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第四章 シロツメクサとレモンティー
02 とびきりの一杯
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「……鞘人さん、あの」
すみれが切り出したのは、それから2週間ほど経った頃だった。
季節は梅雨に突入している。じめじめと冴えない天候が続くが、青龍家の本館は完全に空調がきいていて、中で働く分には快適だ。
そんな爽やかな本館の空気とは裏腹に、すみれの心は湿っている。
未だに、テストに落ちた理由はわからないままのすみれだった。自分で気付けと命じられた以上、誰にも落ちた理由は聞けないし、さりとて自分のことは案外自分ではわからないものだ。
何が悪かったのか、一向にわからぬまま半月が過ぎ、焦りもあった。
精神的に追い詰められそうだなと感じていた時──すみれはふと思い出した。
あの夜、司が淹れてくれたレモンティー。
本当に美味しかった。もう一度飲めたら、ささくれた気分も穏やかになる気がして。
「──ストックされてるリーフの中に、レモンティーってありますか?」
「レモンのフレーバードティーのことか?」
控室の棚の扉を開き、今日の講習に使用する茶葉を選んでいた鞘人の手が、すみれの言葉を聞いて空中で止まった。
「そうです。生のレモンを使わないほうの」
生レモンを使ったレモンティーの出し方は、すでに習っていた。客人のどんなリクエストにでも応えられるようにする為に、緑茶は勿論、コーヒーのサイフォンによる淹れ方すら習得しなければいけないのだ。
だが、まだ多種多様なフレーバードティーについてはさほど深く習ってはいなかった。以前アールグレイを淹れたきりだ。
「あぁ……そうだな。抽出時間はそれぞれ書いてあるから、それさえ守れば、他の茶と基本、淹れ方は変わらないが……」
鞘人が棚の奥から取り出してくれたのは、やはりフレーバードティではあるが、ティーバックではないリーフの紅茶だった。
「これはニルギリをベースにしてある」
(やっぱり、あるんだ)
手渡された未開封の真空パックを見つめて、すみれは期待に唇を綻ばせた。昨日司がくれたレモンティーは、本人曰く、安物のティーバックとのことだったが、リーフのものならもっと美味しいのかもしれないと思ったのだ。
鞘人が仕入れもすべて選定して行っているのだから、味や品質は確かなはずである。フレーバードは一般的には少しグレードが落ちる茶葉に香りを添加していると言われるが、ここにあるものに妥協はないだろう。
内心わくわくしながら、すみれはいつも通りホットでそのレモンティーを淹れてみた。最近は、手順や動作のことで鞘人にいちいち注意を受けることもなくなっている。
滞りなく淹れ終わり、鞘人を客に見立てて供する。一連の動作が終わった後、自分用に淹れたものにいざ口をつけてみて──すみれは意外な結果に黙りこんだ。
「……」
美味しい。
確かに美味しいのだ。温かい紅茶として淹れた分、香りも強く感じるし、品質が良く癖のないニルギリの茶葉にしっかりレモンの香りを着香し、さらにオーガニックのレモン乾燥果皮を混ぜたものだから、レモン特有の皮の苦み・渋味もほぼ感じない。
飲みやすくて、爽やかなだけでなく華やかな風味で、実に申し分ない。
(だけど、この間貰ったレモンティーのほうが、美味しかった……)
どこかしっくりこないまま黙って首を傾げているすみれを、向かいに座って茶を飲んでいた鞘人が微かに笑って見やる。
「どうした。思ったような味ではなかったか」
最近の鞘人は、注意しなければわからない程度ではあるが、稀に笑うようになった。
表情が以前よりは柔らかく感じる。
不思議なもので、鞘人に対して壁を感じなくなると、仕事もどんどん楽しくなりつつあった。意思の疎通がやりやすくなった気がするのだ。
すみれは、そんな鞘人の雰囲気に促され、躊躇いがちに口を開いた。
