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平凡βがスーパーα様のセフレに立候補した話
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神崎くんは僕の憧れ。この学園の生徒全員を雌にしてしまうほどのオスみを持つスーパーα様だ。
ソバカスの散った平凡な顔と、貧弱で痩せっぽっちな体を持つ僕とは比べるのもおこがましい。
──とはいえ、妄想はする。
あの少しツンツンと主張する髪に触れたら、どんな心地がするだろう。あのグレーに透ける切れ長の瞳に見つめられたら、どんなに幸せだろう。などと、そんな妄想を日夜繰り返している。ああ、甘々に溶かされて、口の端から覗く八重歯に噛みつかれたい⋯⋯流石にこれは高望みし過ぎか。
「小鳥遊~お前、妄想が口から出てるぞ」
幼なじみの火鳥が横から口を出す。こいつはα。それでもって神崎くんと仲が良いグループに属していて、他校に彼女もいる。正直人生勝ち組だ。
この学園にはαからΩまでいるが、その実男しかいない。だから、いくつかの暗黙の了解がある。例えば、学園での関係は卒業後まで持ち越されないとか、あと⋯⋯
「また神崎か?」
「うん」
「よくもまぁ飽きねぇな」
「いや、神崎くんに飽きる?ありえない。天変地異が起きてもない。」
火鳥がからかうように笑った。
「つか、お前βだろ?『項に噛みつかれたい⋯⋯♡』の?」
「わ、やめてよ!真似しないでそんな大声で!周りに人いるんだよ?!⋯⋯確かに僕はβだけど、偽物でも、あ、証が欲しいなって⋯⋯」
「キッッショ」
「!!」
歯に衣着させすぎない物言いに、半泣きになる。
「でも、お前、どうせそんな度胸もないじゃん」
「ある!今は無いけど、神崎くんのためなら出る!」
そう言って拳を握りしめたとき、耳元で心地の良い声が響いた。
「俺が何?」
「か、神崎くん!」
口をパクパクさせるが、その後が続かない。というか、僕の今の妄想、聞かれてたんじゃ⋯⋯?!
「神崎~聞いてた?コイツ、キモくね?」
「聞いてた⋯⋯?何を?⋯⋯つか、小鳥遊くんはキモくないだろ」
ほんとに聞こえてなかったのか、気を使ってくれてるのか、キモすぎて口にも出せないのかは分からないが、キモイ認定されなくて良かった⋯⋯!本当に聞かれてないといいけど。
火鳥が目配せする。なんだ?顔を近づけると、こっそりと耳打ちされる。
「こんなチャンス滅多にないだろ?今年卒業だし、ない勇気出して告白すれば?」
「なっ⋯⋯!」
火鳥の言い方はムカつくが、まぁ、概ねその通りだ。僕はあと3ヶ月程度しか神崎くんの姿を見られない。卒業してしまったら、住む世界がまるで違う神崎くんと話せる日なんか一生来ない。だったら、今ここで──決心を固めるように、拳を跡がつくほど強く握りしめた。
「神崎くん!」
突如発された大声に、ギョッとした様子の神崎くんがこちらをみる。どうやら驚かせてしまったみたいだった。お腹の底から息を吸って、神崎くんの目をしっかり見つめる。
「あ、あのっ、おこがましいお願いですけど、僕、僕を⋯⋯神崎くんのセフレにしてください!」
「「⋯⋯は?」」
突然の事態に神崎くんの顔は、引いていた。ドン引きしていた。ついでに火鳥も天井を仰いでいた。
「せ⋯⋯なんて?」
神崎くんは、整った眉毛を歪めて問いかけた。どうしよう、勢いあまって変なことを言ってしまったかもしれない。完全に困惑させてしまっている。終わった⋯⋯。自分の顔が耳まで赤いのがわかった。しどろもどろになりながら、口を動かす。
「う、あ、せ、セフレです!その、僕、神崎くんのセフレにして欲しくて⋯⋯!」
聞き間違いではないことを認識した神崎くんは、暫し硬直した後
「⋯⋯いいよ」
と信じられない返答をした。
「へ?」
まさか、こんな提案が通るとは思ってもいなかったので、とても間抜けな声を出してしまう。神崎くんはスマホを取りだし、「連絡先教えて?」と促した。
「あ、え?あ、えっとじゃあこれ僕の連絡先です⋯⋯呼ばれたら行くから、気軽にどうぞ⋯⋯?」
僕の頭は?でいっぱいで、全く現実感がなかった。何を言ったかも、その後どう帰ったかも記憶に定かではなかった。
◆
次の日の放課後、神崎くんから連絡があって、『寮の部屋で待ってる』『206』と、部屋番号を告げられた。
僕はまだ夢の中にいる心地だった。足元がふわふわしておぼつかない。新たなメッセージが送られてきたことを通知する振動によって、僕は意識を現実に戻す。
うわぁ、スタンプだ。クマさんが覗いてる。可愛い⋯⋯このスタンプを神崎くんが送ってると思うと、微笑ましくて頬が緩む。また、意識をどこかにとばしそうになりながらも、すぐに既読をつけると、了解の返信をした。
即座に神崎くんのもとへ向かおうとして、自分がそういった経験を持ち合わせていないことに気づき、扉の前で立ちどまった。
男同士のときは、お尻を使うことは知ってる。火鳥が「しっかりほぐせよ」などとほざいていたから、挿入する?にあたって、なにかしらの処理をしなければならないのだろうということは察せた。調べてみると、いくつかの方法が示された。うぉ、うわぁ⋯⋯へぇ、こんなことするんだ⋯⋯。見たところ、少し時間がかかりそうだったので、神崎くんに「申し訳ないけど、少し待っててください」とだけ送り、僕は準備に取りかかった。
◆
「遅かったね?」
指定された部屋に着くと、神崎くんはベッドの上に座って、僕を待ってくれていた。僕が遅れたことに怒っているのか、少し不機嫌そうな声色だ。
「ちょっと色々あって⋯⋯ごめんなさい。」
後ろの準備に手間取ったとか言うの恥ずかしいし、未経験だとバレて面倒くさがられても嫌だから、曖昧に答えた。
「ふーん⋯⋯?まぁいいや、座って。」
神崎くんは自分の隣に空いたスペースを叩く。
隣に座ると、神崎くんの顔が近づいてきて、啄むような優しいキスをされた。それを何度か繰り返すと、唇が食まれ、開けるように促された。僕はもちろん、指示された通りに口を開ける。
柔らかい、優しい、嬉しい、夢みたい⋯⋯混乱しながらも僕の胸には温かい気持ちが渦巻いていた。ただのセフレに、キスなんかしてもらえないと思っていた。こんな僕と唇を重ねてくれる、神崎くんの慈悲深さに泣きそうになる。甘いキスを繰り返して、そのまま、ゆるりとベットに押し倒された。自然な流れすぎてビックリした。スマート!かっこいい!推せる!胸がときめきで潰れそうなぐらい痛い。可愛らしいリップ音を立てて、唇が離された。
何か言いたげに、その形の良い唇が震える。なんだろう?萎えたわお前、もういいから帰ってくれ、とか?⋯⋯それだったら怖すぎる。でも、その可能性も捨てきれないのがもっと怖い。
「どうかしましたか?」
「⋯⋯触ってもいい?」
「ど、どうぞ!⋯⋯あ、脱ぎます?いや、脱ぎますね!」
神崎くんの色気に当てられて、ドギマギしてしまう。今だって食い気味に答えて、キモかったと思う。神崎くんのお手を煩わせるわけにはいかないので、自分でシャツを脱ぎ、ズボンをずり下ろした。突飛な僕の行動に、神崎くんは少し驚いた様子だったが、その手がそっと太ももを撫でた。
「すべすべ⋯⋯肌が白いからすぐ赤くなるね?可愛い」
神崎くんは、きっと真っ赤な顔をしているだろう僕を見て、悪戯な笑みを浮かべた。
「ひぇ」
カワイイ?かわいい??可愛い???可愛いの可愛い?
