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第一章 シロツメクサ、青龍家に降り立つ

01 場違いなシロツメクサ

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(うーん……)
 巨大な門扉の前でタクシーから降りた晴野すみれは、荷物をうんせと抱え直して門扉を見上げ──途方にくれたものだった。
(私……場違いすぎる……)

 平凡極まりない己の服装や存在を省みて、すみれは約一分ほどぼんやりとその門扉の前に棒立ちになっていた。
 肩までの黒髪に、ごく普通の中肉中背な体型。身に纏うのは近所の量販店で買ったお得なワンピースなんと2980円。肩に提げたショルダーバッグ3000円、手持ちのもので一番高いモノはおそらく衣類などを入れているスーツケースで、それは親が買ってくれた7980円の品だ。

 まぁ、いわゆる立派な、どこからどうみても庶民の女、それがすみれだった。

 対するこの邸はというと、ドラマに出てきそうなご立派すぎる邸である。何が凄いって、すみれの立つ位置から邸の出入り口までは、球場がすっぽり入りそうなほど遠いのだ。

 噴水広場などを隔てたその遙か奥に、西欧の城をそのまま移築したかのような重厚な邸が存在しており、門扉とその城を隔てる広大な空間に広がるのは美麗な庭園である。
 色とりどりの花が咲き誇る楽園のような光景の中に、わが身を置くことになろうとは、ホント人生何が起こるかわからぬものだ。すみれはひくりと唇を震わせた。

(嘘でしょ……この中に入るの……?)

 根っから庶民の自分は眼前の光景に眩暈すら覚える。

 青龍せいりゅう、と書かれたご立派な表札を確認する。間違いない。目的地はここである。できれば今すぐ間違いでしたと踵を返したい気持ちで一杯になったものの、そういうわけにはいかない。

(わ、わかってたことだし……ここが今日から私の……)

 そう。
 自分の、生きる場所なのだから。

 女一匹・晴野すみれ、負けるかこれしきのことで……! と内心己に喝をいれつつぐっと拳を握りしめ、意を決して呼び鈴らしきボタンに手を伸ばしかけたその瞬間──すみれはぴくりと動作を止めた。
 青銅の門扉越し、柔らかく笑んでいる一人の青年に気付いたのだ。
 ガーデニングエプロン姿の彼は、泥まみれだった。
 今まさに草花をポットから花壇に植えかえる作業の途中らしく、手についた土を軽く払いながら、こちらを見つめている。一人気合を入れ直していた自分の様子は、傍からみればさぞ滑稽に映ったことだろうと、すみれは微かに頬を赤らめた。
 だが、青年の微笑みに揶揄やゆの色はない。

「……何か、この邸に御用かな?」

 一見、優男風の青年だが、意外にも声は、深く落ちついている。
 心地の良い声だ。
 さらり、と傾けた頭上で柔らかそうな亜麻色の髪が揺れる。これが地毛なら、もしかして外国人の血がある程度混じっているのかもしれなかった。
 瞳の色もどこか薄い。水を思わせるような、透明感のあるヴェール ・ドー
 そこに佇むだけで、辺りの空気をさっと清冽な色に染め変えてしまうような美形だ。品の良さが、そこにはあった。
 エプロンをして庭の手入れをしているところをみると、品よく見えても彼は使用人なのだろう。世界の長者番付でも上位に食いこむ青龍本家ともなると、庭の使用人ですら品が良くなくては勤まらないということか。
 すみれは、呼び鈴に触れかけた手を降ろした。丁寧に一礼する。

「あの、今日からここで働かせていただくことになった、晴野すみれと申します。青龍司様にお目通り願いたいのですが……」

 とりあえず挨拶をしたすみれに、彼は、ふわり、小さな欠伸をひとつ。
(……え)
 その、あまりにのんびりとした仕草に、若干肩の力が抜けたすみれである。
 すみれの来訪を知っていたのだろうか。慌てることもなく、さりとて畏まるでもなく、どこか人懐っこい笑みを見せたものだった。

