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第一章 シロツメクサ、青龍家に降り立つ

03 幕間『Be mine』

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  青龍邸へと迎え入れた晴野すみれと主人・司との、ささやかなティータイムは僅か三十分で終わりを告げた。元よりタイムスケジュールは夕刻から外せぬ用事で詰まっていたのだ。それを管理するのは鞘人の仕事であり、無情にティータイムの終了を告げた鞘人に、司が遠慮無くうんざりした顔を向けてくるのは承知の上だ。

「お急ぎ下さい、司様」

 冷淡に急かす鞘人に溜息をつき、すみれとのティータイムを切り上げさせた。
 茶を飲む時間は少なかったが、鞘人に釘を刺されて不安定になっていたすみれは、いくぶん心を立て直したように見える。そのあたりは抜かりのない主人だった。
 すみれの家庭事情は鞘人もある程度伝え聞いている。不運な事故で全てを失ったすみれには、きちんと涙を共有する相手が、必要だったはずだ。
 そのことに異論はないが──

(……家族、ねぇ)

 個人的に、司に言いたいことは山ほどある。
 スーツに着替えた司と共に来賓室へと足を運びながら、鞘人は短く溜息をついた。
 主は冷静を装っているが、この男が自らの邸に縁もゆかりもない女性を迎え入れるなど、大事件もいいところだった。奨学金を提供するだけで十分だというのに、司は彼女の『家族』というポジションにつくことを選んだのである。

(まぁ、晴野が自分でメイドになると宣言した以上、表向きはメイドを一人雇い入れたようなものではあるが……しかし……)

 対外的には、なかなか厄介だった。司が何を考えて彼女を引き取ったのかは、この邸の誰一人とて詳細に知らされてはいないのだ。
 すみれはすみれで、ただのお嬢様として扱われることを拒んで、メイドの道を選んでしまった。黙ってお嬢様扱いされていれば楽だったものを、物好きな……と思わざるを得ない鞘人である。
 茨の道だと彼女には告げたが、大げさに聞こえる表現であっても、決して誇張ではない。
 メイドや執事の業務というのは、全てのサービス業の頂点に立つといっても過言ではない複雑で多様な知識を求められる。そして技術だけでは完成しない職でもある。
 働く者の精神性を、これほど問う職もそうはない。
 成熟したサービスを提供できるようになるまでの道のりの厳しさは、想像を絶する。そういった世界とは無縁に生きてきたすみれには、荷が重いに違いない。

 だがすみれは選んだ。そしてじきに気付くに違いないのだ。
 司が望んだたった一つの、ささやかな望みを叶えるには、まだしばらくの時間が必要だ、という現実に。

「……司様」

 二人きりの廊下、半歩後をゆく鞘人は、背後を歩く司をひそりと呼んだ。

「ん? 何?」
「私は、すみれ様を特別扱いは致しません」
「はいはい。知ってるよ」
「そして、司様」

 ぴたりと鞘人の足が止まる。
 同じく立ち止まった司を、鞘人はちらりと振り向いた。

「司様がすみれ様をこの邸に呼び寄せたことで、焦ったのでしょう。見合い話が急に押し寄せてきております。以前の二倍に」
「お前に任せる。今までと同じように断ってくれ」
「……」

 気のない返事をした司を前に、鞘人はしばし黙り、司を見据えた。

「……司様は、この青龍家を、どうするおつもりです」
「あれ? 不安にさせるようなことを俺はしているかな? 優秀な人材なら山ほど育てているつもりだよ?」

 飄々と司は言う。しかしその薄い新緑のような色を湛える瞳に今は隙が無い。
 己の心を悟らせぬ司の表情は静かすぎるほど静かで──つかみ所がなかった。

「……あくまで、どなたともお会いになるおつもりはない、と。ならばはいつ現れるのです?」

 畳みかけた鞘人に、果たして司は──薄く笑んだ。

「──ここでする話じゃないね、鞘人」

 すみれと居る時に浮かべていた先刻までの優しげな色は、色素の薄い双眸からは綺麗に拭い去られている。
 司から優しい気配をぬぐい去れば、あとに残るのは、誰もが思わず退いてしまいそうになる凜と冴えた気迫だ。美形であるが故に、この気迫が他人には相当な圧になる瞬間があることを、鞘人は知っていた。
 一見優しげな風貌で、青龍コンチェルンのトップに君臨するのは、並大抵のことではない。
 だが鞘人は、細い黒瞳をわずかに見開くのみだった。慣れている。もう長い付き合いだ。
 

