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第二章 決意のシロツメクサと、真夜中の庭

03 幕間『祈り』

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 すみれを部屋まで見送り、司は閉じた扉をしばし見つめた。

 ランクアップテストを受けるのだとすみれは言う。つまりそれは、すみれが司の生活そのものに深く関わってくることを意味する。
 お茶出しができるようになれば、自然と司の私室に入ることが多くなるからだ。

 ──『あの瞬間』まで、もう少し、なのだろうか──

 司は胸の中ひとりごちる。
 期待で胸がざわめきたつ。もう十年以上この時を待ち続けた。
 きっとすみれと関われる日が来る、と信じてここまで来たが、まさかきっかけがすみれの両親の事故死だとは思いもよらぬことだった。
 今でも鮮やかに思い出す。数週間前のまだ肌寒い曇り空の日だった。仕事で出向いた名古屋からの帰宅途中、高速道路の対向車線で起こった悲惨な事故。
 タンクローラーと普通車の事故だった。流れるように後方へと過ぎさってゆく光景の中に、燃えさかる炎がちらと見えた。
 とっさに位置を確認し、救急に連絡を取るぐらいのことしかできなかった。そもそも高速道路上の事故、そしてあの爆発音と炎だ。素人が助けられる範疇など超えている。

 何か奇妙な予感があって、帰宅後、調べた。報道で既に死者の名前は出ていた。
 晴野家の夫妻と、その息子。

 司は、思わず書斎で棒立ちになった。
 幼いころからひそかに見守り続けていた家族が辿った悲惨な運命に、言葉もなかった。
 唯一の救いは、受験生のすみれが自宅で留守番をしていて、事故を免れていたことだ。

 あの時、もっと他に出来ることはなかったのか──何度も何度も己を責めたが、理屈ではわかっていた。たとえ同じ車線にいたとしても、助けられはしない。高速道路上の事故とはそういう類のものだ。それに、ぶつかったタンクローリーは危険物を積載しており、彼らを屠った炎は獰猛に全てを焼きつくした。あの炎の中では、たとえ司が命を賭しても夫妻とすみれの弟を救うことなどできなかっただろう。

 せめて我が邸に、と、すみれに援助の手を差し伸べることに躊躇いは無かった。そうして司は知ったのだ。

 ──幼いころ、この身で体験した出来事が、紛れもなく必然で、同時に『奇跡』だったのだ、ということを。

 運命は、廻り始めている。
 だが、その奇跡の全貌は司にもわからない。
 かつてのすみれと我が身に起こった『奇跡』の全貌を、司は知る必要があった。
 同時に強く決意していた。

 まずは、すみれの家族になろう、と。全てを失った少女の寄る辺となろう。全てはそこからなのだ。すみれの家族の死の現場に己が居合わせたのもまた運命なのだろう。

 だが、と一方で司は思う。
 本当にそれでいいのだろうか、と──

 自分にとって大切な存在が、これでもう『2回』も自動車事故でこの世から消えた。そのことは、果たして偶然なのだろうか。
 運命は無理やりすみれを自分の元に遣わせたのではないのか。
 そのために、歪められてはならない運命が、無理に歪められ、犠牲になってはいないか。
 この運命はいつか、すみれにすら、牙を剥くのではないか。

 ……考えても詮無い不安が、渦巻く。

 そっと司は頭を振った。そんな運命論者のようなことを今考えても、真実はまだ見えてはこないのだ。
 おそらくはすみれと過ごすこの一夏の間に、真実の一端が、明らかになる。予感は、日に日に強まりつつあった。

『──夜の庭って、いいですね。時々、ここ、散歩してもいいですか?』

 すみれの何気ない言葉を思い出す。きっとすみれはこれから、仕事が終わった後にでも青龍家の庭を歩くのだろう。
 偶然を装って、おそらくは自分もこれから夜の庭に頻繁に出向くことになるだろうと司は苦く思った。そこにすみれがいると思えば、衝動を抑えることは難しい。
 司は無意識に、胸骨のあたりを手で押さえた。ここに心があるというのなら、どうか、鎮まれと願いながら。
 小さく息を吐き、やがて司はすみれの部屋から視線を無理やり引きはがずようにして振り向いた。
 それを待ち構えてかのように、声が響く。

「……司様。明日から、私が彼女を指導致します」

 司は目線をちらりとあげた。
 廊下の向こう、螺旋階段の横で主をひっそりと待っていた鞘人が佇んでいる。司は頷いた。
 いっそ自分がすみれに教えると、喉まで出かかる言葉を、堪えた。

「……お願いするよ」
「はい」
「それから、ちゃんと明日からすみれとの食事の時間、確保するように」
「……畏まりました」

 司は、軽く頭を下げる鞘人の隣を早足で歩き、追い越す。
 それを待って、影のように自分につき従う男の足音を聞きながら、司はぽつりと寡黙な執事の名を呼んだ。

「鞘人」
「はい」
「……俺を、今も怨んでいるかい」

 司と鞘人に関わる、『もう一つの哀しい事故』がもたらした傷痕は、深い。
 鞘人が司を怨んでいたとしても構わなかった。
 その感情ごと、執事である鞘人を雇うと決めたのは、司だ。

「……『あれ』は、事故です」

 しばしの沈黙の後、低く鞘人が答えた。
 その声からは、いつにもまして感情が削ぎ落されて、硬い。

「憎むとすれば、それは己自身です。あの日、私のあるじと『お嬢様』が乗られた車のステアリングを握らなかった己を、今も深く、怨み、憎みます」
「……」

「……」
「そうでなければ……」

 言葉に感情をこめることの少ない鞘人の声が、その時ぐっと高まる内圧を抑え込むかのように詰まった。

「そうでなければ、『お嬢様』のが、報われません」
「……君の望みを、わかりやすい形で叶えてあげるのは、難しいよ」

 司がぽつり呟けば、それきり、静まり返った廊下には沈黙が落ちた。
 鞘人の望みだから、というわけではなく、司本人の望みが自然に叶うなら──そしてそれが鞘人の心の平安に繋がるのなら、どんなにか良かっただろうと司は思う。
 現実は、ままならぬものだ。

「『お嬢様』の死を、どうか『呪い』に変えないで頂きたいのです、司様」

 鞘人が、まるで司の胸の内を見透かすように呟いた。
 司は黙ったまま、歩を進めた。


『……君が淹れたお茶なら、どんなだってきっと美味しいけどね』


 すみれに告げたあの言葉は紛れもなく本音だが──すみれの、美味しいお茶を淹れたいという一途な想いが嬉しかったから、あえて風に攫われるに任せた言葉だ。

 すみれが淹れてくれるお茶なら、何でも良かった。
 彼女が幸せなら、本当にそれだけで、もう、それだけで。

 ──例え、すみれの胸の中に、この先、誰が棲んだとしても。

 開いた窓から流れ込む夜風が、温く肌を撫でた。
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