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番外編 宦官の逆走
宦官の逆走
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人生は一度きりのものですが、二度三度と振り返ることは難しくないと思うのです。
ですが、それが長ければ長いほど、振り返る量は多いわけです。私などは、すでにウン十年生きてきたわけなので、それなりにあるわけです、はい。
……えぇ、わかっていますとも、グダグダだなって! だって、しょうがない、慣れてないんだから! まったく、陛下も横暴な方ですよ。この間は、なんぞや美(み)酒(しゅ)覧(らん)街(がい)渡(ど)の編集長を半ば無理やり引き受けさせられ、馬車馬のごとく働かされたと思ったら、今朝は枕で襲撃を受けました。前世で何かしたのでしょうか、私。一応、弁解しておきますが、被虐趣味はありません……本当ですよ? 陛下は加虐趣味があるでしょうけれど。
ゴホン。仕切り直しましょう。ま、こんな徒然なるままに心を吐露した文章を書いたところで、読む者もいないでしょうが(と、いうより知られたら、物理的に首が胴体から離れるかもしれないからですね!)。日々の鬱憤が積もり積もる中で、どうそれを解消しようか、と考えた手段が、これということで。
つまらない話ですが、もしもこれを読んだとして、私が知りえた朝廷の機密を漏らさないでくださるなら、どうぞ聞いてやってください。
ここまで読まれた方はお気づきかもしれませんが、私は、月照と申します。陛下付きの宦官をしております。いつも可哀想な目にあっていますが、実は偉いんですよ。数百人いる宦官たちの頂点に君臨しているといっても過言ではありません。……部下には私と陛下のやり取りが筒抜けなので、偉ぶったところで、恰好はまったくつきませんけれどね。とうに諦めています。
宦官。職掌は広いのですが、主に皇帝一家の私的な部分に深く関与します。男性禁制の後宮に出入りできるのはもちろん、後宮にいる妃方の御用を果たすのも重要な役割です。密通を防ぐためか、何なのか、私たち宦官は必ず、大事なところがちょんぎられています。当たり前ですけれど、痛いです。時には生き死にに関わることもあります。私の場合は、幼いころの落馬事故の後遺症でした。曲芸さながら馬の背中で逆立ちしようとしたのですね。馬鹿です。皇太子付きの双子の弟も、私の真似をしたかったらしく、同じことをしようとして落馬、同じ後遺症になりました。大馬鹿です。
宦官は後ろ暗く、ねちねちした印象があるものでしょう。あとは、卑劣な権力争いとか。私たち双子は、その頂にいるので、その手は蹴落としたライバルの血で真っ赤……なわけがありません。ご期待に沿えず申し訳ないです。国を牛耳るほどの権力を持ったこともあった宦官ですが、それは過去の栄光となりました。……私たち宦官は、滅びゆく運命にあるからです。
先々代の皇帝陛下は歴史における宦官の弊害に気付かれ、宮廷における宦官の採用を一切無くされました。華美な後宮も縮小し、武芸に長けた有能な女官などが宦官の役割を少しずつ吸収していっております。意外と、宦官がいなくとも、朝廷はどうにか回っていくものです。したがって、私たちの世代が、〈最後の宦官〉と呼ばれることもあります。ちょっとかっこいい呼び名なので、実は気に入っています。
そんなわけですから、数百人の宦官をまとめ上げるにしても、自分たちの運命はわかっているわけなので、やりやすいということはあります。たかが数百人ですし。昔は一万人もいたのですからね。むしろ、変な団結力だけはあります。望まぬ形で宦官になった者も多いので、境遇が似ていることもあるのでしょう。春には花見、夏には肝試し、秋には演奏会、冬は雪合戦(正直言って、遊びすぎ)。何も言わなくとも、誰かが勝手に計画を立てていますね。もちろん……資金提供は私たち双子が負担するわけですが。
昔はもっとギスギスしていましたが、今の宦官社会というのは、実は風通しがいいのです。
さて、宦官というのは仕える仕事です。私が直接お仕えしているのは、良晶陛下ですね。私は、先々代のころから宮廷におりますので、三人目の皇帝陛下になります。今の陛下の兄上、先代皇帝陛下にも、今の地位でお仕えしておりました。ふ……実はエリートなのです、私。……苦笑いするところではありませんからね?
