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貴妃の快走
五
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緋杏が「皇帝」に会いに来た。
その知らせに、彼は驚き、勘ぐったのも事実だ。一度は彼から逃げたはずなのに、もう一度戻ってくるという、その真意はどこにあるのだろう。
異母兄の虞慶(ぐけい)にそそのかされた、彼女の父の命令で?
それとも今になって、脱走した妃として罰せられるため?
だが、どちらも良晶は望んでいない。できれば、とびきり甘やかしてやりたいし、優しくしてやりたい。抱きしめられなければ、手をつなぐことだけでもいい。手を繋げなければ、近くにいるだけでいい。ほほ笑みかけてもらえるなら、それが一番いい。
どうであれ、良晶が彼女に会えば、きっと全部バレてしまうに違いない。彼の嘘、すべてが。
――潮時、か……。
彼女との謁見は、これまでのどんな大臣よりも、他国の王族よりも緊張するものになるだろう。
告白をしよう。どれだけハードルが高かろうとも、責任を取るのは彼自身だ……引き伸ばしに引き伸ばしたのだから。
彼は殊勝にもこんなことを考えている。ヘタれにヘタれた皇帝陛下だが、彼だって逃げられない時は心得ている。即位のときも、逃げるだけ逃げたが、兄の跡を継ぐと決めたのは彼自身で、兄の忘れ形見に権力を戻そうと決めたのも、彼自身の意志だ。
――だが、どこから説明しようか……。まずは私の気持ちから……いや、正体を隠していたことへの侘びからか……。最後は……そうだな。せ、正式な結婚の申し込みを――いや、そこまでは話が飛び過ぎか。私の心臓が持たん。うむ。
鉄の意志からはやがて花が芽吹いて、頭の中はお花畑に。どこまでもおめでたい皇帝陛下である。
異母兄のことも念頭にはあったが、そこまで急の要することとは思わなかった。
だが、厚い面の皮の下にある、うきうきとした気持ちは、現れた緋杏を見て、あっという間に萎んでいく。そんなことを言える状況ではなかったのだ。
「私は、あなたには会いたくありませんでした、陛下」
彼女の飾らない言葉がこれほど胸に突き刺さる日が来ようとは。
彼は、何か言おうとしたが、開いた口がものを言うことはない。何も考えられなかったから。
「ひ……あ…ん……」
囁くばかりに彼女を呼ぶ。だが、階の下には届かない。
斜陽が彼女の顔を隠し、彼女のほっそりとした身体から細長い影が伸びている。
誰が予想しただろう、彼女が出したなけなしの武器が向けられた先は……玉座に座る「彼」ではなく、自分だったと。
彼女が会いに来たのは、彼に己の自死を見せるためだと。
首から流れた血が白い衣を襟元から濡らしていく。夕日の色と混じって、深く濁っていく。
「やめろ……やめるんだ、緋杏っ!」
二人の距離はもどかしいほど遠かった。良晶が慌てて彼女の身体をかき抱いた時には、真っ青な顔で目を閉じている。彼女の顔は穏やかだった。まるで、やり残したことはもうないのだというように。
「誰か……誰か、これへ! 医師を連れて参るのだ! 今すぐに!」
彼はありったけの声で叫ぶと、そこかしこから宦官や官吏、護衛官らが飛び出してくる。
「緋杏を……余の妃を、死なせてはならん! いいか、助けられないようなら、そなたらの首が全部飛ぶと思え! ……緋杏、緋杏……! 死ぬなよ、まだそなたには何一つ言えていないのだ! 置いていこうとするな……そなたに何かあったら、余はこの先生きていけん。何のために、退位するのか、もうわからなくなってしまう。何のために我慢してきたのか……わからなく……。お前の事情なんか、全部一緒に抱えてやるから……どうにかしてやるから……勝手に死ぬな……っ」
皇帝は涙する。その様を見たある官吏は、この時の出来事を、感慨深げに述懐している。
――このお方は、私が仕えたどの主君よりも気高い御方だった。それと同時に、ひとりの女を愛しているこの方も、また人間だったのだと思う。だから私は何度も思い出さずにはいられないのだ……誇り高いあの方がたった一度だけ人前で流した、あの涙を……。
その知らせに、彼は驚き、勘ぐったのも事実だ。一度は彼から逃げたはずなのに、もう一度戻ってくるという、その真意はどこにあるのだろう。
異母兄の虞慶(ぐけい)にそそのかされた、彼女の父の命令で?