「あぁ、来たね。横の小さい扉から入ってくれる? 鍵はあけてある」
「あ、はい……」

 使用人にしては妙に気軽なその声音に誘われ、恐る恐る巨大な門扉の横にある、人間用らしき小さい扉を押し開く。小さくても重厚なその扉を開いて一歩中に入れば、そこは別天地と表現しても差し支えない華やかな世界だった。見事な花の競演が繰り広げられている。
 春爛漫と咲き誇る美しい花々の放つ芳香が、ふわりと鼻腔をくすぐり、すみれはほぅと溜息をついた。

 ──明るい庭だ、と思った。

 この邸の主の人柄がそのまま表れているのだろうか。そうだといいなと、すみれは思う。
 こんな巨大な邸の庭など、あるじ本人が管理しているはずもない。使用人や業者が手入れしているに決まっている。普通に考えれば、主の人格など反映されているはずもなかった。
 それでも、これから足を踏み入れる未知なる世界が、自分にとって明るいものであってほしいと祈る気持ちは止めようがないものだ。

 高校卒業間近で、すみれの両親と弟は事故で他界した。

 頼る者もなく途方にくれたすみれに、手をさしのべてくれたのが青龍財団の長、青龍つかさだった。
 血の繋がりなど何もない見知らぬ他人からの援助など、通常、気持ち良く受けられるはずもない。理由無き親切など、いわゆる『タダより高いものは無い』──裏のあるそれと同類だ。
 だが、最初は懸念を示していた教師たちが、青龍の名を聞いた途端、眼の色を変え、この話の真偽を八方手を尽くして確認し──やがて総出ですみれの背を押し始めた。

 青龍せいりゅう財団は、成績優秀でありながら学費に困る学生たちの希望となる奨学金を提供する『アルストロメリア奨学金』を支える財団そのものであったのだ。そしてこの国の主だった企業を束ねる一大勢力である青龍コンチェルンを束ねる者こそ、青龍つかさその人であった。
 しかし、この救いの手は、アルストロメリア奨学金の制度を利用してのものではなかった。

 司が個人的に後見人となる形で、私財でもってすみれを援助しようという申し出だったのである。

 行きなさい。通常の奨学金はもう今からでは申し込みも間に合わない。そんな君を青龍家に置いてくれて、あまつさえ学費を出してくれるなんて、砂漠で金の塊を掴んだようなものじゃないか。あの当主は人格者で有名だよ。悪いようにはなさらないだろう。

 そう、周囲の大人たちから勧められるほどに、すみれは当初しりごみした。
 怖かった。
 何の理由があって司とやらは自分に手を差し伸べてくるのか。
 無論、彼は大富豪だから、すみれ一人面倒をみたところで痛くも痒くもないのかもしれない。だが、私財をすみれに投入する理由が不明だ。
 百歩譲って何かの理由ですみれを気に留め、同情したのだとしても、アルストロメリア奨学金を提供してくれればいいことだった。

 大学には行きたかったが、両親が仲良く他界してしまった以上、諦めて働くのが妥当だとも思えた。奨学金制度を利用するならまだしも、見知らぬ他人の理由なき温情に甘んじるのはやはり、底知れぬ気味悪ささえ覚えた。
 世の中、困っている学生たちは山ほどいるだろうに、何故、彼が救おうとする相手が、自分なのか。
 しかもよりによって私財を投入してまで。

 ──何故でしょうか? 貴方に親切にされるいわれがありません。

 率直に、すみれは自分の心境を手紙に書き、使者に託した。
 次の日、返事がきた。
 美しい、真っ白な封書を開けば、中には端正な文字が並んでいた。
 青龍司その人からの、心づくしの手紙だった。
 すみれの家族の事故死を知ったきっかけ、そして、すみれと司の関係。
 その綴られた言葉に胸を打たれ、ここまできたすみれだ。

 無論手紙の上だけなら、なんとでも言える。手紙の印象だけで、相手を信用するなんて本当に自分は馬鹿なのかもしれない。司からの手紙は冷静になって考えれば、少女漫画のように現実味の薄い事柄が記載されてあったのだ。
 荒唐無稽、といってもいい。

 だが、少なくともすみれはその手紙を握り締め号泣した。胸は、熱く震えた。

 両親のみならず弟までもを亡くし、煩雑な手続きの中、葬式が終わる頃にはもう泣きたくても泣けなくなっていた。多忙と疲労で凍りついていたすみれの心を溶かしたのは紛れもない、司その人の言葉だった。
 悲しみと疲労でぽっきりと折れた心を救ってくれた『あしながおじさん』に、せめて会ってみたいと思った。

