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第一章 シロツメクサ、青龍家に降り立つ

02 イケメン執事の宣戦布告

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 司と共に邸に入ると、すぐにメイド達に迎えられ、すみれは司といったん別行動をとらざるを得なくなった。
 広大な屋敷は、どこを歩いても仄かに花の香りがした。
 清浄に整えられた邸……というよりまるで城としか思えぬその廊下を、丁寧にメイドに案内を受けながら歩くものの、何度か角を曲がったり階段を登ったりしたところでさすがに不安になってきた。

(……いや待って待って? 覚えられないんだけど?!)

 どう角を曲がり、自分は何処へ行こうとしているのか。すぐにすみれは、己の記憶力に自信が持てなくなった。本当に愕然とするほどに広い。

「あ、あのぉ……広い、ですね……」

 茫然と呟いたすみれの傍らで、ふふっとメイドが微笑んだ。
 実にスタンダードで飾り気の少ない、膝丈の紺色メイド服を、実に品よく着こなした美人メイドだ。歳は、おそらくすみれより二、三ほど年上の、しっかり者といった印象の明るい女性で、ロングヘアーをアップで纏めている。笑顔はまるで大輪の花が咲いたような華やかさだった。

「ええ。とても広うございます。初めての方は皆そう申されます。こうして歩くと、うっかり迷いそうになりますわね」

 どことなくすみれに好意的なそのメイドは、微笑みながら教えてくれた。

「でも、ご心配はいりませんよ、すみれ様。
 この建物は、カタカナのコの字が開いた側を、
 南に向けて建っているとお考えください。
 本館、そして両翼に広がるのが西館・東館でございます。
 それぞれの建物は繋がっておりますが、
 必ず廊下の絨毯の色が異なっております。
 本館は臙脂色、西館は薄い桜色、東館は金茶色でございます。
 ここは、まだ本館です、すみれ様。
 エリアが解らなくなったときは、外の景色と共に、廊下の色をご確認ください。大体の位置関係はそれで掴めますので大丈夫ですわ」

「えっ全く大丈夫ではないですが、ここが巨大リゾートホテルばりに案内図がないと初心者には敷居の高いダンジョンだということだけは解りました」

 正直一つも覚えられず右から左へ流れてゆく案内に、思わず真顔で息継ぎすらせず返してしまったすみれに、メイドは一瞬目を丸くして──そしてくすくすと笑ってくれた。悪意の感じられない優しい笑みだったのが救いだ。
 良かった。笑ってくれなかったら本当に孤独死するところだった。
 じわりとへんな汗まで出てきそうである。

「あとで、案内図を客室から取って参りますわね」
 優しいメイドに救われた。
「……は、はい……あの、ところでですね」

 明るい廊下を歩きながら、すみれはおずおずと切りだした。

「その、すみれ様って……やめていただけますか?」
「とおっしゃいますと?」

 ぴたりとメイドが足を止め、すみれを見つめた。

「いえ、その、私……ここでメイドとしても働かせていただくので……つまりその、同僚ですし、私はメイドさんの後輩、ですよね」
「はい。伺っておりますわ。ちなみに私のことは、夏凛かりんとお呼びくださいませ、すみれ様」

 メイド──夏凛はにこりと微笑んだ。

「ですが、お話によれば、すみれ様は旦那様の招かれた大切な、ご家族同然のお方でございます。メイド服を着ておられない時のすみれ様は、私どもにとって大事なお客様であり、旦那様のご家族同然でございます。今は、すみれ様とお呼びいたしますこと、お許しください」
「……はぁ……そういうものですか……」
「はい。そういうものです」

 有無を言わさず爽やかに頷き、夏凛と名乗ったメイドがすみれの荷物を抱えたまま歩き始める。すみれが自分で荷物を持つと言い張ったのだが、持たせてはくれなかったのだ。

(本当に私、場違いすぎじゃない? 世界が違いすぎるよね……)

 背中を冷たいものが伝い落ちた……その時だった。
 前方の角から、一人の黒スーツの男が現れた。長身だ。
 見た瞬間はっとさせられたのは、その男がきっちりと整髪剤を使って髪をアップに整えていたからなのか、それとも凛として隙の無いその立ち姿に圧倒させられたから、なのか。

