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第二章 決意のシロツメクサと、真夜中の庭

02 シロツメクサ、決意する

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02 シロツメクサ、決意する



「そこで見ていろ」

 言い捨てて、鞘人さやとは流しの水を勢いよくケトルに注ぎ入れると、コンロに置いた。やがて湯がかすかに音を立て始める。まだ完全に沸騰しきらぬうちに、鞘人が動いた。
 淀みない仕草で、ポッドやカップをあらかじめ湯を注ぎ温める。その湯を捨て、茶葉投入。そうこうしている間に、ボコボコと勢いよく湧きだした湯の音が響くや否や、鞘人がケトルの近くまでポットを持ちより、湯を勢いよく注ぎ入れた。

 高い位置から湯を注ぎ入れても、零すことがない。

 動作はすべて無駄がなく早いのに、洗練されていて優雅だ。可愛らしい布製の袋を手に取り、鞘人は丁寧な手つきでポットにそれを被せた。それがポットを保温するティーコゼであるということすら、その時のすみれは知らなかったのだ。

 ここには豪奢な飾りは無い。極めて実用的なステンレス流しの前で作業しているにもかかわらず、動くだけで絵になる鞘人の一連の動作には、もはや見惚れるばかりだった。
 不意に鞘人が、スーツのポケットから白いものを取りだした。絹の白手袋だ。するりとそれを両手に嵌める。骨の髄まで馴染んだ仕草は一枚の絵のように華やかだ。
 砂が時を刻み終わるまでの間に、すみれの待つテーブルにティーセット一式を運ぶと、やがて鞘人はカップに鮮やかな水色すいしょくの紅茶を注いだ。
 白手袋を嵌めた手で優雅にセッティングされると、それだけで微かに心拍数が上がる気がした。

「飲め」

 またも傍らで立ったまま、鞘人が言う。一瞬夢見心地だったが、そのぶっきらぼうな声に現実に引き戻された。
 そうだ、別に客としてここにいるわけではないのだった。

「……は、い……」

 漂う香りだけで既に違っていたから、飲む前からすみれは圧倒され、鞘人の淹れた茶を茫然と見下ろした。
 ソーサーからティーカップを持ちあげれば、さらに鼻腔をくすぐるフルーティな甘い香りがたつ。

 一口飲めば、すみれの知らない茶の味がした。鼻腔へと抜けていく豊かな香りはたとえようもなく甘い。爽やかで果物すら思わせるその香気に衝撃を受け、すみれは思わずカップを取り落としそうになった。
 味覚から与えられる衝撃は、理詰めで説明されるよりもなによりもはっきりとすみれに思い知らせてくれた──今のままの自分では、駄目なのだ、と。
 同じ茶葉なのに、自分の淹れた紅茶と鞘人の淹れた紅茶は、まるで別物だった。このお茶なら、それほど紅茶を好きというわけでもなかったすみれでさえ、最後までストレートでも飲める気がする。

「おい、しい……」

 思わずぽつりと呟いてすみれが顔を上げれば、鞘人が微かに目を眇め、薄い唇を開いた。

「ダージリン・セカンドフラッシュ・キャッスルトンだ。残念ながらその茶葉は手違いで消費し損ねた去年のもので、もはや客に出せるクオリティではないが……それでもファーストフラッシュよりはお前にとって解りやすい味だろう」
「……解りやすい、かどうかは、それこそよく解りませんが……でも、美味しかったです……」
「ではお前が淹れた茶はどうだ」

 問われてすみれはぐっと息を詰まらせ、赤面した。

「……そんなに、美味しくなかったです……」

 どれほど茶葉が良かろうと、淹れる者の腕が悪ければただの色つきの湯となるのだと、はっきりと思い知らされた。
 声も小さくなろうというものだ。

「これが、訓練された者の茶だ」
「……はい」

 悄然と、すみれは頷いた。はい、としか答えようがないほど──天と地の差がそこにあった。
 打ちのめされた、と言っていい。
 ふと、鞘人の身にまとう雰囲気が和らぐのがわかった。