「えっ、と……不思議だな、と思って……」
「何がだ」
「……以前、ある人に、レモンティーを淹れてもらったんです」
司だとは言えなかった。鞘人には内緒にしてね、と言われたのだから名前は出せないし、出すつもりもなかった。
ぼかしながら、すみれは言葉を選んで話した。
「落ち込んでいたときに、わざわざ、淹れてくれて」
「……ふむ」
「それはアイスティーだったので、比べるようなものではないとは思うんですが……すごくそのレモンティーが美味しくて。御本人曰く、安物らしいんですけど。でも、飲んだことが無いぐらい美味しかったんですよ。だから、もう一度そんなレモンティーが飲みたかったんですが……」
カップをソーサーに置き、すみれは苦笑した。
「記憶の中の美味しさに、辿りつけませんね……」
「……」
黙ってそんなすみれの独白を聞いていた鞘人は、やがて腕を組み背もたれに凭れかかり、ぼそりと呟いた。
「……それは、仕方ないな」
「え?」
「そのお茶には、どんな高級な茶葉を使ったレモンティーでも叶わないだろう」
「……?」
首を傾げたすみれに、鞘人がほんの少し、微笑んだ。
「──それが、お前を癒すために淹れられた、特別な茶だからだ」
(あ……)
すみれは息を呑んだ。
確かにそうだ。あのレモンティーは、司の言う通り安物かもしれなかったし、ティーバッグで淹れたというのも嘘ではないのだろう。
だが、それでも美味しかったのだ。
(司さんが、私の為に、作ってくれたから)
やっぱり、喜んでもらえるってのはいいよね……としみじみ呟いていた司の声を思い出した。俺も、君の喜ぶ顔を思い浮かべながらお茶の準備をするのは、とても楽しかったよ、と。
淹れてくれた司の、そんな思いが嬉しくて、だから。
「それはお前にとって、とびきりの一杯だったということだろう」
「……とびきり、の」
「そうだ。自分のために心づくしで淹れてくれた茶は、特別に美味いものだ。茶葉のクオリティよりも、大切なものは確実にある」
(茶葉のクオリティより、大切なもの……!)
鞘人の一言が、胸に響いた。
メイドたちのシフト交代時間だった。控室に帰ってくるメイドたちの気配で廊下が賑やかになる中──すみれは茫然と、目の前のカップを見下ろしたまま動けなかった。
(あぁ……そっか……)
ノウハウも、知識も、器の品格や優雅な所作も、それは確かに大事だろう。それらを損なわずに表現することばかり必死にやってきたすみれだ。
ミスのないように。完璧に。そればかり追って。
多分、大事なことを見失っていた。
そうだ。やっと見つけた。
──自分に、足りなかったもの。
「……見つけたか」
鞘人の声に顔をあげれば、厳しく淡々と今まですみれを導いてきた寡黙な執事の瞳が、ひどく優しかった。
* * *
「あーなになにー? ミルクティー淹れてるの? 私も淹れて!」
仕事があがって飛び込んできた夏凛の声に、すみれは微笑んだ。
研修中は同僚のメイドたちにも練習台になってもらい、どんどんお茶を淹れなければいけない。あれからさらに一週間経って、最近はどのメイドたちも、すみれの淹れた紅茶を褒めてくれるようになっていた。
「はい。お疲れ様です。どうぞお席へ」
「わーい。疲れてるときはミルクティ欲しくなるわぁ……」
ティーテーブルに夏凛を案内し、チェアを引き、客にするのと同じように座らせる。そうこうしているうちに、あと二人のメイドもバタバタと戻ってきて、三人に同時に茶を振る舞うことになった。
やがて淹れ終わると、皆口々に美味しいと喜んで飲み始める。その様子に安堵しながら皆を見つめていると、夏凛がふとすみれへと視線を向けた。
「ね、すみれは、素材は弄らないの?」
「素材、ですか」
夏凛の問いの意味はわかる。研修の最初に、鞘人に告げられていた。ランクアップテストに使う茶葉をはじめとする素材の選定は、全て本人に委ねられるのだ。
つまり、素材に不満があれば、邸にない茶葉を取り寄せてもよい。