(うわぁ……きれーな人、だけど……) 

 同じ美しさでも、司のような一見人当たりがよく誰もが好感を抱くような優しげな美貌とは異なり、こちらは磨き抜かれた剣のごとく隙が無い気迫を放っている。
 切れ長の黒瞳が、ふとすみれと傍らのメイドを捉えた。

「……夏凛」

 男が、呼んだ。
 その瞬間、今までにこにこと優しげな微笑を浮かべていたメイドの表情が、若干鼻白んだような表情になった。

「何用かしら? 鞘人さやと殿」
「お嬢様は私がご案内する。お前は持ち場に戻れ、夏凛」
「あら。何故ですの? 女同士のほうが何かと捗ると思いますわ、鞘人殿」

 会話からして一応、夏凛かりん鞘人さやとという名らしいこの男の部下、という感じなのだろうか。しかしそれにしては、夏凛と呼び捨てられたメイドの態度はどことなく挑戦的な匂いがする。それに男の方も、夏凛を呼び捨てだ。
 鞘人と呼ばれた黒スーツの男は、完全な無表情だった。

「お嬢様には私から話がある。お前は戻れ」
「……」

 淡々と告げる鞘人を前にして、夏凛は露骨な溜息をあからさまに漏らしてみせ、すみれを振り向きにっこりと微笑んだ。

「──また、ゆっくりお話させていただけますか? すみれ様」
「え、ええ。勿論」
「鞘人殿に苛められたら後で私にこっそり教えてくださいませね。しっかり仕返しさせていただきますわ」

 内緒話といった風情ですみれの耳元に唇を寄せ囁いた夏凛の声はしかし、仕草とは裏腹に少しも小声になっていなかった。
 当然、鞘人には聞こえている。あえて聞かせたのであろうことはすみれにも察しがついた。優雅な台詞の応酬なのに、辺りの温度が果てしなく下がってゆくような気がしてならない。

「夏凛。誤解を招くようなことを言うな」
「あら失礼。私の杞憂であることを祈りますわ。お嬢様も疲れていらっしゃいますし、お手柔らかにお願いしますわね?」

 振り向いて半ば睨みあった両者の間に、微かな火花すら散ったような気がして、すみれはぎょっとして目を瞬いた。

(いやいやちょっと……何が起こるの、今から……)

 不安もこみ上げてくるというものだ。
 夏凛がすみれの荷物を鞘人に託し立ち去ってゆくのを成す術もなく見送っていると、やがて頭上で咳払いが聞こえた。
 慌てて振り仰げば、鞘人がやはり無表情で立っていた。
 美しい造作の顔なのに、湛える雰囲気が若干怖い……と思いきや、ふとすみれを見る眼差しが穏やかなものに変わった。
 鞘人が、微かな微笑みを湛える。
 すると今までただただ近寄り難かった鞘人に、穏やかな雰囲気が宿った。
 緊張に強張っていたすみれの肩から無意識に力が抜けるほどには、柔らかな面持ちで、鞘人が優雅に執事礼を取った。

「……青龍家へようこそ、晴野すみれ様。この邸の事務管理を広く任されている、執事の黒住くろずみ鞘人さやとと申します。鞘人とお呼びください。お困りの事がございましたら、なんなりとお申し付け下さいませ」

 上品に一礼した鞘人を前に、なんだ、よさげな人じゃないの……と一瞬ほっとして、すみれも一礼した。

「あ、あの。晴野すみれです。よ、よろしくお願いします」

 だが、彼の優しげな雰囲気も、そこまでだった。
 改めて身を起こした鞘人の眼差しが、再び隙のない光を湛えすみれを捉えた。

「……という主人の客に対する挨拶は、この辺りにしておく。お前がメイドをするというのなら、就業時間中はお前のことは晴野と呼ばせてもらう」

「──っ」

 いきなりこれである。
 低く告げた鞘人さやとを前にして、再びすみれの肩が強張った。切りこむような鞘人の眼差しが、痛い。
 先刻、彼は自分のことを鞘人と呼べ、などと言ったが、土台無理な話である。
(おっそろしくてとてもじゃないけどこんな人、呼び捨て出来ないし!)
 冷や汗を流すすみれを、鞘人が静かに見据えてくる。