 そうして大学合格を機に、暮らしていた借家を引き払ってこの邸に出向き、初めて出会った者が──彼だった。

「……綺麗……ですね……」

 門を押して中に入ったすみれは、広大な庭の一角に咲き誇るアイスランドポピーとチューリップを眺め、うっとりを通り越し半ば茫然と呟いた。
 そんなすみれに、彼は小さく微笑んでうん、と頷いた。

「そうだね。綺麗だよね。どんな花も作物も、手入れすると本当に綺麗に、美しくなるよね。植物は、ちゃんと人の努力に応える。裏を返せば、自分の努力も誠意も、全部植物の姿には表れるんだよね。……土と葉に触れていると、いろんな雑念がすっと溶けていくのがわかるんだ。土いじりは忙しいからなかなか出来なくなってしまったけど、それでも俺はたまにこうして世話をするよ。この子たちを世話して、生かしているようでいて……俺が植物に生かされ救われる瞬間なのかもしれない」

 風に揺れるポピーの花弁を指先で愛しげに軽く撫でながら、彼は静かに語った。
 淡々と、紡ぎ出される言葉の響きはとても優しくて──
 なのに、真夜中のピアノのように孤独にも似ている。

「……」

 語る彼を、すみれは改めてじっと見つめた。
 使用人というにはあまりに身にまとう雰囲気が美しい青年だったし、彼の紡ぎ出す言葉は心地よかった。
 何処かで、覚えのある言葉の拍動だ。
 あの日、すみれの手元に届いた白い封書を開いたときに感じた、静かで誠実な言葉の息遣いが、そこにはあった。
 どうして、わかってしまうのだろう。普通に考えて当主が土に塗れているはずがない、のに。
 微かに緊張で乾いた唇を少し舐め、思いきってすみれは呟いた。

「……もしかして、司さん、ですか」
「あぁ。やっぱりわかっちゃうんだなぁ、君は……」

 彼はやわらかく苦笑した。

「しばらく内緒にしたまま会話しようと思ったんだけどなぁ。どうして解ったのか聞いてもいい?」
「え、と……なん、となく……頂いたお手紙と、あなたの言葉の印象が……同じで」
「あぁ。そうか。そうだね」

 何処か嬉しげに司は頷き、目を細めた。

「あの手紙は、心の中で君に話しかけるような気持ちで書いていたんだよ。だから、話す時の呼吸がそのまま表れていたのかもしれないね……君に届くようにと、ひたすら祈るように書いたから」

 司を見上げ、すみれは複雑な思いで口を開いた。

「でも……司さんの手紙に書かれた事が真実かどうかは、今のところ私にはわかりません……今こうして目の前にいる司さんを見ても、私はやっぱり、過去に司さんと逢った覚えはない、と思います……」
「うん。わかっているよ。でも、君はここに来た」

 司はすみれの言葉に堪えた様子もなく、腰に手を当て、にこりと笑った。
 どちらかといえば童顔なのに、そしてエプロンをしめた格好はどこか男性にしては可愛らしくもあるのに──微笑んだ瞳は精悍さを帯びて、凛と美しい。

「つまり少しは、俺の想いが、君に届いたと思っていい? すみれ」
「……っ」

 ふと真顔で名を呼ばれ、とくん、と心臓が鳴った。
 頬が、ふわりと燃えた。
 そういう表現を自然に出来る人なのだ。そこに他意はないのだろうが、司の声にはどこか切なさが滲んでいて、一瞬告白でもされたかのような錯覚を覚えた。
 手紙から誠実であたたかなその人となりはわかっていたつもりだったが──微笑んだ司は想像していたよりはるかに若かった。すみれより年上には違いないのだが、勝手に父親のような年齢だと想像していただけに、若々しく涼やかな微笑みに目を奪われる。

(お、落ちつけ、私……!!)

