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第二章 決意のシロツメクサと、真夜中の庭

01 シロツメクサ、現実を知る

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01 シロツメクサ、現実を知る



 
 するりとメイド服に袖を通し、すみれは背中のファスナーをどうにか回した手で捉え、首元まで引き上げた。
 不思議と、着用すると背筋が伸びる気がする。大げさではなく、もう一人の自分に生まれ変わるような気持ちになるのだ。
 メイド服は、まだ着慣れない。ひざ丈のスカートはパニエでふんわり持ちあがっていて、足元が隠れ、若干確認しづらい。これで清掃業務につくのは、正直不便だ。
 しかしそのことを夏凛かりんにちらりとこぼすと、これでもマシになったほうなのよ、と夏凛が笑った。

『昔はここのメイド服はもっと華美だったらしいわよ?』

 メイドとしては先輩な夏凛は、すみれがメイド服に袖を通している時間は普通に先輩としての口調で話しかけてくれる。
 様付けでは呼ばれ慣れないすみれは、そんな夏凛にほっとしたし、一週間ほど経った今では姉を慕う妹のように彼女になついていた。

『これよりも……ですか』
『そうね。先代様は派手好きで浪費癖もあったなかなかの遊び人だったみたいよ。そのせいでメイドも華美に飾り立てられてたんだって。でも、今のメイド服は、とってもシンプルでしょ?』

 夏凛にそう言われてみれば、確かに布は上質のものだが、仕様は極めて簡素なものだったし、見た目よりは軽い。
 少なくとも、巷でよく見るメイド喫茶の制服よりはよほどすっきりしている。

『今の旦那様……司様が先代の後を継がれてから、シンプルなものに変えちゃったらしいわ。今の時代に華美すぎるものはそぐわない、って。グループ全体の業績も急激に上向いたし、旦那様はなかなかやり手よねぇ』

 司が主でよかった、とすみれは心から思ったものだった。
 これ以上華美な制服だったら、小っ恥ずかしくて着用を躊躇ったかもしれない。
 一週間、とりあえず無我夢中で仕事を覚えた。まずは下っ端のすみれがやることはひたすら清掃業務だったが、たかが清掃、されど清掃。メイドの仕事の八割は清掃、整頓、洗濯業務なのである。
 華やかでおしとやかだったり、秋葉系のメイド喫茶のような浮ついたアイドルのようなイメージとは180度異なり、現実は地味で細かい仕事だ。
 メイド長・佐古さこの指導は一時たりとも気が抜けぬ厳しさで、百円ハゲが出来てしまいそうなぐらいだし、パーティ用の広間やゲストルームの清掃は、佐古がいようといまいと緊張する業務だった。うっかり壊してしまえば、とてもじゃないがすみれのお給料では弁償すらできぬような品物がいたるところに飾ってある。

 とはいえ、今日は佐古が街に出ていて不在なので、メイドたちの表情は一様に明るい。初老の気難しさを有した佐古の圧倒的な存在感は、若いメイドたちを常に緊張させているのだ。今日は、どことなく邸にのんびりした空気が漂っていた。
 すみれは着替え終わると、夏凛と二人で組んで、使われていないゲストルームの清掃を学んでいた。
 ティーカップの類を移動させ、空いた棚を専用の布で磨きつつ、ふとすみれは思い出した。
 この一週間、懸命に与えられた業務を学ぶことだけで精一杯だったすみれだが、そういえば、司にお茶を淹れるという約束は果たせていない。
 あれから司は多忙を極めていて、普段邸の中で見かけることが無かった。少し、寂しい。

「夏凛さん。ちょっと、いいですか」
「ん?」

 別の棚を清掃しながら、夏凛が振り向く。手の中の布を握り締め、すみれは夏凛を見つめた。

「あの。実は、司さんにお願いされていたことがあって」
「あら。何かしら?」
「お茶を……紅茶をいつか、淹れてほしいって。言われたんです」
「……あぁ……そうなんだ」

 ふと、夏凛が目を細めた。どこか遠い目で。

「なので、どうしたらいいのかと思って……茶器とか借りればいいんでしょうか……?」

 この邸のこともまだまだ解らないことだらけだった。司に茶を淹れるという単純そうなことですら、何をどうしたらいいのかわからない自分に気付いて問いかけたすみれに、夏凛は少し目を瞠り……やがて少し含みのある笑みを浮かべたものだった。

「なるほど。貴女も大変ねー……」
「……え?」
「すみれ。旦那様にお茶をお出しする権利は、今の貴女にはないのよ」
「……え?」

 すみれは、ぎょっとして息を飲んだ。

(権利が、ない?)

