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第三章 シロツメクサ、無理をする

02 シロツメクサは強くても

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「晴野っ!」

 鞘人さやとが珍しく慌てたように声を荒げ、鋭くすみれを呼んだ。
 すかさず何かにすっぽりと包まれる感覚があった。陶磁器が床に落ち砕け散る痛々しい音が響く中、すみれはただひたすら、浅く荒い呼吸を必死で繰り返しながらその何かに縋った。全身から冷たい汗が噴き出る。聴覚も一瞬切り離されたようになり、音の全てがすみれから遠ざかった。
 やがてゆっくりと光と聴覚が戻ってきた。
 何度も名を呼ぶその声に、ようやく気づいて顔をあげれば、鞘人の心配そうな顔が目の前にあった。

「大丈夫か、晴野」
「あ……」

 気がついてみれば、そこは鞘人の腕の中だった。まだぼんやりとした意識の中で、すみれはなんとか頷いた。

「だい、じょうぶです……」
「……無駄なことを聞いたな。大丈夫なわけがないだろうが…!」

 ぐっと眉根を寄せ、己を責めるように鞘人が苦く囁いたその時だった。
 荒い足音が響き、唐突に控室のドアが開いた。鞘人の腕に取りすがったまますみれは目を上げ──あ、と小さく声を上げた。

「すみれっ……」

 名を呼ぶなり絶句したその人は、司だった。
 珍しく、というより、初めてみた。
 ひどく息を切らし、険しい眼差しで二人を見据えた司のかお
 鞘人が、すみれの肩をまだ掴んだまま、無言ですみれの体勢を立て直させた。両足でちゃんと立てることを確認し、すみれがその場に自力で立つと、それを待ちかまえていたかのように司が歩み寄った。
 どこか、見る者を竦ませる冷えた空気を纏って。

「……今日はもう終わりだろう。部屋まで送るよ。食事も部屋に運ばせる。いいね?」

 静かな司の声が、やけに低い。
 鞘人がすみれを支えていた手を離し、恭順の意を示すように黙って頭を下げる。
 代わりに司がすみれの腕を掴む。
 珍しく強い力を手から感じ、すみれは慌てた。

「あ、あの。ポットとか壊しちゃって。後片付けしないとっ」
「鞘人に任せて君は部屋に戻りな。医者に診せるよ」

 司がぴしゃりと告げた。いつも物腰が柔らかい人だと思っていた司の厳しい声音に、すみれは改めて息を呑んだ。

                     *   *   *

 廊下を出てしばらくの間、歩みこそすみれに合わせてゆっくりなものの、司はむっと押し黙ったままだった。
 その硬い横顔に、すみれは戸惑い、恐る恐る声をかけた。

「あ、あの……お医者さんとか、大丈夫ですから……ただの立ちくらみです。今はなんともないですし」
「……」

 無言で、司がすみれを見る。
 まだ微かに険しいかおをしていた。

「もしかして、怒って、ます?」
「──怒ってるよ」

 低い声音で肯定され、すみれは言葉を失った。

「な、なんで……」
「解らないの? 困った子だね」

 どこか苦しげな表情で、司が足を止めた。
 すみれの右腕を掴んでいた左手を、微かに緩め、深い溜息を吐く。

「体調崩してまでテストを受けてほしくはないよ、すみれ」
「あ……」
「立ちくらみは万病のサインだよ。睡眠不足が祟ってる。今夜は勉強もしないで身体を休めること」

 司にまっすぐに見つめられ、ようやくすみれは気づいた。怒りではない。司の眼差しには、心配と苦渋が満ちていた。

「ご、めんなさい……」
「……陶器の割れる音がして、鞘人の声がして」

 今度は優しい力で、すみれの手を改めて引きながら──司がぽつりぽつりと話し始めた。

「ちょうど俺は帰ってきたばかりで、部屋に向かう途中だったからね。びっくりして駆けつけたら、君が、鞘人の腕に縋ってた。驚いたよ……」

 いつもはあたたかい司の手が、今は冷たい汗をかいていることにすみれは気づいた。司がまた、己を落ち付かせるかのように短く鋭い溜息を吐く。
 本当に心配をかけてしまったのだと、不意にすみれは実感した。

「……君に何かあったら、親御さんに申し訳が立たないよ」
「す、みません……でも、ちょっと寝不足なだけで」
「寝不足こそがいけないって言ってるの」

 低く声を絞り出し、司が再びすみれに向き直った。
 ふわりと手が離れた、と思った瞬間、司が両腕を伸ばした。

(──え?)