今の陛下について語ってみましょうか。……一言で言うと、物理的に危険です。「近づくな、危険」!
あえて、理由については多くは語りますまい。少なくとも聖人君子ではありません。豪放磊落でもありません。もし、そうならば、今頃は美姫を両側に侍らせてウハウハです。……間違いなく、うちの陛下には向いておりませんね。あぁ、弁護するようですが、陛下は有能ですよ? 先帝はまさに覇王といった威厳で周囲を圧した武人気質な方でしたが、今上帝は細々としたところによく頭が回る頭脳派です。内政統治が上手くいっているのも、この方の功績が大きいのでしょう。ご本人は意外に謙虚な方なので、意地でも認めないでしょうが。
ここで耳よりな情報をお伝えしましょう。
――陛下は、恋をしておられる。
面白いでしょう? 「寵愛」ではなく、「恋」なのです。「寵愛」は一方的に与えるものですが、「恋」は相手からの気持ちも求めます。大国の皇帝陛下は望めばなんでも叶うというのに、その強大な権力で欲したのは、たった一人の女の気持ちだったのです。そして、その恋心を数年間、胸に秘め続けた……。
私は、この方を子供のころから知っています。どれだけ手を焼かされてきたことか。イタズラのことしか頭になかった幼い頃や、琵琶の演奏で女にモテようと色街を渡り歩いて、挙句博徒相手に大喧嘩……頭が痛くなりますね。今、街に降りていくぐらいのことは、実は大したことでなかったりします。まぁ、そうでなくても、私は陛下に甘いのです。無理だ無理だ、と言いながら、精一杯背伸びして早世した先帝の跡を継がれた陛下のご苦労を、一番目の当たりにしたのは、私なのですから。陛下は孫のようなもの、多少のパワハラには我慢します。独特の愛情表現だと思うことにします。
至高の存在である皇帝に、まともに恋が出来るのか。
陛下は一人、対して寵姫は何千人。優秀な後継者のためにより多くの子どもを持つことが義務づけられた皇帝には、そのために仕組みもすでに整えられています。ですが、その仕組みは到底、庶民的な一夫一妻に沿うものではないでしょう。
初めは私も疑いました。ただ、それは陛下に限っては杞憂です。自分の感情を持て余している陛下の初々しさと言ったら……成長を見守っていた私からすれば、涙ぐましく思えるほど。恋以外の概念を当てはめることなど、できようはずもないのです。
陛下にお付けした護衛たちの報告を耳にするたびに、私は顔はほっこりとなります。自分の若いころの初恋を思い出します(今、その初恋の君は、あまり家に帰れない私に対して、隣でむくれているわけですが)。
そういえば、陛下の好きな方について、一切話しておりませんでしたね。
彼女は、貴妃さまでした。過去形で語るのも、今、この方は後宮を出られた方なので。
この方は、貴妃ではありましたが、「陛下」のご尊顔を拝したこともなく、お言葉を交わしたこともございません。彼女は、陛下を知らないのです。
もちろん、陛下は彼女のことを知っています。偶然垣間見て、一目惚れなさったのだとか。なので、昔から随分と気にかけておりました(私は、そこに恋情があったことは最近になってようやくわかりました)。彼女は時折届けられる贈り物を単純なご好意として受け取っていて、陛下の気持ちにはまったく、気づいていません(現在進行形で)。
陛下も、どこかで気づいて欲しくないと思っておられるような節もありますね。とりあえず、身分を隠して話すだけで満足しちゃっています。陛下は純情路線で攻めるのでしょうか……いつかその時の甘酸っぱい気持ちを吐露して欲しいものです。恋愛小説好きの妻の機嫌を直す時の切り札にしますから。妻はキュンキュン度で、一日のテンションが決まるのです。
陛下の方の気持ちは明らかですが、実は貴妃様のお心はどこにあるのか――それを推し量れる者はおりますまい。何を考えているのかわかりにくい方でもありますが、この方は、どこか足がついていない、そんな印象さえ見受けられるのです。街に下りて、劇的に変わったというなら、別なのですが……。
この方が後宮にいらした頃、私は何度か直接お会いする機会がございました。そぞろ歩くところに偶然出くわしたこともあったのですが、陛下に命じられてそれとなく様子を伺いにいったり、時候の挨拶に伺ったこともございます。ですが、そこに一種の野次馬根性のような感情があったことも確かです。
どこが陛下のお気に召したのだろう……? と。気になるでしょう?
