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第12話 条件で落ちない女
第12話 条件で落ちない女
その日の夕刻、王宮南棟の応接室は、必要以上に整えられていた。
整えられすぎた部屋というのは、それだけで少し腹立たしい。机の位置、茶器の並び、椅子の間隔。どれもきっちりしすぎていて、これから交わされる会話が最初から“整っているもの”として扱われている感じがするからだ。
もちろん、実際にはそんなことはない。
中に入る人間が面倒なら、どんな部屋でも面倒になる。
キャル・キュレイションは、応接室へ通される前から、すでに本気で帰りたくなっていた。
「嫌ですね」
控え室としてあてがわれた小部屋で、ぽつりとそう言う。
向かいにいたルネ・ベルティエが、静かに頷いた。
「ええ」
「今日は特に嫌です」
「でしょうね」
今日は財務局長もいる。外交局の役人もいる。造幣局からも一人出ている。つまり、“会うだけならまだまし”と言われた相手に会うために、かなりきちんと場が整えられているわけだ。
整えられているが、嬉しくはない。
「念のため確認しますが」
キャルはまっすぐに言った。
「嫌なものは嫌だと申し上げていいんですよね」
「それは昨日も言った」
返したのはシリルだった。
控え室の奥、窓辺のところに立っている。
今日は応接の場には出ない。
出ないが、控え室までは来る。
そのあたりが本当に質が悪い。
「殿下は出ないのでは」
キャルが言うと、シリルは少しだけ肩をすくめた。
「出ないよ。ここまでは別だ」
「別にしてほしくなかったんですが」
「そこは我慢してほしい」
「嫌です」
「知ってる」
知っていて来るのだから、やはり質が悪い。
局長が短く咳払いした。
「始まる前から疲れるな」
「疲れますよ」
キャルは即答した。
「まだ始まってもいないのに、もう面倒です」
外交局の役人が、いかにも“余計なことを言うな”という顔をしている。だが今さら取り繕ったところで仕方がない。
そこへ扉が叩かれた。
控えめだが、遠慮はない音だった。
外交局の役人が扉へ向かい、小さく応じる。ほどなくして戻ってきた。
「ルクセリア側、入室しました」
そうですか、と心の中だけで返す。
応接室へ入ると、レオンハルト・ルクセリアはすでに席についていた。
王太子である以上、当然といえば当然の位置だが、その姿勢には“待たされた”苛立ちより、“待つ価値があった”と判断している人間の余裕があった。
やはり嫌な感じしかしない。
補佐官がひとり、文官がひとり控えている。前回の視察より人数は少ない。つまり今回は、より話を絞っているのだろう。
キャルは定められた位置まで進み、礼を取った。
「キャル・キュレイションです」
「知っている」
レオンハルトはそう言って、こちらを見た。
視線がまっすぐすぎる。
探るというより、確認だ。“やはりそうか”とまた判断している目。
嫌である。
最初の挨拶と、儀礼的なやり取りは短かった。
財務局長と外交局が最低限の形だけ整えると、レオンハルトは驚くほど早く本題に入った。
「先日の視察では、短い時間しか取れなかった」
「はい」
「惜しかった」
その言い方にはためらいがなかった。
キャルは一瞬だけ黙ってから答える。
「そうですか」
「そうだ」
レオンハルトはそのまま続ける。
「お前のような人材は珍しい」
嫌な始まりだな、とキャルは思った。
「算術だけではない」
「はい」
「比価を読み、造幣を見、兵站にも口が出せる」
「はい」
「しかも教えられる」
そこまで言われて、キャルは少しだけ首を傾げた。
「教えるのは嫌ですが」
外交局の役人が一瞬だけ息を止めた。たぶん、そこで素直に謙遜すると思っていたのだろう。
レオンハルトは、しかし少しも気を悪くした様子を見せなかった。
「嫌いでもできるのなら、それでいい」
即答だった。
やはりそういう人間なのだ。
好きかどうかより、できるかどうか。