 すみれの頭の両横に、腕を突っぱねるようにして、司が壁に手をついたのだ。
 司の腕に完全に囲まれ、すみれはよろけるように壁に凭れかかった。どくどくと、一瞬気が遠くなるほどの強さで、心臓が早鐘を打ち始める。近付いた司から、微かな香りがする。この距離でなければわからない程度の。
 僅かに、鼻腔の奥に嗅いだことのない爽やかな甘さを感じた。ぞくりと痺れるような感覚に襲われる。
 司の整った顔が、間近だ。童顔だと思っていたが、それは普段、すみれに対しては柔らかな笑顔しか見せなかったからだと、今気づく。
 真顔で迫る司は、紛れもなく──男で。

「あんまり無茶するようなら、一回目のランクアップは見送らせる」
「……!」

 弾かれたように顔を上げたすみれの瞳を、司の真摯な眼差しが射抜いた。
 透明感のある水を思わせる、淡いヴェール ・ドー。の瞳。

「君と俺とはもう家族なんだ。これから先ずっと一緒なんだよ。なら、一ヶ月や二カ月、単なる誤差だよね? 君の体調を損ねてまでお茶を淹れてほしいなんて俺は思わない。次や、そのまた次のテストをゆっくり受ければいいんだよ。違う?」
「……そ、れは、そうですけど……」

 鞘人にも同じような事を言われただけに、本当にランクアップテストを見送らなければ不味い雲行きを感じ、すみれは悄然と俯いた。

(……そうだ。この人にとって私は『家族』なんだ。妹みたいなものなのかもしれない……)

 そうだ。家族なら、焦らずともこれからずっと一緒なのである。
 なのに、どうしてだろう。胸の中で『家族』というフレーズを噛みしめる度に、何とも言えない気持ちになった。
 今ははっきりと、混乱する感情がすみれの中に溢れていた。
 こんなに近い距離で、司の香りに否応なしに身体を痺れさせられているのに、この人は言うのだ──家族だと。
 鼻の奥に、わけもわからず熱いものがこみ上げた。

「でも、私、早く、上手になりたいんです……」

 理不尽な感情を抑えきれず、子供のように拙い言葉で抗ってみせながら、すみれは思う。
 違う、多分こういうことが言いたいんじゃないのに。
 言えることが、これしかなくて。

「……」

 一方──いじらしい台詞を呟くすみれを、司は黙ったまま間近で見下ろした。

 たかがランクアップごときのために自分の体調を犠牲にしないでほしい……そう喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲みこむ。
 優しく素直なこの少女が、意外に頑固な一面を持っていることは、ここ一ヶ月で十分わかっていた。いや、『遙か以前』から知っていた。
 君の淹れてくれたお茶を飲みたい、と最初に彼女に告げたのは司のほうだ。責任は感じているし──それだけではなく、衣食住を用意し学費までも融通した司に対し、他に何も返せるものがないから、せめて司のささやかな望みぐらい叶えたいと必死になっているすみれの気持ちも理解しているつもりだ。
 その想いは健気だと思うし、正直なところ、嬉しい。
 だが、司には譲れないものがあった。

「──君の健康までは損ねるわけにいかないよ。すみれ」

 囁くように名を呼べば、細い肩がびくりと震えた。
 伏せたすみれの睫毛が震えている。嗚呼、と司は胸の中で嘆息した。
 自分で腕の中に閉じ込めておいてなんだが──この距離は、酷い。そう、ほんとうに酷い。理性を揺るがす距離感だった。
 つややかな黒髪が目の前で揺れている。軽く怯えたような呼吸を繰り返すすみれの頬は驚くほどに透明感があった。
 きめ細かな肌が、目の毒だ。
 抑えこんでいた雄の衝動が、自らの内で暴れている。わからずやな少女に思い知らせてやりたくなる。
 ──時に気がおかしくなりそうな程、すみれが大切なのだ。

(どうしたら、その事だけでも君にきちんと知らしめることができるのかな……)

 ねえ、すみれ。
 司は人気のない廊下ですみれを追い詰めながら、何処か獰猛な気持ちになる。

「……君だけは、失いたくない」
 低く司が囁けば、すみれの睫毛がさらに震えた。
「無理はしないと、約束して」

 約束させるまで、この腕を解くつもりはなかった。もしも約束を取り付けられなかったら? その時は──どうしようか。
 ぞくりとする高揚感と、足元が崩れそうな苦悩が同時に身体を締めつけた。
 失いたくない。本当に、失いたくないのだ。それをどうしたら解ってもらえるのだろう。
 ほんの少しでもこの少女の運命を曇らせるような出来事は排除してしまいたいと思う自分がいる。少し病的なほどに過保護すぎるこの想いは、普段は意識して遠ざけているのに、今は逆にこの想いに従うべきだと、胸の奥でもう一人の自分が昏く囁く。

