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第五章 シロツメクサ、試練の日

01 たかが主の好み、されど、主の好み。

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 幸せな記憶と、五感は結びついて、時に何倍にも記憶を鮮やかに彩ってしまう。よくあることだ。
 恋人と笑いながら食べた、たかがコンビニのサンドイッチがひどく美味しかったとか、友人とわいわい言いながら食べたファーストフードの甘ったるいだけのシェイクが、その当時とてつもなく美味しく思えた、とか。

『ねえ、おかーさん、あまいねえ……おいしいねえ……』

 そこは小さな牧場だった。青々とした葉が優しい木陰を作って揺れている。溢れんばかりの蝉時雨の中、木製のベンチに座って、プラスチックの透明なカップに注がれた一杯の牛乳を母と分け合って飲んだ。
 弟は向かいの席で、父と分け合って飲んでいた。
 夏の日の、鮮やかな思い出。
 あたりには草いきれのむせかえるような匂い、牛の匂い、全てが混然一体となった牧場の生気で満ちていた。

『──牛乳、美味しいでしょ、すみれ』

 母が隣で笑いながら、口元を拭ってくれた。

『うん。おいしい。学校の牛乳よりもすっごくおいしい!』

 ちゃんとコクもあるのに、喉にまとわりつくようなしつこさも焦げ臭さもなかった。綺麗なコクと甘さ。
 嫌な牛乳臭さは皆無だ。こんなにも牛の乳はまろやかで美味しいものだったのだろうか。

『そんなに気に入ったなら、残り全部飲んでいいのよ?』

 母が笑う。笑っている。
 幸せそうに、笑っている……。

                     *   *   *

(ほう……)

 鞘人は従業員用控室の隅で腕組みして立ったまま、吐息した。
 6月下旬、金曜の夜、8時半。
 すみれにとって2回目のテストが始まろうとしていた。
 鞘人は、研修自体は監督するが、メイド達のランクアップテスト当日には関わらないのが決まりである。
 ここは女の園。男はひたすら傍観するのみだ。

(リラックスしているな)

 すみれの表情を見て、鞘人は改めて安堵した。
 彼女は今日、笑顔だった。無論、緊張はゼロではないのだろうが、その笑顔は柔らかい。前回はぴくりとも笑わず、緊張でガチガチだったことを思えば、この一ヶ月で随分と成長したといえる。

「ストレートティーには、本日、ロンネフェルト社のイングリッシュブレックファスト セントジェームスをお淹れ致します。カップとソーサーは、ウェッジウッドのレースピオニーをご用意しております」

 すみれが背を伸ばし、皆に宣言すると、佐古から即、質問が飛んだ。

「この間はマカイバリのオーガニックダージリンファーストフラッシュだったわね。リーフを変えた理由は」
「……それは……」

 湯を沸かし、その場に集まった5名の試飲要員のメイドと佐古の為に人数分の茶器を温めていきながら、すみれは答えた。

「……この間は、丁度、ファーストフラッシュの出回る時期でしたし、評判の高い茶葉でテストに合格する確率をあげようと、そう思って選ばせて頂きました」
「今回は?」
「……この紅茶はウヴァベースです。そして、今回テストの為にお集まり頂いた、柳原さん、三国さんは、セイロンティーを普段からお好みです。また、向田さん、白川さんのお二人は、セイロンの中でもウヴァを殊の外お好きでいらっしゃいます」

 名前を出された4名が、無言のままにちょっと微笑む。
 ウヴァとはセイロンティーの中でも最も標高の高い地域で栽培されるハイグロウンティーの一種である。今回すみれが選んだ茶葉はウヴァをベースに作られたセイロンティーブレンド茶ということになるのだ。
 そしてこの場には、夏凛と佐古を除けば、セイロンティーを好んで飲む者たちが集められていた。

「夏凛さんは何でもお好きだとのことですし……ですので、ゲストの皆さんにより楽しんで頂ける茶葉を選ばせて頂きました」

 すみれは温まったポッドのお湯を捨てて、茶葉を投入しながらさらに告げる。
 よし、と鞘人は胸の中で呟いた。
 知識も技法もそれなりに頭に入っているすみれである。
 あとは、自らに足りなかったものが何だったのか、正確にすみれが理解しているかどうかにかかっていた。今回のゲストの好みが偏っているのは何も偶然ではない。佐古がメイドの好みを把握しており、毎回テストでは好みの傾向が似かよった試飲要員を選び、その上でテストを受ける新人がどう出るかを観察しているのだ。
 今回は、セイロン好きを集めた。

(そして、今日、お前はゲストの好みに沿う茶葉を選んだ……)

 客の好みに添う。
 それは店ならば当然のことだし、主の賓客に対してもそうだ。
 だが新人は大抵の場合、テストという特殊な状況の中ではそのことに思い当たらない。自由に茶葉を選べと言われてしまえば、あっさりゲストのことを失念してしまうのだ。
 時期的にはダージリンセカンドフラッシュもいい茶葉が出回っている。それらを選んでも不思議はなかったのに、すみれはそれを選ばなかった。