彼女は特別な美貌の持ち主ではありませんし、ずば抜けた知性もないようでした。それどころか、頭から大事な部品がぼろぼろと落ちてしまっているかのようなぼんやり具合なのです。少なくとも、悪女や烈女でない分、害はなさそうだなぁ、と思える程の凡庸具合でしたね。見たばかりではわかりません。
恐れ多いことながら、直接陛下に理由をお伺いしたこともあります。どこに、一目惚れなさったのか、とね。答えは単純でした。
「雰囲気も何もかもたまらぬ」だそうです。……これ、独身の部下たちに言ったら、間違いなくやけ酒煽って、明朝二日酔い出仕パターンですよ。……ごちそうさまです。
ただ、陛下の恋が簡単に叶うことはないでしょう。おそらくその予見は正しいように思われます。今のままでは。それは、単に陛下がヘタレすぎて、ばしっと男気を見せられないのではなく……。
かつて、緩やかな時が流れていた、静まり返る後宮の中、あの方にお会いして、ふと尋ねたことがあるのです。春の昼下がり、いやに床に落ちる影が濃かったことを覚えております。あの方はただ一人の正妃でしたが、傍に女官もおかないで、窓辺で羽ばたく白い蝶を目で追っていました。そうやって、有り余る時をあくびを噛み殺しながら過ごしているのです。あまりにも退屈で、あまりにも身の回りに無頓着なご様子でした。形ばかりの妃とはいえ、無気力すぎる、と思いました。寵愛を受けられない妃はこれまで大勢見てきましたが、ここまでぼうっとしているのも珍しいほどです。
陛下にお会いしたいですか。
私の話を聞いているのかさえ曖昧な横顔に、ぽろりと告げました。私は、この無気力具合の原因は陛下のお渡りがないからだと考えたのです。
あの時のことは忘れません。
黒真珠のような瞳が、きらりと瞬いて、海底に眠っていた宝石が波の上に浮かんできたような――。
物言わぬ人形に魂が宿ったかのように、あの方は確かに私を見たのです。
――いけません。
あの方は、はっきりと後宮に来て、初めて自分の意思を口になさいました。着るもの、身に付けるものさえもされるがままだったと聞いていたというのに。
生気のない肌にほのかな朱色を混じらせながら、あの方は訝しむ私に対して、言い含めるように、
――私は、死ぬ最期の時まで、陛下とお会いするつもりはございません。
白い手がそっと胸に当てられるのを、私は心臓が震える心地で見つめました。
――何か不都合なことでもあるのでしょうか、貴妃様。
――何も。
私の顔をご覧になったあの方が、目を見開きます。するとたちまちに瞳の光は消え去って、元のぼんやりとした貴妃様に戻ってしまわれた。
――陛下から見たら、私などひどく見劣りするでしょうから……私も、気後れしてしまう……。
私は、春の幻を見たのでしょう。しかし、消しがたいものでした。
陛下には内密で、あの方のことを調べました。出生や家柄、後宮での人間関係……事細かく。
ですが、取り立ててあの方自身に事情はありません。それどころか、妙にさっぱりしていました。報告書も薄っぺらいのです。人を調べることも職業柄多いのですが、たったこれだけでたった一人の人生のすべてなのか、と思うと……あの方にとって生きることとはなんなのだろう、と思わずにはいられませんでした。あの方の人生には大きな喜びも、悲しみも、転機も何もないのです。あの方の足跡は、ひどく希薄なもので、ずっと平坦な道を延々と歩き続けているようでした。
だからこそ、あの方が脱走されたと聞いたとき、私は驚いたのです。そのようなことをされるとは、まさか夢にも思わなかったのです。普段は意志薄弱な方だったのですが……春の幻に見たあの方が、また表に出てきたとしたならば、あぁ、と少しは納得いくでしょう。
どうしてあの方は「今」の時期、脱走されたのでしょう? よりにもよって、陛下が会いにいこうとなさった矢先に。これは陛下には決して言えぬこと……秘めておくべきなのでしょう。