 だがその衝動に従って──そしてどうするつもりか。
 一生、この少女を鳥籠に囲っておけるわけでもあるまいに。

 腕が、微かに震えた。ぎりぎりと引き絞る弓弦が震えるように、理性が悲鳴を上げた。
(……わかってる)
 最もな言葉で自分を取り繕いながらも、己だけは騙しきれない。司の中に自覚はあった。

 心配なだけでは、決してない。もうひとつの昏い感情が己の胸を揺らしている。

 そうだ。彼女に強い言葉を投げてその腕を掴み、控室から無理やり退出させた心理の裏に、鞘人への嫉妬がなかったと──どうして言えるだろう?
 ここのところすみれは、ずっと鞘人とワンツーマンで指導を受け続けている。
 それ自体は珍しいことでもなんでもなかった。鞘人は、この邸の執事として前任者から全ての業務を引き継いで以来、新人メイドを何人も鍛え上げてくれている。元より使用人たちは先代に仕えていた者が多く、平均年齢も上がっていて、いざ世代交代をを進めていくとなると、今度は教育者の不足に悩んでいた矢先のことだった。
 鞘人の存在には本当に助けられている。
 執事という職務に忠実な彼には、恋愛感情で人間関係を徒にひっかきまわすような未熟さも無い。というより、鞘人に限って言えば、恋愛感情を誰かに抱くということが、当面は──下手をすれば一生──ないだろうと思われた。
 あの堅物だ。口では司をあえて煽るようなことを言うが、その意図も司は理解しているし、信用もしている。
 だが、それでも──男と女だ。
 間近で、少女の甘い肌の香を微かに鼻腔に感じると、腰のあたりでぞくりと何かがわだかまる感じがした。

(同じ香りを、鞘人も──)

 冷えていく意識の傍らで、司は内心呻いた。
 生まれて初めての、この強烈な感情。
 理屈ではわかっていたが、司は今まで他者に強く嫉妬するという感情を生の体験としては知らなかった。自分で自分を持て余すほどの衝動に、愕然とするしかない。

「……すみれ」

 気持ちをどうにか抑え、再び、名を呼んだ。
 やがて、すみれはゆっくりと顔を上げた。
 どこか眩しそうに、困ったように、司の目を見つめるすみれの表情が露わになる。彼女は──真っ赤に頬を染めていた。

「やくそく、します」
 小さな声が、微かに震えて。
「心配かけて、ごめんなさい……」

 潤んだ瞳だった。暗闇を照らす廊下の灯りを、濡れた瞳が反射した。切ない琥珀色の輝きに胸を射抜かれる。
 上気した頬の熱、甘い肌の香を、触れそうな距離の中感じた。

「……っ」

 その瞬間、打たれたように司は腕を解いた。前のめりになっていた姿勢を正し、すみれとの距離を取る。
 先刻まで仕事で出ていて、まだスーツ姿のままだった。急に息苦しさを覚え、司はあえて静かにネクタイの襟元に指を突っ込み、ぐいと緩めた。息を吐く。

(──危なかった……)

 先刻までの自分はネジが二、三本は軽く飛んでいたようだと、司は冷えた頭の片隅で自覚した。
 あのままだと本当に危なかった。ごめんなさい、と呟いたすみれの表情はいじらしさを醸し出すと同時に、刹那、司の雄を激しく掻きまわしたのだ。

「無理は、しません。でも、ランクアップテストは受けさせてください……お願いします」
 濡れた瞳にそれでも強い光を取り戻して、すみれが懇願した。
「司さんに、美味しい紅茶を、早くお出ししたいんです」
「──」

 一瞬、そのどこか甘い表情にのまれ、頬に手を滑らせそうになり──司は手を握り締めた。
(あぁ、ほんとに、君は……)
 困った子だ、と胸の中で司は呟いた。
 だめだよ、すみれ。
 そんな一途な目で、そんな甘い台詞を吐いて、本当に困った子だね。

 ──期待したく、なるだろう?

