃やしておいた。
何はともあれ、釣った魚に餌は与えられ、めでたしめでたしの話なのだ。
けれど聞いてほしい。私だってもう大人だから、物語のように愛し愛され、情熱的な一夜を過ごす妄想は卒業している。そもそもロマンチックなセンスが欠如していそうな知人と結婚してしまった時点で現実は厳しい。
それでも義理人情や思いやりは多少なりとも持ち合わせているだろうから、最低限のマナーは心得ているものと思っていたのにあんな仕打ちはないと思う。覚悟を決め、勇気を振り絞ってこっちから誘ったのに……!
要は、怒っている。猛烈に苛立ち、そのすました顔を両側から手で挟んでぐりぐりと歪ませてやりたい。
許すまじ、アドルファス。
「おかえりなさいませ」
この日も夫は夜に帰宅した。その印象の薄い顔立ちをもの言いたげにじいっと見つめておく。
「ただいま」
いつもの「ただいまのちゅう」。私も頬にお返しをするけれどもこの数日の我慢をやめにしたので背伸びしたそのままの姿勢でこう言ってやった。
「釣った魚に餌をやらないと逃げてしまいますよ」
夫は訝しげに首を傾げていたからなおも付け足した。
「私。……魚ですよ? ばかっ」
つん、と顎を上げて、気まぐれな女王となってさっさと自分の部屋に戻る。このぐらいの意趣返しは許されたっていいはずだ。……淑女たるもの、話題が話題だから自分から口にしたくないのに夫の察しが悪いとこうなるのだ。
数日分の私の葛藤を垣間見ている家政婦が背後で呆れている気配を出しているが、これは私にも止められない。
夫は私を追いかけなかった。どうせまた子どもっぽく拗ねているとだけ思っているのだ。わりと事態は深刻なのに。
自室でむっつりしながらふて寝していたら、夫がノックして入ってきた。入っていいとは言う前だったが、そこは気にしなくなったらしい。
「マティルダ。相談がある」
「……なんです?」
夫に背中を向けたままで答えると、ぎし、とベッドに夫の体重が乗る。
「実は明日の休日、友人を招くことになった」
「……は?」
夫は何でもないことのようにさらっと言った。この状況で言いやがった。
ベッドから飛び起きた。
「……アドルファス。まさかまた私に予定を言いそびれていたのですか!」
「いや。今回は違う。あちらが突然言い出したことだよ。彼はとても気まぐれだからね」
「そうですか。でも今日はもう夜ですし、おもてなしの準備はほとんどできませんが」
うん、と夫は顎に手を当て考えている様子だったが「仕方がない。彼も承知しているさ」と言いながら立ち上がる。
「おやすみ、マティルダ」
母親が子にするような額への軽いキス。私は手元の毛布をぎゅっと引き寄せながら「……おやすみなさい」と小さく答えた。
夫は平然とした顔で私を怒らせることも多いが、同じぐらい私のツボを突くのも得意だ。だからといってなあなあで済ませてしまうのも納得いかないからまだ踏ん張ってみようと思う。
許せないのだ。行くところまで行っておきながら、その後は何もなかったように元通り、昨夜のことは錯覚でしたという顔をされてごらん? 人の純情を弄んだの、と問い詰めたくなるに決まっている。朝起きたら本人はもう仕事に出かけているし、帰ってきても何も言わない。スキンシップも「ただいまのちゅう」だけ。
「……ばか」
三歩進んで二歩下がってしまった。
とりあえず明日やってくるご友人をしっかりおもてなししよう。次の手を考えるのはそれからだ。
午後一時十分。夫の話通りに来客が来た。鳶色の髪と黒い眼をした上品な御仁で、夫が寄宿学校に通っていた時の同級生だという。
正直に言う。地味で堅実な夫よりも百倍華がある。笑い方からして玄人じみている。私が独身であったなら間違いなくきゃあきゃあ騒いでいた。自分の魅力を存分に振りまいている自覚のある人だ。
そんな人がまさか夫の友人とはつゆほども思わず、秘書の男を先ぶれにして、黒塗りの立派な四頭立て馬車から出て来た男性にぽけっと見とれてしまった。さらに少しの既視感も覚えた。彼をどこかで見たことがある気がする。
姓を名乗らないまま「エドワードです」と自己紹介をされて、流れるような仕草で手の甲にキスを贈られてからようやく思い出す。
「アドルファス。……もしかしてこの方って」
面識はない。だが国民ならば誰もが知っている。その動向は新聞などでも取り上げられていて、写真も掲載されている有名人だ。
「君というやつは、説明していなかったの? 可哀そうに、顔が固まってしまっているじゃないか」
「昨日の今日で説明できるタイミングを逃していたもので」
夫は仏頂面で答えた。
「そもそも妻を会わせる気もありませんでしたし、殿下はご多忙の身ですから、僕のために時間を取らなくとも結構です」
「何を言う。仲間内でも一番結婚しそうになかった男が結婚したと聞いたら無理してでも会いたくなるし、結婚してから最近は仕事の虫も鳴りを潜めていると聞けば、どんな奥方が手綱を握っているのか知りたくもなるさ」
男は白い歯を見せて私に笑いかけた。
殿下。夫がそう呼んだなら確定だ。彼はエドワード王子。現国王の孫で王位継承権第五位。私にはそうそうお目にかかれない雲の上の人だ。
突き付けられたとんでもない現実に目が眩んでいると、エドワード王子は爽やかさそのものの顔でこう言い放つ。
「まあ、でも普通そうな子かな。昔、アドと付き合っていた何とかという女の方が色気もあったし、美人だったね」
「殿下。過去を掘り返すのはやめていただけますか」
……今、ものすごく失礼なことを言われた気がする。独身女性に夢を与えている王子の高貴な口から聞くに堪えない暴言が。うちの上の姉ですらここまで気を遣えない発言はできないだろう。
夫は冷静そのものの対処をしているが、夫がこうだから夫の友人が朴念仁を通り越してデリカシーのない王様気質なのはどうしようもないかもしれない。だって王子様だからね!