変な声出たし、きっと、顔も変な顔になっている。熱を持った顔を腕で隠すと、蕩けるような甘い声が上から降ってきた。
「ねぇ、顔見たい。見せて⋯⋯?」
ずるい。イケメンに良い声でそう言われると、見せない訳にはいかない。
顔を出すと、ソバカスをなぞるように、キスの雨を降らされた。神崎くんの表情は柔らかく、目が合うと少し微笑んでくれた。……何これ、甘い。恋人みたい──
頭の中に浮かんだ馬鹿な考えを振り払った。いや、こんなこと二度と起きないんだから、心のアルバムには保存するし、これから先もこれを糧にニヤニヤするけど、その勘違いはダメだ。だから、俺は神崎くんの顔を目に焼き付けようとして、じっと見つめた。
目が合って「何見てるの」と微笑まれて死んだ。
体をひっくり返されて、お尻の中に指を突っ込まれる。びっくりしたけど、そうだ、男同士だとお尻を使うんだったと思い出した。
「⋯⋯お尻、柔らかいね?」
さっきより少し、神崎くんの声が硬い気がした。部屋で解してきたのがマズかったのだろうか。ぐちぐちと指が動かされ、確かめるように、中のしこりが押される。まるで、「ここを潰すぞ」と脅されてるみたいな⋯⋯
「っ!⋯⋯はうっ⋯⋯えっと、経験がなかったので、じ、自分でちょっと⋯⋯」
「⋯⋯え?あ、準備してきてくれたの?そっか、ごめんね。俺、邪な人間だから⋯⋯待って、初めてってこと?」
神崎くんは、申し訳なさそうに項垂れた。心做しかいつも空を刺しているツンツンヘアーも垂れている。かと思えば、何かに気づいたように、ハッとしたように顔を上げた。いつも無表情の姿しか見たことないから、表情がコロコロ変わる神崎くんなんて新鮮。可愛い。
「可愛い?俺が?」
しまった。声に出てた。慌てて口を抑えるも、もう遅い。
「⋯⋯可愛いとか初めて言われた。嬉しいけど、かっこいいって言われたい。」
「もちろん神崎くんは世界で1番かっこいいです!!」
一息で食い気味に言い切ると、神崎くんは楽しそうに笑った。少し幼くみえる笑顔に、心臓が跳ね、ぎゅっと締め付けられる。
「はは、うん。もっとかっこいいって思って貰えるように抱くね。」
艶やかな囁きとともに、身体に神崎くんの影がかかった。その色気にあてられて、熱が引いてきていた顔が、また真っ赤に染まったのがわかった。
◆
その日から、時々神崎くんの部屋に呼び出されるようになった。エッチをする時もあったけど、最近は呼び出されて他愛もない話をするだけの日も増えてきていた。僕はその時間が大好きで、特に「ん?」って感じで神崎くんが僕の話を聞く仕草に何度も心臓を撃ち抜かれた。神崎くんが発する雰囲気が甘すぎて、自分が大事に扱われているように錯覚してしまう。
朝、少しだけ神崎くんと話した帰り、食堂で偶然火鳥に会った。神崎くんとのことを聞かれたので、ところどころ端折りながら、神崎くんの素晴らしさを熱弁する。火鳥はコーヒーを啜りながら、興奮して鼻息荒く語る僕を一瞥した。
「ふぅん、ことりが楽しいなら良いけどさ⋯⋯大丈夫?虚しくならねぇ?」
虚しい?とんでもない!今僕は、史上最強に満たされている。安心してほしいという旨を伝えると、また「ふぅん、ならいいや」と興味なさげにコーヒーを啜った。
その後も、特に呼び出しがなかったので、僕は学食から自分の部屋に戻っていたところだった。ふと、神崎くんの部屋、206号室がある棟に視線をやると、神崎くんと可愛い男の子が寮の中に入っていったのが見えた。それだけだったら、友達だと思えたかもしれない。男の子は首にチョーカーをしていて、神崎くんの腕に手を絡めて歩いていた。おまけに寮の前で立ち止まると、少し背伸びをし、可愛らしくキスをしていたのだ。
その光景を見て、頭が真っ白になった。微かに開いた唇から、乾いた息が漏れる。不意に、さっきの火鳥の言葉が頭によぎった。
『ふぅん、ことりが楽しいなら良いけどさ⋯⋯大丈夫?虚しくならねぇ?』
ごめん、そうだね。虚しい。
僕が、気づいてないだけだった。
満たされていると思っていた心が、一瞬で干からびて空っぽになったように感じた。それで、今までのことは、全て一時的に見ていた幻だったのだと悟った。
堪えきれなかった涙が溢れる。前まではただの憧れだったのに、気持ちが大きくなりすぎて好きになってしまったのだ。ずっと、あの頃のまま、遠くから見つめているだけだったらこんなに苦しくならずに済んだのかもしれない。以前のままだったら、多分「離れたくない」なんて大それたこと思わなかった。笑って送り出せたのに⋯⋯いつから僕はこんなに欲張りになったんだろう。
2人の姿を見ていられなくて、僕はどこへ向かうでもなく、とりあえず反対方向に向かうため、即座に踵を返した。
⋯⋯後に、先程のΩが神崎くんの許嫁であることを知った。本人が僕の元に来て、教えてくれたのだ。
『僕ら、許嫁なんです。』
彼は気恥しそうに笑った。卒業したら、番契約をして一緒になるのだと、そう、伝えられた。
『彼も、僕のことを好いてくれていて──』
その先は聞こえなかった。耳が聞くことを拒否していたのだと思う。たた、「許嫁」「番」という文字が僕の頭の中をぐるぐる回った。
僕は、現実を突きつけられたのだ。
⋯⋯僕達はただのセフレだ。しかもαとβ。学園を卒業したら、離れなきゃいけない。離れられるようにしなきゃ。そう思って、僕は神崎くんと距離を置くことを決意した。僕らの関係に、制限時間がつけられた瞬間だった。
◆
ある日、いつものように神崎くんに呼び出され、世間話や雑談をしていた。僕は話が少し落ち着いたところで荷物を纏めて、帰ろうとした。
「待って」
すると、神崎くんが立ち上がろうとした僕の服を引っ張り、その衝撃で僕はまたベッドに引き戻された。
「⋯⋯もうちょっといないの?」
「⋯⋯うん」
「なんで?」
僕が頷くと、間髪入れずに神崎くんは尋ねた。
なんで?僕達は卒業したら離れなきゃならないから。一緒にいると、どんどん好きになって苦しくなるから。でもそんなこと言えない。