「殺し文句だよね……」
「え?」
「んー。なんでもないよ。……ほんとに、無理はしないように」

 司は意識して表情筋を動かし、笑って見せた。
 片手ですみれの頭をくしゃりと撫でてやる。そうだ。これでいい。
 自然に、家族のように、優しいだけの触れ方でこの子に触れられるのなら──今は、それで。

「はい、司さん。約束します」
 もう夜更かしはしません、と告げたすみれが、夜の照明に照らされてセピア色に光る指先をそっと差し出した。
「指きりげんまん、です」

 気を取り直して、にこっと笑いかけてくるすみれの笑顔に、司は切ない想いを噛み殺し、小指を絡める。
(あぁ……もう……)
 こんな細い指から伝わる体温にすら、胸が熱く震える自分に、苦笑するしかなかった。

                     *   *   *

「……あーあ。派手にやっちゃったわねえ……」

 控室の開きっぱなしのドア付近から揶揄するように響く声に、鞘人は顔を上げなかった。声の主は馴染みの存在だ。見ずとも解る。そのまま床に散乱した陶器の破片を集め続けた。
 立ちくらみを起こしたすみれが茶器を倒した時には肝が冷えたが、紅茶は飲み終わった後だったから、すみれに全く火傷がないのが幸いだった。
 壊れた茶器も、研修用だからそれほど高い茶器ではない──少なくともこの邸の中では、だが。

「手伝うわ」

 夏凛が言う。二人きりだから口調も普段の気安さを取り戻す。
 鞘人は、大きな欠片をトレイに拾い上げながら首を横に振った。

「いい。怪我をするかもしれないから俺がやる。一応お前も女だからな、怪我をさせては不憫だ」
「一言余計なのよあんたは……!」

 憮然とした声が降ってくる。だが、夏凛は何処かに消えるでもなく部屋に入ると、鞘人の傍らまで歩み寄ってきた。

「……ケーキ、あたしの分は?」
 テーブルに残った、すみれがケーキを食べた後の皿を見たのだろう。夏凛が問う。
「冷蔵庫だ」

 やはりちらとも視線を上げずに鞘人が告げると、夏凛はすたすたと歩み寄り、冷蔵庫からケーキのトレイを取り出し、ふーんとどこかつまらなそうな声をあげた。

「これ?」
「そうだが。不満か」
「いーえー。ちゃんと下っ端の分も取り置いてくださる鞘人殿の温情には毎度毎度感謝しておりますのよー?」

 何やらつっかかるその言葉にちらりと顔を上げて夏凛を確認すると、彼女の口元に意味深な笑みが浮かんでいた。

「知ってるのよー。あの子の分だけ、貴方、可愛くデコレーションしてたわよね?」

(……いつの間に見たんだ)
 相変わらず目ざといなと、鞘人は軽く溜息をついた。確かに夏凛の言う通りである。すみれの分だけ、デコレーションアレンジは異なっていた。
 この邸においては、実際の料理はシェフに任せるが、パティシエとしての仕事に関しては実質、鞘人が引きうけているようなものだ。
 これは、立食形式のパーティ用にと、今日試作したものだった。
 そういう時のプチケーキは、トレイサイズのスポンジを使って一気に作り、ナイフで切り分ける四角いモノになることも多い。
 今日、出来あがった試作ケーキも、そういった量産型のスクエアなチョコケーキだ。
 だがすみれには、特別に丸く成形しデコレーションし直したものを取り置いてあった。
 鞘人は夏凛から目を逸らし、再び欠片を拾い集める作業に移りながら、薄い唇を開いた。

「……別に、あれは最後に、残りのクリームで新しいアレンジを思いついたから、試してみただけだ」
「へえ」

 そうですかー、思いつきですかー、と夏凛がまた癇に障る揶揄めいた口調で呟く。
 鞘人は眉根を顰めた。

「そうだ。それが何か?」
「珍しいこともあるものだな、と思って」

 夏凛が近くのテーブルにトレイを置き、腕組みして嫣然と笑った。

「そんなに、彼女、気にいった?」
「……お前がからかうような展開にはならない。面白みのない人間で悪いな」

 そっけなく言い放った鞘人の台詞に、夏凛がふと真顔になった。

「そんなことわからないじゃない? 鉄仮面の執事様だって、その昔は」
「夏凛」

 息を吸いこみ、鋭く鞘人は夏凛の言葉を遮った。
 夏凛がぴたりと言葉を呑みこむ。つかの間の静寂は、重い。

「……悪かったわよ」

 夏凛が、張り詰めた空気を解くように、そっと囁く。

「もうすぐ……三回忌ね」
「……あぁ」

 かしゃん、と、割れた陶器の触れあう、どこか寒い音が響く。
 同じ思い出を共有する夏凛とは腐れ縁だ。流れ流れて、ここまで来た。
 つまらない舌先の小競り合いはしょっちゅうだが、夏凛との間にはそれこそ家族のような、もしくは戦友のような気安さがある。
 夏凛が、鞘人の前に品よくしゃがみこんだ。
 散らばる欠片を拾い始める。鞘人も今度は何も言わず、夏凛の行為を受け入れた。

