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乙女の独走
一
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人生は一度きりだもの。だから――
緋杏(ひあん)は、微笑む。これ以上の幸せはない、とばかりに。
いつものように二人で町に出た。良晶(りょうしょう)が抱えている、大きな包みがその証。他人と肩が触れ合うほどの混雑の中、彼の想い人は袖で固く守られているはずのほっそりとした腕を垣間見せながら、手を伸ばす。つま先立ちをして、良晶の頬に触れる。
「……急にどうした?」
彼は女を夢中にする術は知らない。知る前に寄ってきた。でも、自分が望む女はそんな類ではなく、そうあって欲しくもない。だから、今、彼はひどく参っていた。己で思っていたよりもはるかに無愛想な己自身の口調に。
あまりにもつれない返事だったためか、彼女の眉が切なげに曇る。頬に当たる手の感触が強くなり、彼を見上げる黒曜石にも似た瞳が、もの欲しげに濡れている。吸いつきたくなるような唇が開く。
「人生は一度きりだもの」
彼女は再度繰り返す。先ほどの仕切り直しをしたいのかもしれなかった。……なぜなら、重要な決意を口にするとき、人はそうするものだから。
良晶は息を呑み、そこがどこだかも忘れてしまった。人の生活の音は透明な壁の向こうにすべて去り、世界は二人きりになったような心地がしたのである。
「だから、私は後悔しないわ。これからは好きなように生きるって決めたの。だからね、だから……」
白い頬に朱が差した。良晶は、かつてこのようなとろけたような顔をした女を何度か見てきた。
(でも、本当に……本当に、この瞬間が来たのだろうか。期待してもいいのだろうか、うぬぼれてもいいのだろうか。ようやく振り返ってもらえたのだと、胸を張れる時が来たのか?)
彼女は、彼の思った通りの言葉をくれる。
「私は、あなたが好きよ。あなたとずっと一緒にいたいと、そう望むの――」
良晶は頬に触れる手をさらに己の手で包み込む。夢のように、消えてしまいそうな儚い手だ。
――そう、夢のように……。
「え?」
見れば、忽然と緋杏の姿が消えている。驚いて見回すと、あたりは真っ暗闇で、誰の声も聞こえない。
「は?」
見下ろしたところには闇よりさらに真っ黒な巨大な穴。いつの間に開いた、それより、ここはどこだ。……彼が何かを思えたのはここまでのこと。あとはずん、と、足先から真っ逆さまに穴の中へと落ちていく。容赦ない浮遊感が体を芯から冷やしていく。
ここまで来たら、彼はもうすべて察した。これは夢だ。まごう事なき、彼の夢。願望を映した、夢……。
「あぁ……どうせなら」
彼は天を仰ぎながら、心の底からの呻きを漏らした。
「どうせならっ! 口づけぐらいはさせてくれたっていいだろうっ! ちくしょうっ! 誰だ、私を起こす者は! 戻ったら、容赦せん! 皇帝権限で左遷にしてくれようっ!」
あまりの口惜しさに、暴言がぽんぽんと飛び出してくる。さすがは彼の心の中、現実よりも直情的である。そして、期待の反動は、大きかったのだ。
「今少し……今少しだったのに!」
行き場のない怒りにおそわれた瞬間、ばん、と足が地面らしきところに着地して、同時に己が眠りについていた寝台に戻ってくる。
……彼は無言で起き上がった。
「朝議がございます。お目覚めくださいませ、陛下」
彼が返したのは、言葉ではなかった。右手で投げた超剛速球(皇帝御用達の超安眠枕)が、仕事のため、やむなく起こしに来た宦官の顔面にクリティカルヒットする。
「ぎゃっ」
猫を踏んづけたような声とともに、宦官がひっくり返る。ごん、と頭が床にぶつかった。
「ふむ……」
一方、寝乱れた髪を無意識に撫で付けながら、良晶はぱちりぱちりと、瞬きを繰り返し……改まって、寝台横で倒れこむいつもの宦官を見下ろした。
「……お前の頭は、石頭なのだなぁ」
「陛下! 時がありませぬ!」
ぴょん、と蛙のように飛び上がった宦官は意を決したようすで声を上げた。何やら小動物が威嚇するときのように、ふんふん、と鼻息が荒く、合わせて鼻の穴が大きくなっている。