 すみれに与えたショックを見定めるように、夏凛はこくりと頷き、再び手を動かしながら話し始めた。
 曰く──主である司に、紅茶を淹れる権利を持つ者は、お茶出し業務に関する知識を習得済みの者のみである、らしい。
 当然、客前で茶を供するレベルの技量と知識が求められる。
 まずはそれらを習得していかなければならず、それまでは練習ばかりで、実際に賓客や主にお茶出しをすることは許されないのだ、と。

「普段は、お茶を旦那様にお出しするのは執事の仕事だしねー。とはいえ執事たちは多忙だから、私たちは執事が忙しい時を補って、たまに旦那様にお茶出しするだけだけど……それにしたって、お茶をお出しするのは、佐古さんが認めたメイドだけよ。それ以外のメイドは、機密だらけの旦那様のお部屋に入る資格もないから。つまり貴女は……」

 そこまで語り、ふと夏凛は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「旦那様から、ランクアップを望まれている、ということね」
「ランク、アップ、ですか」
「そう。旦那様にお茶を出したいなら、佐古さんのチェックを受けるしかないわ。あたしたちはランクアップテストって呼んでるけど……接客業務関係は全部そのテスト受けないと何もさせてもらえないわよ。そのかわり、お給料も上がるわ」
「ラ、ランクアップ、テスト……」

 茫然とすみれは呟いた。よもやメイドの世界にまでテストがあるなんて考えてもみないことだったが……ふと鞘人が『茨の道』と称していたことを思い出す。

「佐古さんがね。もーとにかく、厳しいのよ、あの人先代様の面倒もみてこられた方だから。でもうちの邸でランクアップしていくと、どこに出しても通用するメイドが出来上がると言われているのよ。ねー、鞘人殿?」
「……私語を慎め。手が止まっているぞ」
「……っ!」

 突如低く響いた声にすみれがぎょっとしてすみれが部屋の入り口を振り向けば、鞘人が開かれたドアにもたれ、憮然とした表情で腕組みして立っていた。

「す、すみませ……!」

 心臓に悪い上司の登場に、すみれがまともに声も出せずに驚いている傍らで、夏凛といえば小さく眉をあげ、「ほんと登場の仕方まで陰気なんだから始末に負えないわー」などと火に油を注ぐようなことをぼそりと言う。
 一応鞘人は執事である以上、メイド達の上司にあたるというのに、この二人の間だけはどうにも心臓に悪い空気を醸し出している。よく言えば遠慮がない。悪く言えば常に導火線に火が点いている爆弾めいている。

(うわーもう! 相変わらず夏凛さん怖いから!)

 すみればかりが一人肩を縮こまらせて冷や汗をかいていると、ゆらりと鞘人がドアから身を起こした。まったくいい意味でも悪い意味でも隙のない黒スーツの似合う男である。
 束ねた艶のある黒髪を揺らし、愛想のない瞳ですみれを見据え、彼はやおら低く告げた。

「晴野。ティータイム業務のランクアップテストは、一ヶ月毎に行われる」
「一ヶ月、毎……ですか」

 唐突な鞘人の言葉に、なんとも答えられずにすみれが目を瞬かせていると──やおら、その手がすみれの手を掴んだ。

「──来い」
「え?」
「茶を淹れてやる」
「え? あの、鞘人さん?」

 話の流れについていけずに愕然としながらも、引っ張られて歩き始めたすみれがおろおろと夏凛を振り向けば、

「いってらっしゃーい」

 苦笑まじりに夏凛が呟き、ひらひらと手を振っていた。止める気はないらしい。

                     *   *   *

「あ、あの……」

 従業員のバックルーム──といってもそこらの店の従業員用更衣室などとは比べ物にならない、きちんとした部屋の体裁を保った小奇麗な控室である──の中に導かれ、流しの前に立たされると、すみれは戸惑って鞘人を見上げた。

「な、なぜ、今、私にお茶を……?」
「……」
 鞘人は切れ長の目ですみれを見下ろし、一言、
「お前に教えてやる」
 とだけ告げたものの、詳しい事は何も言わない。

 淀みない動きで鞘人が用意を始めた。併設されたIHコンロの上に、湯沸かし用のケトルを置く。そして棚から紅茶用のポットなども含めた茶器やティースプーンやナプキンの類を取り出し、次々と流しの横にある作業台に用意していった。
 従業員用の控室に置かれた流しといっても、ここは教育用の場所でもある為か広く場所がとられていて、すみれの実家にあった流し台の三倍は広い。
 陶製のキャニスターをぐいとすみれの手に押しつけ、鞘人は告げた。

「茶を淹れてみろ」
「……ええと」

 ごくりと生唾を飲み込み、すみれはひきつった表情で切り出した。

「淹れたいのはやまやまですが、あの、すみません、私、ティーバックの紅茶ぐらいしか淹れたことないんですけど……」
「茶など、葉をポットに入れて湯をそそげば色は出る」
「……」

 英国貴族が聞けば発狂しそうな極論に、すみれは耳を疑った。
 冗談かと思ったが、極めて鞘人は真面目な──相変わらずの無表情である。
 再び手にキャニスターを押しつけられ、すみれは仕方なくそれを開けた。中には茶葉が入っている。すみれが知る安物のティーバックに入った細かく砕かれた茶葉ではなく、かなり形を残したもののようだが、すみれには所詮その程度しかわからない。
 キャニスターを見直せば、何やら銘柄を書いたラベルがはりつけられている。

