貴妃の脱走

川上桃園

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貴妃の快走

六(最終話)

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 朝廷内の出来事は、虞慶にも届いた。

「なに……あの女が、死んだ、だと……! 良晶は、変わらずぴんぴんしている? バカめ、そんなはずは……。おい、あの男を呼んで来い! ことの次第を問いただしてやる!」

 こう息巻いていたのも束の間、すぐに彼の身柄は皇帝の私兵により抑えられることになった。
 這いつくばった彼に、官吏は皇帝からの勅命を読み上げた。

――皇兄虞慶。素行不良、あまりにも目立つとの上奏あり、身柄を南に移し、都からの永久追放を命じる。

「あああああああああっ! あいつめっ、許さん、許さん! 誰も彼もみんな許さんっ!」


 虞慶の流刑を耳にした壮年の男は、沈黙を守った。
 即日官職返上、妻の待つ地方へと戻り、妻もろとも行方をくらました。だが、皇帝の追尾がかかることはおろか、彼の罪が問いただされることもなかったという。


 一年後、良晶皇帝退位。皇太子穆脩即位。
 元皇帝は都の一角に移り住み、病を得た身体を癒していた。このころの彼は、後宮から連れてきたひとりの女官を傍に置き、穏やかな余生を楽しんでいたという。女官も甲斐甲斐しく世話をしていたと歴史書では記している。だが、密かな愛人だったという記録はない。
 さらに数ヵ月後。良晶元皇帝、逝去。静養も、現皇帝による見舞いも虚しく、享年二十九で身罷る。その生涯に、ただ一人の子もなく、ただひとりの妃もいなかった、と公式な記録にはあるが、世間に出回った風聞書によれば、彼に愛されなかった妃がたった一人だけいた、ともある。男色家だったと指摘する者もいたが、口さがない者の出まかせだろう。歴史上に記された彼の業績にまつわる逸話を聞く限り、彼は己にも厳しく、真面目で誠実だと捉える方が正しいだろう。


 さて、その後、世間でまことしやかに騒がれることになる噂が現れた。
 実は死んだはずの元皇帝は生きていて、国中を旅から旅へと渡り歩いているのだと。
 悪事を働く者がいれば、彼は自らの高貴な身分を明かして、成敗し、不遇の者がいれば、手を差し伸べる。そんな英雄「良晶皇帝」に、民たちは自分たちの夢を託した。
 彼の姿絵が氾濫し、この皇帝の名は実態にも関わらず、大いに残っていくことになる(当時を知る者にとっては笑い飛ばしたくなることだが)。
 噂には尾ひれがついた。彼と旅する同行者について。それは女だとされた。女で、伴侶だとされた。さらに元貴妃だとされた。彼は、彼女を愛しているとされた。
 形はどうであれ、良晶の愛は国中に知れ渡ったわけである(本人からすれば、いたたまれないだろうが)。

























 ここで、時を戻すことにしよう。そこは、夜の後宮だった。
 ひとりの女が横臥している。首元に白い布を巻かれた哀れな女だ。
 その女の傍らには、男がいる。彼女の手を握って、祈るように額に当てている。
 男は目を閉じて、じっと動かない。すうすうと寝息を立てて、眠っているようだった。
 一方で……女は、ぽっかりと目を覚ました。
 ぱちりぱちり、と夢の残り香を払うように瞬いて、不思議そうに目の前の男と、握られたままの自分の手を眺める。
 ん……、と身動ぎして、動く方の手で確かめるように喉元に触れる。顔を一瞬、しかめた。

――全部、終わったのだわ。

 唐突な感慨に襲われて、胸をなでおろすような、泣きたいような、そんな奇妙な気持ちになる。
 次に意識が向いたのは、彼。彼女はその体を揺り動かした。

「晶さん……晶さん……」

 呼びかけながら、どうして彼がここにいるのだろう、と思う。後宮の一室に、どうして彼が?

「ん……んん」

 よく眠っている。緋杏はまじまじと彼を見下ろした。

――この人、なんでこんなに幸せそうなのかしら。私、あなたの奥様じゃないのだけれど……。……。もしかして、違う? 私は……本当に、この人の……この方の「奥様」だった、ということ?


