貴妃の脱走

川上桃園

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乙女の独走

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「ねえ、あなた…………どうして、女の子なのに、男の子の格好をしているの?」
「へっ。ええっ?」

 雑踏の中、互いに見つめ合った。
 緋杏は例のごとく、どこか呆けたような、ぼんやりしたように男装の少女を見つめ続けていたものだから、耐え切れなかったのは相手の方である。

「……あ」

 陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせる。何度も何度も発言に失敗してから、彼女の言葉を待っているように黙っている緋杏に向かって、ようやく意味のある言葉を口にする。

「その! 私は絵師の弟子なので、それで! 女の絵師はすごく少ないから!」
「そうなの。すごいわね。私も、絵の鑑賞が好きなの」

 緋杏は楽しいことに出くわしたかのように、笑顔になる。

「あなた、なんて名前?」
「ゆ……鈴玉」

 体をもじもじさせながら、言葉はしどろもどろ。目元まで真っ赤な絵師見習いだったが、緋杏はまったく気にしなかった。すっと手を差し出した。

「鈴玉さんね。私、緋杏って言うの。よろしくね」
「……っ!」

 相手は目を白黒させて、震える右手を出そうとする。だが、緋杏と目があった途端、パンッ、と軽い音がして、緋杏の手がはじかれてしまう。

「そ、そんな馴れ馴れしくしないで! ……じゃなくて、その!」
「え?」
「べっ、別に、嫌だったわけじゃなくて! 驚いたから、急に叩きたくなってしまって……うぅ」

少女は狼狽えた様子で呻く。今にもぽろりと薄茶の目から雫が溢れそうである。
緋杏は、彼女の反応がわからなかった。でも、わからないなりに気遣う心はある。真意を確かめるように、その顔を覗きこむ。

「鈴玉さん?」
「え……ひゃっ! ち、近寄らないで!」

飛び上がった鈴玉は、今度は一歩二歩と後ずさり。そのまま、背中を向けて行ってしまうように思われたけれど、不安そうにしながら、その場に留まっている。

「じゃあ、ここから話すことにする」

緋杏は宣言しておいて、にっこり笑った。

「せっかくだし、画商まで一緒に行きましょう。……あの、その脇に抱えているの、中身は絵でしょう? 」
「え? う、うん……」

 相手が幼子のようにこくりと頷くのを見た緋杏は白い手で、包みを指差す。

「私、その絵が気になる。ちょっとでいいの、見せてくれない? 迷惑はかけないから。だめ?」
「う……うぅ。こ、この絵は……」

 少女絵師は包みを胸前でぎゅっと抱え直し、唇を震わせる。何か言いたいけれど、何を口に出せばいいかわからない……そのような表情である。

「ご……ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声とともにやがて彼女は頭を下げる。

「こ、この絵はすぐにあちらの店主に届けるものだから。そのぅ、あの! あまり、いいものではないので……本当に! ……本当だよ?」
「うん、そうなのね」
「……この絵、全然価値がないものだから!」

 彼女の顔はやっぱり真っ赤。焦ったように何度も何度も念を押す。逆に怪しいことこの上ないが、素直に信じてしまうのが、緋杏という女だ。このときも、なんの疑いも抱かないで引き下がる。
 肩巾(ひれ)が天女が持つそれのように、重さを知らず浮き上がる。緋杏の歩み方だと、肩巾は肩につく前にふわりと宙に舞う。だが、浮世離れした彼女に注意深く目を向ける者はいなかった。ただ、斜め後ろで歩いている、包みを抱えた少女のみが、時折気遣わしげな視線をくれる。同時に、ひどく羨ましげな表情をしている。
 もちろん、緋杏は知らないことである。彼女の心は、今、趣味へと向けられていたのだ。





 次に訪れた画商は、都の裏路地の寂れたところに埋もれるように店を構えていた。ひっそりとして、活気がなく、静かなものである。

「来やがったか、この大嘘つきめがっ! あたしの目を誤魔化せると思ったら大間違いだ、ええ? 今度という今度は許すもんか、この出刃庖丁でぶっちりと真っ二つにしてやる! 覚悟しろ、悪党!」

 ……二人のほんの目と鼻の先で、おっかない刃物を振り回す雌獅子(めじし)が一匹暴れ回っている以外は。

「ひ、ひゃああああぁ!」

 鈴玉の身体はびくびくっと震え上がって、開いたままの口からとんでもない悲鳴がほとばしる。同時にかくりと膝から力が抜けて倒れこむところを、緋杏が肩を支えることでどうにか保つ。
 女主人のとんでもない剣幕にも、緋杏一人ばかりがくるくるとよく動く無垢な瞳で見上げていたのだ。たちこめる霧の中を歩くような、行き先を見失った表情をする。

「ごめんなさいっ! これからは師匠にちゃんとさせます、させますから!」

 鈴玉が懸命に言いつのり、背中に赤子を抱えた女画商は憤然と鼻を鳴らす。

「あんたに怒っているわけじゃないんだ! 最近、とんとご無沙汰の似非巨匠にあたしの言葉を一言一句違えずに伝えてくれればそれでいい! あたしはこれだけ怒っているんだってね! わかったかい?」
「わ、わかりましたぁ……」