「⋯⋯」
黙っていると、神崎くんの僕の腕を握る力が強くなった。
「最近、エッチしないから?」
「え⋯⋯?」
「俺は、喋ってるだけでも楽しかったけど、ことりはそうじゃないんだ?」
「⋯⋯楽しいよ」
半分ホントで半分嘘だ。神崎くんの隣にいられるのはすごく楽しくて幸せだけど、最近は苦しくて胸がジクジクと痛む。
「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる?」
神崎くんの許嫁の顔が頭をよぎった。動揺を悟られたくなくて、目を伏せる。
「ぼ、僕達、セフレだし⋯⋯」
それに、αとβだし
「じゃあ、付き合う?」
なんでもないことのように、そんな提案がされた。そんなにも簡単に、僕が心の底から欲しくて⋯⋯でも叶わない夢だからと諦めていた物を、目の前に出されるとは思っていなかったからどうにも狼狽えてしまう。正直に言えばすごく嬉しいし、以前までの僕なら二つ返事でその申し出を受け入れていただろう。でも、今は──神崎くんに本当の恋人がいるのを知っている。そんなこと、軽々しく受け入れられなかった。
2人の間に重い沈黙が流れた。
「⋯⋯そっか。ことりはいつもそうだ。俺の事『好き』とか言いながら、[[rb:飄々 > ひょうひょう]]としてて、最近はすぐ帰るし、なんで?ようやくこっち向いてくれたのかなって思ったのに⋯⋯はぁ、結局ずっと、俺ばっかが好きなんだ」
神崎くんが好き?何が?僕?そんなこと……そんなことありえない。
「え?え⋯⋯?僕の方が好きだよ神崎くん⋯⋯」
「⋯⋯はは」
神崎くんは乾いた笑いを零して、僕に覆いかぶさった。顔にはっきり「信じられない」と書いてあった。不安そうに顔を歪ませる神崎くんの気持ちを落ち着かせたくて、僕は唇を重ねた。
一瞬、驚いた顔をしたように見えたけど、神崎くんはすぐに無表情に戻った。
「⋯⋯そうだね、俺たちの関係ってセフレだった。」
僕を抱き上げ、ベッドに寝かせると、神崎くんは、僕の上に覆いかぶさった。その目は悲痛な色に染まっていて、「絶対に離さない」とでもいうように、僕をベッドに縫いつけた。その熱の篭った視線に、また勘違いをしそうになって、暴れ出す恋心を必死に抑えつけた。
◆
──あの日も、僕は性懲りも無く、また神崎くんに甘く抱かれてしまった。離れがたい気持ちを捨てきれないまま、卒業の日付だけが迫ってくる。
切って貼ったように繰り返される日々の中で、少しだけ変化があった。それは、以前より頻繁に神崎くんから呼び出しが来るようになったことだ。あの日のことを思い出すと、何故か腹の奥で何かが疼いた。
「今日も俺の部屋来てくれない?ダメ⋯⋯?」
「了解です」
「待ってる」
「ことりの部屋に行ってもいい?」
「いいですよ。でも、こっちだと話すだけになりそうです。」
「了解、今から行く。」
「今日って大丈夫?」
「ちょっと、今日は⋯⋯ごめんなさい」
「いや、大丈夫。こっちこそ連日でごめん」
「今日って会える?」
「今日もダメ?」
「いつなら大丈夫?」
──最近は、顔を見ただけでも思いが溢れだしそうで苦しくて、会うこと自体をできるだけ断るようにしている。
でも、神崎くんとは明日でお別れだ。明日、僕らは卒業してこの学園を出る。多分その後の人生で彼に会うことは無いだろう。きっと住む世界が違いすぎるし⋯⋯神崎くんは番ができる。そう、だから、会えない。これで最後。最後に、お別れを言いに行くだけ──
「明日なら空いてます」
僕は、未練がましいメッセージを送った。
◆
寮から出て、指定された部屋に着くと、神崎くんは初めて訪れた時のように、ベッドに腰掛けていた。
「久しぶり」
柔らかな笑みにときめいて、顔が熱をもつ。舞い上がった気持ちを抑えつけるように、準備してきた言葉を紡いだ。
「久しぶり⋯⋯今日、卒業だね」
神崎くんが、唐突な僕の語りに驚いているのが見て取れた。何を言うんだろうって顔してる。
「うん、そうだね?卒業しても⋯⋯」
僕は、今、夢の終わりを見ている。白昼夢を自分から覚まそうとしている。それは、映画のエンドロールの最中に立ち上がるような、冒涜的なことかもしれない。
──でも、言わなきゃ。このままだったら、きっと、離れられなくなる。震える唇を、無理やりこじ開けた。
「うん⋯⋯いや、ごめん。卒業したら、もう、会え、会えない⋯⋯夢みたいで、楽しかった。ありがとう。さようなら。」
「⋯⋯は?」
地の底を這うような声がして、僕は動けなくなった。神崎くんから放たれる緊張感が産毛を揺らす。──威圧だ。すぐ出られるようにドアの前で言ったのに、指の1本すら動かせない。
「⋯⋯ダメ。ダメだよ、別れない。だって、お腹の子どもはどうするの?」
「え⋯⋯?子ども?えっと⋯⋯え?今、なんて⋯⋯」
「だから、ことりが妊娠してるって話」
神崎くんの影が頭上にかかったかと思うと、慈しむように俺の薄い腹が撫でられて、背中が泡立った。
「結構時間かかったけど、成功して良かった⋯⋯!ね、俺とことりの子だよ、絶対可愛いね。楽しみだね。」
それこそ子供のように無邪気に笑う神崎くんの表情に気持ちが揺らいで、騙されそうになる。
「う、嘘、僕男だし、βだし⋯⋯ゴムもつけてた!そんなはずない、そんなはず⋯⋯」
どうしよう、どうしよ、許嫁の人に顔向けできない。それに、僕の存在が神崎くんの人生の障壁になってしまったら⋯⋯?そんなことって、どうしよう。
「俺、αだから、βでも孕ませられるんだけど、知らなかった?ことりのお腹には今、膣があるんだよ。授業でやった。ゴム?使ってたけど、あれも、完全に避妊できるわけじゃないでしょ?油断してたの?この間測った証拠もあるし、今、新しい妊娠検査薬買ってきてもいいけど、どうする?」
何も言葉がでてこなくて、ただ、はくはくと口を動かす。
この間?いつ?記憶を探って、不自然に意識が途切れた日のことを思い出した。エッチしたあとすぐに眠くなって、意識を手放した日があったのだ。あの日?
