貴妃の脱走

川上桃園

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太子の追走

前編

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 人生は一度きりなのだ。その一度で人生を棒に振ってはたまらない。
 
 皇太子の穆脩(ぼくしゅう)は、初恋をこじらせまくった叔父を見るたびに、情けなさ過ぎて涙がほろりと溢れるような心境となっている。乱心、といえば、血みどろな展開になろうものだが、恋心というと、桃色の展開しか見えてこないものである。叔父が進む道の先には大陸の覇王というよりかは、めくるめく安い恋愛小説の世界とありきたりな子孫繁栄の未来であろう。
 これから、悲愴的な決断をすることもないだろうし、人々を不幸にするような冷酷な命令を出すこともあるまい。どこぞの町角で女を拾ってきて、身分差の恋を実らせて。女と仲睦まじくしながら、何不自由なく老いていく。はっ、と彼が鼻で笑うほどにぐだぐだになるのが見え見えだ。
 素晴らしき引退生活、万歳。ビバ、恋愛小説。

「そんな、そんなもの。……どこの世界で許されたとしても、俺は認めんっ! なんだ、そのアホな展開! ちっとも面白みがないじゃないか! 第一、俺が困るんだ! 二十四時間監視体制、徹夜上等の鬼畜役職を誰が好き好むというんだ! 押し付けじゃないかっ。一生縛りつけられるのは俺か、俺なのかっ」

 世界が世界ならちゃぶ台ぐらいひっくり返さんばかりに喚くこの男こそ、一国の皇太子をしているというのだから、どんな高貴な身の上でも凡人と大して変わりないということがわかるであろう。だが、困ったことにこれは事実なのである。人一人入るほどの巨大な青磁の壺(つぼ)に頭を突っ込み、中でわんわん声を反響させているのは、皇太子に違いない。
 そう確認するほどに、いたたまれなさを感じたのは皇太子付きの宦官(かんがん)である。皺に埋もれたその顔は、実は皇帝付きである者と瓜二つ。それもその筈、父母を同じくした双子であって、反応もことごとく似通っている。
 つまり、ごくごく庶民であって、君子危うきに近寄らず、を地で実践する。皇太子がひとしきり壺に叫び終わるのをひたすらに待っている。話しかけられないで、待っている。

「叔父上のバカヤロー! 俺なんかが『余』などと言ってみろ、むず痒くてたまらんのだ!」

 ここまで壺に愚痴をぶちまけた後、彼はふと顔を上げた。宦官とばっちり目が合ってしまった。

「あの、殿下。お呼びと聞きましたので、参上いたしましたが……。あの」
「壺の奥にはだな」
「はあ」
「桃源郷があるのだそうだ。これを、壺中天、と呼ぶ。そなたも知っているであろう」
「ええ……、しかしそれは故事でのことでして……」

 宦官の目が壺へと向く。皇太子は静かに言う。

「いいや、俺は信じているのだ。この奥には美しい別世界があるのだと。大いなる冒険の旅が俺を呼んでいるのだ。……ちょっと行ってくる」

 うんしょ、と穆脩が片足をおもむろに壺の中に突っ込むものだから、宦官は目を剥いた。

「殿下、おやめください! 恥ずかしくていたたまれないのはわかりますが、どうかこらえてくださいまし! その壺は大量生産の安物なのです、間違っても別世界への入口ではございません! あぁ……」

 皇太子の四肢がすっぽりと壺に収まる(悲しいかな、彼は叔父ほどに大柄ではないのだ)。さすがの宦官も呻く。
 今の皇太子殿下の姿と言ったら、壺から顔だけがひょっこり出ている壺の精霊であった。他の誰にも見せたくない、いや、見せられない。宦官は無言で部屋の扉を閉めた。

「……それで、叔父上が懸想する女は誰だったのだ? 誰ぞ、町で見初めたとか?」

 まだ顔を出していたのは、これを尋ねたいがためであったらしい。忠実な宦官は困惑した様子で報告する。

「それが……貴妃さまでして」
「は?」
「先日、後宮を出奔された、あの貴妃さまのようです」

 穆脩が黙り込む。と、

「……えぇ~。何だよ、その筋書きは。我が叔父ながら、逃げた女の尻を追いかけてまぁ……引くな」
「殿下、素です。素になっておりますよ」
「ごほん。えー、おかしなことがあるものよ。一体どういうことなのだ、早う報告せい」

 ちょいちょいと手招きされて、宦官は壺……もとい、皇太子の傍に寄る。宦官が耳打ちするうちに、穆脩の顔が見る見る険しくなっていく。

「叔父上……なんてヘタレぶりなんだよ。やっていることが純情満載というか……。情けない、情けないな、叔父上」

 壺に収まっている皇太子殿下も十分情けないのだが、賢明な宦官は黙っている。よし、と穆脩が心得たとでも言うように、手を打った。

「朴念仁の叔父上がどんな顔で恋愛しているのか、この眼で確かめてやる! あわよくば邪魔してやろうぞ。叔父上の完全引退を先延ばしにするために!」

 不純な動機を抱えた皇太子殿下が、わざわざ出歯亀になったのはこういうわけなのであった。人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られてなんとやら、と世間ではよく言われるものだが、少なくとも執務を放り出した彼には、後々山のような書類が溜まるであろうことは、想像に固くないのである――。










「あの。私、思ったの。晶(しょう)さん」
    
 絶賛脱走中の元貴妃にして、現在饅頭屋の看板娘こと、緋杏(ひあん)はふいに市の中央で立ち止まる。彼女が見上げたのは、金糸銀糸をふんだんにあしらった豪奢な衣…ではなく、まったく書生風の冴えない出で立ちをした、やたら堂々たる風格を持つ男であった。普通に歩いているだけなのに、踏ん反り返ってみえるのは、職業病に違いない。