 半泣きの少女の背中を緋杏はさすっている。男装をしているが、この様子ではまるで男には見えない。

「……それで、隣の細っこいあんたは? たまに来るけれど、この子と知り合いかい?」

 一通り怒りを吐き出した相手はようやく、緋杏に目をやった。いかにも胡散臭いものを見るようである。
 緋杏が微笑む。

「緋杏。饅頭屋さんの売り子をしていて、鈴玉とは今日初めて会ったの。ね」

 鈴玉はぶんぶんと無言で頭を振る。
 主人は呆れきったように二人を見た。

「ま、いい。それで、鈴玉。さっさとブツを渡しな」
「は、はいっ」

 弟子を困らせるなんて、嫌な絵師だよ……。気風のいい女は、そうぶつくさ言いながら包みをもぎ取った。開けるときに、ちらりと鈴玉を見る。

「あんたも確認に立ち会え」
「うぅ。はい。ごめんなさい、ひ……緋杏」

 鈴玉は再び頬を赤く染めた。

「少し、待って……くれる?」

 はぁ、と大げさな溜め息が人気がほとんどない店内に響く(大音声が公害のごとく撒き散らされたことで、静寂を愛する書画愛好家たちは残らず逃げ去っていたのである)。

「そこの子も一緒でいいじゃないか! しかも、そんなに恥ずかしそうにすることでもないだろ、こっちが恥ずかしい! あんた、男に話しかけるのはへっちゃらなら、女に話しかけるのはもっと簡単さ!」
「だって」
「だって、じゃない! あんたの師匠の悪い癖なんて今更なことだよ。それにそこの緋杏ちゃんだって、うちで絵を見ていくんだから、これだって見たいに決まっているだろ。良い絵というのはね、多くの人に鑑賞されるべきなのさ。……それが、本物ならばね」
「ほ、本物ですよ……寧(ねい)兄にも手伝ってもらいましたから」

 言いながら、ちら、と鈴玉が緋杏に確かめるような視線を送る。

「私、見てみたい。いい、鈴玉?」
「あまり、口外しないで、くれると、助かる」
「約束する」

 一体、どんな事情があるのだろう。緋杏もちょっぴり興味が湧いて、黒曜石の瞳をきらきらさせた。
 鈴玉は桃色の唇をきゅっと一文字に引き締めて、巻き物の紐をしゅるりとほどいていく。彼女は包みに入っていた計三本の巻き物を手近な机に並べた。

「一本目。隆泊(りゅうはく)の〈遠浦(おんぽ)帰帆(きはん)図〉。夕方どき、帆をかけた舟が遠方から帰ってくる……」

 薄墨で描かれた小舟と、背丈よりも長い櫂(かい)を持つ人影が一つ。鈴玉の冷静な指が、絵の上を掠めるぎりぎりを指す。緋杏の眼は彼女の指を視線で辿っていく。

「二本目。蛮(ばん)外(がい)雲(うん)の〈平沙(へいさ)落雁(らくがん)図〉。秋、雁(かり)の群れが干潟に舞い降りる……」

 画面は横に長い。右下から広がる干潟に向かって、今にも降り立とうとする雁の一団。一筆が個性ある一羽を形作る。

「三本目」

 途端、沈黙を守っていた緋杏の唇が動く。

「蕭(しょう)々平(へい)の、〈山市(さんし)晴嵐(せいらん)図〉。山の上の里が、霧にけむる……」
「え?」
「違った?」
「いや、当たっているよ」

 少しばかり驚いたような声音で女主人が告げた。腕組みをしている。背中の赤子は静かになったせいか、さきほどからすやすやと眠っていた。

「やむを得ない事情で、あたしがある貴族から買った品だ。市場に出回るのも初めてなんだけれどね……これを見たことが?」

 緋杏は顔を上げて、何もない宙を凝視する。

「……まあ、色々とあって」
「変だねえ。あれはずっと帝室におさまっていて、陛下から下賜されてそうも経っていなかったはずなのに」

 緋杏は長い睫毛で覆われた黒眼を伏せ、何も言わない。
 もっと前。彼女には有り余る時が与えられていた。余りにも何もない、浅い眠りを繰り返すような永い時の退屈を紛らわすため、彼女は美しいもの、綺麗なものを眺めることに日々を費やした。繁栄を誇る帝室は、彼女の一生をかけても見飽きないような芸術品を有している。
 あの絵画も、当時見たものの一つ。名品は、すべて彼女の頭の中に残っていた。

(もう、ずいぶん前のことに思えるけれど……)

 彼女は後悔していない。もし、あの豪奢な鳥籠の中にいたら、いずれは……。
 そこで考えることをやめる。彼女は間違っても利口ではない、考えても頭がこんがらがってしまうだけ。

「こんなにいい絵のことで、どうして怒ることになったの?」
「あぁ……」

 怒りがぶり返したように、嫌そうな顔をする女主人と、恐縮しきった鈴玉が対照的に反応する。

「この子の師匠が懲りないんだ! あいつ、このあたしがよかれと思って貸した絵を、こともあろうか、偽物を返してきたんだよ」
「それはいけないわね」

 緋杏が大真面目に頷いたことで勢いづいた女は、唾を飛ばすような語調の粗さでまくしたてた。

「その偽物というのが、あいつ自身の手で写された模写なのさ。ムカつくことに、超上手いんだ、これは! ちょっと待ってておくれ、ニセモンもってくる」

 女主人は荒々しく店の奥に消え、すぐに広げた絵を持ってきた。さきほどと同じ〈山市晴嵐図〉である。一瞥した緋杏が、目を丸々とさせる。画面に自分の顔を近づけて、すごい、と呟いた。

「筆致や、岩肌の質感までそっくり……。これ、一体誰が写したもの?」
「女の裸体画が好きなどっかの馬鹿……と、言っても通じるわけないねえ。山人が遊ぶ、と書いて、遊山人。……当代一の名絵師さ。それで、この子はその弟子。絵師としての名は、遊石。まだまだ駆け出しのひよっこなんだよ……」

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