「晴野。お前は司様の恩人なのだろう。わざわざ茨の道を選ぶこともないと思うが」

 いきなりのお前呼ばわりも、何故かこの方がしっくりくる気がした。おそらく職務の為ならば笑顔も完璧に演出できるのだろうが、鞘人本人はそれほどにこやかに話す人柄ではないらしい。

「……茨の道、とは?」
「土日や放課後に、使用人として働くということだ。自ら志願したと聞いたが」
「……はい。志願しました」

 嫌な汗が滲む気がして、すみれは身を竦めた。
 確かにメイドとして働くのを志願はした。しかし鞘人の声音は、まるでそんなすみれを責めているようにも聞こえる。
 果たして、鞘人は低く告げたものだった。

「晴野。言っておく。メイド喫茶で働くかのような生半可なイメージで、使用人のままごとをされるのでは迷惑だ。やるからにはプロになれ」
「……っ」
「問おう。お前は主人を愛せるか」
「え?」

 明るい廊下の片隅で響いた、思いもよらぬ鞘人の問いに、どっと急に汗が噴き出るような気がした。
 身体中が熱くなる。

(主人を、愛せるか? え? 何? 愛するって何!?)

 混乱したすみれを前に、だが鞘人はまるで構うことなく淡々と語った。

「尽きせぬ愛と奉仕の精神、それが使用人たる者の魂だ。つまり己の存在がきちんとこの邸と主のために役立つものとなり、それを真に喜ぶことのできる奉仕の精神、主への畏敬の念、深い情愛と気配り……それらがあってこそのメイドであり、執事だ」

「……あ、あぁ……はい」

 顔を強張らせたまま、それでもすみれは幾分安堵した。
(愛するって、そういう意味ってことね……びっくりしたぁ……)
 それでも十分、一般人のすみれには現実離れした重い問いかけだった。
 働く、ということに、それほどの意識が存在すると考えたことが普段の生活において、無かった。当然だが、すみれはただの女子高生であったのだ。

「司様は、お前を本当に大切にこの邸に迎えられた。だがお前の中で、司様はどういう位置づけだ?」
「え? どういう位置づけ、って……」
「……いや、別にどういった位置づけだろうとお前個人の想いは問わぬ。だがお前が例え土日や放課後のみメイドとして働くのだとしても、当家の制服に袖を通す以上、意識を切り替えろ。使用人として司様の役にたつことを考え、その時間はあるじを尊び生きろ」
「……は、い」

 言葉の弾丸に圧倒され、青ざめながらも、すみれは頷いた。
 正直なところ庶民の自分には、このプロフェッショナルが語るメイドの極意にはついていけそうにもなかったが、それでも働くことは、すみれが自分の意思で決めたことだ。
 半ば後悔したくなるような流れであったとしても、この邸で根拠のみつけられない親切に溺れ、ただお嬢様扱いされて生きることを考えると、そちらのほうが遙かに耐えがたいと思えた。

「青龍家の使用人に、バイトはただの一人もいない。皆、懸命にここで働く者たちだ。それを心しておけ」
「……はい」

(そっか。遊び半分だと思われないようにしなきゃ……)

 すみれは唇を噛みしめた。
 自分だって何も遊び半分で働くと言いだしたわけではないのだ。形態はバイトかもしれないが、すみれとてこれからの数年間を賭けてこの場所に来たのである。

(……頑張ろう……頑張らなきゃ……)

 だが、どう頑張ればいいというのだろう。
 あまりに育った環境とは違いすぎるこの邸の中で、本当に自分の居場所なんてあるのだろうか。使用人として、本当に自分は司の役に立てるのだろうか。
 不安が胸を黒く塗り潰してくる。
 司は自分の家のようにくつろげと言うが──そんなことが許されるとも思えない雰囲気だ。
 張り詰めていた気持ちが、そのまま折れそうな気がして黙りこんだすみれの頭上で、再び咳払いが響いた。

(……?)

