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第三章 シロツメクサ、無理をする

01 睡眠不足は祟ります

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 ふぅ、とすみれは息をついた。
 五月も下旬にさしかかろうとしていた。イングリッシュブルーベルが美しい青で木々の根元を色どり、フイリダンチクも班入りの美しい葉を噴きだすような勢いで芽吹かせた。勿論バラもシーズンに入り、庭園は一層華やかな色合いを帯びていた。

 一方、メイド見習いである晴野すみれの日常は、極めて地味に、なおかつハードに過ぎていった。

 基本のゴールデンルールにのっとった紅茶の淹れ方、茶葉によって違う適量と抽出時間、産地と特徴、それぞれに適した飲み方、動作の基本にお茶菓子の基本知識……頭の中に詰め込んだ知識が、うっかり蹴躓けつまずくとぽろぽろと路上に落ちそうな勢いだ。

 毎日とはいかないが、ここ一ヶ月は、かなりの割合でつかさとも食事を共にしている。たまに夜の庭にも司は散歩に来てくれていて、一緒に庭を歩くひとときが、密かなすみれの楽しみとなっていた。
 だが今夜は、残念ながら司は夜の庭に現れず終いだった。約束などしていないから当然だ。司は多忙で、邸にいない時間のほうが遙かに多い。

 わかってはいても、逢えない日は自然と寂しさがこみ上げた。

 すみれは今日の業務を終え、自分の部屋で勉強しながら、ちらりと横目で時計を確認した。
 ちょっと今夜は頑張り過ぎた。気がつけばもう午前三時だ。
 すみれはサンダルをひっかけ、バルコニーに出た。ティーテーブルまでセットされた広いバルコニーから身を乗り出し、左下を見下ろす。
 司の過ごす東館と、本館三階にあるここは、実はそう離れてはいない。すみれの部屋は東館すれすれの端っこに位置しているからだ。
 斜め下を見下ろせば、やはり一階の司の部屋には灯りがついている。
 こうして、すみれが毎日、司の部屋を確かめるのは日課になりつつあった。司が邸にいるときは、いつだって煌々と灯りがついていた。少なくともすみれより早くその灯りが消えたことなど一度もない。

(やっぱり、忙しいんだよね……)
 夜の庭に遊びにきては、時々息抜きしないと、息が詰まっちゃうからと司は笑うけれど。
(……司さん、私を、元気づけようとして……なのかな)

 司に、庭を散歩する暇がそうそうあるとは思えない。たとえ週に二、三度であっても、散歩の時間を確保するのは相当な負担なのではないだろうか。この一か月の間にも、数回の海外出張に出向いた司だ。
 それでも数日おきに夜の庭に出て来てくれるのは、やはり、すみれを気にかけてくれてのことだろう。家族になりたいのだと言ってくれた司の誠実さと本気は、様々なところで感じる。

(家族……かぁ……)

 ふとすみれは息を呑んだ。最近、司のことを想うと、胸がちくりと痛むのだ。
 今も──そうだ。
 家族というキーワードは、少しずつ、自分を癒やすよりもどこか小さな痛みを呼び起こすものになりつつあった。
 嬉しい言葉のはず、なのに。
 ……物思いに耽りながらぼんやりと司の部屋の灯りを眺めていた時だった。
 不意に、司の部屋の窓が開いた。

(あれ?)

 警備も兼ねてなのか、司の部屋のあたりだけは庭も仕切られていて、プライベートガーデンになっている。その庭へ、人影が現れた。

 司だ。こちらをまっすぐ見上げている。
「……司、さん?」
 思わず呼びかけたが、ここは三階だ。それにいくら部屋の位置取りが近いとはいえ、呟き声が届かない程度には離れている。

(ど、どうしよ、でも夜中の三時だしっ……)

 大きな声で叫ぶわけにもいかない。おろおろとすみれが息を呑んでいると、司がやおら手に持っていた何かを操作した。
 瞬間、部屋の中で携帯が鳴り始めた。
「えっ、わっ……待って待って!」
 こんな真夜中に携帯が鳴るとは思っていなかっただけに、飛び上がって部屋に戻り、受話ボタンを押す。
「は、はいっ」
 誰かは、わかっていた。胸が激しく鳴る。ええい鎮まれ、とすみれは左胸を手で押さえた。

『……まーったく。何してるのかなぁ、この子は』
 右耳に押し当てた携帯から聞こえてくる、低い声。

「つ、司、さん……」
 声がひっくり返った。口から心臓が飛び出しそうとはまさにこんな時のことを言うのだろう。
 対する司の低い声は、身体の奥まで沁みるようにゆったりと響く。

