貴妃の脱走

川上桃園

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乙女の独走

裏・乙女の独走

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 今日という日は忙しい。どれだけ忙しいかっていうと、緋杏に会いにいけないぐらい忙しい。
 なんだかんだと三日間会っていない(たかが三日なのだが、数年もの片思いから少しずつ前進しつつある彼には切実なのである)。
 彼とて、最近はほぼ恋愛脳で平和ボケしているものの、それまでの通常時は大体威厳ある皇帝陛下をやっている。皇太子の穆修に回せる公務も多いが、一方でいまだ皇帝の肩書きが必要になるものもある。
 年中行事は、その最たるものである。彼が直接関与しないものも含めれば、宮廷で行われる行事は、一年で四百とも五百とも言われている。細々としすぎて、彼自身にも把握しきれていない。
 つまり、非常に煩雑で面倒ながらも、抜けられないものもある、ということだ。……だからこそ、唐突に訪ねてきた異母兄に対しては、苛立ち以外のなにものも覚えない。

(帝位を継いでから、ずっと引きこもりのヒッキーだったくせに。なんでこんな時に限って、やってくる? おかげで出発時刻を過ぎてしまっているではないか!)

 緋杏という心の清涼剤が切れてしまった良晶は、今にも異母兄にぷっつんとキれてしまいそうになっているのであった(本人としては、さっさと終わらせて緋杏に会いに行きたいのである)。
 身内ということもあってか、彼の顔はあからさまに渋面であった。

「兄に対して、その顔はなんなんだ!」

 異母兄の虞慶(ぐけい)は、わめきたてた。枯れ枝のような身体には見合わぬほどに大きな声である。無精ひげの生え具合はぞろぞろとして見苦しく、目元がおちくぼんだ様は、いかにも幽鬼を思わせる。ただ、前かがみ気味にしながら、ぎらつかせる眼は鶏のように生々しい輝きを放っている。

「また、私を馬鹿にしているのか! 誰も彼もそんな眼で見て……! あぁ、もうたくさんだ! こんなところ、来るんじゃなかった!」

(なら、来なけりゃよかったのに)

 良晶はすぐさまそう思う。ふたり揃って荒んでいる兄弟である。だが、弟側を弁明するならば、兄に付き合わされて一刻以上経った末の発言だったことだろう。同じような話を繰り返されて一刻以上、である。おかげで食事も取り損ねてしまった。

「虞慶兄上。落ち着いて」
「落ち着け? 私は十二分に落ち着いているッ! 子兎のようにぶるぶると震えているものか!」
「……落ち着いていないじゃないか。お願いだから、もう勘弁してください。昔よく遊んでくれたよしみで前もって警告しておきます。兄上、本当に、落ち着いて。兄上は久々に邸から出たから、疲れているのです。悪いことはいいません、今日のところはお帰りください。このままでは、兄上がもっとも毛嫌いする怠け者と皆に言われてしまいます」
「怠け者だと?」

 虞慶は押し黙った。何も言わなかったのをいいことに、良晶は防戦から一転、口で兄を言いくるめようとする。

「えぇ、えぇ、そうですよ。多くの公務があるのです」
「穆修には任せられないのか、それは」
「何をいまさら。今はまだ私が皇帝の位にあるのに、任せられるものでもないのです」
「……本当に譲位するつもりなのか」

 良晶は皮肉げに唇を歪ませる。なぜなら、即位のときから何度も尋ねられたのだ。当初の約束通り、きちんと「すべてを手に入れられる至高の地位」をあっけなく手放せるのか、と。すべて肯定で答えてきた。
 だが、どれだけの時が経とうとも、信じない者もいる。

「当たり前です。……ですが」

 彼は顎を上げた。眼光がきりきりと細くなっていく。身にまとう衣装の輝きが、彼の意志を表すように、一層と厳格と硬質さを帯びる。

「我が皇室の威容を保つため、私は、これより先の兄上の無礼を看過することはできない。その口調も。……余が、皇帝なのだ。あえて言おう。そこをどくのだ、虞慶兄上!」

 虞慶の瞳に不穏なものが浮かんでいたことに、彼は気付かなかった。彼は昔から知っているごく身近だった肉親を、内心では信じたかったのだ。……そうやって、これまで何度も裏切られてきたのにも関わらず。

「月照、いるか?」
「はっ、ここに」
「今より参る。支度は?」
「万事整っております」
「よし!」

 彼は力強く頷いた。兄に背を向けて、室(へや)を出ていこうと踵を返す。

「待て」
「まだ、何か?」
「私には、まだ動かせる駒があるぞ」

 駒(こま)。裏を読めば、刺客(しかく)である。良晶はさすがに振り向いた。

「私は、殺されない。絶対に。いい加減、兄上も諦めるべきだ」
「殺す? そのような恐れ多いこと」

 ハッハッハ、と乾いた笑いを漏らす。

「私は、忠臣として申し上げているのですよ。……陛下」
「兄上がいうと、ちゃんちゃらおかしい気分になるものだ」

 良晶は軽く流した。この時、彼は異母兄にそれだけのことができるとは思えなかったのである。だが、それは大きな間違い。彼は自らの地位を心底呪うことになるのだから。
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