気分より結果。
そこまでは分かる。
分かるが、だからといって好ましいわけではない。
「ルクセリアでは」
レオンハルトが静かに言った。
「そういう人材を正当に遇する」
来たな、と思う。
「お前は王国で、少し妙な扱いを受けているように見える」
その言葉に、室内の空気がわずかに張る。
財務局長も、造幣局長も、顔色を変えはしない。だが、聞き流しているわけでもない。
キャルは少しだけ考え、それから答えた。
「妙かどうかは分かりません」
「侍女見習いの姿で、王宮の比価整理と講習をしている」
レオンハルトは淡々と言う。
「私には十分妙だ」
それは、ある意味では正しい。
だからこそ面倒なのだ。
外から見れば奇妙だろう。中にいる自分でさえ時々そう思う。侍女見習いが本業のはずなのに、どうしてこうなったのかと。
だが、その“奇妙さ”に高値をつけようとするのは、また別種の面倒だった。
「ルクセリアなら」
レオンハルトは言葉を継いだ。
「地位も与える。算術院を起こしてもいい。必要なら官位も、研究の場も、予算も与えよう」
キャルは一瞬だけ瞬いた。
かなり、分かりやすく来た。
曖昧さも婉曲さもほとんどない。欲しいものに必要な条件を並べているだけだ。
これまでなら、もっと言い回しを柔らかくする者が多かった。だがこの男は、柔らかく包むつもりが最初から薄いらしい。
「身に余る光栄です」
キャルは一応、礼を崩さずにそう言った。
「余りすぎて困惑しております」
財務局長がほんの少しだけ目を伏せた。
笑うのを堪えたのか、胃が痛いのか、その両方かもしれない。
レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから少しだけ口元を動かした。
「困惑するのか」
「はい」
「なぜだ」
その問いが、少しも分からないという顔で飛んでくるのが、やはりこの男らしかった。
キャルは静かに言う。
「開始地点が少々強引ですので」
応接室の空気が止まる。
外交局の役人は、今度こそはっきりと顔をしかめた。
だがレオンハルトは、やはり気を悪くした様子を見せない。むしろ少しだけ目を細めた。
「率直だな」
「嫌なものは嫌ですので」
「我が国での待遇にもか?」
「待遇そのものではありません」
キャルは答える。
「そこまで高く買っていただけるのは、光栄ではあります」
「では」
「ですが」
キャルは、そこで少しだけ言葉を切った。
「高待遇であれば、始まり方の強引さが帳消しになるわけではありません」
レオンハルトはそこで少しだけ黙った。
補佐官が横で、わずかに視線を下げている。たぶんこのやり取りが、いつもの“高待遇を示せば皆頷く”流れとは違うことを理解しているのだろう。
「ルクセリアでは」
レオンハルトが言う。
「優秀な人材を正当に遇するための交渉は、珍しくない」
「そうですか」
「大抵は、この段階で前向きな返事が返る」
「そうでしょうね」
キャルは頷いた。
「私は違いましたが」
その返しに、今度はレオンハルトの方がほんの少しだけ言葉を切った。
たぶん、そこまで平然と言い切られると思っていなかったのだろう。
「なぜだ」
彼は再び問うた。
「何が足りない?」
そこがまた、この男らしいと思う。
足りない条件があるのだと思っている。
地位か、金か、場か、名誉か。
足りないなら積めばいい。
そういう国の、そういう王太子なのだろう。
キャルは少しだけ考え、それから率直に答えた。
「仕事です」
「仕事?」
「はい」
「母国で、まだやり残した仕事がございます」
レオンハルトは軽く眉を上げた。
「そんなもの、もう気にする必要はない」
即答だった。
そこへ来ると思っていた。
「ございます」
キャルは静かに言い返す。
「気にします」
「なぜだ」
「仕事を途中で放るのは、後でたいてい倍になって返ってきますので」
その言葉に、財務局長がほんの少しだけ目を閉じた。
“それは本当にそう”と思った顔だった。