良晶はぼんやりと小柄な宦官を眺める。
「うむ。……よきにはからえ」
「そうではなくっ」
彼は、どうして宦官がこうるさく意見するのかわからなかった。……と、いうのも、彼はこの期に及んで、寝ぼけていた。色々と残念なこの国の皇帝陛下は、寝起きも悪いのである。そして、己が枕を投げたこともすっかり忘れており、今日の予定もすっぽり抜けている。
「本日は朝議のあと、都の外の離宮へ行かれるご予定なのですっ。朝議は皇太子殿下もおられますが、陛下がいないことには始まりません。どうか、お出ましになってくださいませ」
「あぁ、そうだったか。そんな気もするな」
ごそごそと起き上がる。差し出された布で寝汗を拭き、これまた差し出された盥(たらい)で顔を清める。
顔がさっぱりするのと同時に、彼の意識は完全に覚醒した。眼光が確かな意志を宿し、眠りの中で隠れていた風格が、表へと顕われる。どこかとぼけた青年は、皇帝へと作りかえられた。
良晶は姿見の前へと自ら歩いて行った。堂々たる立ち姿が、鏡面に映る。
「月照(げっしょう)……衣を持て」
「はっ」
金糸や銀糸で縫い取られた、国の威信そのもののような豪奢な衣に袖を通していく。
これをもう何年も繰り返し続けている。そのたびに、彼はいつも鏡の向こうの己と対峙する。
そこにはふさわしくない大役に慄く自分、逃げたいと思っても精一杯虚勢を張る自分、すべてを諦めて流されようとする自分がいる。そんな情けない顔が映れば、彼は意識して顔を厳しく引き締める。誰にも侮られないように、隙を見せないように、と。
(よし、今日は大丈夫そうだな)
鏡には、皇帝の顔が映っている。
安心したとき……ふと、彼の心を奪った少女の柔らかな、花のような笑顔を思い出す。
とたんに、顔が崩れてしまった。
「陛下、何かございましたか?」
「いや。……ただ、幸せを噛み締めていただけだ」
彼は、夢よりも現実の方が幸せなのだ。
――実は、今日、とても可愛い女の子を見かけた。どこかふわふわしている女の子。見ているだけでとても眩しい物を前にしている気がする。隣にいた兄弟子に、見蕩れてんじゃねえ、と一喝されたけれど、どうして彼にはあの子の良さがわからないのだろうか? あの子を描きたい、と言うと、鼻で笑われた。
――師匠に頼まれたおつかいの帰り、あの子を見かけた。ちょっとばかり横柄そうな大柄な男と一緒にいる。あの子はなんだかとっても楽しそう。恋人だろうか? ……だったら、ちょっと嫌だと思う。話しかけるのにもっと勇気がいる。
――少しだけいいことがわかった。前々から見かけると思っていたけれど、彼女の行きつけの店は、私がおつかいに出される店と同じだったらしい。店主にそれとなく聞いたら、そうだって。おつかいに出かけるのが楽しみになってきた。
――兄弟子は最近、不機嫌だ。私があの子の話ばかりしているのに、うんざりしてしまったらしい。自分でもそう思う。さっさと話しかけてくればいいじゃないか、と苛立たしげに言うけれど、お互い口が上手かったら、絵師じゃなくて、別の職業についていたのはないか。私たちは、絵画でしか自分を表現できない人種なのだ。でも、あの人がそう言うのももっともだ。次に会ったら、話しかけてみよう。
――昨夜、馴染みの女に振られた師匠が、意気消沈の様子でおつかいを頼んできた。私は満面の笑みで引き受けた。師匠には、気持ち悪りい笑みだな、と嫌味を言われたけれど。……それで、あの子を見た。でも、やっぱり話しかけられなかった。私みたいな小汚いなりをした者を、相手にしてくれるのか、と考えてしまうのだ。私は元来、口が悪いし、怖がりな弱虫なのだ。
――今度こそは、と思う。そうだ。一人前の絵師を目指す者として、大勢の人々の批判の目にさらされることになるのだから、師匠のように、どん、と構えなければ! ただ、女体を好きなだけ描きたいと言って、画院をやめてしまったところは似たくもないけれど……あの、象に踏まれても起き上がりそうな図太さはどこから来るのだろう?
――ああ、彼女が来た。まずはなんと話しかけよう。「はじめまして」? 「あなたのお名前は」?