「⋯⋯信じない。僕⋯⋯わっ、別れるって言った⋯⋯っていうか、僕らそもそも付き合ってなぃ⋯⋯」
そう言い切る前に、触れたら切れてしまいそうなほど、鋭い視線が僕を射抜いた。鋭さを増した神崎くんのフェロモンに怯えて動けない。すると、神崎くんはふっと表情を弛め、いつもの優しい声で僕の頭を柔らかに撫でた。
「だから、別れないって何度言えば分かるの?ことりは自分のために、新しく芽生えた命を捨てるの?酷いね。」
捨てる?捨てるなんて、そんなこと⋯⋯
「捨てっ⋯⋯。す、捨てない⋯⋯大丈夫。僕、僕は⋯⋯1人でこの子を育てる。」
息を飲んだ音がした。少しの沈黙が流れて不安になり、神崎くんの顔色を伺うと、急に景色が横に流れた。
横っ面が殴られた⋯⋯んだと思う。僕はその衝撃で吹っ飛び、あちこちをぶつけたので、正確なことはよくわからなくなった。
神崎くんは、吹き飛んだ俺の顔に、その整った顔を近づけると、安心させるように柔らかい笑みを零した。
「はぁ⋯⋯俺との子供を1人で育てる?ダメ。ダメだよ。ことりは俺と居なきゃダメなの。ね、ずっと一緒にいるって言って?」
急に殴られて、状況をうまく呑み込めずに呆けている僕には、神崎くんが何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、答えて」
「???わかんない⋯⋯怖い⋯⋯」
もう、なにもかも怖かった。僕のお腹に宿ったという命も、殴られることも、神崎くんも全部。
「⋯⋯そうだね、怖いね、ごめん。でも、俺、ことりのこと好きで⋯⋯ほんとに、これ以上ないくらい好きだから、こんな⋯⋯好き、好きだよ。愛してる。ことりも俺のこと愛してくれる?お願い『そうだよ』って言って⋯⋯」
縋るように肩を掴まれるが、神崎くんに寄せる同情よりも、僕の中では殴られた衝撃の方が大きかった。
僕だって神崎くんのこと愛してた。無表情のクールな感じも好きで、なんやかんや変人の僕にも付き合ってくれる優しいところとか、ところどころ見せる甘さとか、エッチの時、噛み付いて離さないみたいな獰猛な顔するワイルドなところとか⋯⋯でも、でも⋯⋯
「僕は、神崎くんのこと愛してた⋯⋯と思う。うん、ものすごく愛してた⋯⋯でも今は、わかんない。ただ、怖い。怖いよ⋯⋯」
僕の心の中には、神崎くんとの間にもう埋められないほど深い溝ができていた。
それが悲しくて、酷く切なくて、堪えきれなかった涙があふれる。
「⋯⋯」
ぼやけた向こうの神崎くんは、どんな顔をしているのかさえ分からない。
「──ぅ」
ふいに、項に鋭い痛みが走った。歯が突き立てられたのだ。
「あ~あ、ことりがΩなら、運命の番なら良かった。──そしたら運命の約束で、ずっと一緒にいられた。」
「でも、しょうがないね」と、独り言のようにそう神崎くんは呟いた。その悲痛な言葉が、悲しかった。その隣に寄り添えなくなってしまったことが虚しかった。僕の首の裏についた血を舐めとると、神崎くんは、横抱きに僕を抱いたまま、どこかへ向かった。
「⋯⋯行こっか。こら、危ないから暴れないで」
少し身じろいだだけで、神崎くんの腕が僕をぎゅうぎゅうに締め付けて、逃げられそうもない。どこに向かってるんだろう、部屋を出ると、その先は暗くて何も見えなかった。
部屋のドアと思しきものが、いくつか開けられた。神崎くんが立ち止まったところを見ると、目当ての場所に着いたようだった。電灯が付けられ、真っ暗な廊下と電気をつけた部屋の明度の差に驚き、目を瞬かせる。
そこは生活感も何も無い白い部屋だった。
何故か、ここにいてはいけないような気がした。第六感とも言うのかもしれない。命の危機を感じたのだ。腕の中から降ろされた時、隙を見て逃げようとした。すると、それを見た神崎くんにまた殴られた。今度は逆の頬だった。今回は1発だけではなく、その後も、2発、3発と容赦なく拳が打ち付けられた。ガツンガツンという音が耳の近くで鳴り、ぼうっとした痛みだけが残った。
「こら、逃げないの。俺だってあんまり殴りたくないし、赤ちゃんのためにも良くないでしょ?」
真っ当な顔でそんなことを言う神崎くんの姿に、僕は言葉を失った。放心している間に、手錠と足枷が付けられた。ひんやりとした感触が肌に馴染む共に、僕はもう、この男から逃げられないのだという実感が染み込んだ。
「じゃあ、ことり。頑張って俺のこと、もう1回好きになってね?」
その言葉の真意を探る。
彼の美しい笑顔は、おぞましく僕の目に映り──薄いはずの腹が蠢いた、気がした。
□
正直、子どもなんてどうでもいい。うるさくて嫌いだし、俺のそばには、ことりさえいればいい。でも⋯⋯ことりが離れようとしているのに気づいた日からずっと、コンドームに穴を開けていた。妊娠させる気だった。アルファとベータの着床率は低いけど、孕ませる気でいることを悟られなければどうということも無い。子どもができたら俺から離れないようになる──ことりを縛る鎖になると思った。俺はある種、子どもを道具のように見ていたのだ。
──でも、俺とことりの子ならきっと可愛いし、愛おしい。ことりの腹が膨らむにつれ、そんな風に俺の考えは変化していた。ことりのものなら、なんでも愛おしく思えてくる。お土産で貰ったキーホルダーだって、以前までだったら鉄の塊にしか見えなかったのに、ことりが選んで贈ってくれたという事実だけで、宝物に見える。
そう、ことりはいつも俺をたくさん変えてくれる。恋とか愛とかに辟易していた俺の心を動かしてくれたし、興味のなかった世界を色づかせた。ことりと話すと、表情筋が筋肉痛になっているのは、多分勝手に頬が緩んでいるからだろう。雰囲気が柔らかくなったね、って言われるのもことりのおかげだ。以前は1人の人に執着するなんて考えもしなかった。だってただの肉だし。でも、ことりは違う。離れがたくて、そばに居ると落ち着いて、死んでもずっと俺の傍にいて欲しいと思う。これが俺の運命だった。
項の痛々しい噛み跡を見る度、そう思う。ことりに会うまで、自分がこんなにも利己的で、理性のない人間だったとは知らなかった。
大好きだったから、甘やかして、でろでろにした。ことりも俺のことが好きで、付き合ってると思っていた。でも、ことりは俺の「身体」だけが好きだった。一緒に居られるように色々した。でも、どう足掻いても、俺たちはセフレのままで、一緒にいられるなら、それでもいいやって思った。でも、ことりが俺から離れようとしたから──
『ありがとう。さようなら。』
拳を壁に力強く叩きつけた。思ったより力が強かったらしく、皮膚が剥がれて血が出ている。でも、胸の痛みに比べれば全然気にならない。赤い色を見て、ふと、ことりに余計なことを吹き込んだ愚かな許嫁のことを思い出した。「番」に執着していたアイツ。その不味い血の味と、最後の悲痛な叫びが思い起こされる。
⋯⋯まぁ、どうでもいいや。不快だし。
「⋯⋯ことり、どうしてるかな」
現実逃避をするように、俺はことりの部屋へ続く廊下へ出た。
「神崎くん」
ドアを開けると、ことりが出迎えてくれた。足の鎖が重そうだな、と頭の中で軽量化を検討する。
しばらく、あの部屋で過ごしているうちに、恋人は、俺に愛を囁いてくれるようになった。おずおずと近くに寄ってきてくれる姿が微笑ましい。
「どうしたの?」
「あの、好き、好きだよ。もっと一緒にいたい。だから──お願い、ここから出して。最近、お腹も苦しいんだ⋯⋯」
「⋯⋯そっか、俺も好き。でも、ごめん。ここからは出せない⋯⋯ごめんね、薬、とってくるね。」
その体や顔にあるアザを、見て見ぬふりした。あまりに痛々しくて、自分がつけたものだなんて認めたく無かった。
俺は、ことりが好きすぎておかしい。自分がいなくなる感覚が怖い。大好きで、愛でたいけど、時々、原型がなくなるまでぐちゃぐちゃにしてやりたいという欲望が湧く。ことりがいた方が幸せだから、そんなことしないけど。ことりが傍にいてくれる時だけ、俺は本当に安心出来る。俺のままでいられる。ことりがいなくなったときのことなんて、考えたくもない。
1人じゃ寂しいかなと思って、最近、ベッドの他にぬいぐるみやふわふわのクッションやらを白い部屋に運び込んだ。ことりはでかいクマのぬいぐるみを気に入っているようで、寝る時はこれを抱きしめて寝ている。可愛い。
ことりは、時折取り憑かれたように、俺に懺悔の言葉を繰り返す。その姿を見るといたたまれなくて、こんなはずじゃなかった、と後悔しながら、この状況を必然と捉える自分もいる。最近、ことりが俺の事を好き好き言うようになったのは、油断させる作戦だと踏んでいる。でも、嘘でも嬉しくて、どうしても頬が緩んでしまう。
「早く、産まれてきてね」
ことりの少し張った腹を撫でると、その体が跳ねた。怯えているのだろうか、俺は震えることりの肩を引き寄せ、首筋に舌を這わせる。うん、そうだね、まだ俺が怖いんだろうな。でも、ごめんね、逃がせない。
執着心を上塗りするように、既にいくつもの歯型が重なった項に、噛み付いた。
END
ソバカスの散った平凡な顔と、貧弱で痩せっぽっちな体を持つ僕とは比べるのもおこがましい。
──とはいえ、妄想はする。
あの少しツンツンと主張する髪に触れたら、どんな心地がするだろう。あのグレーに透ける切れ長の瞳に見つめられたら、どんなに幸せだろう。などと、そんな妄想を日夜繰り返している。ああ、甘々に溶かされて、口の端から覗く八重歯に噛みつかれたい⋯⋯流石にこれは高望みし過ぎか。
「小鳥遊~お前、妄想が口から出てるぞ」
幼なじみの火鳥が横から口を出す。こいつはα。それでもって神崎くんと仲が良いグループに属していて、他校に彼女もいる。正直人生勝ち組だ。
この学園にはαからΩまでいるが、その実男しかいない。だから、いくつかの暗黙の了解がある。例えば、学園での関係は卒業後まで持ち越されないとか、あと⋯⋯
「また神崎か?」
「うん」
「よくもまぁ飽きねぇな」
「いや、神崎くんに飽きる?ありえない。天変地異が起きてもない。」
火鳥がからかうように笑った。
「つか、お前βだろ?『項に噛みつかれたい⋯⋯♡』の?」
「わ、やめてよ!真似しないでそんな大声で!周りに人いるんだよ?!⋯⋯確かに僕はβだけど、偽物でも、あ、証が欲しいなって⋯⋯」
「キッッショ」
「!!」
歯に衣着させすぎない物言いに、半泣きになる。
「でも、お前、どうせそんな度胸もないじゃん」
「ある!今は無いけど、神崎くんのためなら出る!」
そう言って拳を握りしめたとき、耳元で心地の良い声が響いた。
「俺が何?」
「か、神崎くん!」
口をパクパクさせるが、その後が続かない。というか、僕の今の妄想、聞かれてたんじゃ⋯⋯?!