 まだ司が手紙で語った事が真実だと信じたわけではない。すみれは己を戒めながら目を伏せた。
 司の言葉が全て真だとするならば、すみれは完全に記憶喪失にでもなっていなければならない。確かにある特定の記憶のみが失われる疾患もあると知ってはいるが──記憶を失うほどの事故やショックを受けた記憶はないのだ。

 私は、貴女に逢ったことがあります。
 私にとっては昨日のように鮮明に思い出せる出来事だけど、君にとっては全く覚えのない話だろうこともわかっているよ。だけど、どうか最後まで読んでほしい……

 かつて、司が少年時代、すみれに危機を助けられたこと。
 そのとき、すみれも危ない目にあう寸前だったのにも関わらず、司を捨てて逃げたりせず最後まで傍にいてくれたこと。その時語ったすみれの言葉が、自分の将来を変えたこと──

 司は、熱く手紙に過去を綴っていた。
 まるですみれが司を覚えていないことも解っているのだと言わんばかりの文面で。

「君には、がある」
「……!」

 覚えのあるフレーズに、思わずすみれは俯き加減になっていた顔を上げた。

「手紙にも、書いたよね。。君が今、俺のことを思い出せずに、俺の言葉を信じられないなら、今は俺のことを妄想癖のある男だとでも思ってくれていいんだ。ただ、俺は君を助けたい。……誰かを助けることは己を生かすことでもあるんだと、君の行動が、幼い俺に教えてくれたんだ」
「そんな、大層なこと……私、したことないです……」

 告げながら、すみれは泣きだしたい気分で胸を押さえた。
 苦しい。それは多分、言葉を重ねれば重ねるほどに、司と自分との間にそんな絆や記憶など全く無いという嫌な実感を噛みしめることになるからだ。
 司のまっすぐな厚意が、過去のに起因しているというのなら──思い出してもいいはずなのに、一向にすみれにはその記憶が思い出せないのだ。

 過去を丁寧にさかのぼっても、そんな大層な気付きを人に与えた覚えなど無い。

 大体、命の危機に陥った少年をからくも助けた、などというドラマチックなエピソードが本当に自分の人生にあるのなら、覚えていないはずがないと思う。
 第一、司が幼い頃の出来事ならば、司よりも年若いすみれはもっと幼いか、もしくは生まれていなかったかのどちらかだ。

 荒唐無稽すぎる話だった。なのに、笑い飛ばせない。
 胸がざわめく。
 この人が嘘をついているとは、到底思えない瞳をするから。

(──どうして?)

 この人と、自分の間には、悲しいことに何も……何もない。
 司が『すみれ』だと思いこんでいる過去に逢ったその女性は、おそらく別人なのだろう。
 常識的に考えれば、そうなる。

 年齢差を考えてもあり得ない話だ。しかしそれは司も手紙の中で自ら指摘していた。
 つまり司は、この話の矛盾を誰より自覚している。
 それでも相手はすみれだと断言する。奇妙なほどの自信と確信をもって。

 ……話は、やはり荒唐無稽だ。
 この正体不明の厚意を受ける権利など、ますますすみれには無いとしか思えない。

「──覚えが無い過去を理由に、厚意を受けるのは心苦しい?」

 浅いヴェール ・ドーの瞳が、すみれの心を見通すように静かに瞬く。司の問いに、すみれはびくりと肩を震わせた。
 口に出さなくても、この人にはすみれの本音がわかってしまうのだろう。すみれが、名乗られなくても司の正体を察したように。
 これが初対面なのに、まるで初対面だとも思えない何かが、お互いの間にはあった。なのに、やはりどう考えても司と過去に逢った記憶はない。
 黙ってこくりと頷き、司の言葉を肯定したすみれに、そうだろうね、と司は呟き、緩く笑った。
 そのままどこか遠い眼差しで土に汚れた指先を擦り合わせている司を見つめながら、すみれは少し躊躇い──やがてずっと言おうと思っていたことを告げようと唇を開いた。

「──あの。お願いが、あるんですが」
「あぁ、うん、却下」
「あの……えっ!?」
 突如、ニコリ、と司が笑った。人好きのする一見柔和な雰囲気を湛えた司なのに、こういう表情はまるでいたずらな子供のようでさえある。
 あまりにもナチュラルに出鼻を挫かれたすみれに、司が瞳を細めた。