「ずっと話しかけようと思っていました」? 困った困った困った……。
緋杏(ひあん)は、微笑む。これ以上の幸せはない、とばかりに。
いつものように二人で町に出た。良晶(りょうしょう)が抱えている、大きな包みがその証。他人と肩が触れ合うほどの混雑の中、彼の想い人は袖で固く守られているはずのほっそりとした腕を垣間見せながら、手を伸ばす。つま先立ちをして、良晶の頬に触れる。
「……急にどうした?」
彼は女を夢中にする術は知らない。知る前に寄ってきた。でも、自分が望む女はそんな類ではなく、そうあって欲しくもない。だから、今、彼はひどく参っていた。己で思っていたよりもはるかに無愛想な己自身の口調に。
あまりにもつれない返事だったためか、彼女の眉が切なげに曇る。頬に当たる手の感触が強くなり、彼を見上げる黒曜石にも似た瞳が、もの欲しげに濡れている。吸いつきたくなるような唇が開く。
「人生は一度きりだもの」
彼女は再度繰り返す。先ほどの仕切り直しをしたいのかもしれなかった。……なぜなら、重要な決意を口にするとき、人はそうするものだから。
良晶は息を呑み、そこがどこだかも忘れてしまった。人の生活の音は透明な壁の向こうにすべて去り、世界は二人きりになったような心地がしたのである。
「だから、私は後悔しないわ。これからは好きなように生きるって決めたの。だからね、だから……」
白い頬に朱が差した。良晶は、かつてこのようなとろけたような顔をした女を何度か見てきた。
(でも、本当に……本当に、この瞬間が来たのだろうか。期待してもいいのだろうか、うぬぼれてもいいのだろうか。ようやく振り返ってもらえたのだと、胸を張れる時が来たのか?)
彼女は、彼の思った通りの言葉をくれる。
「私は、あなたが好きよ。あなたとずっと一緒にいたいと、そう望むの――」
良晶は頬に触れる手をさらに己の手で包み込む。夢のように、消えてしまいそうな儚い手だ。
――そう、夢のように……。
「え?」
見れば、忽然と緋杏の姿が消えている。驚いて見回すと、あたりは真っ暗闇で、誰の声も聞こえない。
「は?」
見下ろしたところには闇よりさらに真っ黒な巨大な穴。いつの間に開いた、それより、ここはどこだ。……彼が何かを思えたのはここまでのこと。あとはずん、と、足先から真っ逆さまに穴の中へと落ちていく。容赦ない浮遊感が体を芯から冷やしていく。
ここまで来たら、彼はもうすべて察した。これは夢だ。まごう事なき、彼の夢。願望を映した、夢……。
「あぁ……どうせなら」
彼は天を仰ぎながら、心の底からの呻きを漏らした。
「どうせならっ! 口づけぐらいはさせてくれたっていいだろうっ! ちくしょうっ! 誰だ、私を起こす者は! 戻ったら、容赦せん! 皇帝権限で左遷にしてくれようっ!」
あまりの口惜しさに、暴言がぽんぽんと飛び出してくる。さすがは彼の心の中、現実よりも直情的である。そして、期待の反動は、大きかったのだ。
「今少し……今少しだったのに!」
行き場のない怒りにおそわれた瞬間、ばん、と足が地面らしきところに着地して、同時に己が眠りについていた寝台に戻ってくる。
……彼は無言で起き上がった。
「朝議がございます。お目覚めくださいませ、陛下」
彼が返したのは、言葉ではなかった。右手で投げた超剛速球(皇帝御用達の超安眠枕)が、仕事のため、やむなく起こしに来た宦官の顔面にクリティカルヒットする。
「ぎゃっ」
猫を踏んづけたような声とともに、宦官がひっくり返る。ごん、と頭が床にぶつかった。
「ふむ……」
一方、寝乱れた髪を無意識に撫で付けながら、良晶はぱちりぱちりと、瞬きを繰り返し……改まって、寝台横で倒れこむいつもの宦官を見下ろした。
「……お前の頭は、石頭なのだなぁ」
「陛下! 時がありませぬ!」
ぴょん、と蛙のように飛び上がった宦官は意を決したようすで声を上げた。何やら小動物が威嚇するときのように、ふんふん、と鼻息が荒く、合わせて鼻の穴が大きくなっている。
良晶はぼんやりと小柄な宦官を眺める。
「うむ。……よきにはからえ」
