貴妃の脱走

川上桃園

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乙女の独走

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 遊石こと鈴玉。絵を描く天賦の才は与えられど、人との接し方がわからない。昔からよく知っている師匠や兄弟子たち、家族ならまだいいけれど、慣れていない人となると、てんでダメ。前にした途端、どうしようもなく恥ずかしくなって逃げ出したくなってしまう。焦りの余り、とんでもない暴言が飛び出す。人を不快すること、数知れず。何度、そっぽを向かれたかわからない。
  でも、友だちが欲しい。修行のために男装をしているけれど、同世代の女の子の友だちと話してみたい。
 街を歩く女の子は多いけれど、鈴玉と仲良くしてくれるような子はどこにいるだろう?
 そう考えると、話しかけることがどうにも怖くなって。
 年の頃が同じ女の子とすれ違うたびに、俯いた顔を上げて、後ろ姿ばかりを羨ましく見つめた。
  緋杏に目を留めたのは、ほんの偶然だった。一目見て、この子なら、話しかけられるかもしれない、そんな希望が湧いてきた。緋杏のまとう雰囲気は柔らかくて、引っ込み思案な鈴玉の話を、最後まで聞いてくれるかもしれない。
 話しかけるために、一生分の勇気を振り絞った。何度失敗したかも知れない。でも、やってよかった。
 今、鈴玉は緋杏とともに街を歩いている。ちゃんと二人並んで。
 二人の歩調はぴったり同じ。自然にそうなったとしたら、嬉しい。

「あ、見て」

 緋杏が書肆(しょし)の前で立ち止まった。店前に出ている書物から、薄手の一冊を指差す。

「これにね、私が働いている饅頭屋も載っているの」
「美(み)酒(しゅ)覧(らん)街(がい)渡(ど)?」 
「そう。都中の美味しいお店を調べて、神(しん)妙(みょう)能(のう)の三段階評価をしたんだって。晶(しょう)さんが以前、そう話していたの」
「晶さんって……?」

 鈴玉の顔が曇る。

(前一緒に歩いていた、大柄のやたら偉そうな怖い人のこと……? やっぱり恋人なのかな……)

 せっかく友だちになれそうだというのに、なんだか邪魔者が現れたような気がして、ちょっぴり悔しい。
 緋杏が優しく目を細めているから、なおさらに。

「美酒覧街渡の星判定員の人で、お店の常連さん。よくおつかいに付き合ってくれる、いい人なの」
「こ、恋人、だとか……」

 どもりながら懸命に尋ねれば、すぐさま首が横に振られる。否定に、ほっとした。

「ううん。あの人には奥様がいるの。たまにその相談に乗っているだけ。ほとんど毎日来てくれて、私を心配してくれるのだけれど……あら」

 ぱちぱちと瞬きをして、緋杏の大きな瞳が鈴玉を見た。

「ここ数日は見ていないわ。大丈夫かしらね」
「そ、そうなんだ……」

 二人は歩く。一人は雲上にいるように、もう一人は自信なさげで、少しだけ嬉しそうに。

「今日はいい日ね」

 緋杏の言葉に、鈴玉は頷いた。
 街はいつもどおり、活気に満ちている。青空の下、小物を扱う振売りの掛け声があると思えば、猫を胸に抱きながら知人と話す婦人がいて、店主らしき男が店先で家人にてきぱきと指示を飛ばしている。都中を巡る運河には、小舟が絶えず行き交って。
 平和で生き生きとした光景は、普段絵筆を持つ右手を疼かせるほど、鈴玉の心に訴えかけてくる。
 そういう意味で、彼女は頷いたのだ。でも、緋杏のそれは少し違っていて。

「友だちが欲しいなぁ、と思っていたら、鈴玉と知り合えたもの」
「え……」

 最初、自分の本音が口から出たものかと思った。でも、徐々に理解できるにつれ、じわじわと顔が熱くなっていく。何か言わなければならないのに、あ、あぅ、というような、呻きにもならない声を漏らすばかり。

「話しかけられて嬉しかった。しかも絵まで上手なんだもの、本当に鈴玉はすごい人ね」
「へ……あの、うん……」

 むず痒い。自分の絵を賛美された時よりも、むず痒いかもしれない。ろくに返事もできない鈴玉だが、朱よりも赤い顔と、緩んだ口元は如実に彼女の心情を表している。

「あ、ありがとう……」
「こちらこそ、ありがとう」

 緋杏はにっこり笑った。
 そうやって、たわいのない話をしながら、あてもなく街を散歩する。どちらが示し合わせたわけでもない(少なくとも、緋杏は何も考えていない)。
 都の南北に走る大路に出たとき、緋杏は、あれ、と声を上げた。

「あの人だかりはなんだろう……?」

 貴賎を問わず、都の人々が集まっている。その群衆の中から突き出でながら左右へ流れていく、仰々しい行列が見えた。
 鈴玉が思わず萎縮してしまうほどの熱狂ぶりで、何かを叫んでいる。しかし、それもよく聞き取れない。
 彼女は足を止めてしまったが、緋杏に躊躇いはない。ちょっと訊いてみる、と近くにいた男に話しかけに行った。すぐに戻ってくる。

「……皇帝陛下が、祖先の墓を詣でに離宮へと行かれるって」

 思いがけないことに、緋杏は先程までの明るさから一転、どこか不安げに視線を彷徨わせている。声まで潜め、まるで人目をはばかるように、そっと馬上の武官や文官らしき人々を眺めていた。

「そ、そうなの……確かに、そんな季節だったわね」
「うん。私、記録画では見ただけで、本物を見るのは初めて……」

 誰かが、皇帝陛下! と叫ぶ。すると、陛下、陛下、と周囲の人々すべてが畏怖を込めて呼ぶ。
 毎年繰り返される光景である。ただし、少しだけ非日常を含んだ光景でもある。
 何頭もの馬に繋がれた馬車がゆっくり、ゆっくりと二人の視界を横切っていく。
 皇帝の顔は、もちろん、幾重もの華美な絹に覆われて、見えようはずもない。
 鈴玉は何気なく馬車を見つめていた。元画院画家の師匠ならいざ知らず、その弟子の彼女が皇帝陛下にお目にかかる機会など、あるわけもなく、彼女にとって、皇帝の存在が何かを思わせることは何もない。

「私は……」

 緋杏の声が耳から忍び込む。でも、その声音は密やかなもので、鈴玉に話しかけているのではなかった。ただ、気になって、緋杏を見た。

「私は……たまに、とても……とても大きな力に守られていると思うことがある……。私に、追っ手がかからないのも、そうじゃないかって」

 狂おしいほどの切ない目で、彼女は人の注目を一心に浴びている豪華な馬車を見上げていた。
 鈴玉の胸にじわりと黒いものが滲んでいく。心底、皇帝が憎く思えた。出会うはずもないのに、どうして、彼女の唯一の友だちにこんな顔をさせるのだろう?

「それは、あなたの配慮なのでしょうか……。会ったことはないけれど、あなたは私に心を砕いてくださった……。香木も、書画も、衣も、宝飾も。でも、それでも、私は……」

 ――あなたに、会いたくないのです、陛下……。

 鈴玉は悔しい。「こんな顔」と言ったところで、自分の心をすべて偽れるわけがない。
 無性に、白い紙に向かいたかった。今、この瞬間をまるごと詰め込めれば、自分の最高傑作ができるに違いないのに。絵師としての本能が、訴えかけている。
 彼女にできるのは、二つの目で景色を焼き付けることだけ。足を止めて、息さえも許されない、永遠の刹那を、見守ることだったのだ。 
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