『だめだよ、いつまで起きてるの。大学の勉強もあるのに、こんな時間まで無理し続けていたら、いずれ体調を崩すよ。寝なさい』

 怒っているとまではいかないまでも、渋い口調の司に諭され、すみれは肩を縮こまらせた。
 携帯を耳にあてたまま再びバルコニーに出てみると、やはり司は先ほどと同じ位置ですみれの部屋を見上げていた。

「そ、それをいうなら、司さんだって……」
『俺? 俺は、自分の体調管理ぐらいはできるから』

 と言われてしまうと、すみれはまるで体調管理のできない子供扱いだ。
 すみれは少し唇を尖らせた。お互い見つめ合いながら携帯で話している状況は、どことなく楽しいのだが、叱られているのでちょっといたたまれない。

「で、でも、一度だって私より先に司さんの部屋の灯りが消えたことがないんですよ? 司さんだって無理、しすぎじゃ……」
『……』

 思わず告げたすみれの一言に、司はしばし黙りこみ──やがてひっそりと呟いた。

『いつも、見てるの? 俺の部屋の灯り』
「……っ」

 その刹那、反射的にかっと頬が燃えた。
 そうだ。このところいつだって、寝る前に一度、司の窓の灯りを確認するのが日課だった。時には司の睡眠時間の短さを心配し、時には海外出張から帰った司の部屋の灯りを見て、なんとはなしにホッとしたりしながら。

「……司さん、ちゃんと、寝てますか……?」
 気恥ずかしくて答える代わりにそっと問えば、司の含み笑いが聞こえた。
『問いに問いで返すのかい?』
「つ、司さんだってじゃないですか!」
 まぜっかえされて、何を言いたかったのか忘れそうになった時、ふと、耳元から優しい吐息が零れた。
『心配だから……ちゃんと寝て。すみれ』
 囁くような声に、どくんと一瞬心臓が大きく鳴った。
「…………司さんも……」
 気遣われるのは嬉しかったが、自分より明らかに睡眠時間の短い司に言われる一方なのは納得がいかなかった。
「屁理屈とか、そういうことじゃなくて、あの、私も……心配なんです」

 毎日毎日。
 この人はいつ休んでいるのだろうと、気がかりで。

「だから……」
 口ごもり、司を見下ろしながらすみれはぎゅっと携帯を握りしめ直した。これ以上何を言ったらいいのかわからない。生意気なやつだと思われただろうか。
 少し心配になった頃、再び、耳元で苦笑交じりの吐息が聞こえた。
『……降参。一緒に、寝ようか。すみれ』
「えっ」
『あれ? 誤解された? もちろんすみれが一緒に寝てくれるなら、俺が君のベッドに出向くのもやぶさかではないけれど?』

 くすくすと、人の悪い笑みと共に上機嫌な声が耳元で揺れる。

「えっ、や、ええとっ、ちが、ちがうんですっ!」
 慌て過ぎて思わず携帯を取り落としそうになって、すみれは真っ赤になった。
『ハイハイ落ちついて。……今から、俺も寝るから。君も寝な。いいね?』
「あ……は、はい……!」

 ぶんぶんと三階のバルコニーで頷いて見せると、司からも見えたのだろうか、くすっと再び司が笑った。

『頑張ってくれているのは、うれしいんだけどね。そろそろ君の体調が心配だから。……じゃぁ、おやすみ、すみれ』
「……おやすみなさい、司さん」

 一緒に司が休んでくれるのだと思うと、わけもなく嬉しい。
 騒がしい心臓を宥めながらそっとおやすみなさいを告げ──通話が切れるのを待っていると、奇妙な間が空いた。

「……司、さん?」
『うん?』
「あの。電話……」

 切らないのだろうか、と戸惑っていると、優しい吐息が聞こえた。

『すみれ。君から切ってね』
「……う……」
『ほら。おやすみ、すみれ』
「お、おやすみなさい、司さん……」

 優しく促すその声におずおずと答え、ようやくすみれは受話終了のボタンを押した。
 ふつりと途切れた電波を、寂しく思いながらふと下を見れば、司がそれに気づいたように、小さく手を振ってくれたのだった。

                     *   *   *

 眠りに就く時の気持ちはひどく幸せなものだったのだが、目覚めて見れば早朝五時半──大学からは少し距離が離れているので、この時間から行動を開始しなければ間に合わなかったりする。
 当然、睡眠は足りていなかった。