「何も、別にお前を委縮させたかったわけではない。現状をお前は知った。訓練すればこの程度、誰でも淹れられるようになる」
「ランクアップ、というやつですか」
「そうだ。まずは一カ月後だ。それまでの間に、実技だけでなく、茶の種類や陶磁器の知識、ティータイム業務に関する全てを叩きこむ。お前が望むなら教えよう。落ちればまた一カ月後に再テストだ」
「……鞘人さんが、教えてくださるんですか」
「そうだ。茶と食事の給仕に関しては私が全ての新人を指導する立場にある」

 ふと胡乱な眼差しで、鞘人がすみれを見下ろした。

「……それとも、私では不満か」
「い、いえ! 不満とかそういうことはっ!」

 一瞬、夏凛に辛気臭いと遠慮のない表現でこきおろされている鞘人の仏頂面と向かい合って茶の勉強をする──という、いかにも憂鬱な光景を思い浮かべ、わずかな躊躇いが生まれたのは内緒である。

「……別に、ランクアップせずとも、司様に茶をお出しすることはできるがな」

 ぼそりと鞘人が呟くから、すみれは首を傾げた。

「でも、夏凛さんがおっしゃってました。下っ端の私には、司さんにお茶を淹れる権利がない、と」
「『メイドとしてのお前』には、確かにその権利は無いな」

 鞘人の言葉にすみれは目を瞬いた。
(メイドとしての、私……?)

「簡単なことだ。今すぐに司様に茶をお出ししたいのなら、メイド服を脱げばいい」
「えっ……脱ぐ そんな……っ」

 顔色を変えてソファーの背もたれまでぎょっと身体を引いたすみれを、鞘人が胡乱な眼差しで見やった。

「お前……何を想像した?」
「えっ、だって、今鞘人さん、脱ぐって……!」
「モノの例えだ! ……つまりお前がメイド業務についていない時間帯──『すみれお嬢様』である時になら、何をしようと勝手だ、と言っている」

 憮然とした表情で咳払いした鞘人の言葉に、すみれは自分の早とちりを知って真っ赤に頬を染めた。そうだ。この堅物がいきなりセクハラめいたことを口にするわけがなかった……。
 心なしか、鞘人の頬も赤いようだ。珍しいものをみた。そして申し訳ない事をした……すみれは心の中で手を合わせ謝った。
 実際に謝罪しそこねたのは、その間も鞘人が喋り続けていたからである。

「お嬢様としてのお前が自分で司様に茶を淹れたいと言えば、望みのままに我々は茶器を用意しよう。例え茶を入れる腕がヘボだろうとカスだろうと、メイド服を脱いだお前は司様の大事な御家族のような存在だ。司様のご家族が、司様に茶をお出しすることを、我々使用人が阻止する権限など何処にもない」
「……」

 相変わらず能面のような美貌で留まることなく毒を吐き続ける鞘人に、内心冷や汗の出る気分を味わいながらも──説明されてすみれはようやく納得がいった。
 本来、すみれは、この邸の中ではあくまで司の家族に準ずる存在という扱いなのである。確かに家族が家族と何をしようと、自由だろう。茶も淹れたければ淹れてやればいいのだ。

 だが、それでいいのだろうか。

 すみれはしばらく、ぼんやりとティーカップに残る紅茶を眺めた。
 自分が淹れた紅茶とは、まったく違う煌めくような香りを放った、魔法のような一杯の紅茶。
 もう、この魔法を知らなかった自分には戻れないとすみれは気づいた。無知とは、つくづく幸せなことだ。選択肢があることにすら気づかないでいられるのだから。
 すみれは、知った。知ってしまった。

(司さんは、こんなお茶を、毎日飲んでいるんだ……)

 執事だけではなく、メイドたちも、司に茶を出す者たちは皆一様にこのレベルの茶を淹れることができるのだろう。
 最初にすみれが淹れた、紅茶としての輝きをことごとく殺した『色つきの湯』を出して、司は喜んでくれるだろうか。
 なにより、すみれ自身はそれで満足できるのか。彼女たちと同じメイド服を身に纏いここにいるのに、司を癒す茶の一杯も淹れてやる技量が無いままで、満足、できるのか。