「お前ほどの才が」
レオンハルトは言う。
「そんな細事に囚われるな」
「細事ではありません」
キャルはきっぱり答えた。
「仕事は、最後までやるのがわたくしの矜持です。終わらせず、次に進むことはできません」
室内が静まり返る。
その沈黙の中で、レオンハルトだけがじっとこちらを見ていた。
そして次の瞬間、彼はほんの少しだけ口元を上げた。
「ますます気に入った」
最悪である。
本当に、最悪である。
キャルは心の中で深く息を吐いた。
ここで効くのか。
そこで好感度が上がるのか。
話が通じないにもほどがある。
外交局の役人が、ごく小さく咳払いをした。たぶん話を戻したいのだろう。その気持ちは分かる。
だがレオンハルトは、まったく戻す気配がなかった。
「なら、こうしよう」
彼は軽く椅子にもたれた。
「まずは、この国での仕事を片づける猶予を認める」
今度はキャルが一瞬だけ黙った。
認める。
その言い方自体が少し腹立たしいが、内容だけ見れば予想外だった。
「ただし」
やはり続く。
「仕事が終わり次第、ルクセリアへ来ると約束するなら、だ」
やはりそう来る。
「もちろん、護衛と連絡役はつける」
さらに続ける。
「所在を曖昧にされては困るからな」
そこまで言っておいて、“正当に遇している”つもりなのだから質が悪い。
キャルは表向きはきちんと一礼した。
「身に余るご配慮です」
そして心の中で呟く。
もう一度、強引に連れてくる気ですね。ますます腹立たしい。
レオンハルトは、その皮肉の半分も拾っていない顔だった。
「どうだ」
どうだ、ではない。
キャルは静かに顔を上げる。
「念のため確認ですが」
「何だ」
「私は、ルクセリアへ行くと“口約束”をするだけでよろしいのでしょうか」
補佐官がわずかに顔を上げた。
ルネが、やはり咳払いをした。
レオンハルトは少しだけ目を細める。
「それでは足りないか」
「いえ」
キャルは答える。
「少し甘いなと思っただけです」
それで今度は、補佐官ではなく財務局長がごく小さく目を閉じた。
たぶん“また始まった”と思っている。
「甘い?」
レオンハルトが聞き返す。
「正式な契約を交わすべきでは、という意味です」
キャルは平然と続けた。
「“仕事が終わり次第”など、いくらでも解釈の余地がありますので」
今度こそ、レオンハルトははっきりと笑った。
「面白いな、お前は」
「好きではありません、その言葉」
「そうだったな」
「はい」
「だが、ますます気に入った」
最悪である。
どう転んでもそこへ戻るらしい。
「では」
キャルは淡々と言った。
「申し訳ありませんが、今はお受けできません」
レオンハルトの笑みが少しだけ止まる。
「なぜだ」
「仕事が残っております」
「終わらせればいい」
「終わりません」
即答だった。
少しだけ、室内の空気が止まる。
「終わらない?」
「一つ終わる前に次が来る毎日ですので」
それは本当だった。
講習も、算具も、比価も、兵站も、王宮の紙も。
終わったと思うと次が来る。だから逆に、終わるまでルクセリアへ行くという条件には、妙な現実味があるのだ。
キャル自身、そこへ少しだけ気づいてしまっているのがまた嫌だった。
「……最悪なのか、最高なのか分かりませんが」
つい本音が漏れる。
「引き継げる相手が存在しないんですよね」
今度はルネだけでなく、財務局長まで少しだけ肩を震わせた。
笑ったのだろう。
そこで笑うのはやめてほしい。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「本当に変わっているな」
「よく言われます」
「それでも、こちらへ来れば違う景色を見せられる」
「そうかもしれません」
キャルは頷いた。
「ですが、今は要りません」
その言い切り方に、補佐官が小さく息を呑む。断る者が少ない国で育ったのなら、なおさらだろう。
レオンハルトはそこで初めて、少しだけ本気の沈黙を見せた。