 この上、まだ何か言いたいことがあるのだろうかと内心泣きたい思いで顔を上げれば──鞘人の厳しい雰囲気がふとなりをひそめた。
 仏頂面なのは変わらない。だが、何故だろう。
 鞘人の瞳が、僅かながら、優しかった。

「……解らぬことがあれば、遠慮なく聞け、晴野。俺でよければ教えてやる。俺は厳しいが、大抵のことは教えてやれるだろう」
「……あ……」
「俺は、お前を特別扱いはしない。そのかわり、お前が努力で成し遂げたことは必ず正当に評価する」
「あ、ありがとう、ございます……」

 思いの外あたたかな声でそんな風に労わられ、張り詰めたものが一気に溶けてしまいそうになり、すみれはぼんやり立ち尽くした。
 おそらく鞘人は、その身に纏う厳しい雰囲気のわりには──根は優しい人なのかもしれない。おまけに、すみれのことをお嬢様扱いしないでくれた。
 お前だの晴野だのと呼び捨てにされてホッとしているのも何だが、この邸で、初めて普通の人と会えたような気がしたのだ。厳しいだけの執事かと思ったが、案外、そうでもなさそうだ。
 少し気が緩んで、反射的に鼻の奥がつんとしてしまう。いけない、こんなところで泣いては……と奥歯を噛みしめた時だった。

「あーあ。やっぱりねえ。なーに新人さん苛めしてるのかなぁこの堅物執事は……」

 ひょいと廊下の奥から誰かの声が響いた。
 弾かれたように顔をあげてその姿を確認し、すみれはほっと顔をほころばせた。

「司さん……」
「いつまでたっても来ないから、こんなことだろうと思って来てみたよ」

 現れたのは、誰あろうつかさその人だった。
 エプロンをとって小ざっぱりとした無地のカットソーとブーツカットパンツのラフな姿になった司が、非日常すぎるこの世界の中で唯一の『普通』にも見えて、すみれはこっそり安堵してしまう。
 この服だっておそらくはさりげなく見えても質のよいブランド物なのだろうが、それでも。
 傍らで、鞘人が小さく吐息した。

「別に苛めてなどおりません、司様。これからの心構えを少しレクチャーしたまでのこと」
「はいはい。とにかく、今は彼女を預からせてもらうよ。いいね? 主を待たせるなんていい度胸だよ、全く」
「それはそれは、お待たせして大変申し訳ございません。では、私はすみれお嬢様のお荷物を部屋に置いて参ります」

 すっと一歩下がり一礼し──しかし主の前だというのに言葉ほどには存外畏まる態度も見せず、平然と鞘人は去ってゆく。
 しばしそれを見送ってから、司がすみれを振り向き苦笑した。

「ああいう男だけど、悪気はないんだよ。とはいえ、しょっぱなから彼に出くわしたのはちょっと可哀想だったかな。……泣きそうな顔だよ、すみれ」
「……っ、いえ、その……」

 うろたえて俯こうとした頬に──すでに洗った司の清潔な手がさらりと、本当に何気なく、触れた。

「大丈夫だよ。我慢しなくても、泣きたいなら泣いて、すみれ」

 静かな声だ。触れた手は、あたたかい。
 そして司の低い声は、深い優しさに溢れていて。

(だめ、だ)

 すみれは司の添えられた手に身を委ねたまま、微かに震えた。絵に書いたような好青年がこういうことを言うのは、狡い。

(弱っているところにこれは!狡い!少女漫画でも今時こんなのない!)