「たしかに、美人とは少し違うかもしれませんね」
我が三姉妹の中では私は不出来な出涸らしである。姉二人はよくモテた。結婚相手にすぐさま見初められたもの。
「色気も……そうですね、ありませんね」
上の姉は引き締まるところは引き締まり、出るところは出たゴージャスボディだし、下の姉は清楚さの塊でうまいこと恥じらうことができるから男心をそそることだろう。
「でも現時点でアドルファスを一番に気にかけているのは私です。どこぞの女性よりも大事にしていると思います。負けません」
「へえ。そうなのかい? 君らは恋愛感情なく結婚していると聞いたのに、うまくいっているのかい?」
信じられない、という大げさな仕草までしてみせるエドワード王子。なるほど、意地悪な煽り体質と見た。
「あ、当たり前です。アドルファスは……そのう、い、いいところもあるんです! 帰ったときは『ただいまのちゅう』をするし、最近はちょっと情熱的なぐらいですっ!」
「……マティルダ」
ひどいぐらいの噛み方をしてしまったけれど、発言は間違っていない。嘘は言っていない。
けれど横目で見たアドルファスが気の毒なほどにいたたまれない顔をしていた。
「君はなぜいつも他人から僕たちの関係を問いただされると、恥じらいを忘れるんだ。今言うべきことと言うべきでないことの区別がついていないの?」
「ごめんなさい……」
夫の発言も正論だったので一歩退いた。なにせ、相手は雲の上の王族だし、自分の身内だから許されてきたところもある。
「怒ってはいないさ。ただ……はぁ」
珍しく夫がため息をつく。
「悪いとは思っているのよ? ただ、まだ妻としての余裕が持てていないのかも……」
結婚初日の初夜さえすっぽかされた形になった花嫁だったし、いざ迎えたら迎えたでやっぱり放り出されたし。形だけでももらってくれるならアフターケアまでしっかりお願いしたい。
そんな状態で過去の女性関係を他人からほのめかされた日には動揺を隠し通せなくなってしまう。
夫婦であれやこれや言い合っていると、ぼすん、と誰かがビロードの一人用ソファーに座り込む。
「アッハッハッハ!」
王子が、一人で腹を抱えて、笑っている。目尻に涙まで浮かべて。
「くだらない。じつにばかばかしくて最高な会話だよね。羨ましいよ。僕の知っているアドはどこに行っちゃったのかな?」
「からかわないでください。だから嫌だったのですよ。殿下はきっと僕たちを暇つぶしの道具にしようとするから」
「言うな言うな。確かめたいこともあったからこうして尋ねてみたが正解だった。安心したよ。私のせいでまた一組の夫婦が不幸な結末を迎えるのは見たくないからね」
王子はひとしきり笑い終えると、しゃっきりと立ち上がり、暇を乞う。
「私の負けだね。得難い友人のひとりがこうして良き伴侶を得たのはよろこばしい。遅ればせながら祝いの品でも贈っておこう」
その動作を眺めるうちに思い出した。彼はゴシップ誌で人妻とのスキャンダルを暴露されたことがあり、その人妻夫婦は後に離婚まで至ったという話だ。
けれど彼の言いぶりから考えるに、低俗なゴシップ誌は事実と反するところもあるのだろう。王室の一員も絶えず人に注目されるから大変だ。
玄関先では秘書が端的に次の予定が押していることを告げていた。本来、彼はとても忙しい人なのだろう。だがその合間を縫ってわざわざやってきた。もしかしたら彼にとって夫の存在は思っているよりも大事なのかもしれない。
「お会いできて光栄でした。よろしかったらまたお越しください」
「ふふ。夫人、もしかして私に気がある?」
「まさか。私の頭には一人分の容量しかございません。ただ、夫の友人としておいでいただければ。……お恥ずかしい話ですが、私、ひそかに疑っていたのです」
「何をだい?」
私はわざとらしく頬に手を当て、悩ましげに息をついてみせた。
「私の旦那様には、もしかしたら友人と呼べる方がいらっしゃらないんじゃないかしらって。ご友人がたまに訪ねていらっしゃればそんな疑いを持たずに済むではありませんか」
「アッハッハッハ!」
エドワード王子はまた吹き出した。