「お前はどうしたいんだ、晴野。……選べ」

 促すように鞘人に問われ、すみれは顔を上げた。
 ──答えなど、既に出ている。

                     *   *   *

 メイドとしての就業時間はすみれの場合、平日は大学が終わってから夜の八時までと定められている。
 今日もあれから八時まで清掃業務をこなし、皆と一緒にまかない食を食べ終えて、すみれは少し疲れた足を引きずりながら夜の庭を歩いていた。
 ここのメイドたちは全て自室に帰ってから着替えるため、すみれもメイド服のままだ。さすがに今日は肩が凝った。おそらく精神的な疲れが大きい。

(あー……これから毎日、あの鞘人さんとワンツーマンかぁ……)

 教えを乞うことが出来るのは、実にありがたいことだが──ちらとも笑わぬ鞘人と共に過ごすのは若干気が重い。ちらりと司の笑顔を思い出し、ふとすみれは切なくなった。ホームシックにも似た気分に一瞬囚われたのだ。
 司がもはや懐かしい。一週間会わなかっただけなのに。

 ……いや。司だけが懐かしいわけではなかった。
 失った面影が、胸の中に去来する。父、母、弟……。

 小さな借家だった。猫の額のように狭い台所だった。スーパーで買った安いティーバックの紅茶一袋を、二杯分の湯で無理やり出して、弟と一緒に甘いミルクティにして飲んだ。
 決して裕福とは言えない一家だった。
 それでも、幸せだったのだ。
 家に帰ればいつも誰かがそこにいた。笑いの気配、つけっぱなしのテレビ、母が食器を洗いながら、ゲームに夢中な弟に早く風呂に入りなさいと叱る声。父は晩酌しながらTVを見ていた。
 当たり前の、どこにでもある光景で。

 ──急に、全てを、失ってしまうなんて、思いもしなかった。

 命は哀しいほどに儚くて、
 あの家に、満ちていた命も今は無く。

 君を支えるよと言ってくれた、優しい声のあしながおじさんがいる大邸宅が、すみれの今生きる場所だ。
 だが、ここが我が家だなんて大それた実感は、未だに湧かない。
 ただ一つわかるのは、この邸の主人だけは、すみれがここに存在することを許してくれている、というだけだ。

(しっかりしなきゃ。しょぼくれてたって、何も変わらない)

 うっかり涙目になりそうになった自分の頬を、ぴしゃりとすみれは両手で叩いてみる。
 一週間逢えないぐらいで落ち込んでどうする。司は死んだわけではない、生きているのだからちゃんとまた逢えるのだ。
 無理やりそう結論付け、胸に巣食う孤独を叩きだすように、もう一度、頬をぴしゃりと打った。

「──うん、がんばらなきゃね!」
 決意も新たに呟いた瞬間だった。
「おー。気合十分だね……痛くない?」

 飄々とした声が突然、左横に降って湧いたものだから、びっくりしてすみれは飛び上がった。夜の庭には点々と灯りが設置されてあるとはいえ、人気がないと思い込んでいた場所に人の声がしたのだから、驚かぬわけがない。

「……っと。驚かせちゃったね。ごめん」

 月光の下、すみれが歩いていた通路より一つ向こう側の通路で、ベンチから立ち上がりひらひらと手を振る、懐かしい笑顔があった。

ツカサ、さん! ……気づかなかったです」
「うん、さっきまでぼんやりベンチに座ってたからね。君が来るのが見えたから、待ってた」

 待ってた、というその一言にすみれは頬を綻ばせた。なにげない司の一言が、うれしい。気合をいれている場面を見られた気恥ずかしさより、逢いたい人に逢えた嬉しさが勝った。
 春の夜風が、亜麻色の髪を揺らしている。吸いこまれそうなほどに透明感のあるヴェール・ドーの瞳が柔らかく微笑んでいて、見つめられるとそれだけですみれの心拍数は上がった。