「メイドとして働きますが、それはこの邸に置いていただくためにすることなのでお給料は要りません、とか、普通に奨学金制度を使わせていただければそれで十分です。卒業したらお金は奨学金基金のほうに働いて返還します──言いたいのはそんなところかな?」
「……!」

 愕然として、すみれは眼を見開いた。
 確かにそれはすみれが言おうとしたことの全てだった。そして告げる前から却下された事実にはもはや、茫然とするしかない。
 司は言葉を失ったすみれに、底の見えない笑みを返して告げた。

「……君が働く以上代価は支払います。雇い主としてそれは当然のことだよね?」

 譲れないとでも言いたげな口調だ。
 優しげな物言いだが、確固たる意志を司から感じ、すみれは困って眉を顰めた。

「でも、何もしないまま邸に置いて頂くのは心苦しいからせめて働こうとしたのに、お給料を頂くなんて本末転倒です」
「どこが? 俺としてはこれは君への恩返しのつもりでもあったし、働かせるつもりはなかったよ。学生の本分は勉強でしょう」
「そ、それは、そうなんですが、でも」

 恩返しと言われても、私には恩を受ける覚えがありません──言おうとして、何故か胸が詰まった。
 何故だろう。
 自分の言葉は……優しいこの人を、傷つける。そんな気がして。

「……ま。そうはいっても、月々のお小遣いでは足りないこともあるだろうし、ね。バイトは大抵の学生が多かれ少なかれすることだ。よそでバイトするよりは、うちで働くほうが君も様々な幅広い知識が身につくだろうし、俺も正直なところ安心だ。何より、君が変に肩身の狭い思いをしてここにいるぐらいなら、働いていることで気持ちが落ち着くほうがいいな、と思って許可したけれど」

 いったん言葉を切り、司がじっとすみれの瞳を見据えた。

「お給料は誰が何と言おうと払わせて貰うよ。異論は受けつけない」
「……う……で、でも、じゃぁ、返済義務のある通常の奨学金制度を使わせて頂く件は……」
「それも却下だね」
「……何故」

 うーん……と返事とも何ともつかぬ声を漏らし──司は、やおら身を屈めた。
 横の花壇に咲いていた、アイルランドポピー。花壇横に置いていた手入れ用の鋏で、司はそれをひとつ、ふたつと摘み始めた。

(司、さん?)

 答えをもらえないまま、ぼんやりとその骨ばった指の動きを見つめていたすみれの目の前に、やがて、色とりどりのポピーの花束が、ひょいと差し出された。

「はい。どうぞ」
「えっ」

 唐突なその行動に思わずすみれは目を白黒させた。大体、花束を異性から貰うなんていう経験だってそうそうない。
 司はといえば、小首を傾け、相変わらず底の見えぬ笑みだ。

「わ、私にですか?」
「君しかいないでしょ。どうぞ、お嬢様」

 息を飲んで、おずおずとすみれはそのささやかな花束を両手で受け取った。
 受け渡す時に触れた司の指は──乾きかけた土がまだ微かに付着していて、かさかさだったが──それでもあたたかい。

(……っ)

 一瞬、触れた指を全神経が意識した。
 そっと花を受け取ると、司の手が離れてゆく。
 指先の熱が離れ──風が吹いた。

 手の中で、ポピーが一斉に揺れた。まるで紙で作られたような儚さをもつ花弁なのに、オレンジや白や黄色の鮮やかな色合いは人の心をそっと暖色に染めてゆく。

「わぁ……綺麗……!」

 揺れるポピーのあまりの可愛らしさに、思わずすみれは笑みくずれた。
 本当に可愛い。不安で疲れた心が一気に華やぐような愛らしい花束を前にして、しかめっ面でいることなど出来なかった。
 その瞬間──司が、どこかほっとしたように微笑んだ。

「うん。その笑顔は、いいね」
「……え?」
「君のその笑顔。俺にとってご褒美といえる。けれど、別に君が笑顔を見せてくれなかったとしても、この花が君の心をほんの少しでも癒すことができたなら、それでいい」
「……」