「……すみれは、強いわね。家族を丸ごと失っても、あの子は前を向いてる」
「……努力家ではあるな」

 ぽつり、ぽつりと話しながら、また一つ、鞘人と夏凛は新たな陶器の欠片を重ねた。重みに耐えかねて、小さな山が崩れる。
 透き通るように白いその欠片を見つめながら、鞘人は切れ長の瞳を眇めた。

(強い……? 強いのか? あいつは)

 すみれからは、確かにしなやかな強さを感じる。
 だがその内面は、やはり年相応の弱さや脆さを隠しもっていると鞘人は感じる。ランクアップにいささか執着し過ぎているのも、その証ではないのか。
 強いように見せかけて、その姿勢には余裕がない。
 家族を失い数カ月、この短期間で自らの精神を立てなおす作業を、司がひたすら陰で支えたからこそ、あまり歪な影を宿さずに、すみれは前を向いて生きているように見える。まるで健やかな野草のようだ。
 だがそれも、何かしらの希望を無意識にでも追っているから、かろうじて立っていられるだけなのかもしれなかった。
 得られるかどうかはともかくとしても──希望に手を伸ばす、その権利だけはあると信じられるなら、人は立ち上がれるものなのかもしれない。
(だがその歩みが本当の強さを備えるには、おそらく、時間が必要だ)
 踏まれては立ち上がるシロツメクサであっても、踏まれれば、傷はつくのだ。
 それでもすみれは立っている──鞘人は胸の中ひとりごちた。ズタボロでも立っている。それだけでも眩しい。

 希望なら、鞘人にもあった。だがそれを叶えるのは司だ。
 この希望に直接手を伸ばす権利が無い以上、己の生は虚ろだと鞘人は自嘲せざるを得ない。
 それでも自ら命を絶たなかったのは、司を見守ることが己の最後の責務だと感じたからだ。

 鞘人は主な欠片を拾い終わり、立ち上がった。いつの間にか、ハンディクリーナーを抱えた夏凛が、鞘人にそれを差し出す。
 無言でそれを手に取り、鞘人はクリーナーをかけ始めた。
 細かな欠片がクリーナー内部に吸いこまれる。カチカチと中で欠片が当たる空疎な音が、控室に響き渡った。

 ……どうしてだろう。もう笑っている顔しか思い出せなくなってしまった、大切なひとの面影は今も胸を締めつける。

 彼女を守れなかった己への憎しみを、鞘人は生涯忘れることはないだろう。
 過去にうずくまったまま生きるのは罪だろうか? 別に構わないではないか。そんな人間が世界中で一人ぐらい居たとして、何ら不都合なく世界は回る。
 だが、相変わらず痛み続ける胸の奥で、仄かに瞬きはじめた淡い光を、鞘人は感じていた。

 突如現れた、晴野すみれという少女。
 彼女が、司の何かを揺り動かしている事ははっきりと解る。

 とはいえ、すみれに対する司の姿勢は、鞘人からみれば些か不可解だ。
 そう、だから鞘人もすみれを少し気にかけてはいる。すみれが、『司の頑なな心を揺るがそうとしている稀有な存在だから」、だ。

(……別に、それだけのことだ)

 無意識に、鞘人は首を振った。
 ──夏凛に言ったことは本当だ。残りのクリームを使って、新しいアレンジをふと試した。その試作品を現在研修中のすみれに食べさせた。
 本当に、それだけのことなのだ。

 ──ほんとうに?
 自らに問いかけ──鞘人は瞳を眇めた。

                     *   *   *
                               
 その三日後、すみれにとって第一回目の、お茶出し業務に関するランクアップテストが密やかに開かれた。

「一ヶ月の特訓の成果はあったようですね。技術も知識も合格ラインです。それなりの品もある。ですが、不合格です」

 佐古の冷たい一言で、すみれはテストに落ちた。
(……どうして、だろ……)
 すみれは途方にくれた。技術も知識も合格レベルだと佐古は言った。それなのに何故、佐古はすみれを落としたのか。
 何がいけなかったのか──それが、わからない。ミスは少なくともなかったはずだった。

「それでは、解散。あがりの方はお疲れ様。遅番の者は引き続き、気を抜かぬように」

 佐古の言葉で、テストで試飲要員として参加していた数名のメイド達と見学者たちが一斉に立ち上がり、後片付けを始める。
 だがすみれはその場に立ちつくしたまま、しばらくの間、動けなかった。
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