「これは失礼いたしました、司様」
「毎度のことながら表情が言葉を見事に裏切っているよね」
「失礼ながらそれは誤解でございます、司様。私の顔はもとより愛想がございませんので」

 これは嘘である。確かに一見、愛想のない冷酷な彫像にも似た美を持つ鞘人だが、客人相手にはきちんと意識して柔らかい表情を見せる。
 それは、青龍家だけでなく他の名家でも執事という職一辺倒で生きてきた鞘人の、職業人としての技量だ。
 鞘人とて、客人を交えて司と接する時は、まるで別人のように丁寧である。
 だが司と二人きりの時は、鞘人に遠慮はなかった。

「──すみれ様を、どうされるおつもりです?」

 無表情で唐突に繰り出す鞘人の問いに、司もまた動じることはない。

「どうするも何も、ね。『家族』として迎えたよ? 鞘人、すみれと俺の関係に何かを期待するのはお門違いだ。将来はあの子に自由に選ばせる。俺から何かを強いるつもりはない」

 鞘人の思考を先回りして全て口にした司に、鞘人はしばし黙りこんだ。
 自分から何かを強いるつもりはない、と司は言った。確かに相手がもう大学生とはいえ、何か関係を強いるようなつもりで引き取ったのなら問題だ。司がそういう下種げすな男ではないことぐらい、鞘人も解っている。

(男女の一線を越えるつもりは永遠にない、と?)

 だが──それにしては司ががすみれを見つめる視線には、隠しがたい熱があるようにも見えた。

「ほら。さっさと行くよ」
「……司様」

 鞘人が、低く呟いた。

「では、私が自分の余暇に、すみれ様を誘ってもよろしいのですか」
「──」

 食い下がる鞘人の不穏な台詞にも、司は眉一つ動かさなかった。

「君が余暇に何をしようと、俺には関係のないことだよね」
「……本気でそれを?」
「本気だよ」

 司は笑む。そのくせ底の見えぬ眼差しが、鞘人を刺した。

「全て、彼女の自由意思の元に選ばせるさ」

(自由意志、ね……)
 窓の外では、春一番を思わせる風が、強く吹き始めていた。

*   *   *

「では、失礼します」

 優雅に一礼し、世話役のメイドがドアの向こうに消えたのを横目で確認してから、すみれは改めてあてがわれた部屋を見回し、深々と溜息をついた。
 司との初めてのティータイムを終えて、これから少なくとも四年過ごすことになるであろう部屋に通されたのである。
 広い部屋だ。たぶんあてがわれたこの部屋は、元いたすみれの借家の総面積より広い。
 ベッドルーム、リビング、パウダールーム、書斎、バスルーム、トイレにウォークインクローゼット。
 ホテルのスイートもかくやといった各部屋の説明を受けながらも、こんな大層なクローゼットにしまう服がそもそもないわ……と胸の中でひとりごちたのは秘密だ。
 疲れたなぁとぼそぼそ呟きながら、これまた広すぎるベッドにどさりと腰かけ──サイドボードを見やったすみれはふと目を見開いた。

「あ……」

 そこにあったのは花瓶だった。
 少し大きめの白磁のもので、先刻司が摘んでくれた色とりどりのポピーが活けてある。
 可愛いなぁと顔を寄せ、そして気付いた。白磁の花瓶の横に、小さなガラスの一輪差しがあることを。
 そこには、クローバーの葉と、シロツメクサが一輪、細く白いリボンできゅっと束ねられたものが挿されてあった。
 そして机上には、小さなカードが入れられているのだろうか、可愛らしい掌サイズの封筒がひとつ。

(……あの時……)

 思い出したのは、庭で司と話していて、ふと俯いたすみれの視界に飛び込んできた、シロツメクサだった。
 摘まれて捨てられてしまうのだろうな、とすみれが密かに嘆いたあのシロツメクサなのだろうか。思わず司に自分の思考すら読まれている気がして、どくんと心臓が鳴ったが……良く考えればクローバーは他のところにだって生えていたかもしれない。
 気を取り直し、すみれは机上の封筒に手を伸ばした。

 封筒には、すみれへ、と達筆で書かれている。誰の文字かは、見ただけでわかった。
 最初に貰った手紙と同じ筆跡──司だ。
 封筒から中身を取り出してみれば、掌サイズのミニカードに、メッセージがしたためられていた。