貴妃様は、陛下に会いたくないがために、後宮を脱走なさったのではないか、という推論を。
そう考えれば、今の状況はあの方の本意ではないに違いありません。あの方は、思いもよらないはずです。陛下のご執心は、後宮を脱走したところで逃れられないのに。 ……あなたの目論見は見事に外されたわけですよ、貴妃様? 事実を知ったところで、うちの大事な陛下を袖の下にはなさいませんよね。陛下はああ見えて純情なのです(最近、発覚しました)。シャイな男なのです。もし振られたとなったら……涙がちょちょぎれるほどに悲しい(私が)。いつかは報われる日を、その辺の柱の影から涙に濡れた手巾片手に見守っておりますよ、陛下。
話がとんでもなく長くなってしまいましたね。これが私の胸の内に溜め込んでいることのすべてです。いえ、すべてではありませんね。隣で相手をしろとつついてくる妻のこともあれば、人気役者のおっかけのために縁談をほっぽり出す娘のこともありますし、嫁から追い出されたー、と夜な夜な泣きついてくる双子の弟のこともありますが、それも書くと、だるだるな文章になってしまいますし、そのような時間もありません。現に、妻が耳元で囁いてくるのです。あなた、書き物よりも大事なことがあるのではなくて? って。……どうしましょう、目が据わっています。今夜は私、生き残れるでしょうか。
どうか、これを偶然にも読まれた方、明日の私の無事を祈っていてくださいませ。
素知らぬ顔で陛下の傍に侍っていたなら、なんとか危機を乗り越えたということ。どうぞ笑ってやってください。
宦官、月照。ここで筆を置きましょう。くれぐれも、秘密は秘密のままでお願いしますよ?
ですが、それが長ければ長いほど、振り返る量は多いわけです。私などは、すでにウン十年生きてきたわけなので、それなりにあるわけです、はい。
……えぇ、わかっていますとも、グダグダだなって! だって、しょうがない、慣れてないんだから! まったく、陛下も横暴な方ですよ。この間は、なんぞや美(み)酒(しゅ)覧(らん)街(がい)渡(ど)の編集長を半ば無理やり引き受けさせられ、馬車馬のごとく働かされたと思ったら、今朝は枕で襲撃を受けました。前世で何かしたのでしょうか、私。一応、弁解しておきますが、被虐趣味はありません……本当ですよ? 陛下は加虐趣味があるでしょうけれど。
ゴホン。仕切り直しましょう。ま、こんな徒然なるままに心を吐露した文章を書いたところで、読む者もいないでしょうが(と、いうより知られたら、物理的に首が胴体から離れるかもしれないからですね!)。日々の鬱憤が積もり積もる中で、どうそれを解消しようか、と考えた手段が、これということで。
つまらない話ですが、もしもこれを読んだとして、私が知りえた朝廷の機密を漏らさないでくださるなら、どうぞ聞いてやってください。
ここまで読まれた方はお気づきかもしれませんが、私は、月照と申します。陛下付きの宦官をしております。いつも可哀想な目にあっていますが、実は偉いんですよ。数百人いる宦官たちの頂点に君臨しているといっても過言ではありません。……部下には私と陛下のやり取りが筒抜けなので、偉ぶったところで、恰好はまったくつきませんけれどね。とうに諦めています。
宦官。職掌は広いのですが、主に皇帝一家の私的な部分に深く関与します。男性禁制の後宮に出入りできるのはもちろん、後宮にいる妃方の御用を果たすのも重要な役割です。密通を防ぐためか、何なのか、私たち宦官は必ず、大事なところがちょんぎられています。当たり前ですけれど、痛いです。時には生き死にに関わることもあります。私の場合は、幼いころの落馬事故の後遺症でした。曲芸さながら馬の背中で逆立ちしようとしたのですね。馬鹿です。皇太子付きの双子の弟も、私の真似をしたかったらしく、同じことをしようとして落馬、同じ後遺症になりました。大馬鹿です。