 必死で胸の中でいまの状況をなんとか茶化して涙の気配を誤魔化そうとしたが、駄目だった。これ以上触れられていたら、本当に泣いてしまいそうだ。
 離れなければ、と思いながらも、ぴくりともすみれの足は動かなかった。まるで根が生えたようにその場に突っ立ったまま、すみれは、司の手のぬくもりを頬で感じ続けるしかなかった。

「ずっと、独りでそうやって張り詰めてきたんだ。寂しかったよね……大丈夫、僕のことを家族だと思って頼ってくれていいんだ」
「……つかさ、さん……」
「これからずっと、僕は君の傍にいる。君が僕の元を羽ばたく日が来ようと、僕は君の家族だ。それはもう変わらない。……君は、独りじゃないよ、すみれ」
「……っ」
「君が永遠に僕のことを思い出せないとしてもね、僕は、君を放り出したりしないし、気持ちも変わらない。大丈夫だよ。僕が見ているのは、紛れもなくここにいる『君』だよ。安心していいんだ。ここにいて、いいんだ。ご両親から預かった大切な娘さんだ、責任をもって僕が君を見守る。誓うよ、すみれ」
「……!」

 ぶるり、と全身が強く震えれば、もう衝動を止めることはできなかった。
 突然の家族の死後、病室で半狂乱になって泣いたのが最後だった。あれから、あまりにも人の死の後には成すべきことがあるのだと知り、懸命に葬式の手続きを踏んで義務を果たし続けた。
 受験だけは終えていた直後だったのが幸いだが、さりとてこの先ずっと払っていける学費のあてがあるわけでもなく、未来は閉ざされていた。
 忙しさと衝撃の烈しさのあまり、心は麻痺し、涙は乾いていた。
 気絶するように短い眠りを経て、また起きることの繰り返し。
 泣く暇もなく考えなければいけないことなど山ほどあった。頼る親戚もいなかった。
 心を凍らせなければ、迫る現実を処理しきれなかったのだ。
 そんなすみれの胸の堤防を最初に崩したのは、司の存在だ。
 そして今も──
 突き上げる嗚咽を、すみれは歯を食いしばり堪えようとした。それでも、堪え切れなかった。喉奥から、絞るような嗚咽が、漏れた。

「……っ、つかさ、さん……っ……」
「大丈夫。僕が君の家族になる。傍にいるよ……すみれ」

 頬に添えられていた司の手が、流れ落ちたすみれの涙を拭い、控え目にそっと首に回った。
 司がすみれの頭を引き寄せる。肩に顔を押し付けるように抱かれれば、司の着衣に涙が沁みていくのを止められなかった。
 恥ずかしさと共に申し訳なさもこみ上げた。この人の服を汚してしまう、と気付いて慌てて顔を離そうとしたら──ほんの少し、司の手に力が篭った。

「だって……濡れて……っ」
「……いいから」

 低い声に、珍しく強い響きが宿った。

「これからの君がいっぱい笑えるように、今は泣いておきな」
「えっ……司さんどこの乙女ゲーム出身です……?」
「?」

 いえ何でも、と涙混じりに呟いて、すみれは司の控え目に回された腕の中で目を閉じた。冗談でも言っていなければ恥ずかしくて、ちょっと耐えられそうになくて茶化してしまったけれど、本当は、じわりと体温が上がるほどに嬉しかった。

(あぁ……)

 この人の為に、出来る限りの事をしよう──そんな思いが、自然と溢れてくるのがわかった。

 司はすみれを助けてくれた。この絆にもし根拠が無いとしても、己の気持ちは変わらないとまで司は言う。そんな無償の愛にも似た想いを受け止める資格など、今の自分にはないとすみれは思うのだ。
 司との過去を思い出せない以上、司と自分はただの他人でしかなく、こんな風によくしてもらう権利など何処にもない。

 だが、おそらく司はそのようには考えていない。
 司は、すみれが本当にただの雑草であっても、構わないのかもしれない。
 見返りなど、彼にとっては心底どうでもよいのだろう。

(だからこそ、何か、したいよ)

 優しいこの人の温情に、何を返せるだろう。考えれば結論は一つだった。
 ──出来れば、いつか、君の淹れた紅茶を飲んでみたい──
 そんな、ささやか過ぎる司の望みを、まずは叶えること。

(よし。そこから、はじめてみようかな……)

 役立たなければ追い出されるかもしれない、という恐れは、今、すみれの中にはなかった。
 利害を超えたところで、胸が熱く震えたのだ。
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