だが怒りはしない。
怒りより先に、むしろ考えている顔だった。
条件で落ちない。
高待遇でも動かない。
仕事を途中で投げない。
強引さを減点する。
おそらく今、彼の中でキャルという存在の値踏みが、最初よりさらに面倒な方向へ進んだのだろう。
それが分かるから、なおさら嫌だった。
「今日はここまでにしよう」
外交局の役人がようやく口を挟んだ。
たぶん、これ以上続けると本当に話が別方向へ伸びると判断したのだろう。
面会はそこで終わった。
応接室を出て、小部屋へ戻るまでの廊下で、キャルはひとことも喋らなかった。喋ると疲れが増しそうだったからだ。
小部屋へ戻り、椅子に座って、ようやく長く息を吐く。
「……嫌でした」
それだけが、やっと出た。
ルネが静かに頷く。
「ええ」
「かなり」
「ええ」
「条件で落ちると思っている顔でした」
「そうでしょうね」
「しかも、落ちないとさらに気に入るの、かなり質が悪いです」
そこへ、しばらく黙っていた財務局長が低く言った。
「だが、お前はちゃんと断った」
「そうですね」
「曖昧にしなかった」
「曖昧にすると、もっと面倒になりますので」
「その通りだ」
局長はそこでキャルを見た。
「よくやった」
その一言は、珍しくまっすぐだった。
キャルは少しだけ目を瞬いた。
こういう時に変に飾られないと、かえって困る。
「……どうも」
それだけ返すと、扉の外からまた聞き慣れた足音が近づいてきた。
嫌な予感しかしない。
「入るよ」
シリルだった。
キャルは即座に言う。
「半径十メートル以内に近づかないでください」
「今日は特に冷たい」
「今日は特に面倒でしたので」
シリルは小さく息を吐き、ちゃんと距離を取ったまま言った。
「どうだった?」
「嫌な感じでした」
「うん」
「高待遇を出してくるのは予想していました」
「うん」
「予想より、話が通じませんでした」
シリルが少しだけ笑う。
「そこまで?」
「かなりです」
キャルは真顔だった。
「身に余る光栄です、と申し上げたのに、余りすぎて困惑している部分を拾いませんでした」
ルネが今度ははっきりと顔を伏せた。
笑ったのだろう。
シリルも口元を押さえる。
「そこをそう取るのか」
「そう取ります」
「大変だったね」
「本当に」
キャルは机に肘をつき、額を押さえたくなるのをかろうじて耐えた。
「ですが、条件で落ちないと分かったので、たぶん向こうは次を考えます」
その言葉に、シリルの表情が少しだけ変わる。
「次」
「ええ」
「まだ諦めていません、あれは」
はっきり言った。
あの目は、断られて終わる目ではなかった。むしろ、“では何で動く”と考え始めた目だ。
そこが一番嫌だった。
シリルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言う。
「なら、こちらも次を考える」
その言い方に、キャルは少しだけ顔を上げた。
シリルの目は軽くなかった。
レオンハルトに対して、初めて明確に“対策を考える側”の顔になっている。
それは頼もしいのかもしれない。
かもしれないが、同時にろくでもないことが増えそうでもある。
「……面倒ですね」
結局、そこに戻る。
シリルは小さく頷いた。
「うん」
「でも」
「でも?」
「君を簡単に渡すつもりはないよ」
その言葉に、キャルはほんの少しだけ黙った。
簡単に、というところが引っかかる。
渡す、という言葉自体も少し嫌だ。
だが今それを一つずつ訂正していく気力もなかった。
「私は物ではありませんが」
とりあえず最低限だけ言う。
「分かってる」
「ならいいんですが」
「よくはない顔だ」
「面倒なんです」
「知ってる」
その会話だけで、今日はもう十分だった。
キャルは机の上の算具へ視線を落とし、そっと珠を一つ弾いた。
乾いた音が鳴る。
条件で落ちない女。
たぶん今、ルクセリア王太子の中でそういう位置に置かれたのだろう。
少しも嬉しくない。