宦官は後ろ暗く、ねちねちした印象があるものでしょう。あとは、卑劣な権力争いとか。私たち双子は、その頂にいるので、その手は蹴落としたライバルの血で真っ赤……なわけがありません。ご期待に沿えず申し訳ないです。国を牛耳るほどの権力を持ったこともあった宦官ですが、それは過去の栄光となりました。……私たち宦官は、滅びゆく運命にあるからです。
先々代の皇帝陛下は歴史における宦官の弊害に気付かれ、宮廷における宦官の採用を一切無くされました。華美な後宮も縮小し、武芸に長けた有能な女官などが宦官の役割を少しずつ吸収していっております。意外と、宦官がいなくとも、朝廷はどうにか回っていくものです。したがって、私たちの世代が、〈最後の宦官〉と呼ばれることもあります。ちょっとかっこいい呼び名なので、実は気に入っています。
そんなわけですから、数百人の宦官をまとめ上げるにしても、自分たちの運命はわかっているわけなので、やりやすいということはあります。たかが数百人ですし。昔は一万人もいたのですからね。むしろ、変な団結力だけはあります。望まぬ形で宦官になった者も多いので、境遇が似ていることもあるのでしょう。春には花見、夏には肝試し、秋には演奏会、冬は雪合戦(正直言って、遊びすぎ)。何も言わなくとも、誰かが勝手に計画を立てていますね。もちろん……資金提供は私たち双子が負担するわけですが。
昔はもっとギスギスしていましたが、今の宦官社会というのは、実は風通しがいいのです。
さて、宦官というのは仕える仕事です。私が直接お仕えしているのは、良晶陛下ですね。私は、先々代のころから宮廷におりますので、三人目の皇帝陛下になります。今の陛下の兄上、先代皇帝陛下にも、今の地位でお仕えしておりました。ふ……実はエリートなのです、私。……苦笑いするところではありませんからね?
今の陛下について語ってみましょうか。……一言で言うと、物理的に危険です。「近づくな、危険」!
あえて、理由については多くは語りますまい。少なくとも聖人君子ではありません。豪放磊落でもありません。もし、そうならば、今頃は美姫を両側に侍らせてウハウハです。……間違いなく、うちの陛下には向いておりませんね。あぁ、弁護するようですが、陛下は有能ですよ? 先帝はまさに覇王といった威厳で周囲を圧した武人気質な方でしたが、今上帝は細々としたところによく頭が回る頭脳派です。内政統治が上手くいっているのも、この方の功績が大きいのでしょう。ご本人は意外に謙虚な方なので、意地でも認めないでしょうが。
ここで耳よりな情報をお伝えしましょう。
――陛下は、恋をしておられる。
面白いでしょう? 「寵愛」ではなく、「恋」なのです。「寵愛」は一方的に与えるものですが、「恋」は相手からの気持ちも求めます。大国の皇帝陛下は望めばなんでも叶うというのに、その強大な権力で欲したのは、たった一人の女の気持ちだったのです。そして、その恋心を数年間、胸に秘め続けた……。
私は、この方を子供のころから知っています。どれだけ手を焼かされてきたことか。イタズラのことしか頭になかった幼い頃や、琵琶の演奏で女にモテようと色街を渡り歩いて、挙句博徒相手に大喧嘩……頭が痛くなりますね。今、街に降りていくぐらいのことは、実は大したことでなかったりします。まぁ、そうでなくても、私は陛下に甘いのです。無理だ無理だ、と言いながら、精一杯背伸びして早世した先帝の跡を継がれた陛下のご苦労を、一番目の当たりにしたのは、私なのですから。陛下は孫のようなもの、多少のパワハラには我慢します。独特の愛情表現だと思うことにします。
至高の存在である皇帝に、まともに恋が出来るのか。
陛下は一人、対して寵姫は何千人。優秀な後継者のためにより多くの子どもを持つことが義務づけられた皇帝には、そのために仕組みもすでに整えられています。ですが、その仕組みは到底、庶民的な一夫一妻に沿うものではないでしょう。
初めは私も疑いました。ただ、それは陛下に限っては杞憂です。自分の感情を持て余している陛下の初々しさと言ったら……成長を見守っていた私からすれば、涙ぐましく思えるほど。恋以外の概念を当てはめることなど、できようはずもないのです。