「だ、ダージリン……でしょうか」
「そうだ。自分で考えてやってみろ」
「は、はぁ……」

(やってみろって……さっきお前に教えてやるって言ったのに、これじゃ何にも教えてもらえてないんですけど……)

 喉まで出かかる文句を堪え、すみれは戸惑いながらも、水を探した。しかし、ミネラルウォーターの類は台の上に用意されていない。

「……浄水器は通してある水だ。構わずそこから水を採れ」

 黙っているのかと思いきや、鞘人が指示をくれた。どうやら流しに備えつけられている蛇口からそのまま水を使えばいいらしい。
 すみれは頷き、水をケトルにいれ沸かし始めた。

(えっと、茶葉を、ポットにいれればいいのよね)

 無意識に助けを求め、すみれが鞘人をちらりと見たものの──ここから先はあくまで高みの見物と決めているのか、鞘人は悠然と腕組みしたまま黙ってすみれを見返すだけだ。年頃の乙女とばっちり見つめ合おうとも、ちらとも揺らがぬ鉄の眼差し。
 その冷徹なまでの瞳からは、見事なまでに感情は読めない。

(この男……佐古さんよりも性質悪いんじゃないの……)

 内心呻きながら、すみれは黙って手を動かした。もう鞘人などに頼るまい。自分でやり遂げるしかないのだ。
 腹を括り、茶葉を見慣れぬ形のスプーンで一さじ掬ってみる。この量でいいのか。すりきりなのか、山盛りがいいのか。それとも二杯いれるべきか。迷いが生じて、手が再び止まった。
 適量など、いくら考えたところでわかるはずもなかった。基礎知識がないのだから当然である。かといって、鞘人はといえば依然黙したままだ。息の詰まることこの上ない。
 もたもたしているうちに、少量で沸かした湯はぐらぐらと煮立ち、もうかなりの時間がたっていた。湯がはねたり零してしまうのが怖くて、慎重にお湯を注いだ。蓋を閉める。無論、正確な湯量ではなかった。なんとなくの目分量である。

(多分、二分だか三分ほど待つのよね……)

 作業台をまた落ちつきなく見回せば、砂時計があったのでひっくり返してみる。
 すみれは折れそうな心をなんとか奮い立たせ、待った。
 壁のアンティークな振り子時計の音が、やけにカツカツと部屋に響き渡る。
 ……とても……気まずい。
 これはなんだ。何かの我慢大会なのか。こんな時に限って、メイド達は誰も控室に戻ってこないのだ。控室には通夜もかくやといった重い空気が漂う。
 脂汗が出てきそうな空気の中、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、砂が落ちきるのを待って──いよいよすみれはティーカップに紅茶を注ごうとして、ふと動きを止めた。

(そ、そうだ、なんかモノの本で読んだ気がする。ティーカップもあっためるんだっけ……?)

 もう遅い。紅茶を注ぐ寸前だ。
 今からでも温めたほうがいいのだろうか。軽く動揺し、すみれは唇を噛んだ。迷っている間にも、茶の成分は抽出され続けている。
 結局そのまま、がちがちに緊張した腕をなんとか動かし、茶こしを使ってカップに注いだ。

「……で、出来ました……」

 おそるおそる、すみれは鞘人を見あげた。
 鞘人は微かに頷き、すみれに椅子へ座るように促した。
 おずおずと部屋の中央にいくつか備え付けてあるティーテーブルの一つを選んですみれが席につくと、鞘人はカップをすみれの前に美しく供した。そして、極めて無愛想に告げた。

「飲んでみろ」

 その場に立ったままの鞘人に促され、すみれはティーカップを取った。そっと一口飲んでみる。なんというか、美味しいといえば美味しいような気もするが……どうなのだろう。
 無論、市販の安いティーバックよりは香りはいい。だが、砂糖もミルクも入れない状態では、すみれとしては続けて飲みたいともあまり思えなかった。気の抜けたサイダーのような感じを覚え、すみれは黙ってティーカップを置いた。鞘人を見あげる。

「その味を覚えたか」

 鞘人に問われ、すみれは自分の口腔内に意識を向けた。舌にあまり心地よくない後味がまだ軽く残っている感じがする。これを覚えたというならそうなのだろう。
 力なくすみれが頷くと、鞘人が低く告げた。

「いいか。これが、今のお前が司様にお出しできる紅茶だ」
「──あ……」

 司の名を出され、一気にすみれは頭に冷水を浴びせられたような気分になった。弾かれたようにすみれはびくりと肩を震わせ、眼前の紅茶を見つめた。

(これが、今の私の、精一杯)

 つまりは、そういうことだった。

 ここに初めて来た日に、司に紅茶を淹れてほしいと言われたあの時、すみれは少し微笑んで頷いたものだった。なんという他愛もない望みだろうと。茶ぐらい、いつだって淹れてあげるのに、と。

 ……違う。そんな単純な話ではなかった。

 ゆっくりと、血の気が引いていくような気さえした。
 そうだ。何故思い至らなかったのだろう。これが、現実だと。
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