だが、だからといって、自分の仕事を途中で放る気にもなれない。
それがまた、いかにも自分らしくて、少しだけ腹立たしかった。
その日の夕刻、王宮南棟の応接室は、必要以上に整えられていた。
整えられすぎた部屋というのは、それだけで少し腹立たしい。机の位置、茶器の並び、椅子の間隔。どれもきっちりしすぎていて、これから交わされる会話が最初から“整っているもの”として扱われている感じがするからだ。
もちろん、実際にはそんなことはない。
中に入る人間が面倒なら、どんな部屋でも面倒になる。
キャル・キュレイションは、応接室へ通される前から、すでに本気で帰りたくなっていた。
「嫌ですね」
控え室としてあてがわれた小部屋で、ぽつりとそう言う。
向かいにいたルネ・ベルティエが、静かに頷いた。
「ええ」
「今日は特に嫌です」
「でしょうね」
今日は財務局長もいる。外交局の役人もいる。造幣局からも一人出ている。つまり、“会うだけならまだまし”と言われた相手に会うために、かなりきちんと場が整えられているわけだ。
整えられているが、嬉しくはない。
「念のため確認しますが」
キャルはまっすぐに言った。
「嫌なものは嫌だと申し上げていいんですよね」
「それは昨日も言った」
返したのはシリルだった。
控え室の奥、窓辺のところに立っている。
今日は応接の場には出ない。
出ないが、控え室までは来る。
そのあたりが本当に質が悪い。
「殿下は出ないのでは」
キャルが言うと、シリルは少しだけ肩をすくめた。
「出ないよ。ここまでは別だ」
「別にしてほしくなかったんですが」
「そこは我慢してほしい」
「嫌です」
「知ってる」
知っていて来るのだから、やはり質が悪い。
局長が短く咳払いした。
「始まる前から疲れるな」
「疲れますよ」
キャルは即答した。
「まだ始まってもいないのに、もう面倒です」
外交局の役人が、いかにも“余計なことを言うな”という顔をしている。だが今さら取り繕ったところで仕方がない。
そこへ扉が叩かれた。
控えめだが、遠慮はない音だった。
外交局の役人が扉へ向かい、小さく応じる。ほどなくして戻ってきた。
「ルクセリア側、入室しました」
そうですか、と心の中だけで返す。
応接室へ入ると、レオンハルト・ルクセリアはすでに席についていた。
王太子である以上、当然といえば当然の位置だが、その姿勢には“待たされた”苛立ちより、“待つ価値があった”と判断している人間の余裕があった。
やはり嫌な感じしかしない。
補佐官がひとり、文官がひとり控えている。前回の視察より人数は少ない。つまり今回は、より話を絞っているのだろう。
キャルは定められた位置まで進み、礼を取った。
「キャル・キュレイションです」
「知っている」
レオンハルトはそう言って、こちらを見た。
視線がまっすぐすぎる。
探るというより、確認だ。“やはりそうか”とまた判断している目。
嫌である。
最初の挨拶と、儀礼的なやり取りは短かった。
財務局長と外交局が最低限の形だけ整えると、レオンハルトは驚くほど早く本題に入った。
「先日の視察では、短い時間しか取れなかった」
「はい」
「惜しかった」
その言い方にはためらいがなかった。
キャルは一瞬だけ黙ってから答える。
「そうですか」
「そうだ」
レオンハルトはそのまま続ける。
「お前のような人材は珍しい」
嫌な始まりだな、とキャルは思った。
「算術だけではない」
「はい」
「比価を読み、造幣を見、兵站にも口が出せる」
「はい」
「しかも教えられる」
そこまで言われて、キャルは少しだけ首を傾げた。
「教えるのは嫌ですが」
外交局の役人が一瞬だけ息を止めた。たぶん、そこで素直に謙遜すると思っていたのだろう。
レオンハルトは、しかし少しも気を悪くした様子を見せなかった。
「嫌いでもできるのなら、それでいい」
即答だった。
やはりそういう人間なのだ。
好きかどうかより、できるかどうか。
気分より結果。
そこまでは分かる。