「神崎~聞いてた?コイツ、キモくね?」
「聞いてた⋯⋯?何を?⋯⋯つか、小鳥遊くんはキモくないだろ」
ほんとに聞こえてなかったのか、気を使ってくれてるのか、キモすぎて口にも出せないのかは分からないが、キモイ認定されなくて良かった⋯⋯!本当に聞かれてないといいけど。
火鳥が目配せする。なんだ?顔を近づけると、こっそりと耳打ちされる。
「こんなチャンス滅多にないだろ?今年卒業だし、ない勇気出して告白すれば?」
「なっ⋯⋯!」
火鳥の言い方はムカつくが、まぁ、概ねその通りだ。僕はあと3ヶ月程度しか神崎くんの姿を見られない。卒業してしまったら、住む世界がまるで違う神崎くんと話せる日なんか一生来ない。だったら、今ここで──決心を固めるように、拳を跡がつくほど強く握りしめた。
「神崎くん!」
突如発された大声に、ギョッとした様子の神崎くんがこちらをみる。どうやら驚かせてしまったみたいだった。お腹の底から息を吸って、神崎くんの目をしっかり見つめる。
「あ、あのっ、おこがましいお願いですけど、僕、僕を⋯⋯神崎くんのセフレにしてください!」
「「⋯⋯は?」」
突然の事態に神崎くんの顔は、引いていた。ドン引きしていた。ついでに火鳥も天井を仰いでいた。
「せ⋯⋯なんて?」
神崎くんは、整った眉毛を歪めて問いかけた。どうしよう、勢いあまって変なことを言ってしまったかもしれない。完全に困惑させてしまっている。終わった⋯⋯。自分の顔が耳まで赤いのがわかった。しどろもどろになりながら、口を動かす。
「う、あ、せ、セフレです!その、僕、神崎くんのセフレにして欲しくて⋯⋯!」
聞き間違いではないことを認識した神崎くんは、暫し硬直した後
「⋯⋯いいよ」
と信じられない返答をした。
「へ?」
まさか、こんな提案が通るとは思ってもいなかったので、とても間抜けな声を出してしまう。神崎くんはスマホを取りだし、「連絡先教えて?」と促した。
「あ、え?あ、えっとじゃあこれ僕の連絡先です⋯⋯呼ばれたら行くから、気軽にどうぞ⋯⋯?」
僕の頭は?でいっぱいで、全く現実感がなかった。何を言ったかも、その後どう帰ったかも記憶に定かではなかった。
◆
次の日の放課後、神崎くんから連絡があって、『寮の部屋で待ってる』『206』と、部屋番号を告げられた。
僕はまだ夢の中にいる心地だった。足元がふわふわしておぼつかない。新たなメッセージが送られてきたことを通知する振動によって、僕は意識を現実に戻す。
うわぁ、スタンプだ。クマさんが覗いてる。可愛い⋯⋯このスタンプを神崎くんが送ってると思うと、微笑ましくて頬が緩む。また、意識をどこかにとばしそうになりながらも、すぐに既読をつけると、了解の返信をした。
即座に神崎くんのもとへ向かおうとして、自分がそういった経験を持ち合わせていないことに気づき、扉の前で立ちどまった。
男同士のときは、お尻を使うことは知ってる。火鳥が「しっかりほぐせよ」などとほざいていたから、挿入する?にあたって、なにかしらの処理をしなければならないのだろうということは察せた。調べてみると、いくつかの方法が示された。うぉ、うわぁ⋯⋯へぇ、こんなことするんだ⋯⋯。見たところ、少し時間がかかりそうだったので、神崎くんに「申し訳ないけど、少し待っててください」とだけ送り、僕は準備に取りかかった。
◆
「遅かったね?」
指定された部屋に着くと、神崎くんはベッドの上に座って、僕を待ってくれていた。僕が遅れたことに怒っているのか、少し不機嫌そうな声色だ。
「ちょっと色々あって⋯⋯ごめんなさい。」
後ろの準備に手間取ったとか言うの恥ずかしいし、未経験だとバレて面倒くさがられても嫌だから、曖昧に答えた。
「ふーん⋯⋯?まぁいいや、座って。」
神崎くんは自分の隣に空いたスペースを叩く。
隣に座ると、神崎くんの顔が近づいてきて、啄むような優しいキスをされた。それを何度か繰り返すと、唇が食まれ、開けるように促された。僕はもちろん、指示された通りに口を開ける。
柔らかい、優しい、嬉しい、夢みたい⋯⋯混乱しながらも僕の胸には温かい気持ちが渦巻いていた。ただのセフレに、キスなんかしてもらえないと思っていた。こんな僕と唇を重ねてくれる、神崎くんの慈悲深さに泣きそうになる。甘いキスを繰り返して、そのまま、ゆるりとベットに押し倒された。自然な流れすぎてビックリした。スマート!かっこいい!推せる!胸がときめきで潰れそうなぐらい痛い。可愛らしいリップ音を立てて、唇が離された。
何か言いたげに、その形の良い唇が震える。なんだろう?萎えたわお前、もういいから帰ってくれ、とか?⋯⋯それだったら怖すぎる。でも、その可能性も捨てきれないのがもっと怖い。
「どうかしましたか?」
「⋯⋯触ってもいい?」
「ど、どうぞ!⋯⋯あ、脱ぎます?いや、脱ぎますね!」
神崎くんの色気に当てられて、ドギマギしてしまう。今だって食い気味に答えて、キモかったと思う。神崎くんのお手を煩わせるわけにはいかないので、自分でシャツを脱ぎ、ズボンをずり下ろした。突飛な僕の行動に、神崎くんは少し驚いた様子だったが、その手がそっと太ももを撫でた。
「すべすべ⋯⋯肌が白いからすぐ赤くなるね?可愛い」
神崎くんは、きっと真っ赤な顔をしているだろう僕を見て、悪戯な笑みを浮かべた。
「ひぇ」
カワイイ?かわいい??可愛い???可愛いの可愛い?