「ん、なんだ」

 言葉少なに先を促すこの男。実は一国の皇帝陛下というご職業についている(ちなみに大概終身制、景気に左右されない超安定職業)。
 皇帝のお忍びといったら、何だか「暇なので遊んでいる」といった軽い響きがつきまとうわけだが…この色ぼけ皇帝陛下の場合には、すっぽり当てはまる。百点満点の大正解というわけだ。と、いうのも、後継者が順調に育ってくれて、膨大な政務と巨大な権力はほとんど引き継ぎが終わっている。退位の公布はほぼ秒読み状態。彼の人生計画もほぼ、順調と言っていい。…一人の女を除いては(そして、これが一番重要だったりするわけだ)。

「お仕事大丈夫なの?」
「は?」

 唐突な言葉に面食らった彼。この時、かれにとって不幸だったのは、はずみで眼光が弓矢を放つ時のごとく、きりりと細められたことである。ただでさえ、遠巻きだった周囲の人々が音を立ててざっと引き、この上もなく悪目立ちする。まさに、高貴な若者が権力をかさに小娘を脅す図の出来上がり。誰も近づきたくないわけである。
 このような時でも目を背けないで不思議そうに彼を眺めるばかりの緋杏の器は案外デカい。

「だって、美酒覧街渡(ミシュランガイド)の星判定員として、あちこち行かなくてはならないのでしょう?」
「は、あー、それもそうだろうな」
「でも、よくお店にきてくれるし、旦那さんに頼まれて、おつかいまで一緒に行ってくれるし……私としてはとても助かるのだけれど……」

 困ったように首を傾げている。その姿は風に揺れる鈴蘭のように愛らしい。良晶の胸も高鳴るものだが、残念なことにそれを彼女へ伝える術もないのである(彼のなけなしの勇気は以前に手を握ることで一旦消費されてしまったらしく、回復には時間がかかりそうだ)。
 そして、彼にとっても困ったことは、緋杏が素直すぎるところにある。町に暮らすようになってから少しずつ世間を知るようになってきているものの、市場名物、嘘すれすれの売り文句にうっかり引っかかりそうになったり、うっかりぼったくりの骨董品を掴まされそうになったり、挙句の果てには、うっかり裏路地で迷って、誘拐されかける始末。〈うっかり〉、素直に言葉を受け取ってしまうのだ。毎度、彼女につけておいた護衛に何気なく助けられているのだが、彼女の安全はまったく紙一重に相違ない。

「それは問題ない」

 彼はそう断言する。何か話を続けようと思ったのに、言葉が何も浮かばず、そのまま口を閉ざす。

「そうなの。ふうん。そういえば、奥様とは仲直りなさったの?」
「……どうだろう」
「会っていないの?」
「会ってはいるが……」

 気づいてもらえない。こんなにも頻繁に接しているのだから、いい加減に気づいてくれ、余がそなたの夫なのだ――。……彼にこのようなことが言えたなら、そもそもこんなにややこしい事態にはなっていまい。彼が会いに行き、正体を明かし、告白する。ここまで引っ張るどころか、一行ですべてが解決するのではなかろうか。
 しかし、実際の良晶はいたって幸せそのものである。ほとんど毎日、皇城からせっせと貴妃に会いに通いつめ、ときにはこうして町を歩く。視察という名目で市井(しせい)に下りることがあっても、ぶらぶらとただ目的もなく彷徨うのは楽しいものであると知ったのはつい最近のことである。緋杏といれば、一層景色は新鮮なもののように見える。……そう、この国の皇帝陛下は根っからの隠れ草食系。しかも、すこぶる燃費がよく、わずかな喜びで幸せになれるという幸せ体質なのであった。
 まぁ、と緋杏は目を見開く。

「なかなか説得が進まないのかしら。でも、こういうことは時間が解決してくれるわ。晶さんはとても優しい方だもの」
「そうだろうか」

 良晶はじっと脇にいる小さな身体を見下ろした。ふわりふわりと彼女の衣の裾が揺れている。小さな足は土を踏みしめるというよりかは雲の上を歩くようである。小作りの顔についたつぶらな瞳はきらきらとした黒い宝玉であり、何もしなくとも赤い唇はあどけなく少し緩んでいる。

「優しい、というよりも、厳しい、と言われたことのほうが多い」
「どなたに?」
「……部下に」
「それなら、仕方がないんじゃないかしら」

 くすくすと笑いながら、緋杏は再び歩き始めた。二人の姿が再び雑踏に紛れていく。

「だって、お仕事なのだもの。優しいばかりではいられないわ。人ってね、優しいときよりも厳しいときの方を長く感じるものよ。旦那さんだって、普段優しいけれど、怒るときはちゃんと怒るもの」
「あそこの旦那のところにいて、幸せか?」
「幸せよ。あそこで雇ってもらえて、本当に幸運だったって思うわ」

 お日様の笑顔を浮かべている。それを眺められることの幸福を噛み締めつつも、一度手放さなければ得られなかったことに、無性に切なくなる。

「おまえが幸せなら、いい。いいことだ」
「晶さんは、違うの?」
「……不幸、ではないな。確実に」

 緋杏は微笑んでいる。眩しくてたまらない。良晶もできることならば笑み返してやりたかったのに、ぎこちない表情にしかならなかった。それでもやはり、彼女は明るく笑ってくれていたのだ。


 
 
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