分かるが、だからといって好ましいわけではない。
「ルクセリアでは」
レオンハルトが静かに言った。
「そういう人材を正当に遇する」
来たな、と思う。
「お前は王国で、少し妙な扱いを受けているように見える」
その言葉に、室内の空気がわずかに張る。
財務局長も、造幣局長も、顔色を変えはしない。だが、聞き流しているわけでもない。
キャルは少しだけ考え、それから答えた。
「妙かどうかは分かりません」
「侍女見習いの姿で、王宮の比価整理と講習をしている」
レオンハルトは淡々と言う。
「私には十分妙だ」
それは、ある意味では正しい。
だからこそ面倒なのだ。
外から見れば奇妙だろう。中にいる自分でさえ時々そう思う。侍女見習いが本業のはずなのに、どうしてこうなったのかと。
だが、その“奇妙さ”に高値をつけようとするのは、また別種の面倒だった。
「ルクセリアなら」
レオンハルトは言葉を継いだ。
「地位も与える。算術院を起こしてもいい。必要なら官位も、研究の場も、予算も与えよう」
キャルは一瞬だけ瞬いた。
かなり、分かりやすく来た。
曖昧さも婉曲さもほとんどない。欲しいものに必要な条件を並べているだけだ。
これまでなら、もっと言い回しを柔らかくする者が多かった。だがこの男は、柔らかく包むつもりが最初から薄いらしい。
「身に余る光栄です」
キャルは一応、礼を崩さずにそう言った。
「余りすぎて困惑しております」
財務局長がほんの少しだけ目を伏せた。
笑うのを堪えたのか、胃が痛いのか、その両方かもしれない。
レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから少しだけ口元を動かした。
「困惑するのか」
「はい」
「なぜだ」
その問いが、少しも分からないという顔で飛んでくるのが、やはりこの男らしかった。
キャルは静かに言う。
「開始地点が少々強引ですので」
応接室の空気が止まる。
外交局の役人は、今度こそはっきりと顔をしかめた。
だがレオンハルトは、やはり気を悪くした様子を見せない。むしろ少しだけ目を細めた。
「率直だな」
「嫌なものは嫌ですので」
「我が国での待遇にもか?」
「待遇そのものではありません」
キャルは答える。
「そこまで高く買っていただけるのは、光栄ではあります」
「では」
「ですが」
キャルは、そこで少しだけ言葉を切った。
「高待遇であれば、始まり方の強引さが帳消しになるわけではありません」
レオンハルトはそこで少しだけ黙った。
補佐官が横で、わずかに視線を下げている。たぶんこのやり取りが、いつもの“高待遇を示せば皆頷く”流れとは違うことを理解しているのだろう。
「ルクセリアでは」
レオンハルトが言う。
「優秀な人材を正当に遇するための交渉は、珍しくない」
「そうですか」
「大抵は、この段階で前向きな返事が返る」
「そうでしょうね」
キャルは頷いた。
「私は違いましたが」
その返しに、今度はレオンハルトの方がほんの少しだけ言葉を切った。
たぶん、そこまで平然と言い切られると思っていなかったのだろう。
「なぜだ」
彼は再び問うた。
「何が足りない?」
そこがまた、この男らしいと思う。
足りない条件があるのだと思っている。
地位か、金か、場か、名誉か。
足りないなら積めばいい。
そういう国の、そういう王太子なのだろう。
キャルは少しだけ考え、それから率直に答えた。
「仕事です」
「仕事?」
「はい」
「母国で、まだやり残した仕事がございます」
レオンハルトは軽く眉を上げた。
「そんなもの、もう気にする必要はない」
即答だった。
そこへ来ると思っていた。
「ございます」
キャルは静かに言い返す。
「気にします」
「なぜだ」
「仕事を途中で放るのは、後でたいてい倍になって返ってきますので」
その言葉に、財務局長がほんの少しだけ目を閉じた。
“それは本当にそう”と思った顔だった。
「お前ほどの才が」
レオンハルトは言う。
