貴妃の脱走

川上桃園

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太子の追走

後編

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 さて、ところは変わって、市場を見下ろす高楼(こうろう)にて。一人の男が手すりから乗り出さんばかりに前のめりになっている。言わずもがな、出歯亀を決め込んだ皇太子である。彼は持ちうる権力を使って、高楼そのものを貸し切ってしまった。串に刺さった団子を豪快に食しながら、市場の流れを眺めている。正確にはその一角にいる二人の男女を。

「叔父上ときたら、やっぱりにやけているんじゃないか! 出奔した元貴妃を探さないと思っていたら、自分で見つけて、ちゃっかり〈老後〉の楽しみにしようとしていたとは! 自分だけずるくないかっ?」

 しばらく観察し続けていた穆脩(ぼくしゅう)は手前勝手に文句を並べ立てている。僻(ひが)みだと己でもわかっているのだが、ずるいものはずるいらしい。
 団子を完食し終えると、彼は目的を果たすため、高楼を飛び出した。
 
 それからしばらくして。盛況な市の中で、たやすく皇帝陛下とその連れを見つけ出すことができた。それもそのはず、彼らはじろじろと凝視されている。お忍びなのに、ちっとも忍んでいない。むしろ、もっと目立ってくれ、と言わんばかりである。
 
 と、いうのも男は貧乏人の格好をしている癖にやたら偉そうで、女の方を睨みつけている(身内の穆脩からすると、これでも浮ついているのだそうだ)。これで育ちの良さが出ていなかったら、恐喝しているゴロツキそのものである。女の方も女の方で、それにまったく動じないで、あくまでにこやかに話しかけている。そして、二人の周囲から放たれる幸せオーラ……一体どうなっているのか、二度見したくなる光景に違いない。
 とりあえず、彼は彼らの後ろをついていく。人を避けながら、さりげなく、だ。気づかれないようできるだけ近くに寄れば、かろうじて会話が聞き取れた。

「ねえ、晶さん」
「何だ?」
「やっぱり、私って愛人にはなれないと思うの」

「はあっ?」
 
  叔父といる女がとんでもないことを言い出したものだから、穆脩は思いっきり声を上げてしまう。
 
 (あれって、一応貴妃だったはず。だな、あの女が叔父の想い人……だと思いたくないなぁ)
 
 しみじみと感じてしまう穆脩である。しかし、彼はまだ気づいていない。周りからすれば、おもむろ奇声を発した不審者だ。一斉に白い視線が突き刺さる。穆脩はそそくさとその場を移動した。話の続きを聞くためである。

「いきなり何を言い出すのだ」

 叔父の視線が氷点下を記録した。穆脩が、あまり表情を動かさない叔父の機嫌尺度を測る上で、まっさきに逃げ出したくなるレベルであった。

「ええ、本当に。でも、旦那さんに相談したら、直接晶さんに尋ねるようにって」

 対して、女は平然としている。肝の据わった女なのか、どこかに頭の大事なものをことんと落としてきてしまったのか。穆脩には判断しがたいところである。

「ふん。……そういうことか」

 (どういうことだよ?)

 今度は心の中で突っ込んだ。叔父たちの話の筋が見えてこないことに釈然としない思いを抱く。

「そうなの。……本当に、お断りしたいの。ごめんなさい。晶さん」
「いや、そういうことなら、仕方がない。余……俺も、悪かった。すまない」

 二人して、神妙な顔をして謝っている。叔父が謝っている姿というのも物珍しいが、〈何〉に謝っているのか非常に気になるところであった。穆脩の頭の中で、疑問符が幾重にも飛び交っていく。

 ――〈愛人〉、〈直接相談〉、〈叔父上には理解できるらしい〉、〈お断りしたいの〉、〈ごめんなさい。晶さん〉、〈俺も、悪かった。すまない〉……。

「ま、まさか、これは」

 穆脩は唸るが、ここで忘れないでおくべきなのは、彼が血気盛んな若者であったことだ。ゆえに、いかに一国の皇太子でも発想は市井の同年代と相通じるものがあったことは否めない。まして、愛人、などという衝撃の言葉から始まった話は、彼の叔父が関わっていることと相まって、常ならざる判断を下すことになる。
 つまり、叔父である皇帝が、元貴妃に愛人契約を迫り、そして断られたのだと。

「叔父上……。あなたどこまで情けないんだ。そ、そんな初恋をこじらせた挙句が妃でもなんでもない愛人などと。しかも呆気なく断られてしまって。しかし、あの叔父をすげなく振れるというのは……あの女、なかなか見所のある」

 よくよく考えてみれば、山のような矛盾点が見つかるのだが、彼はまったく気づかないで一人早合点してしまっている。
 穆脩の中で勝手に緋杏の株があがった。







「で、相手の男は誰なんだ?」
「え? なんだか、この辺りを取り仕切っている大商家の当主らしいわ。歳は五十三だって。晶さんにはご迷惑をかけるかもしれないけれど」

 珍しいこともあるものねえ、と緋杏はのんびり笑っている。良晶からすれば、ろくでもない事態である。許しがたし、とばかりに身体に怒気を立ち上らせ、偶然にもその視線に接してしまった無辜(むこ)の人々は、ひい、と声を上げながら避けていく。
 良晶は、やがて力強く告げた。

「いや、迷惑などいい。俺も気づけなかったのだ。もう、このようなことはないだろう」
「ええ、きっともう来ることもないでしょう。こういうことがそうそうあるわけないわ。私を愛人にしたって、なんの得もないというのにねえ。……何か私にそんなお得な条件があったかしら? う~ん?」