「……すみれ様、昨夜はあまりお眠りになっておられないのでは」

 執事が車に乗り込み、エンジンをスタートさせながら言う。
 大学近くの駅まで、車ですみれを毎日送迎してくれるこの執事の名は榊星斗セイトという。すみれと背はあまり変わらない。小柄でまだ若いが、将来を有望視されているホープだと夏凛かりんは話していた。すみれとも同年代で、この春から運転免許を取得したという割には、運転技術も申し分ない。
 観察眼も鋭い男だ。しかし今回はセイトが鋭いというより、それほどはっきりと、睡眠不足が重なった疲れが顔に出ていたと自覚すべきだった。

「……わ、わかる?」
「わかります」

 眉を少しぴくりとさせ、セイトは笑いもせずに車をスタートさせた。こういう生真面目なところは、鞘人と似ている。

「御無理を重ねていらっしゃるのではありませんか。本日は、大学まで送らせて頂きます」
「だっ、だめ! それはだめ!」

 慌ててすみれはリムジンの後部座席から身を乗り出した。

「こんな仰々しい車で大学いったら何言われるのかわかんないよ! 絶対ダメ! いつもの駅で降ろしてセイトくんっ!」

 大学の人間には、すみれと青龍家の関係自体、内緒にしてある。こんなリムジンで大学の正門に乗りつければ噂は立ちどころに広まるだろうし、それは避けたい。
 ただの晴野すみれでいたい、という思いは強く、だからこそいつもは、二駅ほど手前の普通列車しか止まらぬ不便な駅でこっそり降ろしてもらい、そこから電車で通っているのである。

「いいえ、送らせて頂きます」
 セイトは強情だ。こういう時、引かない。
「そんな、どこぞのお嬢様じゃないんだから」
「あなたは現在、青龍家のお嬢様です。それ以外の何だとおっしゃるのです?」

 即答され、すみれは言葉を失った。
 ステアリングを白手袋を嵌めた手でしっかりと握りながら、セイトは極めて事務的に、有無を言わせぬ口調で告げた。

「失礼ながら、すみれ様はご自覚が足りません」
「……いや、あ、の……」
「旦那様と血のつながりはなくとも、御家族として迎えられたと伺っております。貴女の身に何かあれば、送り届ける私の責任です。その日のご体調にあわせ、少しでもご負担が軽いものとなるよう、執事として取り計らうのは私の義務ですから」
「……」
「大学前まで送られるのが嫌だとおっしゃるのなら、そのようなクマをおつくりならない生活をお心がけ下さい」
「ぅ……」

 輝ける正論を前に撃沈し、すみれはぼそぼそと、裏門の少し離れたところに車を着けてくれるように懇願した。渋々それを了承したセイトに礼を言い、人目を忍んで歩道に降り立ったすみれは、朝からぐったりと疲れ果てていた。

(いやセイトくん……こんな場所まで送り届けられるほうが、気疲れ酷いですから……)

 リムジンを見送りながら胸の中で呟いたすみれの心の声をセイトが聞いたなら、自業自得でございます、と無表情で告げたことだろう。
 すみれは改めて溜息をついた。
 幸い、人気のないところを選んで降ろしてもらったので、学生にもほとんど見られずに済んだものの、ハンカチを何処かで落とした。自分で買ったものなら諦めもつくが、司からプレゼントされた衣装と共にクローゼットにしまわれていたハンカチの一つだ。無くしたかと思うとひどい罪悪感に見舞われた。

(……だめ、だなぁ……)

 やはり少し疲れが溜まっているのかもしれない。しかしどうしても今無理をしてでも頑張りたいすみれだった。
 ランクアップテストが、迫っている。

                     *   *   *

 いつものように鞘人相手に茶を淹れるという実技で、夜の講習を終えようとしたすみれだったが、今日は少し勝手が違った。

「いいだろう。今日は終わりだ」

 ぶっきらぼうに告げた鞘人が、すみれの淹れた紅茶を飲んだあと、今度は鞘人からすみれに茶を淹れてくれたのだ。
 こういう時は人の所作を観察しながら学ぶのも大事だと言われて以来、すみれは給仕をする執事やメイドの観察をかかさない。
 すみれの前に、あたたかな湯気をたてたティーカップと共に鞘人が用意したのは、甘いプチケーキだった。

「わぁ、可愛い……!」

 ラズベリーソースを挟んだスポンジを、チョコムースとナパージュ(薄いゼリー状のもの)で覆って、その上にもベリーとミントの葉を飾った、小さいながらも華やかなドーム状のケーキだ。
 すみれはぱっと顔を輝かせ──そしてふと気付き、おずおずと鞘人を見上げた。

「あ、あの、鞘人さん」
「何だ」
「これ……まさか、鞘人さんが作ったんですか……?」
「そうだ。今度行われる会食用のケーキを試作した残りだ」

 わかってはいたものの、改めて圧倒された。鞘人の執事としての能力たるや計り知れない。製菓の腕前はもはやパティシエ並みだ。料理についてはお抱えのシェフがきちんといるのだが、製菓に関してはパティシエが辞めて以降、鞘人がかなり活躍していると聞いている。