それとも今になって、脱走した妃として罰せられるため?
だが、どちらも良晶は望んでいない。できれば、とびきり甘やかしてやりたいし、優しくしてやりたい。抱きしめられなければ、手をつなぐことだけでもいい。手を繋げなければ、近くにいるだけでいい。ほほ笑みかけてもらえるなら、それが一番いい。
どうであれ、良晶が彼女に会えば、きっと全部バレてしまうに違いない。彼の嘘、すべてが。
――潮時、か……。
彼女との謁見は、これまでのどんな大臣よりも、他国の王族よりも緊張するものになるだろう。
告白をしよう。どれだけハードルが高かろうとも、責任を取るのは彼自身だ……引き伸ばしに引き伸ばしたのだから。
彼は殊勝にもこんなことを考えている。ヘタれにヘタれた皇帝陛下だが、彼だって逃げられない時は心得ている。即位のときも、逃げるだけ逃げたが、兄の跡を継ぐと決めたのは彼自身で、兄の忘れ形見に権力を戻そうと決めたのも、彼自身の意志だ。
――だが、どこから説明しようか……。まずは私の気持ちから……いや、正体を隠していたことへの侘びからか……。最後は……そうだな。せ、正式な結婚の申し込みを――いや、そこまでは話が飛び過ぎか。私の心臓が持たん。うむ。
鉄の意志からはやがて花が芽吹いて、頭の中はお花畑に。どこまでもおめでたい皇帝陛下である。
異母兄のことも念頭にはあったが、そこまで急の要することとは思わなかった。
だが、厚い面の皮の下にある、うきうきとした気持ちは、現れた緋杏を見て、あっという間に萎んでいく。そんなことを言える状況ではなかったのだ。
「私は、あなたには会いたくありませんでした、陛下」
彼女の飾らない言葉がこれほど胸に突き刺さる日が来ようとは。
彼は、何か言おうとしたが、開いた口がものを言うことはない。何も考えられなかったから。
「ひ……あ…ん……」
囁くばかりに彼女を呼ぶ。だが、階の下には届かない。
斜陽が彼女の顔を隠し、彼女のほっそりとした身体から細長い影が伸びている。
誰が予想しただろう、彼女が出したなけなしの武器が向けられた先は……玉座に座る「彼」ではなく、自分だったと。
彼女が会いに来たのは、彼に己の自死を見せるためだと。
首から流れた血が白い衣を襟元から濡らしていく。夕日の色と混じって、深く濁っていく。
「やめろ……やめるんだ、緋杏っ!」
二人の距離はもどかしいほど遠かった。良晶が慌てて彼女の身体をかき抱いた時には、真っ青な顔で目を閉じている。彼女の顔は穏やかだった。まるで、やり残したことはもうないのだというように。
「誰か……誰か、これへ! 医師を連れて参るのだ! 今すぐに!」
彼はありったけの声で叫ぶと、そこかしこから宦官や官吏、護衛官らが飛び出してくる。
「緋杏を……余の妃を、死なせてはならん! いいか、助けられないようなら、そなたらの首が全部飛ぶと思え! ……緋杏、緋杏……! 死ぬなよ、まだそなたには何一つ言えていないのだ! 置いていこうとするな……そなたに何かあったら、余はこの先生きていけん。何のために、退位するのか、もうわからなくなってしまう。何のために我慢してきたのか……わからなく……。お前の事情なんか、全部一緒に抱えてやるから……どうにかしてやるから……勝手に死ぬな……っ」
皇帝は涙する。その様を見たある官吏は、この時の出来事を、感慨深げに述懐している。
――このお方は、私が仕えたどの主君よりも気高い御方だった。それと同時に、ひとりの女を愛しているこの方も、また人間だったのだと思う。だから私は何度も思い出さずにはいられないのだ……誇り高いあの方がたった一度だけ人前で流した、あの涙を……。
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