「そうではなくっ」
彼は、どうして宦官がこうるさく意見するのかわからなかった。……と、いうのも、彼はこの期に及んで、寝ぼけていた。色々と残念なこの国の皇帝陛下は、寝起きも悪いのである。そして、己が枕を投げたこともすっかり忘れており、今日の予定もすっぽり抜けている。
「本日は朝議のあと、都の外の離宮へ行かれるご予定なのですっ。朝議は皇太子殿下もおられますが、陛下がいないことには始まりません。どうか、お出ましになってくださいませ」
「あぁ、そうだったか。そんな気もするな」
ごそごそと起き上がる。差し出された布で寝汗を拭き、これまた差し出された盥(たらい)で顔を清める。
顔がさっぱりするのと同時に、彼の意識は完全に覚醒した。眼光が確かな意志を宿し、眠りの中で隠れていた風格が、表へと顕われる。どこかとぼけた青年は、皇帝へと作りかえられた。
良晶は姿見の前へと自ら歩いて行った。堂々たる立ち姿が、鏡面に映る。
「月照(げっしょう)……衣を持て」
「はっ」
金糸や銀糸で縫い取られた、国の威信そのもののような豪奢な衣に袖を通していく。
これをもう何年も繰り返し続けている。そのたびに、彼はいつも鏡の向こうの己と対峙する。
そこにはふさわしくない大役に慄く自分、逃げたいと思っても精一杯虚勢を張る自分、すべてを諦めて流されようとする自分がいる。そんな情けない顔が映れば、彼は意識して顔を厳しく引き締める。誰にも侮られないように、隙を見せないように、と。
(よし、今日は大丈夫そうだな)
鏡には、皇帝の顔が映っている。
安心したとき……ふと、彼の心を奪った少女の柔らかな、花のような笑顔を思い出す。
とたんに、顔が崩れてしまった。
「陛下、何かございましたか?」
「いや。……ただ、幸せを噛み締めていただけだ」
彼は、夢よりも現実の方が幸せなのだ。
――実は、今日、とても可愛い女の子を見かけた。どこかふわふわしている女の子。見ているだけでとても眩しい物を前にしている気がする。隣にいた兄弟子に、見蕩れてんじゃねえ、と一喝されたけれど、どうして彼にはあの子の良さがわからないのだろうか? あの子を描きたい、と言うと、鼻で笑われた。
――師匠に頼まれたおつかいの帰り、あの子を見かけた。ちょっとばかり横柄そうな大柄な男と一緒にいる。あの子はなんだかとっても楽しそう。恋人だろうか? ……だったら、ちょっと嫌だと思う。話しかけるのにもっと勇気がいる。
――少しだけいいことがわかった。前々から見かけると思っていたけれど、彼女の行きつけの店は、私がおつかいに出される店と同じだったらしい。店主にそれとなく聞いたら、そうだって。おつかいに出かけるのが楽しみになってきた。
――兄弟子は最近、不機嫌だ。私があの子の話ばかりしているのに、うんざりしてしまったらしい。自分でもそう思う。さっさと話しかけてくればいいじゃないか、と苛立たしげに言うけれど、お互い口が上手かったら、絵師じゃなくて、別の職業についていたのはないか。私たちは、絵画でしか自分を表現できない人種なのだ。でも、あの人がそう言うのももっともだ。次に会ったら、話しかけてみよう。
――昨夜、馴染みの女に振られた師匠が、意気消沈の様子でおつかいを頼んできた。私は満面の笑みで引き受けた。師匠には、気持ち悪りい笑みだな、と嫌味を言われたけれど。……それで、あの子を見た。でも、やっぱり話しかけられなかった。私みたいな小汚いなりをした者を、相手にしてくれるのか、と考えてしまうのだ。私は元来、口が悪いし、怖がりな弱虫なのだ。
――今度こそは、と思う。そうだ。一人前の絵師を目指す者として、大勢の人々の批判の目にさらされることになるのだから、師匠のように、どん、と構えなければ! ただ、女体を好きなだけ描きたいと言って、画院をやめてしまったところは似たくもないけれど……あの、象に踏まれても起き上がりそうな図太さはどこから来るのだろう?
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