「ごめんね、あれからずっと忙し過ぎてね……やれやれ。せっかく君を家にこうして迎えられたのに、夕食すら一度も一緒に食べられないスケジュールを組むなんて、俺の執事は鬼だよね」
「鞘人さん?」
「あぁ、俺のスケジュール管理も彼の仕事だからねぇ。やっとさっき帰ってこれたよ」

 今度はしっかり君との食事の時間を組み込むように言っとこう、と司が笑う。つられてすみれも苦笑した。
 青龍グループの総帥でもある司の多忙さは、すみれには正直、計り知れない。本当に帰ってきたばかりなのだろう、司は上品なライトグレーのスーツ姿のままだった。ダークな色より、司はこういう淡い色が似合う。
 ネクタイだけは窮屈だったのか、襟元を少し緩めてあるが、だらしない感じは不思議とない。むしろ、襟元から微妙な男の色気を感じる。
 久々に司を目の前にして、ふと、すみれは泣きたくなった。
 昼間の出来事が脳裏に甦る。
 こんなにも多忙で疲れているはずの司に、今の自分は美味しい茶の一杯も差しだせないのだ。少し、情けなかった。

「明日は、ご飯付き合ってくれる?」
 瞳を悪戯っぽくくるりと瞠り、司がすみれの顔を覗き込む。沈みかけていた表情を慌てて取り繕い、すみれは笑顔を浮かべた。
「……はい。もちろんです」

 司さんに会いたかったです、と何気なく言いかけて──だがすみれはどこか気恥ずかしくなって言葉を呑んだ。
 何故だろう。この一週間、司に会いたい気持ちが日に日に膨らんでいたのを、すみれは自覚していた。やはり初日に、心細い気持を受け止め、泣かせてくれた稀有な存在だからなのだろうか。
 何かしら胸が詰まり、微笑んだまま黙りこんだすみれを、司がしばし見つめ──やがて、そっと瞳を細めた。

「すみれ」
「あ、はい?」
「──手」
 不意に、司が右手を差し伸べた。
「繋いで歩こう」

 すみれの歩く石畳と、並行して敷かれている司の立つ石畳の間には、すみれの太腿ぐらいまでの高さの植栽があった。だが、厚みは無いから、二人の距離は手を繋げる程度には近い。

「そっちにいきたいけど、この通路、まだしばらく植え込みが途切れる場所がないからね……一緒に散歩、しよう」
 司が穏やかな目で誘う。とくん、と心臓が鳴った。
「あ、りがとう、ございます……」

 ぎこちなく言葉を詰まらせながら、すみれはその手を取った。こちらこそ、一緒に散歩できて嬉しいよ、と司が笑った。
 時折、二人の間を隔てる植栽の丈が、高くなる。そうすると、司が植栽にあたらぬよう、すみれの手を支え持つように上にあげた。
 掌を自然と司に預ければ、まるでエスコートでもされるかのような不思議な感覚だ。
 何か不自由なことはないかと、司が穏やかに尋ねる。充分良くして頂いてます、とすみれは答えた。
 着替えも、サイズを夏凛に聞かれてから二日で、一気にクローゼットの半分が埋まるほどの洋服と和服と小物一式が贈られてきたのである。
 一度は断ったものの、押し切られた。クローゼットの残り半分は、好きな服を自分のお金で好きに買って詰め込めばいいよ、と。

「──じゃぁ、モノは足りているんだね。良かった」
「? はい。ここで足りないものがあるなんて、ちょっとあり得ないです」
「うん。でも、心が満ち足りるかどうかは、別だから」

 司が、真面目な表情で、そんなことを囁いた。

「明日から、しばらくは時間がとれるから、ご飯は必ず一緒に食べよう。シフトも少し早めにあがってね。勿論、大学の友達と食べたい時はそう言ってくれればいいんだけど。君の都合がいい時は、必ず一緒に」
「あ……」
「忘れないで。俺が、君の家族になるんだ」