ただ予算は決められているので、金に糸目をつけずに高級茶葉を買いあさるといった真似はできないようになっているが、予算内なら新たな買い物は可能だった。
「……今のところ、素材を弄るつもりはないですけど……」
普通は皆、邸にある材料でテストに挑むとも聞く。素材をわざわざ新しく取り寄せるという行為は、与えられているものの中で上手に茶の味を引き出すという観点からするとマイナスだ。
それに、美味しい茶葉なら山ほど邸にあった。それこそテスト用の予算内で買えないような茶葉までもストックされているのである。
「今までテスト受けた人の中で、素材に手をつけた人はいないって聞いてますよ……?」
「そうねえ」
夏凛は軽く顎に手を添え、笑った。
「確かにね。でも、本当に何か不満があるなら、やればいいと思うわ。要は説得力があればいいんじゃないの、その選定について」
「でもぉ……」
もう一人のメイドが苦笑して口を開いた。
「鞘人さんが選定しているものですよ? 普通、あたしたちメイドがあれこれ素材に口出せるようなものではないですよぉ……」
「そうそう。それに、皆と同じ素材を使って紅茶の美味しさを引き出せてこそ、だとも思うし……」
「別に、そこまで固く考えなくても。先代様の好みのまま、変更なく仕入れ続けてるものだってあるはずよ?」
それに鞘人だって神の舌を持ってるわけじゃあるまいし……と、夏凛は相変わらず鞘人については遠慮のない物言いだ。しかし、残り二人のメイドは「そんなこと言えるのは付き合いの長い夏凛さんだけですよ……」と苦笑を交わした。
「鞘人さんと夏凛さんて、長いお付き合いなんですか?」
思わず気になって問いかけたすみれに、夏凛は肩を竦めた。
「腐れ縁、かな。私と鞘人は、二年前に圓成家からこちらに移ってきたから」
「え……圓成家?」
「……そ。圓成湖示様に御仕えしていたんだけど、ね。いろいろあって、ね」
紅茶の残りを急に飲み干し、夏凛は目を逸らして立ちあがった。他のメイドも気がつくと笑顔が消えている。
一瞬漂った微妙な空気に、すみれは気付いた。
もしかしたら、触れられたくはない話題だったのだろうか。
「……とにかく。選定について皆を説得させられる根拠と自信があるなら、素材に手をつけるのもアリだと思うわ、ってことよ」
話題を素材のことに強引に戻す夏凛が、微妙に淀んだ空気を打ち払うように腕組みして微笑む。
なんとはなしに、圓成家を出たいきさつには触れられたくないのだろうと察し、すみれは小さく頷いた。
「でも、茶葉は既に申し分ないクオリティのものが、この邸には揃えてありますよね……」
だとすれば、茶葉に手をつけるのは得策ではない。かといって水については、この邸では蛇口から空気を多く含んだ浄水が出るようにセッティングされているので、それも手をつける余地がない。日本の水は元々、ミネラル含有量的に柔らかで紅茶に適した水なのである。
ふとすみれは思い立って、ミルクをグラスに注いでみた。
口に含む。甘い。
「……ジャージー牛の低温殺菌牛乳よ」
夏凛の言葉に頷いて、さらに飲んだ。
すみれは立場上、司の家族として一緒に朝食を摂るから、朝は毎日これを飲んでいる。味はもう、知っていた。
一般に飲まれている牛乳とは全く違う飲みモノだと言ってもいい。
まるでソフトクリームにも似た甘みとコクがあるのだ。この邸にきて以来の、すみれの大好物だった。
「……美味しい……ですよね」
改めてそれを味わいながら呟いたすみれに、周囲のメイドたちがそれは当たり前だろうという風に頷いた。
「まぁね。ジャージー牛でしかも低温殺菌だもん」
「これ以上はちょっと望みようがないんじゃないのー?」
そんなメイド達の言葉を聞きながら、だがすみれが考えていたのは、あのテストに落ちた夜に聞いた、司の言葉だった。
疲れた時にはミルクティーを飲む、と司は言った。
(でも……それだけでも俺にはちょっと甘すぎるぐらいなんだけど、って言ってなかったっけ……?)