変な声出たし、きっと、顔も変な顔になっている。熱を持った顔を腕で隠すと、蕩けるような甘い声が上から降ってきた。
「ねぇ、顔見たい。見せて⋯⋯?」
ずるい。イケメンに良い声でそう言われると、見せない訳にはいかない。
顔を出すと、ソバカスをなぞるように、キスの雨を降らされた。神崎くんの表情は柔らかく、目が合うと少し微笑んでくれた。……何これ、甘い。恋人みたい──
頭の中に浮かんだ馬鹿な考えを振り払った。いや、こんなこと二度と起きないんだから、心のアルバムには保存するし、これから先もこれを糧にニヤニヤするけど、その勘違いはダメだ。だから、俺は神崎くんの顔を目に焼き付けようとして、じっと見つめた。
目が合って「何見てるの」と微笑まれて死んだ。
体をひっくり返されて、お尻の中に指を突っ込まれる。びっくりしたけど、そうだ、男同士だとお尻を使うんだったと思い出した。
「⋯⋯お尻、柔らかいね?」
さっきより少し、神崎くんの声が硬い気がした。部屋で解してきたのがマズかったのだろうか。ぐちぐちと指が動かされ、確かめるように、中のしこりが押される。まるで、「ここを潰すぞ」と脅されてるみたいな⋯⋯
「っ!⋯⋯はうっ⋯⋯えっと、経験がなかったので、じ、自分でちょっと⋯⋯」
「⋯⋯え?あ、準備してきてくれたの?そっか、ごめんね。俺、邪な人間だから⋯⋯待って、初めてってこと?」
神崎くんは、申し訳なさそうに項垂れた。心做しかいつも空を刺しているツンツンヘアーも垂れている。かと思えば、何かに気づいたように、ハッとしたように顔を上げた。いつも無表情の姿しか見たことないから、表情がコロコロ変わる神崎くんなんて新鮮。可愛い。
「可愛い?俺が?」
しまった。声に出てた。慌てて口を抑えるも、もう遅い。
「⋯⋯可愛いとか初めて言われた。嬉しいけど、かっこいいって言われたい。」
「もちろん神崎くんは世界で1番かっこいいです!!」
一息で食い気味に言い切ると、神崎くんは楽しそうに笑った。少し幼くみえる笑顔に、心臓が跳ね、ぎゅっと締め付けられる。
「はは、うん。もっとかっこいいって思って貰えるように抱くね。」
艶やかな囁きとともに、身体に神崎くんの影がかかった。その色気にあてられて、熱が引いてきていた顔が、また真っ赤に染まったのがわかった。
◆
その日から、時々神崎くんの部屋に呼び出されるようになった。エッチをする時もあったけど、最近は呼び出されて他愛もない話をするだけの日も増えてきていた。僕はその時間が大好きで、特に「ん?」って感じで神崎くんが僕の話を聞く仕草に何度も心臓を撃ち抜かれた。神崎くんが発する雰囲気が甘すぎて、自分が大事に扱われているように錯覚してしまう。
朝、少しだけ神崎くんと話した帰り、食堂で偶然火鳥に会った。神崎くんとのことを聞かれたので、ところどころ端折りながら、神崎くんの素晴らしさを熱弁する。火鳥はコーヒーを啜りながら、興奮して鼻息荒く語る僕を一瞥した。
「ふぅん、ことりが楽しいなら良いけどさ⋯⋯大丈夫?虚しくならねぇ?」
虚しい?とんでもない!今僕は、史上最強に満たされている。安心してほしいという旨を伝えると、また「ふぅん、ならいいや」と興味なさげにコーヒーを啜った。
その後も、特に呼び出しがなかったので、僕は学食から自分の部屋に戻っていたところだった。ふと、神崎くんの部屋、206号室がある棟に視線をやると、神崎くんと可愛い男の子が寮の中に入っていったのが見えた。それだけだったら、友達だと思えたかもしれない。男の子は首にチョーカーをしていて、神崎くんの腕に手を絡めて歩いていた。おまけに寮の前で立ち止まると、少し背伸びをし、可愛らしくキスをしていたのだ。
その光景を見て、頭が真っ白になった。微かに開いた唇から、乾いた息が漏れる。不意に、さっきの火鳥の言葉が頭によぎった。
『ふぅん、ことりが楽しいなら良いけどさ⋯⋯大丈夫?虚しくならねぇ?』
ごめん、そうだね。虚しい。
僕が、気づいてないだけだった。
満たされていると思っていた心が、一瞬で干からびて空っぽになったように感じた。それで、今までのことは、全て一時的に見ていた幻だったのだと悟った。
堪えきれなかった涙が溢れる。前まではただの憧れだったのに、気持ちが大きくなりすぎて好きになってしまったのだ。ずっと、あの頃のまま、遠くから見つめているだけだったらこんなに苦しくならずに済んだのかもしれない。以前のままだったら、多分「離れたくない」なんて大それたこと思わなかった。笑って送り出せたのに⋯⋯いつから僕はこんなに欲張りになったんだろう。
2人の姿を見ていられなくて、僕はどこへ向かうでもなく、とりあえず反対方向に向かうため、即座に踵を返した。
⋯⋯後に、先程のΩが神崎くんの許嫁であることを知った。本人が僕の元に来て、教えてくれたのだ。
『僕ら、許嫁なんです。』
彼は気恥しそうに笑った。卒業したら、番契約をして一緒になるのだと、そう、伝えられた。
『彼も、僕のことを好いてくれていて──』
その先は聞こえなかった。耳が聞くことを拒否していたのだと思う。たた、「許嫁」「番」という文字が僕の頭の中をぐるぐる回った。
僕は、現実を突きつけられたのだ。
⋯⋯僕達はただのセフレだ。しかもαとβ。学園を卒業したら、離れなきゃいけない。離れられるようにしなきゃ。そう思って、僕は神崎くんと距離を置くことを決意した。僕らの関係に、制限時間がつけられた瞬間だった。
◆
ある日、いつものように神崎くんに呼び出され、世間話や雑談をしていた。僕は話が少し落ち着いたところで荷物を纏めて、帰ろうとした。
「待って」
すると、神崎くんが立ち上がろうとした僕の服を引っ張り、その衝撃で僕はまたベッドに引き戻された。
「⋯⋯もうちょっといないの?」
「⋯⋯うん」
「なんで?」
僕が頷くと、間髪入れずに神崎くんは尋ねた。
なんで?僕達は卒業したら離れなきゃならないから。一緒にいると、どんどん好きになって苦しくなるから。でもそんなこと言えない。