陛下にお付けした護衛たちの報告を耳にするたびに、私は顔はほっこりとなります。自分の若いころの初恋を思い出します(今、その初恋の君は、あまり家に帰れない私に対して、隣でむくれているわけですが)。
そういえば、陛下の好きな方について、一切話しておりませんでしたね。
彼女は、貴妃さまでした。過去形で語るのも、今、この方は後宮を出られた方なので。
この方は、貴妃ではありましたが、「陛下」のご尊顔を拝したこともなく、お言葉を交わしたこともございません。彼女は、陛下を知らないのです。
もちろん、陛下は彼女のことを知っています。偶然垣間見て、一目惚れなさったのだとか。なので、昔から随分と気にかけておりました(私は、そこに恋情があったことは最近になってようやくわかりました)。彼女は時折届けられる贈り物を単純なご好意として受け取っていて、陛下の気持ちにはまったく、気づいていません(現在進行形で)。
陛下も、どこかで気づいて欲しくないと思っておられるような節もありますね。とりあえず、身分を隠して話すだけで満足しちゃっています。陛下は純情路線で攻めるのでしょうか……いつかその時の甘酸っぱい気持ちを吐露して欲しいものです。恋愛小説好きの妻の機嫌を直す時の切り札にしますから。妻はキュンキュン度で、一日のテンションが決まるのです。
陛下の方の気持ちは明らかですが、実は貴妃様のお心はどこにあるのか――それを推し量れる者はおりますまい。何を考えているのかわかりにくい方でもありますが、この方は、どこか足がついていない、そんな印象さえ見受けられるのです。街に下りて、劇的に変わったというなら、別なのですが……。
この方が後宮にいらした頃、私は何度か直接お会いする機会がございました。そぞろ歩くところに偶然出くわしたこともあったのですが、陛下に命じられてそれとなく様子を伺いにいったり、時候の挨拶に伺ったこともございます。ですが、そこに一種の野次馬根性のような感情があったことも確かです。
どこが陛下のお気に召したのだろう……? と。気になるでしょう?
彼女は特別な美貌の持ち主ではありませんし、ずば抜けた知性もないようでした。それどころか、頭から大事な部品がぼろぼろと落ちてしまっているかのようなぼんやり具合なのです。少なくとも、悪女や烈女でない分、害はなさそうだなぁ、と思える程の凡庸具合でしたね。見たばかりではわかりません。
恐れ多いことながら、直接陛下に理由をお伺いしたこともあります。どこに、一目惚れなさったのか、とね。答えは単純でした。
「雰囲気も何もかもたまらぬ」だそうです。……これ、独身の部下たちに言ったら、間違いなくやけ酒煽って、明朝二日酔い出仕パターンですよ。……ごちそうさまです。
ただ、陛下の恋が簡単に叶うことはないでしょう。おそらくその予見は正しいように思われます。今のままでは。それは、単に陛下がヘタレすぎて、ばしっと男気を見せられないのではなく……。
かつて、緩やかな時が流れていた、静まり返る後宮の中、あの方にお会いして、ふと尋ねたことがあるのです。春の昼下がり、いやに床に落ちる影が濃かったことを覚えております。あの方はただ一人の正妃でしたが、傍に女官もおかないで、窓辺で羽ばたく白い蝶を目で追っていました。そうやって、有り余る時をあくびを噛み殺しながら過ごしているのです。あまりにも退屈で、あまりにも身の回りに無頓着なご様子でした。形ばかりの妃とはいえ、無気力すぎる、と思いました。寵愛を受けられない妃はこれまで大勢見てきましたが、ここまでぼうっとしているのも珍しいほどです。
陛下にお会いしたいですか。
私の話を聞いているのかさえ曖昧な横顔に、ぽろりと告げました。私は、この無気力具合の原因は陛下のお渡りがないからだと考えたのです。
あの時のことは忘れません。