 彼女は自分の身体を見下ろして、しきりに不思議そうな顔をする。ちょいと裾をつまむ仕草が可愛らしいと思いながら眺めていると、視界の端に何かが映った。それも、よく知った人影が。

「この店先で待っていてくれ」

 良晶は言いおいてから、近くの路地に逃げ込もうとした小柄な青年の背中をむんずと掴んで、引っ張った。

「穆脩! そなた、何をやっておるのか!」

 目を丸くする緋杏の目の前に、猫よろしくぶら下げられた青年とともに良晶が戻ってくる。穆脩はふてくされたように押し黙っている。体格差を思い知らされて拗ねているのであった。

「あ、あの。この方は?」
「あぁ、俺の甥っ子なのだ。穆脩、という」
「ぼくしゅう……?」

 緋杏は名前を繰り返して、ぶら下がったままの青年の顔をまじまじと見た。

「あら、あなた、皇太子殿下と同じ名前なのね」
「……あ」

 良晶は己のうっかり具合を笑えなかった。どうしようか、もう本当のことを言ってしまおうか。彼の思考は一瞬の間に高速回転して……。

「こいつは」
 
 緋杏と穆脩、二人の視線を受けながら、良晶ははっきりと告げた。

「俺の甥っ子にして……美酒覧街度の星判定員の、弟子だ」 




 


 
 夜の皇城は、数多くの燈籠(とうろう)に照らされて、明々と浮かび上がっている。皇太子が使う執務室もまた、しかり。書物机の上には蝋燭が立てられて、手元をぼんやり明るくしている。

「叔父上、俺はいつ弟子になったのですか」
「……物は言いようなのだ。余の後をついて学んだのならば、弟子といって差し支えなかろう」
「美酒覧街渡ってなんでしょう? あと、貴妃に晶さん、と呼ばせていましたね」
「……穆脩」

 良晶は静かに告げる。

「駄々をこねたところで、この山のような書類はおまえが片付けるのだぞ」
「ちくしょう!」

 穆脩の仮面はあっさり外れた。二重人格というわけではないのだが、やや粗野な素顔を隠すために、品行方正な皇太子を演じているのである。そして、ごくごく身近なお付の者と、叔父の前では本音がダダ漏れ、色々とまずい部分がさらされてしまうのだった。

「おまえが昼間さぼったツケが来ているのだ、自業自得だろう」
「自業自得というなら、叔父上だって、いつか貴妃に本当のことがバレてしまえばいい」

 良晶は無言で甥の頭を叩いた。遠慮も何もない全力の一撃に、穆脩の頭には火花が散るようである。

「……殺す」
「っ痛! ~したらっていう、前提もないのか!」

 言いながら面を上げた穆脩の顔から見る見る血の気が引いていく。彼の叔父は実におっかない顔をしていたからであった。

「余計な詮索をした挙句、何やら勝手に勘違いしていただろう。何が愛人契約だ、まだまだ子供のような下世話な妄想をしおって。これでは安心して任せることができんではないか」
「本当か!」
「なぜ、そこで喜ぶのだ。ただ言葉の綾なのだが。譲位の意志は変わらんぞ。穆脩、次代のことは任せた」
「自分だけ、女といちゃいちゃする気でしょう!」
「悪いか?」

 良晶はこれみよがしに、ふん、と鼻を鳴らしてみせる。この陛下、緋杏以外の前ではなんの隠しだてのない、清々しいまでの態度を取るのだが……本人の前だと、いわずもがな。
 穆脩がひたすら苦々しげに叔父を見つめる。

「……邪魔してやりたい。叔父上の恋路を邪魔してやりたい。美酒覧街渡など無いと、バラしてやりたい」
「残念だな」

 良晶は顔を微動だにしていなかったが、どことなく勝ち誇っているような声音で言う。

「この際、本当に美酒覧街渡を作ろうと思っているのだ。思いつきにしては、なかなかに面白い考えだと思ってな、宰相に打診したら、あっさり通ったのだ。もちろん、判定員には余も加わる」
「観光や、出版、掲載された店などの経済効果が狙えるから、ですか」
「有用でなければ、打診はしまい」

 穆脩はなおも悔しそうにしている。対して、良晶は実に気分がよかったわけだが、実際の状況は、嘘の上にさらに嘘を盛ってしまったようなもの。緋杏にバレたしまったときのことはすっかり抜け落ちてしまっている。恋は盲目。目がくらみすぎて、自分にとって不利なことは遥か彼方へ投げ捨てているのだった。






「へえ、お弟子さんがいたのかい?」
「甥っ子さんらしいわ」

 今日も今日とて、緋杏はおやつ代わりの饅頭を頬張りながら、思い出したように昨日あった出来事を店の親爺に語っている。
 親爺は、うんうんと相槌を打ちながら、耳を傾けていた。一方で、はて、と首を傾げている。彼は良晶の事情をある程度知っているためである。

――弟子で甥っ子……。たぶん、本当に甥っ子か何かで、その場でなんとなしに〈弟子〉にしてしまったのかもしれないね……。と、なると、その方もまたやんごとなき方に違いないだろうねえ。

 にこにこしながら、おくびにも出さないで考え込む店主であった。
 一方で、緋杏はちらちらと店の入口を見ている。いつもの、大柄で怖そうだけれど、緋杏には優しい男が入ってくるのを、待っている。
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