 静かに、何かを噛みしめるように司が囁くから──すみれは思わず言葉を失った。

「過去、君は俺に『花』をくれた。生きる希望という名の花だ。君がくれた花は、ここにある」

 乾いた土がこびりついた手で、司は構わず、自分のガーデニングエプロン越しに胸を押さえて微笑んだ。

「……でもさ、君は見返りなんて求めて『花』をくれたわけじゃなかった。君は自分がそうしたいから、そうしたんだ。俺も同じだよ。君を助けたいから助けるんだ。過去の借りを返す為でもあるし、俺がこうしたいから、こうする」
「……」
「だから、君の学費はやっぱり俺個人に出させてほしい。将来まで口を出したりはしないよ。援助は惜しまないけれど、君は卒業すれば好きな場所へ旅立って、好きに生きていいんだ。勿論、ここに居たいなら好きなだけいればいい。誰も君の未来を担保にしたりしないから、安心してくれ」
「──司、さん……」

 すみれの未来を担保になどしない、という司の意思は、不思議と信じられる気がした。
 深い眼差しには、嘘はない。
 だが、だからこそすみれの胸は痛んだ。これほどに大切そうに思い出を語る司との間にある絆を、すみれは、やはり思い出せない。思い当る節がない。
 そもそも、司が言うように、見返りも求めずに危険を冒して他人を救えるほど、自分は立派な人間だろうか?
 それもまるきり自信が無い。
(……わたしは、ただの……)
 足元に目を落とせば、ふと、花壇の縁に隠れるようにして、小さな白い花が咲いていた。

(このシロツメクサみたいなものだよね……)

 覚悟していたこととはいえ、この場所はあまりに自分には眩しすぎた。平凡な雑草の自分がいていい場所ではなかった。この庭に咲くシロツメクサも、きっと手入れの段階で摘み取られ、捨てられてしまうのだろう。
 その程度の存在である自分が、ここにいるだけでも場違いなのに、覚えのない過去によって司に感謝されている。全ては何かの間違いに違いないのに、だ。
 勘違いで、つかさはすみれを引き取ったのだ。だんだんその事実が重くのしかかってきた。きっと、司を幼い頃に助けたという女性は、別で存在しているに違いないのに。

「……ねえ、すみれ」

 ぽつりと頭上に響いた声に気付いて目を上げれば、司がふっと一瞬強く息を吐き──何かを振り切るように明るい笑みを見せた。

「今、根拠が無いかのように見える俺の親切が、怖くて気後れするというのなら……そうだね。お金を返すか否かの判断は、あと、半年……いや、卒業するまでの間は保留にしてほしいな。俺の推理によれば──」
「……?」
「うん。君は、夏に、俺を思い出すだろう。今年の夏か、来年の夏かはわからないけど、たぶん……今年。だから、それまでどうか、返済についての判断は保留にしてほしい。駄目かな?」
「……わかりました、司さん」

(保留なら、いいよね)

 司が何を言っているのかは正直わからないが、保留ならばまだ決定ではない。過去を思いだせず、この絆に確信がもてないなら、きちんと借金は返すのが人としての道だ。
 だが、今は結論を急がなくてもいいだろうという気持ちになれた。
 雇い主であり、すみれにとっては今のところ一方的な自分の恩人でもある司の言うことだ。無碍にはできなかった。
 司の言葉はやはり不思議だった。未来を予言するかのようなその言葉に根拠があるのかどうかもわからないが、不思議と司が適当なことを言って煙に巻こうとしているわけではないことは、感じた。
 おそらく彼の中には根拠があるのだ。

 夏には、、という、根拠が。

「うん。よろしい」
 満足げに頷き、ふっと右手を差し出した司が、途中で不自然に手を止めた。
「あぁ、握手したかったんだけどね。手がこんな状態じゃ申し訳ない。一度、庭仕事は中断して中に入ろうかな」
 自分の汚れた手を見て司が苦笑した。

 どうしてだろう、その時、自然にすみれの身体は動いた。
 何かに突き動かされるように──ひっこみかけた司のその手を両手で掴み、慌てて言い募った。

「私、気にしません! なんならお庭の手入れ、お手伝いしますし! だから、その」

 握手してください、と言いかけ──ふと見上げれば、呆気にとられた表情の司がいて、ふと我に返った。
(うわっ、私、何してんの……?)
 大体自分から手を握っておいて、握手してくださいも何もない。もう触れてしまっている。

