貴妃の脱走

川上桃園

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貴妃の脱走

後編

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「緋杏。ちょっとこっちにおいで」
 
 彼女は声をかけられて、お客の相手もそこそこに主人のところに来た。

「何ですか、旦那さん」
 
 えーと、と主人は緋杏のお盆の上にどさどさと饅頭を積み、二杯のお茶を置く。

「二階の個室のお客にこれだけ出してきておくれ」
 
 こんなにたくさん? 緋杏は眼を真ん丸にして、主人を見上げた。彼は、そうなんだよ、と実に人の良さそうに笑んでいる。

「あの人、都中の茶店を食べ歩いて、味を評価する星検定員でね。星三つもらえたら、美酒覧街(ミシュランガイ)渡(ド)に載るんだ。……そのための賄賂、かな」
「まあ」
 
 みしゅらんがいど、というものが何か知らないが、それに載ることは大変名誉なことらしい。緋杏は、お世話になっている主人のために、饅頭とお茶を運ぶという大役を引き受けることにした。



 


 店のある通りを一望できる二階の個室は店一番の特等席と言ってもいい。
 室内にある小さな卓子。そこに座っている若い男がすっとこちらに視線を向けてきた。
 緋杏は真っ先にその人を、冷たそうに見えるけれどきれいな人、と思った。緋杏をまっすぐ見ている目は切れ長で鋭いし、唇は薄いが形がよい。表情は硬そうだけれども、生来の気性によるものかもしれない。服装を見れば、市でよく見かける官吏志望の男のようだが、それにしては堂々とした姿だ。

「何か余……いや俺の顔に何か付いているのか?」
 
 言われて初めて、自分がぽけっと口を開けていたことに気づく。

「ごめんなさい。あなたの顔に見惚れてしまったの」
 
 ここ数日間やっていたように一礼して、お盆のものを卓子に置こうとする。ついでに相手の顔を覗き込んでみれば、男もこちらの顔を見ている。
(睫毛が長いのね……)
 ふうん、と意味なく感心して、眼が合ってもなお見つめてみれば、相手の方が先に降参する。そんなに不躾に見るな、と釘を刺されて、彼女は早々に卓子から離れた。

「待て」
 
 そのまま部屋を出ようとした緋杏は、振り返って不思議そうに首を傾げた。

「……一人で食べるのも味気ない。そこへ座ってくれぬか」
 
 小声だけれど、通った声だ。ごくわずかに震えているのは気のせい? 目線は斜め下の床へと向いている。
 彼女は言われるがままに、相手の向かいの席に腰かけた。差し出された饅頭を促されたままに口をつけ、その美味しさに顔が和らぐ。

「……そんなに旨いか」
「ええ。美味しいわ。今までここほどおいしいお饅頭には出会っていないもの。……もしかして美味しくないの?」

 朝早くから主人が直に仕込みを行って、こだわりぬいたお饅頭だ。……確かに舌の肥えている批評家には物足りなく思うかもしれないが、緋杏からしてみれば素晴らしい一品なのだ。それでも不安になって、食べる手を止めた。

「いや、美味しいのだが。……少々考え事があるのだ」
「まあ。どんな?」
 
 何気なく聞いたのだが、男は言葉に詰まった様子で緋杏を見た。何とも言いたげな顔をして、そして。

「……妻をどうやって口説こうかと」
 
 ぱちぱちと彼女は瞬きをした。

「妻? 奥様になった以上、どう口説くというの」
「……逃げられて」
 
 大変ねえ、と緋杏は適当に相槌を打ちつつ、首を傾けた。

「何で逃げられてしまったの?」
「家の事情のためになかなか満足に妻に会うこともできず、我慢しているうちに、だな」
 
 「家の事情」。緋杏は己の身を顧みて、妻に逃げられた可哀想な男のためにこういってやる。

「それでも奥様に愛情があるならいいじゃない。……私にも夫がいたけれども、遠目で見たことがあるぐらいで、顔をまったく知らないの」
 
 ま、元々そう決まっていた結婚話だから、仕方がないのだけれど。緋杏はにっこり笑って先を続けた。

「実は私ね、後宮では貴妃の位にあったのよ。……そう言ったら信じる?」
 
 冗談交じりでそう聞けば、案外真面目な顔で「信じよう」、と言われてしまった。思っていた反応と違って、若干面喰ってしまう。

「ふふ。でもね、決まり方がすごかったの。全国に募集がかけられてね。私は故郷では変な女だからって縁談がなかったから、私の両親が一縷の望みをかけて応募したの。……そしたら、当たっちゃって」
「何に?」
「くじに」
 
 今でもよく覚えている。箱に入れられたくじ。それが一枚だけ引かれ、手にある番号札と同じだったものが貴妃の位につく。何千倍もの倍率の壁を、なぜか越えてしまったのが緋杏だった。一人の宦官が「おめでとうござりまする」、と無意味にからんからんと小さな鐘を鳴らしているのが印象的だった。

「両親が喜んだところまではよかったのだけれど……ほら、まったくお渡りがなかったの。やっぱり陛下だって好みがあるから、くじで決まった女が希望通りとはいかないわけじゃない? 期限付きでもあったわけだし。数年間楽しちゃったわ」
「……夫である皇帝と会いたいと思わなかったのか」
「うーん。特には」
 