「否定はしないよ! こいつはいろいろへたくそなんだよね、うん」
口調がぐっと砕ける。
「以前は俺をはじめとした友人連中がよく相談を受けたんだよね。『ただの知人関係だった結婚相手とどう接したらいいのか』ってさ。あ、ちなみに俺は『形から入れば?』と言っておいたんだけれど」
エドワード王子は夫をちらっと見て、実行はしているようで何より、と意味深に笑う。
「さて。友人をからかうのはこれまでにしておいて。そろそろ本当に帰るよ。試すような真似をして悪かったね」
「いいえ」
「いい息抜きになったよ。ありがとう、マティルダ夫人」
「どういたしまして」
突然の来客は滞在時間二十分ほどで慌ただしく帰っていった。
玄関扉の前で二人きりになると、夫は額に手を当てていた。
「アドルファス。熱でも?」
「ないが、疲れた」
夫はそう言いながら私の肩に顔をうずめる。
「君が暴走機関車みたいにあちこち脱線ばかりするから。おかげで君が気に入られて、余計なことまでばらされて僕が恥ずかしい目に遭った」
「意外と私のことをちゃんと考えていてくれたんですね」
彼は落ち込むけれど、私は上機嫌だ。いろいろ楽しいことも知れたことであるし。
「元から知人だったからこそ気を遣う部分もあるさ。少なくとも、僕は君の好みのタイプではなさそうだったし……あぁ、エドワード王子みたいなのがいいんだっけ。前のカーランド卿も」
この人、本当によく覚えているな。私が秋波を送った相手を全部知って分析でもしていたの。
「お互い様なので言いっこなしです。それよりも言いたいことがあるのですが」
「なに?」
彼は察していないのか、察していて気づかないふりをしているのかどちらなのだろう。
「アドルファス。私の貸したロマンス小説は読みましたか?」
「うん」
先日二度目の貸出をしたばかりのロマンス小説。返すときに「なかなか興味深かった」と感想を添えていたのが忘れられない。そしてまた私のおすすめのロマンス小説を借りていったのだ。
そう、ロマンス小説には恋愛描写がある。読んだのなら女性側のこの微妙な感情の機微にも思いを致してほしいなと思うもの。
「アドルファスには愛が足りません」
「は?」
「……初夜を迎えた女性の気持ちがわかっていないということです! もっと思いやりをください! 優しくしてください! いいですね!」
私がまくしたてると、夫は私から身体を離し、上から下まで観察の目を向ける。そしてぽつり、と。
「かなり痛がっていただろうに。痛い、痛いと泣きながら訴えていたから……かわいそうで」
一瞬、考えあぐねたが、すぐに意味がわかってかあっと赤くなる。いつ誰が来るともわからない玄関先で何を言い出すのこの人! 私? 私が振ったのが悪いのですか、神様!
あうあう、と何か言わなければならないと思うのに、言い出せない。そんな中、いつのまにか控えていた家政婦が「だから奥様は旦那様を『ばか』だとおっしゃったのですよ」と言葉を添える。
「痛い思いをするのは百も承知していた上で受け入れたということでしょうに」
女心に察しの悪い夫もさすがに意図を理解し、急に男としての自信を取り戻した。私の腰に手を回してきたりなんかして、反応の薄い顔の中にも喜色が見えた。
「ふうん」
これほど思わせぶりな「ふうん」もない。気まずい思いをしながらも夫からのスキンシップはそのまま受け入れた。こうして私はまたひとつ羞恥の壁を越え、目的を達成した。
なお、その後にエドワード王子が我が家を訪れることはほとんどなかったが、季節の折々で手紙をやり取りするようになった。唯一ある共通の話題が夫のことだから、彼からの手紙も夫についてよく書かれている。私が知らない外での夫の様子がわかるからこれはこれで非常に良い情報獲得手段を得られたものだと思う。お礼とともに書き送れば『君は王子をとりこにできる賢明な女性だから』というお世辞が戻ってきた。さすがに文面から誤解を受けるのが嫌で暖炉で燃やしておいた。
何はともあれ、釣った魚に餌は与えられ、めでたしめでたしの話なのだ。
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