 彼女は気づくのが遅かった。そう、全部、気づくのが遅かったのだ。
 なんだかおかしな具合になっている。会いたくもない皇帝にはとうに会っていたのだ。
 そう感じると、張り詰めていた気持ちがしゅるしゅると跡形もなくなくなっていく。
 もう大丈夫だと思った。もう、陛下を殺すなんてこと、しなくていい、と。
 彼女は父に逆らう術を知らなかった。父が正しいのかもわからなかった。でも、緋杏が皇帝を殺めたら、父にも母にも罪が及ぶ。……それが、どうしても納得いかなかった。
 でも、父に彼女の言葉は届かない。父は舞い上がっていた。ようやく、くすぶった自分を拾い上げてくれる尊い方が現れたのだと。あの方の意向に沿うためには、と父は彼女の肩に手を置いて、妃選びに出ろ、と命令した。
 彼女の他にも、何人もの娘が虞慶の手駒となるべく、候補者に紛れ込んでいた。緋杏とて、保険だった。でも、選ばれたのは彼女だった。陛下を殺めろ、と初めて命令が下ったのはその時のこと。……でも、皇帝は後宮を出るまでの三年間、通うことはなかった。
 三年もあれば……彼女にも考えがまとまっていく。せめて咎が及ばないようにしよう、と。

――これから、どうしよう……。

 彼女は生き残れるとは思っていなかった。死ぬくらいのことをしなければ、父は諦めないと思っていたから。

――お先真っ暗よね……。まぁ、いいか。

 怪我をしてもなお、彼女はあまり深く考えずに、どこかぼけっとしている。もしかしたら、彼女がもっとしっかりとしていれば防げた事態かもしれないが、当の本人からすればこれが精一杯。不器用な女なのである。

「んん……あ……」

 寝ぼけたのか、皇帝は両手を広げて、彼女を抱き込んだ。こてん、と緋杏の身体は倒れこむ。

「……重い」

 ぼそっと彼女が呟けば、ぴくっと身体が震え、ちょっとだけかかる体重が軽くなる。
 さて、お気づきだろうか、諸君。こともあろうか、皇帝陛下は起きている。寝ぼけているという振りをして、どさくさに紛れて抱きつこうという彼の姑息な手段に、緋杏はまんまとかかっているのだ。

――不可抗力……これは、不可抗力なのだ……。

 心の中で誰かに言い訳しながら、皇帝は彼女を押し倒している。だが、悲しいかな、これ以上発展することはない(これにも心の準備が必要なのだ、彼の)。
 緋杏はと言うと……これまた何も考えていない。押し倒されているよりも、忍び寄ってくる睡魔に負けて、眠そうに欠伸する。

「ふわあ……んん……」

 夜は寝るもの。至極もっともな現象だが、焦ったのは良晶である。話したいことが山ほどあるのに、色々先延ばしにした挙句、またも機会を逃してしまった。

――私の正体とか、これからの緋杏をどうするのだとか、退位して、後に死んだことにすることとか、その間、緋杏を傍に置いておきたいこととか……。その後、共に旅に出たいこととか……。

 だんだんと考えがまとまらなくなっていく。彼もまた眠くなっていた。きちんと緋杏の無事を確かめたので、安堵したのである。

――でも、まぁ、いいか。あとでも十分間に合う……。緋杏が元気なら。それでいい……。

 のんびりした緋杏を見ていると、彼もまた安らぎを覚えた。二人して、眠りに落ちていった……。



 最後に蛇足を付け加えよう。先ほど述べた皇帝の姿絵だが、後世にも描かれる肖像の、雛形となる作品を描いた画家がいる。人物画にも優れた女性画家、遊石。彼女の初期の傑作である。
 野に遊ぶ皇帝と女を描いたその画は、優雅で気品に溢れている。この二人の仕草にほのめかされる情愛は見る者をひきつけた。しかし、相変わらず、女の身上は明らかになっていない。皇帝の想い人であるとも、幻の女だという話もある。
 だが、ある男曰く、「よく描けている。だが、もう少し仲睦まじい感じに……もごもご」
 ある女曰く、「綺麗な画ね、鈴玉。……それで、この女の人の隣にいる人って、誰かしら?」
 その男がぎょっとして隣にいた女を見たのは、別の話。二人が仲良く手を繋いでいるのも、別の話である。
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