 さっぱりと緋杏が断言すれば、相手はたじろいだ。

「だって、別世界の方でしょう、陛下って」
「陛下だって後宮にくるだろう」
「それでも顔を合せなかったし、女遊びの噂も聞かないし……あ、男色家だって話は聞いたの。本当かしら」
 
 女官たちが頬を赤らめながら話し込んでいるのを聞くところ、主に犠牲者は宦官や若い官吏らしい、と話すと、男は唇を引き締めて、眼光鋭く言い放つ。

「それは真っ赤な嘘だ」
「何故知ってるの?」
 
 相手は無言を貫いた。相手に合わせ、自然と緋杏も無言となる。しばらくはひたすら黙々と饅頭の山の解消に努める。時折、お茶をすする音が聞こえてくる。
 さらに乗った最後の饅頭を掴もうとしたとき、男の手と当たった。

「あ、ごめんなさい」
 
 お客優先なので、手を引っ込めようとする。だが、その手を逆に掴まれた。緋杏のものよりはるかに大きく骨ばった手の感触に息を詰める。

「お前に、話があるのだ」
 
 真剣な面持ちに、緋杏はしげしげと掴まれた手と相手の顔を見比べたのだった。








「……陛下、手まで掴んでおきながら、何も言えなかったのですか?」
「いや、言った。お前を目当てに茶店に通ってきてもよいか、と」
 
 一連の話をずっと大人しく聞いていた宦官は体をふるふると震わせた。

「それは言っていないのと、同様でございます。……愛の告白はいかがなされたのですか」
 
 皇帝は、目線を斜め上四十五度あげて、はるかかなたに広がる白い雲を見上げた。

「面と向かって言うのはまだ……ハードルが高かった」
 
 まず彼女を眼前にすれば、自然と口数が減る。言葉じりがきつくなってしまう。そして、何より……彼女の眩しさに目がくらんでしまうのだ。

「皇帝陛下だと名乗られたのですか?」
「いや、な……。たぶんそんなことを言ったら、緋杏の顔から笑顔が消えるかもしれないと思ってな」
 
 千里の道も一歩より。下手に皇帝だと明かせば、彼女の中で好感度ゼロの皇帝の評価がさらに低く……。後宮に連れ戻されるのではないか、と恐れ、そして、良晶のことを見てもらえなくなってしまうかもしれない、と本能的に察知していた。彼女は後宮より町を選んで外に出た。無理やり後宮に戻したとて、納得するとは思えない。生き生きと働いている彼女に水を差すようなことはしたくなかった。彼女が後宮に戻るとき、皇帝の寵愛を受け入れ、心から生涯妻として仕える気持ちであって欲しい。

「では、ただのお客と売り子という関係で当分行かれるのですか?」
「うむ。美酒覧街渡の星判定員と売り子という関係でな」
 
 みしゅらん? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした宦官を置いていく。
 良晶は再び町に繰り出すべく、歩き出す。その足は軽かった。そう、今の彼には時間がある。緋杏をじっくりと口説いて、仲睦まじく暮らせるための時間が。ゆっくりと絆を深めていくのも悪くないと考えている。この間のように饅頭を幸せそうに食べる緋杏を眺めたり、働く彼女を知ったり、自分の前でどんな顔をして話すのか知ったり。後宮では決して見られない緋杏の姿を楽しみにしている。
 とりあえず今は。かつて後宮では自分以外に向けられていた笑顔を間近で見られるというささいなことにも幸せを感じているのだった。



 


 緋杏は今日も店に出ていた。朝から続いていたお客がぷつんと途切れた後、手持無沙汰の彼女は、主人から余った饅頭をもらい、おやつ代わりに食べていた。

「そういえば、聞いていなかったが、あの個室にいたお客とはちゃんと話せたかい?」
「はい」
 
 主人の言葉に触発されて、あの美酒覧街渡の検定員だという批評家とのやり取りを思い返す。確か後宮のことを話して、それで……。緋杏は自分の手をじっと見つめた。お客というものはああやって売り子の手を握るものだろうか。
 ……情の深そうな人だ。そんな男の妻であれば幸せだろう。名目上の夫である皇帝もあんな男かもしれない。時折部屋に香木を置いてくれた方。末端の妃にまで心を砕いてくれる。

「また通ってくる、と聞いています」
 
 ほお、と茶店の主人は顎髭を撫でる。

「なるほど、長期戦か……。いやはや若いとは素晴らしい」
「え?」
「ああ、こっちの話だ。あの方は特別なお客様だからね、お勘定は全部私が持つから、お金を請求しないでおくれ」
 
 茶店の主人は実に太っ腹な人物で……人の恋路を見守るのが大好きな性分なのだ。もちろん、彼は緋杏を「夫」から預かっている立場であるため、しっかりと面倒を見ていこうと決意しているのである。

「わかりました。……あのう、あの方のお名前はご存知ですか」
「ああ……聞いていないね」
 
 そうですか、と緋杏は俯いた。
 今度茶店に来た時に聞いてみよう――ぼんやりと彼女はそう考え、自然と唇を綻ばせたのだった。

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