「そんな細事に囚われるな」
「細事ではありません」
キャルはきっぱり答えた。
「仕事は、最後までやるのがわたくしの矜持です。終わらせず、次に進むことはできません」
室内が静まり返る。
その沈黙の中で、レオンハルトだけがじっとこちらを見ていた。
そして次の瞬間、彼はほんの少しだけ口元を上げた。
「ますます気に入った」
最悪である。
本当に、最悪である。
キャルは心の中で深く息を吐いた。
ここで効くのか。
そこで好感度が上がるのか。
話が通じないにもほどがある。
外交局の役人が、ごく小さく咳払いをした。たぶん話を戻したいのだろう。その気持ちは分かる。
だがレオンハルトは、まったく戻す気配がなかった。
「なら、こうしよう」
彼は軽く椅子にもたれた。
「まずは、この国での仕事を片づける猶予を認める」
今度はキャルが一瞬だけ黙った。
認める。
その言い方自体が少し腹立たしいが、内容だけ見れば予想外だった。
「ただし」
やはり続く。
「仕事が終わり次第、ルクセリアへ来ると約束するなら、だ」
やはりそう来る。
「もちろん、護衛と連絡役はつける」
さらに続ける。
「所在を曖昧にされては困るからな」
そこまで言っておいて、“正当に遇している”つもりなのだから質が悪い。
キャルは表向きはきちんと一礼した。
「身に余るご配慮です」
そして心の中で呟く。
もう一度、強引に連れてくる気ですね。ますます腹立たしい。
レオンハルトは、その皮肉の半分も拾っていない顔だった。
「どうだ」
どうだ、ではない。
キャルは静かに顔を上げる。
「念のため確認ですが」
「何だ」
「私は、ルクセリアへ行くと“口約束”をするだけでよろしいのでしょうか」
補佐官がわずかに顔を上げた。
ルネが、やはり咳払いをした。
レオンハルトは少しだけ目を細める。
「それでは足りないか」
「いえ」
キャルは答える。
「少し甘いなと思っただけです」
それで今度は、補佐官ではなく財務局長がごく小さく目を閉じた。
たぶん“また始まった”と思っている。
「甘い?」
レオンハルトが聞き返す。
「正式な契約を交わすべきでは、という意味です」
キャルは平然と続けた。
「“仕事が終わり次第”など、いくらでも解釈の余地がありますので」
今度こそ、レオンハルトははっきりと笑った。
「面白いな、お前は」
「好きではありません、その言葉」
「そうだったな」
「はい」
「だが、ますます気に入った」
最悪である。
どう転んでもそこへ戻るらしい。
「では」
キャルは淡々と言った。
「申し訳ありませんが、今はお受けできません」
レオンハルトの笑みが少しだけ止まる。
「なぜだ」
「仕事が残っております」
「終わらせればいい」
「終わりません」
即答だった。
少しだけ、室内の空気が止まる。
「終わらない?」
「一つ終わる前に次が来る毎日ですので」
それは本当だった。
講習も、算具も、比価も、兵站も、王宮の紙も。
終わったと思うと次が来る。だから逆に、終わるまでルクセリアへ行くという条件には、妙な現実味があるのだ。
キャル自身、そこへ少しだけ気づいてしまっているのがまた嫌だった。
「……最悪なのか、最高なのか分かりませんが」
つい本音が漏れる。
「引き継げる相手が存在しないんですよね」
今度はルネだけでなく、財務局長まで少しだけ肩を震わせた。
笑ったのだろう。
そこで笑うのはやめてほしい。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「本当に変わっているな」
「よく言われます」
「それでも、こちらへ来れば違う景色を見せられる」
「そうかもしれません」
キャルは頷いた。
「ですが、今は要りません」
その言い切り方に、補佐官が小さく息を呑む。断る者が少ない国で育ったのなら、なおさらだろう。
レオンハルトはそこで初めて、少しだけ本気の沈黙を見せた。
だが怒りはしない。
怒りより先に、むしろ考えている顔だった。
条件で落ちない。