「執事ってこんなことまで出来ないといけないんですか」
「そうだな……俺は趣味が高じてこうなったが、簡単な菓子や料理ぐらいは、主の好みに応じて出来るに越したことはない。少なくとも俺は製菓に関しては、この邸では仕事としてやっている」

 さらりと鞘人が言う。
 すみれだってお菓子作りはそれなりにやるほうだが、鞘人のそれとは天と地の差だった。

「疲れたろうからな。食べるといい。それぐらいの小ささなら食前でも差し支えないはずだ。お前は細身の見かけによらず、ぱくぱくとよく食べるしな」
「うっ……」

 男性である鞘人から、よく食べるという遠慮のない指摘を受けて一瞬気恥ずかしさに絶句したものの、すぐにすみれは気を取り直した。こういう鞘人の気遣いが嬉しい。

「あの、ありがとうございます、鞘人さん……」
 小さく頭を下げると、鞘人が傍らに立ったまま切れ長の瞳を細めた。
「気にするな。……ところで、疲れがたまっているはずだ。大丈夫か」
「あ、はい。クマ、やっぱり目立ちましたか? 見苦しいですよね、すみません……」

 思わずいたたまれなくなってすみれが俯くと、「そうじゃない」と鞘人が低く告げた。

「普段から無理を重ねているのがわかるから、言っている」
「……あ……」
「あまり無理しすぎるようなら、今回のランクアップは見送るぞ」
「そんなっ」
「嫌なら休息も取れ。一度で受かろうなんて高望みし過ぎだ」

 ぴしゃりと言い切り、鞘人がすみれの向かいの椅子に座った。腕組みし、すみれをちらりと見る。

「……食べてみろ。甘いものを摂取するのも必要だ」
「あ、はい」

 あわてて一口、食べてみる。甘過ぎることなく、舌に広がる上質のチョコクリームの味と、ほんのり甘酸っぱいラズベリーの香りが口中に広がった。

「わぁ……美味しい! すっごい、ほんとに美味しい……かわいい!」

 思わず我を忘れて夢中になって食べ始めると、平らげるのは早かった。お茶すら二の次でぱくぱくと口に運ぶと、一口サイズのケーキなどあっという間だ。

(あ、こんな速攻食べちゃって、ちょっと申し訳なかったかも……っていうか、味わって品よく食べろとか、はしたないとか、怒りそうだよね鞘人さんって……)

 いや間違いなく、鬼執事・鞘人なら絶対に怒るだろう……。
 そう覚悟して恐る恐る鞘人を見やり──だがすみれは息を呑んだ。
 鞘人が、予想に反し、柔らかく微笑んでいたからだ。
 それはどこか無防備な笑みで、本当に意識せずに鞘人が浮かべた笑顔だった。その証拠に、すみれと目があった瞬間、慌てて表情を消していつもの硬質な面持ちを取り戻した。

「……なんだ。俺の顔に何かついているか」

 咳払い一つ。とってつけたような無表情でそう問われると、奇妙な可笑しさがこみ上げてきた。この人はもしかして……。

「い、いえ……」

 しばらくすみれはそんな鞘人の顔に見入り、やがてくすっと笑った。

「鞘人さん、笑顔素敵ですね。お客様がみーんなここの執事さんは素敵ね、って囁きながらお帰りになる気持ちがわかった気がします」
「……」

 鞘人は多少居心地悪そうに目を逸らし、ぼそぼそと言った。

「執事なら、俺以外にもいるだろう」
「鞘人さんのこと、名指しで褒めてらしたお客様を、何人も知っていますよ?」
「……褒めても、おかわりは無いぞ」

 憮然として鞘人がぼやく。やっぱり、とすみれは確信した。
 感情の揺れが少なく、大層厳しい上司だと思ってきたが──実はこの男、極度の照れ屋さんなのかもしれない。加えて面倒見もよいのだ。

「あは……とっても美味しかったです。ありがとうございます」

 鞘人を可愛いなと思ったのはこれが初めてだった。くすくす笑いながら、片づけるためにすみれが立ちあがった瞬間だった。

(──え)

 ふっ、と目の前が陰った。
 足元が急に地面よりも遙か下の奈落へと落ちていき、自分だけが取り残されるような嫌な浮遊感。
 平衡感覚を唐突に失った。自分の手が茶器を倒したのを感じ、意識の片隅で愕然としたが、もう傾いだ身体が止まらない。
 カップが床で砕け散る嫌な音と共に、視界が一瞬、完全に闇に落ちた。
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