「⋯⋯」
黙っていると、神崎くんの僕の腕を握る力が強くなった。
「最近、エッチしないから?」
「え⋯⋯?」
「俺は、喋ってるだけでも楽しかったけど、ことりはそうじゃないんだ?」
「⋯⋯楽しいよ」
半分ホントで半分嘘だ。神崎くんの隣にいられるのはすごく楽しくて幸せだけど、最近は苦しくて胸がジクジクと痛む。
「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる?」
神崎くんの許嫁の顔が頭をよぎった。動揺を悟られたくなくて、目を伏せる。
「ぼ、僕達、セフレだし⋯⋯」
それに、αとβだし
「じゃあ、付き合う?」
なんでもないことのように、そんな提案がされた。そんなにも簡単に、僕が心の底から欲しくて⋯⋯でも叶わない夢だからと諦めていた物を、目の前に出されるとは思っていなかったからどうにも狼狽えてしまう。正直に言えばすごく嬉しいし、以前までの僕なら二つ返事でその申し出を受け入れていただろう。でも、今は──神崎くんに本当の恋人がいるのを知っている。そんなこと、軽々しく受け入れられなかった。
2人の間に重い沈黙が流れた。
「⋯⋯そっか。ことりはいつもそうだ。俺の事『好き』とか言いながら、[[rb:飄々 > ひょうひょう]]としてて、最近はすぐ帰るし、なんで?ようやくこっち向いてくれたのかなって思ったのに⋯⋯はぁ、結局ずっと、俺ばっかが好きなんだ」
神崎くんが好き?何が?僕?そんなこと……そんなことありえない。
「え?え⋯⋯?僕の方が好きだよ神崎くん⋯⋯」
「⋯⋯はは」
神崎くんは乾いた笑いを零して、僕に覆いかぶさった。顔にはっきり「信じられない」と書いてあった。不安そうに顔を歪ませる神崎くんの気持ちを落ち着かせたくて、僕は唇を重ねた。
一瞬、驚いた顔をしたように見えたけど、神崎くんはすぐに無表情に戻った。
「⋯⋯そうだね、俺たちの関係ってセフレだった。」
僕を抱き上げ、ベッドに寝かせると、神崎くんは、僕の上に覆いかぶさった。その目は悲痛な色に染まっていて、「絶対に離さない」とでもいうように、僕をベッドに縫いつけた。その熱の篭った視線に、また勘違いをしそうになって、暴れ出す恋心を必死に抑えつけた。
◆
──あの日も、僕は性懲りも無く、また神崎くんに甘く抱かれてしまった。離れがたい気持ちを捨てきれないまま、卒業の日付だけが迫ってくる。
切って貼ったように繰り返される日々の中で、少しだけ変化があった。それは、以前より頻繁に神崎くんから呼び出しが来るようになったことだ。あの日のことを思い出すと、何故か腹の奥で何かが疼いた。
「今日も俺の部屋来てくれない?ダメ⋯⋯?」
「了解です」
「待ってる」
「ことりの部屋に行ってもいい?」
「いいですよ。でも、こっちだと話すだけになりそうです。」
「了解、今から行く。」
「今日って大丈夫?」
「ちょっと、今日は⋯⋯ごめんなさい」
「いや、大丈夫。こっちこそ連日でごめん」
「今日って会える?」
「今日もダメ?」
「いつなら大丈夫?」
──最近は、顔を見ただけでも思いが溢れだしそうで苦しくて、会うこと自体をできるだけ断るようにしている。
でも、神崎くんとは明日でお別れだ。明日、僕らは卒業してこの学園を出る。多分その後の人生で彼に会うことは無いだろう。きっと住む世界が違いすぎるし⋯⋯神崎くんは番ができる。そう、だから、会えない。これで最後。最後に、お別れを言いに行くだけ──
「明日なら空いてます」
僕は、未練がましいメッセージを送った。
◆
寮から出て、指定された部屋に着くと、神崎くんは初めて訪れた時のように、ベッドに腰掛けていた。
「久しぶり」
柔らかな笑みにときめいて、顔が熱をもつ。舞い上がった気持ちを抑えつけるように、準備してきた言葉を紡いだ。
「久しぶり⋯⋯今日、卒業だね」
神崎くんが、唐突な僕の語りに驚いているのが見て取れた。何を言うんだろうって顔してる。
「うん、そうだね?卒業しても⋯⋯」
僕は、今、夢の終わりを見ている。白昼夢を自分から覚まそうとしている。それは、映画のエンドロールの最中に立ち上がるような、冒涜的なことかもしれない。
──でも、言わなきゃ。このままだったら、きっと、離れられなくなる。震える唇を、無理やりこじ開けた。
「うん⋯⋯いや、ごめん。卒業したら、もう、会え、会えない⋯⋯夢みたいで、楽しかった。ありがとう。さようなら。」
「⋯⋯は?」
地の底を這うような声がして、僕は動けなくなった。神崎くんから放たれる緊張感が産毛を揺らす。──威圧だ。すぐ出られるようにドアの前で言ったのに、指の1本すら動かせない。
「⋯⋯ダメ。ダメだよ、別れない。だって、お腹の子どもはどうするの?」
「え⋯⋯?子ども?えっと⋯⋯え?今、なんて⋯⋯」
「だから、ことりが妊娠してるって話」
神崎くんの影が頭上にかかったかと思うと、慈しむように俺の薄い腹が撫でられて、背中が泡立った。
「結構時間かかったけど、成功して良かった⋯⋯!ね、俺とことりの子だよ、絶対可愛いね。楽しみだね。」
それこそ子供のように無邪気に笑う神崎くんの表情に気持ちが揺らいで、騙されそうになる。
「う、嘘、僕男だし、βだし⋯⋯ゴムもつけてた!そんなはずない、そんなはず⋯⋯」
どうしよう、どうしよ、許嫁の人に顔向けできない。それに、僕の存在が神崎くんの人生の障壁になってしまったら⋯⋯?そんなことって、どうしよう。
「俺、αだから、βでも孕ませられるんだけど、知らなかった?ことりのお腹には今、膣があるんだよ。授業でやった。ゴム?使ってたけど、あれも、完全に避妊できるわけじゃないでしょ?油断してたの?この間測った証拠もあるし、今、新しい妊娠検査薬買ってきてもいいけど、どうする?」
何も言葉がでてこなくて、ただ、はくはくと口を動かす。
この間?いつ?記憶を探って、不自然に意識が途切れた日のことを思い出した。エッチしたあとすぐに眠くなって、意識を手放した日があったのだ。あの日?