 低く温かな声が、沁みた。

「……はい」

 静かに、鼓動が走りだす。
 両親と弟を失ってからこっち、ぽっかりと常に胸に開いている空洞に、あたたかな風が吹きこんでくる気がした。
 沈んだ気持ちが、華やかに上向いていった。見上げれば星も瞬く美しい夜空だ。
 ここ一帯は東京郊外に存在するとはいえ、山の中腹に存在する広大な青龍家の敷地内であり、街灯や強すぎる商業施設の灯りはない。自然公園もかくやという豊かな緑の上に広がる夜空には、せせこましい都会で見るよりもくっきりと星が光っていた。東京のこんな近くに、これほど豊かな自然が残されているなんて、すみれは今まで知らなかったのだ。

「あー。ひさびさにのんびりした気分だよ。ずっと君とこうしていられたらいいのになぁ……」

 司が夜空を見上げ気持ちよさそうに呟く。本当にさりげなく甘い言葉を口にする人だと、すみれは苦笑した。
 同時に思う。本当に、ずっとこうしていたい、と。
 甘酸っぱい気持ちを噛みしめながら、すみれは唇を開いた。

「……私、がんばりますね」
「……」

 司が、黙ったまますみれを見る。優しい眼差しだった。

「最初に、おっしゃいましたよね、司さん。私がいれたお茶を飲みたいって……」
「うん。……言ったね」
「私、司さんにお茶をお出しできるようになりますから」

 司は、足を止めた。すみれに向き直り、やがてそっと微笑んだ。

「受けて、くれるんだね。テスト」

 すみれは無言で頷いた。
 皆、努力の末に美味しい茶を淹れる技術を得たのだ。司はそんなメイド達のお茶を日々飲んでいる。
 今の自分がいれたお茶は、果たして多忙な業務に忙殺される司の、心も味覚もあますことなく癒せるものだろうか?
 否だろう。
 どうせなら自信をもってお茶を淹れたい。心から司に美味しいと感じてもらわなければ意味が無いような気がする。お茶だけではない。司の身の回りの世話だって、出来ればしたい。
(この優しい人の、力になりたい。大層なことは出来なくても、お茶を淹れるぐらい、努力すれば出来ることのはず)
 すみれの中に、決意があった。

「大変だよ。佐古も、鞘人も厳しい。……頑張れる?」

 すみれの手をまるで令嬢の手でも捧げ持つようにしながら、司が静かに問う。

「頑張ります。司さんに、私の淹れたお茶を、心から美味しいと思って飲んでもらいたいから……」
「──うん」

 一瞬、司が目を瞠り──それから笑顔で頷いてくれた。その笑顔がうれしくて、すみれはふと気付く。
 二番や、三番じゃ、いやだな。と。
 司にとって、一番美味しいお茶を淹れるメイドは、自分でありたい。
 一番に、この人を癒せる存在になりたいのだ。

「誰よりも、美味しいお茶、司さんに淹れられるようになりたいです」
「………………ね」

 小さく何かを司が呟いた。
 ざぁっ、と強めの風が吹いて、庭園の草木が一斉にざわめき、呟きは風に攫われていった。

「? 司さん?」
「……ん……参ったな」

 司はふと、何とも言えぬ表情で目を反らし、息をついた。

「ほんと、参ったな……」
「……司さん?」
「うん……その言葉だけで、俺は……嬉しくてたまらない」
「……!」

 もしかして照れているのだろうか。彼は。
 微かな司の感情の揺れが、夜気に隔てられたこの距離でも伝わってくる。すみれは改めて頬を染めた。
 ……少し、恥ずかしい。でも本音だからしょうがない。

(そ、そういう意味で言ったわけじゃない、よね……!)

 自分で自分を納得させるようにそう言い聞かせると、逆にドツボに嵌まる気がして、すみれは息を吐いた。どうも司といると調子が狂ってしまう。こんな少女漫画みたいな展開で、相手に恋をしてもロクなことにはならない。

(そうそう。この人御曹司ってやつだしね……!)