「あー……もう、握っちゃいましたね。ごめんなさい……」
 呆れられただろうかと、思わず司の様子を窺ったが、司は気分を害した様子もなさそうだ。
「あはは……うん。ありがとう、すみれ」
 
 司が小さく噴き出し──そして嬉しげに口元を綻ばせた。
 では失礼してお言葉に甘えるよ、と呟きながら、司のもう一方の手が、すみれの両手をさらに包みこむ。どきりとして、すみれは一瞬息を飲んだ。
 乾いた土の微かなざらつきと共に、何よりもあたたかな体温が、ぎゅっと包みこまれた手のうちに沁みた。

「改めまして、ようこそ、青龍邸へ……すみれ。青龍家を代表して、心から歓迎するよ。君の実家だと思って、気兼ねなく過ごしてほしいな」
「あ、ありがとう、ございますっ……」

 背を正して告げた司に、慌ててすみれはぺこりと頭を下げた。
 繋いだ手は温かい。
 荒唐無稽な過去の話──なのに、司の手紙から伝わる誠意と、熱意にほだされるように、自分はここに来た。
 来て、しまったのだ。
 不思議と、この人に嫌われたくはないな、と思った。
 悲しませたくもなかった。
 ……追い出されたら、行くあてが無いから?
 だからこんなにも司の感情を気にしてしまうのだろうか?

(ほーら、司さん、私はこんな凡人ですよ?)

 やっぱり自分は小さな人間だ。すみれはいたたまれなくなった。
 司はすみれを美化しすぎているとしか思えない。
 花束を差しだして相手が笑ってくれなければ、自分ならきっと傷つくだろうから。

 ……胸の深いところで、先刻からずっと甘く何かが疼いている。

 けれどすみれはその正体を自分でも掴み切れずにいた。
 こんな風に誰かに対して感情が強く揺れるのは初めてで──今だってこうして優しくされているのに、繋いだ手はしっかりと握り直されているのに、何故に泣きたくなるのだろう。
 そっと唇を噛みしめたすみれの頭上で、ふと、司の吐息が落ちた。

「……君は、
 溜息のような、声だった。
「──え?」
「ホントに、まっすぐだ。君は自分の長所に案外気づいていないみたいだけど、ね」
「……司、さん?」

 真っ直ぐなのはむしろ司のほうだと思うのだが──そう胸の中でひとりごちながら、おずおずと顔を上げたすみれに、司はくるりと悪戯な瞳を見せた。

「ね、すみれ。ひとつだけ、我儘をいってもいいかな」
「……はい?」
「うん。あのね、出来れば、いつか、
「──」

 すみれは微かに瞳を瞬いた。

(……は、我儘、っていう?)

 紅茶を淹れるだなんて、そんなことは上手い下手を除けば、今すぐにでも叶えてあげられそうな気がする。わざわざ我儘とまで表現するほどの事とも思えぬ、ささやかなあるじの希望に、すみれはちょっと笑った。

「そんなことなら、勿論、淹れさせて頂きますよ?」
「……うん。いつかね」

 司は──どこか遠い目をして微笑った。じゃぁ今すぐお願い、とは言わずに。
 柔和な雰囲気を湛えていた彼が不意に見せた大人びた表情に、ふと、すみれは息を呑んだ。
 ただの優男のように見えるこの青年だが、思えばこの若さで世界有数の金融コンツェルンの頂点に立つ男だ。きっと彼には、いくつものかおがあるのに違いなかった。


「君と、から、今日は邸に入ったら荷物を置いて庭においで。天気もいいし、外で一緒に一緒にお茶にしよう」
「あ、はい」
「……いつか、君が自らお茶を淹れてくれたなら、最高だよ。急がなくてもいいけれど、出来れば俺のこの願いを聞き届けてくれると、うれしい。これは、主人としての命令ではなくて──極めて個人的なお願いだよ。だから、無理なら忘れてくれていいんだ。今のところは……心に留めておいてくれると嬉しいな」
「? ……はい。わかりました」

 よくわからないけれど、今すぐということではないのだな、と理解し、すみれはにこりと笑ったものだった。
 そう、この時、すみれはまだ知らなかった。
 広大な敷地を私有地として有する、日本でも有数の資産家でもあった青龍邸の中で、使、を。
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