確かにこのミルクで淹れたミルクティーはとても華やかで贅沢な味わいだった。
香りも強くたち、申し分ない。
(……私はこれで大満足だけど……)
だが、司にとっては、どうなのか。
手の中のグラスを見つめたまま、すみれは黙然と考え続けていた。
すみれが切り出したのは、それから2週間ほど経った頃だった。
季節は梅雨に突入している。じめじめと冴えない天候が続くが、青龍家の本館は完全に空調がきいていて、中で働く分には快適だ。
そんな爽やかな本館の空気とは裏腹に、すみれの心は湿っている。
未だに、テストに落ちた理由はわからないままのすみれだった。自分で気付けと命じられた以上、誰にも落ちた理由は聞けないし、さりとて自分のことは案外自分ではわからないものだ。
何が悪かったのか、一向にわからぬまま半月が過ぎ、焦りもあった。
精神的に追い詰められそうだなと感じていた時──すみれはふと思い出した。
あの夜、司が淹れてくれたレモンティー。
本当に美味しかった。もう一度飲めたら、ささくれた気分も穏やかになる気がして。
「──ストックされてるリーフの中に、レモンティーってありますか?」
「レモンのフレーバードティーのことか?」
控室の棚の扉を開き、今日の講習に使用する茶葉を選んでいた鞘人の手が、すみれの言葉を聞いて空中で止まった。
「そうです。生のレモンを使わないほうの」
生レモンを使ったレモンティーの出し方は、すでに習っていた。客人のどんなリクエストにでも応えられるようにする為に、緑茶は勿論、コーヒーのサイフォンによる淹れ方すら習得しなければいけないのだ。
だが、まだ多種多様なフレーバードティーについてはさほど深く習ってはいなかった。以前アールグレイを淹れたきりだ。
「あぁ……そうだな。抽出時間はそれぞれ書いてあるから、それさえ守れば、他の茶と基本、淹れ方は変わらないが……」
鞘人が棚の奥から取り出してくれたのは、やはりフレーバードティではあるが、ティーバックではないリーフの紅茶だった。
「これはニルギリをベースにしてある」
(やっぱり、あるんだ)
手渡された未開封の真空パックを見つめて、すみれは期待に唇を綻ばせた。昨日司がくれたレモンティーは、本人曰く、安物のティーバックとのことだったが、リーフのものならもっと美味しいのかもしれないと思ったのだ。
鞘人が仕入れもすべて選定して行っているのだから、味や品質は確かなはずである。フレーバードは一般的には少しグレードが落ちる茶葉に香りを添加していると言われるが、ここにあるものに妥協はないだろう。
内心わくわくしながら、すみれはいつも通りホットでそのレモンティーを淹れてみた。最近は、手順や動作のことで鞘人にいちいち注意を受けることもなくなっている。
滞りなく淹れ終わり、鞘人を客に見立てて供する。一連の動作が終わった後、自分用に淹れたものにいざ口をつけてみて──すみれは意外な結果に黙りこんだ。
「……」
美味しい。
確かに美味しいのだ。温かい紅茶として淹れた分、香りも強く感じるし、品質が良く癖のないニルギリの茶葉にしっかりレモンの香りを着香し、さらにオーガニックのレモン乾燥果皮を混ぜたものだから、レモン特有の皮の苦み・渋味もほぼ感じない。
飲みやすくて、爽やかなだけでなく華やかな風味で、実に申し分ない。
(だけど、この間貰ったレモンティーのほうが、美味しかった……)
どこかしっくりこないまま黙って首を傾げているすみれを、向かいに座って茶を飲んでいた鞘人が微かに笑って見やる。
「どうした。思ったような味ではなかったか」
最近の鞘人は、注意しなければわからない程度ではあるが、稀に笑うようになった。
表情が以前よりは柔らかく感じる。
不思議なもので、鞘人に対して壁を感じなくなると、仕事もどんどん楽しくなりつつあった。意思の疎通がやりやすくなった気がするのだ。
すみれは、そんな鞘人の雰囲気に促され、躊躇いがちに口を開いた。
「えっ、と……不思議だな、と思って……」
「何がだ」
「……以前、ある人に、レモンティーを淹れてもらったんです」