 俺は、こういう野の花も大好きなんだ。よかったらこの子も愛でてやって。
 君のこれからの時間が、幸せなものとなりますように。

(……司さん……)

 ふと張り詰めていた気持ちが緩み、柔らかく和んだ。
 見知らぬ邸で過ごす最初の夜だった。こんな庶民の代表格みたいな草花が傍にあるだけで、なんとはなしに気持ちが落ち着くような気がする。司はそこまで計算してこれを差し入れてくれたのだろうか。
 だとすれば気遣いがとてもありがたかった。これがバラの花などではなく野の花であることが、逆にとても嬉しかった。庭園の片隅に咲いていたシロツメクサなどを、使用人がわざわざ摘んで届けるとは思えない。これは司がおそらく自ら摘んで、届けるように命じてくれたのに違いなかった。
 すみれは小さく微笑んで気を取り直し、小瓶を手に取った。

「よしよし、いらっしゃい。今夜はお前と一緒だね、シロツメクサちゃん!」
 間近でシロツメクサと添えられたクローバーの葉を眺め──やがてすみれは目を瞠った。
「……あ……あぁぁぁぁっ?!」

 思わず、声が出た。
 添えられていた葉は、ただのクローバーではなかった。そっとつめたい葉に触れてみて確認する。
 これは確かに、四葉だった。

(わぁ……!)

 誰もが知る四葉のクローバーの花言葉は『幸運』。
 司はこの葉をまさかわざわざ探したのだろうか。それとも探すまでもなく偶然見つけたからこそ、この草花を差し入れてくれたのだろうか。
 わからないなりに、すみれは嬉しくて笑み崩れた。

(よし……こうなったらお給料を貰うに相応しい働きをして、堂々とお給料貰おう。そして最後には、何年かかってもいい、学費お返ししよう。それがいい)

 両親が死んでから長らく虚無の時間を過ごしてきたが、ようやく、前を向いて歩き出せる時がきたのだ。すみれの胸に光が射した。
 君のこれからの時間が幸せなものとなりますように──司が書き添えた最後の言葉が、胸をあたたかく染めている。
 それだけでもう十分だった。
 ここに来て良かったのだろうか。ずっと悩み、迷い続けていたし、いざ青龍家に来てもなお感じる必要のない卑屈な想いが拭えずにいたけれど。
 少なくともこの家の主は、ここに居ていいのだと、そう囁いてくれる。

「なんとかなる、かな!」

 すみれは小さくガッツポーズをし、微笑んだ。
 四葉の花言葉は幸運、そんなことはあまりにもよく知られていることで、だから。
 それ以上の追及など思いもよらず、すみれはただ、素直にその四葉を嬉しく思うだけだった。

     *   *   *

 司は暗い窓の傍に佇み、腕を組んで庭を眺めた。
 この庭は不思議なところが多々ある、と司は幼い頃から感じていた。特別な事はしていなくても、花の鮮やかさは他の庭園にはない美を誇っていた。薬を撒くことがほとんどないのだが、どんな気候の年でも、病気になる草花が出ないのも不思議だと、よく庭師が言うのだ。

 そしてもう一つ、昔から不思議だったのは、司が庭を歩くと、四葉のクローバーに必ず出くわすことだった。

 幸運の象徴ともされる四葉。今日もすみれへのプレゼントのために、彼女の到着前に四葉を探していたら、さほど苦も無く見つかった。
 勿論、これは庭園の中においてはあくまで雑草なのであって、特別に四葉の種をまいた覚えはない。庭師も雑草は常に気配りして取り除いてくれている。つまりそもそも、手入れの行き届いている庭園の中で、クローバーを見つけること自体が稀だ。その稀なクローバーの中から四葉に出会う確率など、本来ありえないほど低いはずなのだが……確率を、現実は裏切っていた。
 庭師たちに聞くと、四つ葉などほとんど見かけたことがありませんと言う。司が四葉に出会う確率の高さは、実際、異常なほどだった。
 四つ葉のクローバーの花言葉は、幸運。気付いてくれたなら、きっと少しは彼女も喜んでくれるだろう。そう思って差し入れたが──シロツメクサの花言葉は、他にもある。
 司は、つと瞳を眇めた。
 この草花が宿す様々な花言葉は、たかが花言葉のくせに、司にとって全てが重かった。
 まして米国における四葉の花言葉は──

 ──夜の闇が一層、深く胸に積もる。

 司はそれきりカーテンを閉め、窓際から離れ寝台へと身を投じた。
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