貴妃の脱走

川上桃園

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貴妃の快走

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――どんな方なのだろう、と思ったことはあるの。
 きっと優しい方ではないのかしら。
 とっても凛々しい方なのではないかしら。
 一体どんな声で語りかけ、一体どんな顔で私に会うのかしらって。
 私はぼうっとしているのが好き。何か特に考えたいとも思わないけれど、たまに夢を見るように空想の絵を描いてしまうの。
 だって、そうでしょう? 形だけでもあの方は私の「旦那様」。私にとって、とびっきりの特別な殿方で。……そして、私の命を握っている御方。私を生かすも殺すもあの方次第。あの方が離れていればいるほど、私は長く生きられる。会ってしまえば、それでおしまい。
 私は、今、終わりへの旅をしているの。あの方に会いにいく。
 心は凪いでいるけれど、心臓の鼓動ばかりはいやにうるさい。早く黙ってしまえばいいのに。
 もう、行き着くところまで行き着いてしまいそう。……たくさんの人に、お別れをしなくちゃ。
 私を拾ってくれた、饅頭屋の旦那さん、その奥様。
 友達になってくれた鈴玉と、画商の女主人の人。
 それに……晶さん。あの人にも、私の伝言は伝わったかしら。
 私は、あの人には一番悪いことをしてしまったのかもしれないわ。
 なぜか、どうしても……なんとなくそんな気がするの。変ね、あの人には奥様がいるはずなのに。私が特別だなんて、そんなことはないはずだもの。最後の思わせぶりなことも、きっと気のせい。そうでなくちゃ、あの人が可哀想。私はあの人には何も上げられないから。私は、みんなからもらったたくさんのものを返してあげられないから。私は、みんなに会う前から、もう全部を決めてしまっていたから。
 さようなら……さようなら。
 


 皇帝と彼女を隔てる最後の障壁とも言える、謁見の間への扉が、ぎぎっと重苦しく開いていく。
 そこに、彼女を待ち受ける運命が、玉座の上にいる。
 夕刻だった。赤い斜光が視界を染めて、階の上の人物をいまだ鮮明にすることはない。
 玉座に侍るものは誰もいなかった。
 彼女は、静かに髪を彩っていた百日紅(さるすべり)の簪(かんざし)を抜き放つ。ぱらりとひと房の黒髪がこぼれ落ちた。

「私は……」

 簪の先は鋭く削られている。それこそ、突き刺すところによっては簡単に命を奪ってしまうほどに。
 彼女の黒曜石の瞳は、吸い込まれるようにその先端を見つめ、玉座の人影を見上げた。
 彼女は、未だに誰が玉座にいるのかわかっていなかった。

「私は、あなたには会いたくありませんでした、陛下」

 簪の切っ先は相手に向けられる……玉座の人物も動揺したように身動ぎしたような気がした。
 大国の皇帝が動揺したその意味も、彼女はまだわかっていない。

――安心してください……。陛下に危害を加える気はございません。私が殺めるのは……。

 彼女が簪の先を向けたのは、彼女自身の喉元。
 それは父に対する、華やかな裏切り。
 彼女は迷わない。
 ひゅっと首元に簪の先が吸い込まれて、彼女の白い肌には真っ赤な華が咲いたのだ――。
 眼前で見せつけられた彼の気持ちも知らないで。
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