「⋯⋯信じない。僕⋯⋯わっ、別れるって言った⋯⋯っていうか、僕らそもそも付き合ってなぃ⋯⋯」
そう言い切る前に、触れたら切れてしまいそうなほど、鋭い視線が僕を射抜いた。鋭さを増した神崎くんのフェロモンに怯えて動けない。すると、神崎くんはふっと表情を弛め、いつもの優しい声で僕の頭を柔らかに撫でた。
「だから、別れないって何度言えば分かるの?ことりは自分のために、新しく芽生えた命を捨てるの?酷いね。」
捨てる?捨てるなんて、そんなこと⋯⋯
「捨てっ⋯⋯。す、捨てない⋯⋯大丈夫。僕、僕は⋯⋯1人でこの子を育てる。」
息を飲んだ音がした。少しの沈黙が流れて不安になり、神崎くんの顔色を伺うと、急に景色が横に流れた。
横っ面が殴られた⋯⋯んだと思う。僕はその衝撃で吹っ飛び、あちこちをぶつけたので、正確なことはよくわからなくなった。
神崎くんは、吹き飛んだ俺の顔に、その整った顔を近づけると、安心させるように柔らかい笑みを零した。
「はぁ⋯⋯俺との子供を1人で育てる?ダメ。ダメだよ。ことりは俺と居なきゃダメなの。ね、ずっと一緒にいるって言って?」
急に殴られて、状況をうまく呑み込めずに呆けている僕には、神崎くんが何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、答えて」
「???わかんない⋯⋯怖い⋯⋯」
もう、なにもかも怖かった。僕のお腹に宿ったという命も、殴られることも、神崎くんも全部。
「⋯⋯そうだね、怖いね、ごめん。でも、俺、ことりのこと好きで⋯⋯ほんとに、これ以上ないくらい好きだから、こんな⋯⋯好き、好きだよ。愛してる。ことりも俺のこと愛してくれる?お願い『そうだよ』って言って⋯⋯」
縋るように肩を掴まれるが、神崎くんに寄せる同情よりも、僕の中では殴られた衝撃の方が大きかった。
僕だって神崎くんのこと愛してた。無表情のクールな感じも好きで、なんやかんや変人の僕にも付き合ってくれる優しいところとか、ところどころ見せる甘さとか、エッチの時、噛み付いて離さないみたいな獰猛な顔するワイルドなところとか⋯⋯でも、でも⋯⋯
「僕は、神崎くんのこと愛してた⋯⋯と思う。うん、ものすごく愛してた⋯⋯でも今は、わかんない。ただ、怖い。怖いよ⋯⋯」
僕の心の中には、神崎くんとの間にもう埋められないほど深い溝ができていた。
それが悲しくて、酷く切なくて、堪えきれなかった涙があふれる。
「⋯⋯」
ぼやけた向こうの神崎くんは、どんな顔をしているのかさえ分からない。
「──ぅ」
ふいに、項に鋭い痛みが走った。歯が突き立てられたのだ。
「あ~あ、ことりがΩなら、運命の番なら良かった。──そしたら運命の約束で、ずっと一緒にいられた。」
「でも、しょうがないね」と、独り言のようにそう神崎くんは呟いた。その悲痛な言葉が、悲しかった。その隣に寄り添えなくなってしまったことが虚しかった。僕の首の裏についた血を舐めとると、神崎くんは、横抱きに僕を抱いたまま、どこかへ向かった。
「⋯⋯行こっか。こら、危ないから暴れないで」
少し身じろいだだけで、神崎くんの腕が僕をぎゅうぎゅうに締め付けて、逃げられそうもない。どこに向かってるんだろう、部屋を出ると、その先は暗くて何も見えなかった。
部屋のドアと思しきものが、いくつか開けられた。神崎くんが立ち止まったところを見ると、目当ての場所に着いたようだった。電灯が付けられ、真っ暗な廊下と電気をつけた部屋の明度の差に驚き、目を瞬かせる。
そこは生活感も何も無い白い部屋だった。
何故か、ここにいてはいけないような気がした。第六感とも言うのかもしれない。命の危機を感じたのだ。腕の中から降ろされた時、隙を見て逃げようとした。すると、それを見た神崎くんにまた殴られた。今度は逆の頬だった。今回は1発だけではなく、その後も、2発、3発と容赦なく拳が打ち付けられた。ガツンガツンという音が耳の近くで鳴り、ぼうっとした痛みだけが残った。
「こら、逃げないの。俺だってあんまり殴りたくないし、赤ちゃんのためにも良くないでしょ?」
真っ当な顔でそんなことを言う神崎くんの姿に、僕は言葉を失った。放心している間に、手錠と足枷が付けられた。ひんやりとした感触が肌に馴染む共に、僕はもう、この男から逃げられないのだという実感が染み込んだ。
「じゃあ、ことり。頑張って俺のこと、もう1回好きになってね?」
その言葉の真意を探る。
彼の美しい笑顔は、おぞましく僕の目に映り──薄いはずの腹が蠢いた、気がした。
□
正直、子どもなんてどうでもいい。うるさくて嫌いだし、俺のそばには、ことりさえいればいい。でも⋯⋯ことりが離れようとしているのに気づいた日からずっと、コンドームに穴を開けていた。妊娠させる気だった。アルファとベータの着床率は低いけど、孕ませる気でいることを悟られなければどうということも無い。子どもができたら俺から離れないようになる──ことりを縛る鎖になると思った。俺はある種、子どもを道具のように見ていたのだ。
──でも、俺とことりの子ならきっと可愛いし、愛おしい。ことりの腹が膨らむにつれ、そんな風に俺の考えは変化していた。ことりのものなら、なんでも愛おしく思えてくる。お土産で貰ったキーホルダーだって、以前までだったら鉄の塊にしか見えなかったのに、ことりが選んで贈ってくれたという事実だけで、宝物に見える。
そう、ことりはいつも俺をたくさん変えてくれる。恋とか愛とかに辟易していた俺の心を動かしてくれたし、興味のなかった世界を色づかせた。ことりと話すと、表情筋が筋肉痛になっているのは、多分勝手に頬が緩んでいるからだろう。雰囲気が柔らかくなったね、って言われるのもことりのおかげだ。以前は1人の人に執着するなんて考えもしなかった。だってただの肉だし。でも、ことりは違う。離れがたくて、そばに居ると落ち着いて、死んでもずっと俺の傍にいて欲しいと思う。これが俺の運命だった。
項の痛々しい噛み跡を見る度、そう思う。ことりに会うまで、自分がこんなにも利己的で、理性のない人間だったとは知らなかった。
大好きだったから、甘やかして、でろでろにした。ことりも俺のことが好きで、付き合ってると思っていた。でも、ことりは俺の「身体」だけが好きだった。一緒に居られるように色々した。でも、どう足掻いても、俺たちはセフレのままで、一緒にいられるなら、それでもいいやって思った。でも、ことりが俺から離れようとしたから──
『ありがとう。さようなら。』
拳を壁に力強く叩きつけた。思ったより力が強かったらしく、皮膚が剥がれて血が出ている。でも、胸の痛みに比べれば全然気にならない。赤い色を見て、ふと、ことりに余計なことを吹き込んだ愚かな許嫁のことを思い出した。「番」に執着していたアイツ。その不味い血の味と、最後の悲痛な叫びが思い起こされる。
⋯⋯まぁ、どうでもいいや。不快だし。
「⋯⋯ことり、どうしてるかな」
現実逃避をするように、俺はことりの部屋へ続く廊下へ出た。
「神崎くん」
ドアを開けると、ことりが出迎えてくれた。足の鎖が重そうだな、と頭の中で軽量化を検討する。
しばらく、あの部屋で過ごしているうちに、恋人は、俺に愛を囁いてくれるようになった。おずおずと近くに寄ってきてくれる姿が微笑ましい。
「どうしたの?」
「あの、好き、好きだよ。もっと一緒にいたい。だから──お願い、ここから出して。最近、お腹も苦しいんだ⋯⋯」
「⋯⋯そっか、俺も好き。でも、ごめん。ここからは出せない⋯⋯ごめんね、薬、とってくるね。」
その体や顔にあるアザを、見て見ぬふりした。あまりに痛々しくて、自分がつけたものだなんて認めたく無かった。
俺は、ことりが好きすぎておかしい。自分がいなくなる感覚が怖い。大好きで、愛でたいけど、時々、原型がなくなるまでぐちゃぐちゃにしてやりたいという欲望が湧く。ことりがいた方が幸せだから、そんなことしないけど。ことりが傍にいてくれる時だけ、俺は本当に安心出来る。俺のままでいられる。ことりがいなくなったときのことなんて、考えたくもない。
1人じゃ寂しいかなと思って、最近、ベッドの他にぬいぐるみやふわふわのクッションやらを白い部屋に運び込んだ。ことりはでかいクマのぬいぐるみを気に入っているようで、寝る時はこれを抱きしめて寝ている。可愛い。
ことりは、時折取り憑かれたように、俺に懺悔の言葉を繰り返す。その姿を見るといたたまれなくて、こんなはずじゃなかった、と後悔しながら、この状況を必然と捉える自分もいる。最近、ことりが俺の事を好き好き言うようになったのは、油断させる作戦だと踏んでいる。でも、嘘でも嬉しくて、どうしても頬が緩んでしまう。
「早く、産まれてきてね」
ことりの少し張った腹を撫でると、その体が跳ねた。怯えているのだろうか、俺は震えることりの肩を引き寄せ、首筋に舌を這わせる。うん、そうだね、まだ俺が怖いんだろうな。でも、ごめんね、逃がせない。
執着心を上塗りするように、既にいくつもの歯型が重なった項に、噛み付いた。
END
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