司だとは言えなかった。鞘人には内緒にしてね、と言われたのだから名前は出せないし、出すつもりもなかった。
ぼかしながら、すみれは言葉を選んで話した。
「落ち込んでいたときに、わざわざ、淹れてくれて」
「……ふむ」
「それはアイスティーだったので、比べるようなものではないとは思うんですが……すごくそのレモンティーが美味しくて。御本人曰く、安物らしいんですけど。でも、飲んだことが無いぐらい美味しかったんですよ。だから、もう一度そんなレモンティーが飲みたかったんですが……」
カップをソーサーに置き、すみれは苦笑した。
「記憶の中の美味しさに、辿りつけませんね……」
「……」
黙ってそんなすみれの独白を聞いていた鞘人は、やがて腕を組み背もたれに凭れかかり、ぼそりと呟いた。
「……それは、仕方ないな」
「え?」
「そのお茶には、どんな高級な茶葉を使ったレモンティーでも叶わないだろう」
「……?」
首を傾げたすみれに、鞘人がほんの少し、微笑んだ。
「──それが、お前を癒すために淹れられた、特別な茶だからだ」
(あ……)
すみれは息を呑んだ。
確かにそうだ。あのレモンティーは、司の言う通り安物かもしれなかったし、ティーバッグで淹れたというのも嘘ではないのだろう。
だが、それでも美味しかったのだ。
(司さんが、私の為に、作ってくれたから)
やっぱり、喜んでもらえるってのはいいよね……としみじみ呟いていた司の声を思い出した。俺も、君の喜ぶ顔を思い浮かべながらお茶の準備をするのは、とても楽しかったよ、と。
淹れてくれた司の、そんな思いが嬉しくて、だから。
「それはお前にとって、とびきりの一杯だったということだろう」
「……とびきり、の」
「そうだ。自分のために心づくしで淹れてくれた茶は、特別に美味いものだ。茶葉のクオリティよりも、大切なものは確実にある」
(茶葉のクオリティより、大切なもの……!)
鞘人の一言が、胸に響いた。
メイドたちのシフト交代時間だった。控室に帰ってくるメイドたちの気配で廊下が賑やかになる中──すみれは茫然と、目の前のカップを見下ろしたまま動けなかった。
(あぁ……そっか……)
ノウハウも、知識も、器の品格や優雅な所作も、それは確かに大事だろう。それらを損なわずに表現することばかり必死にやってきたすみれだ。
ミスのないように。完璧に。そればかり追って。
多分、大事なことを見失っていた。
そうだ。やっと見つけた。
──自分に、足りなかったもの。
「……見つけたか」
鞘人の声に顔をあげれば、厳しく淡々と今まですみれを導いてきた寡黙な執事の瞳が、ひどく優しかった。
* * *
「あーなになにー? ミルクティー淹れてるの? 私も淹れて!」
仕事があがって飛び込んできた夏凛の声に、すみれは微笑んだ。
研修中は同僚のメイドたちにも練習台になってもらい、どんどんお茶を淹れなければいけない。あれからさらに一週間経って、最近はどのメイドたちも、すみれの淹れた紅茶を褒めてくれるようになっていた。
「はい。お疲れ様です。どうぞお席へ」
「わーい。疲れてるときはミルクティ欲しくなるわぁ……」
ティーテーブルに夏凛を案内し、チェアを引き、客にするのと同じように座らせる。そうこうしているうちに、あと二人のメイドもバタバタと戻ってきて、三人に同時に茶を振る舞うことになった。
やがて淹れ終わると、皆口々に美味しいと喜んで飲み始める。その様子に安堵しながら皆を見つめていると、夏凛がふとすみれへと視線を向けた。
「ね、すみれは、素材は弄らないの?」
「素材、ですか」
夏凛の問いの意味はわかる。研修の最初に、鞘人に告げられていた。ランクアップテストに使う茶葉をはじめとする素材の選定は、全て本人に委ねられるのだ。
つまり、素材に不満があれば、邸にない茶葉を取り寄せてもよい。
ただ予算は決められているので、金に糸目をつけずに高級茶葉を買いあさるといった真似はできないようになっているが、予算内なら新たな買い物は可能だった。
「……今のところ、素材を弄るつもりはないですけど……」