 将来はそれなりの身分あるどこかのお嬢様と結婚することが、運命づけられているような男だ。
 自分は、この人の家族として、ただ特別に優しくされているにすぎない。そこに恋愛など介在する余地はきっと、ないのだった。

「待ってるよ」

 なのに司が、どこか眩しそうな目ですみれを見つめるから、思考がふわりと目の前の存在に引き戻されてゆく。
 心臓は、落ち着きなく鳴った。

「一度では受からないかもしれないけれど、君が挑戦してくれるなら、俺は君のお茶を飲める日を待ち続けるよ」
「──はい」
「そろそろ、中に入ろうか」

 再び司が歩きだす。手は、繋がれたままだった。

「──夜の庭って、いいですね。時々、ここ、散歩してもいいですか?」

 すみれがぽつりと呟けば、司が「勿論、君の庭でもあるんだから、遠慮なくね」と頷く。そうは言われても、やはりすみれには実感は湧かないが、ありがたくこの楽しみを享受することにする。
 土も、草の匂いも、夜は強く香る。夜の間に明日へと続く生命力を補おうと息づく、自然の息吹を感じるからだろうか。気持ちが凪いだ海のように落ち着いていく。
 それとも、とすみれは思う。

 この人が、隣にいてくれるからなんだろうか──

「……不思議とここは、暗くても怖くありません。何か……守られてるような気がします」
「……あぁ、君もそう感じるんだね……」
「? 司さんも?」
「うん。昔からね、俺もそんな感じはしていたよ」

 司が、ふと手を離した。みれば植栽が途切れ、バラの絡まるアーチが二つの通路を繋ぐ場所まできていた。
(……あぁ)
 離れた手が夜気に晒され、すみれは微かに寂しくなる。だが、アーチをくぐってきた司は──自然な仕草で再びすみれの手を取った。

 胸が、再び高鳴る。

 司は何も言わない。ただ当然のように手を繋いだから、すみれも、さも当然のようにその手を握り返してみた。平常心を装う表情とは裏腹に、ひどく煩い自分の鼓動が司に悟られぬようにと、それだけを祈りながら。
 どうしてだろう。この手を離したくなかった。

 黙ったまま、体温だけが限りなく上昇してゆく、春の夜。

「……今度、昼間、暇な時間に少し散歩をしようか。君に見せたい場所があるんだ」
 邸に向けて歩きながら、司が呟く。すみれは頷いた。
「はい。楽しみにしてますね」
「うん」

 静かだった。夜風が吹いて、けれど先刻よりも司が傍を歩いていて、とてもあたたかくて。
 こうしてゆっくり話をするのは二度目でしかないというのに、不思議と距離は感じない。この庭も、自分が散歩するなんて完全に分不相応なほどご立派な場所のはずなのに、すました感じを受けない。あるじの司と同じく、庭もまたすみれを拒むことのない、穏やかな空間だった。

「……あ」
 ふと、光るものを植栽の合間に見た気がして、すみれは小さく声を上げた。
「ん?」
「あ、いえ……何か光るものがあったんです。地面を、すっと横切るみたいに……」

 思わずその場所をすみれは凝視した。暗闇に慣れた目が、捉える。
 植え込みを飾るレンガの隅に、微かに生えているクローバー。
 それ以外に、何か変わったものがあるわけでもなく、すみれは目を瞬いた。

「なんだろう……気のせいでしょうか……」
「ふむ……蛍には、まだ早いね」
「え。蛍、ここでは見られるんですか?」
「邸の裏手には小川もあるからね。そのほとりでは毎年見られるよ」

 司は答え、小さく微笑んだ。

「妖精でも、見たのかな」
「あは……そうだといいですね」

 主のどこか可愛い冗談につられて笑ったすみれを、司は部屋の戸まで送ってくれた。
 また明日、と挨拶すれば、司も微笑んで頷く。そんな他愛のないことが、うれしかった。
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