黒真珠のような瞳が、きらりと瞬いて、海底に眠っていた宝石が波の上に浮かんできたような――。
物言わぬ人形に魂が宿ったかのように、あの方は確かに私を見たのです。
――いけません。
あの方は、はっきりと後宮に来て、初めて自分の意思を口になさいました。着るもの、身に付けるものさえもされるがままだったと聞いていたというのに。
生気のない肌にほのかな朱色を混じらせながら、あの方は訝しむ私に対して、言い含めるように、
――私は、死ぬ最期の時まで、陛下とお会いするつもりはございません。
白い手がそっと胸に当てられるのを、私は心臓が震える心地で見つめました。
――何か不都合なことでもあるのでしょうか、貴妃様。
――何も。
私の顔をご覧になったあの方が、目を見開きます。するとたちまちに瞳の光は消え去って、元のぼんやりとした貴妃様に戻ってしまわれた。
――陛下から見たら、私などひどく見劣りするでしょうから……私も、気後れしてしまう……。
私は、春の幻を見たのでしょう。しかし、消しがたいものでした。
陛下には内密で、あの方のことを調べました。出生や家柄、後宮での人間関係……事細かく。
ですが、取り立ててあの方自身に事情はありません。それどころか、妙にさっぱりしていました。報告書も薄っぺらいのです。人を調べることも職業柄多いのですが、たったこれだけでたった一人の人生のすべてなのか、と思うと……あの方にとって生きることとはなんなのだろう、と思わずにはいられませんでした。あの方の人生には大きな喜びも、悲しみも、転機も何もないのです。あの方の足跡は、ひどく希薄なもので、ずっと平坦な道を延々と歩き続けているようでした。
だからこそ、あの方が脱走されたと聞いたとき、私は驚いたのです。そのようなことをされるとは、まさか夢にも思わなかったのです。普段は意志薄弱な方だったのですが……春の幻に見たあの方が、また表に出てきたとしたならば、あぁ、と少しは納得いくでしょう。
どうしてあの方は「今」の時期、脱走されたのでしょう? よりにもよって、陛下が会いにいこうとなさった矢先に。これは陛下には決して言えぬこと……秘めておくべきなのでしょう。
貴妃様は、陛下に会いたくないがために、後宮を脱走なさったのではないか、という推論を。
そう考えれば、今の状況はあの方の本意ではないに違いありません。あの方は、思いもよらないはずです。陛下のご執心は、後宮を脱走したところで逃れられないのに。 ……あなたの目論見は見事に外されたわけですよ、貴妃様? 事実を知ったところで、うちの大事な陛下を袖の下にはなさいませんよね。陛下はああ見えて純情なのです(最近、発覚しました)。シャイな男なのです。もし振られたとなったら……涙がちょちょぎれるほどに悲しい(私が)。いつかは報われる日を、その辺の柱の影から涙に濡れた手巾片手に見守っておりますよ、陛下。
話がとんでもなく長くなってしまいましたね。これが私の胸の内に溜め込んでいることのすべてです。いえ、すべてではありませんね。隣で相手をしろとつついてくる妻のこともあれば、人気役者のおっかけのために縁談をほっぽり出す娘のこともありますし、嫁から追い出されたー、と夜な夜な泣きついてくる双子の弟のこともありますが、それも書くと、だるだるな文章になってしまいますし、そのような時間もありません。現に、妻が耳元で囁いてくるのです。あなた、書き物よりも大事なことがあるのではなくて? って。……どうしましょう、目が据わっています。今夜は私、生き残れるでしょうか。
どうか、これを偶然にも読まれた方、明日の私の無事を祈っていてくださいませ。
素知らぬ顔で陛下の傍に侍っていたなら、なんとか危機を乗り越えたということ。どうぞ笑ってやってください。
宦官、月照。ここで筆を置きましょう。くれぐれも、秘密は秘密のままでお願いしますよ?
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