普通は皆、邸にある材料でテストに挑むとも聞く。素材をわざわざ新しく取り寄せるという行為は、与えられているものの中で上手に茶の味を引き出すという観点からするとマイナスだ。
それに、美味しい茶葉なら山ほど邸にあった。それこそテスト用の予算内で買えないような茶葉までもストックされているのである。
「今までテスト受けた人の中で、素材に手をつけた人はいないって聞いてますよ……?」
「そうねえ」
夏凛は軽く顎に手を添え、笑った。
「確かにね。でも、本当に何か不満があるなら、やればいいと思うわ。要は説得力があればいいんじゃないの、その選定について」
「でもぉ……」
もう一人のメイドが苦笑して口を開いた。
「鞘人さんが選定しているものですよ? 普通、あたしたちメイドがあれこれ素材に口出せるようなものではないですよぉ……」
「そうそう。それに、皆と同じ素材を使って紅茶の美味しさを引き出せてこそ、だとも思うし……」
「別に、そこまで固く考えなくても。先代様の好みのまま、変更なく仕入れ続けてるものだってあるはずよ?」
それに鞘人だって神の舌を持ってるわけじゃあるまいし……と、夏凛は相変わらず鞘人については遠慮のない物言いだ。しかし、残り二人のメイドは「そんなこと言えるのは付き合いの長い夏凛さんだけですよ……」と苦笑を交わした。
「鞘人さんと夏凛さんて、長いお付き合いなんですか?」
思わず気になって問いかけたすみれに、夏凛は肩を竦めた。
「腐れ縁、かな。私と鞘人は、二年前に圓成家からこちらに移ってきたから」
「え……圓成家?」
「……そ。圓成湖示様に御仕えしていたんだけど、ね。いろいろあって、ね」
紅茶の残りを急に飲み干し、夏凛は目を逸らして立ちあがった。他のメイドも気がつくと笑顔が消えている。
一瞬漂った微妙な空気に、すみれは気付いた。
もしかしたら、触れられたくはない話題だったのだろうか。
「……とにかく。選定について皆を説得させられる根拠と自信があるなら、素材に手をつけるのもアリだと思うわ、ってことよ」
話題を素材のことに強引に戻す夏凛が、微妙に淀んだ空気を打ち払うように腕組みして微笑む。
なんとはなしに、圓成家を出たいきさつには触れられたくないのだろうと察し、すみれは小さく頷いた。
「でも、茶葉は既に申し分ないクオリティのものが、この邸には揃えてありますよね……」
だとすれば、茶葉に手をつけるのは得策ではない。かといって水については、この邸では蛇口から空気を多く含んだ浄水が出るようにセッティングされているので、それも手をつける余地がない。日本の水は元々、ミネラル含有量的に柔らかで紅茶に適した水なのである。
ふとすみれは思い立って、ミルクをグラスに注いでみた。
口に含む。甘い。
「……ジャージー牛の低温殺菌牛乳よ」
夏凛の言葉に頷いて、さらに飲んだ。
すみれは立場上、司の家族として一緒に朝食を摂るから、朝は毎日これを飲んでいる。味はもう、知っていた。
一般に飲まれている牛乳とは全く違う飲みモノだと言ってもいい。
まるでソフトクリームにも似た甘みとコクがあるのだ。この邸にきて以来の、すみれの大好物だった。
「……美味しい……ですよね」
改めてそれを味わいながら呟いたすみれに、周囲のメイドたちがそれは当たり前だろうという風に頷いた。
「まぁね。ジャージー牛でしかも低温殺菌だもん」
「これ以上はちょっと望みようがないんじゃないのー?」
そんなメイド達の言葉を聞きながら、だがすみれが考えていたのは、あのテストに落ちた夜に聞いた、司の言葉だった。
疲れた時にはミルクティーを飲む、と司は言った。
(でも……それだけでも俺にはちょっと甘すぎるぐらいなんだけど、って言ってなかったっけ……?)
確かにこのミルクで淹れたミルクティーはとても華やかで贅沢な味わいだった。
香りも強くたち、申し分ない。
(……私はこれで大満足だけど……)
だが、司にとっては、どうなのか。
手の中のグラスを見つめたまま、すみれは黙然と考え続けていた。
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