高待遇でも動かない。
仕事を途中で投げない。
強引さを減点する。
おそらく今、彼の中でキャルという存在の値踏みが、最初よりさらに面倒な方向へ進んだのだろう。
それが分かるから、なおさら嫌だった。
「今日はここまでにしよう」
外交局の役人がようやく口を挟んだ。
たぶん、これ以上続けると本当に話が別方向へ伸びると判断したのだろう。
面会はそこで終わった。
応接室を出て、小部屋へ戻るまでの廊下で、キャルはひとことも喋らなかった。喋ると疲れが増しそうだったからだ。
小部屋へ戻り、椅子に座って、ようやく長く息を吐く。
「……嫌でした」
それだけが、やっと出た。
ルネが静かに頷く。
「ええ」
「かなり」
「ええ」
「条件で落ちると思っている顔でした」
「そうでしょうね」
「しかも、落ちないとさらに気に入るの、かなり質が悪いです」
そこへ、しばらく黙っていた財務局長が低く言った。
「だが、お前はちゃんと断った」
「そうですね」
「曖昧にしなかった」
「曖昧にすると、もっと面倒になりますので」
「その通りだ」
局長はそこでキャルを見た。
「よくやった」
その一言は、珍しくまっすぐだった。
キャルは少しだけ目を瞬いた。
こういう時に変に飾られないと、かえって困る。
「……どうも」
それだけ返すと、扉の外からまた聞き慣れた足音が近づいてきた。
嫌な予感しかしない。
「入るよ」
シリルだった。
キャルは即座に言う。
「半径十メートル以内に近づかないでください」
「今日は特に冷たい」
「今日は特に面倒でしたので」
シリルは小さく息を吐き、ちゃんと距離を取ったまま言った。
「どうだった?」
「嫌な感じでした」
「うん」
「高待遇を出してくるのは予想していました」
「うん」
「予想より、話が通じませんでした」
シリルが少しだけ笑う。
「そこまで?」
「かなりです」
キャルは真顔だった。
「身に余る光栄です、と申し上げたのに、余りすぎて困惑している部分を拾いませんでした」
ルネが今度ははっきりと顔を伏せた。
笑ったのだろう。
シリルも口元を押さえる。
「そこをそう取るのか」
「そう取ります」
「大変だったね」
「本当に」
キャルは机に肘をつき、額を押さえたくなるのをかろうじて耐えた。
「ですが、条件で落ちないと分かったので、たぶん向こうは次を考えます」
その言葉に、シリルの表情が少しだけ変わる。
「次」
「ええ」
「まだ諦めていません、あれは」
はっきり言った。
あの目は、断られて終わる目ではなかった。むしろ、“では何で動く”と考え始めた目だ。
そこが一番嫌だった。
シリルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言う。
「なら、こちらも次を考える」
その言い方に、キャルは少しだけ顔を上げた。
シリルの目は軽くなかった。
レオンハルトに対して、初めて明確に“対策を考える側”の顔になっている。
それは頼もしいのかもしれない。
かもしれないが、同時にろくでもないことが増えそうでもある。
「……面倒ですね」
結局、そこに戻る。
シリルは小さく頷いた。
「うん」
「でも」
「でも?」
「君を簡単に渡すつもりはないよ」
その言葉に、キャルはほんの少しだけ黙った。
簡単に、というところが引っかかる。
渡す、という言葉自体も少し嫌だ。
だが今それを一つずつ訂正していく気力もなかった。
「私は物ではありませんが」
とりあえず最低限だけ言う。
「分かってる」
「ならいいんですが」
「よくはない顔だ」
「面倒なんです」
「知ってる」
その会話だけで、今日はもう十分だった。
キャルは机の上の算具へ視線を落とし、そっと珠を一つ弾いた。
乾いた音が鳴る。
条件で落ちない女。
たぶん今、ルクセリア王太子の中でそういう位置に置かれたのだろう。
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