「そう。でもこれはあくまでブレンドティーですよ? ウヴァの割合についてどう考えているの。それにイングリッシュブレックファストをミルクティーとしてではなくストレートであえてお出しする理由は」

 眉ひとつ動かさず、佐古が問いただす。
 重箱の隅をつつくような質問を矢のように降らせながら、佐古は実のところ、知識よりもメイドの所作や態度をしっかりチェックしている。
 すみれもそれは解っているだろうが、質問を受けながらも身体が固くなることはないようだった。

「ウバの割合は、高いように思います。勿論私の主観でしかありませんが、個人的には、ウバのストレート並みの、素晴らしいサリチル酸メチル香を感じます。通常、イングリッシュブレックファストはミルクティー向きと言われますが、これはストレートでも楽しめる紅茶ですから……」

 鼻が効く彼女らしい受け答えで佐古に受け答えしながらも、茶を浸出し終わる。
 各人のティーカップにそれぞれ均一な濃さになるよう紅茶を注ぎながら──微笑んで。

「カフェインはきつめかと思われますので、少し目は醒めてしまうかもしれませんがどうぞ御容赦くださいね、夜更かしもたまにはよろしいかと……」

 ただし朝寝坊の責任までは負いかねます、などとすみれが微笑みながらつけたしたものだから、思わず試飲要員のメイド達が、ふふっと声をたてて笑った。
 テストにおいてはカフェインの強弱は問わないから、夜にこのお茶を出しても減点対象にはならない。
 わかっていて、すみれはそれをあえて話題として口に出した。
 試飲要員として呼ばれたメイドたちが、声をたてて笑うのは、テストの場では滅多にないことだ。
 すみれはゲストをもてなし、その心を和ませることに成功していた。

(……もう、見ていてひやひやすることもない、な)

 自分が育てたメイドとはいえ、すみれの成長は目覚ましいものがある。知らず、鞘人は微笑んでいた。今日のすみれには、ゲストをもてなす心がある。
 テストは順調に進み、ミルクティーもそれに適した茶葉をセレクトし、無事淹れ終えた。佐古も質問はし尽くしたのだろう、黙って味わい、頷いている。

「……いいでしょう」

 佐古が呟き、立ち上がった。

「明日より、晴野すみれさん──貴女のお仕事に、お茶出し業務を追加いたします。より精進なさい」

 わぁ、おめでとう、と試飲要員たちから口々に歓声と拍手があがった。2か月でテストに合格した者は今までいなかったのだから、ちょっとした快挙である。
 だが、鞘人はここにきて真顔になった。

(……このまま終わるのか?)

 執事である鞘人は、邸に届く配達物も全て把握している。
 今日の昼、クール宅急便の速達ですみれ宛てに届いた荷物があったはずだ。
 何が届いていたか、鞘人は知っていた。
 すみれはせっかく取り寄せた『それ』を、使わずにこのテストを終わらせるつもりなのだろうか……。
 疑問を抱え、鞘人が静かに見守る中──果たしてすみれは、ありがとうございますと頭を下げて微笑んだ後、おもむろに告げたのだった。

「すみません。後、一杯だけ、淹れさせていただけますか」

 立ちあがりかけたメイドたちが、驚いたようにすみれを見やる。その視線を受けて、すみれはここにきて初めて緊張を見せた。
 ぎこちない所作で棚から瓶詰の牛乳を一本、取り出す。

「すみれ……それって……」

 夏凛が身を乗り出してくる。すみれは頷いた。

「……私が、自分のお金で取り寄せた牛乳です」
「ってことは、さっきのミルクは? いや、あれはいつものやつよね……?」

 飲み終わったカップを見下ろし、夏凛がぶつぶつと呟く。

「はい、先ほどのミルクティーのミルクは、お邸で使われているいつものジャージー牛のものです」

 すみれが手早くポッドを洗い、もう一度茶を淹れる準備に取り掛かる。新しく取り寄せたミルクをミルクジャグに注ぎ入れ、すみれは佐古を見上げた。

「あの……ジャージー牛のミルクは素晴らしいと思います。そして、あれを使ったミルクティーを愉しみにされている方は、多いと思います。私も好きです。ですから、あのミルクに不満があるとかそういうことではないんです。あのミルクは、そのままこの先も、使うべきだと思います」

「ならば何故、貴女は新しいミルクを取り寄せたの。もうテストには合格したのよ。何が目的です?」

 佐古が抑揚のない声で尋ねると、すみれは──ここにきて少し躊躇い、頬を微かに染めて呟いた。

「つ……いえ、旦那様は、もう少しだけ、甘さ控えめのほうがお好きではないかと思ったのです」
「根拠は」
「……私と話されていた際に、少し甘すぎるぐらいだ、と、ぽろりとおっしゃったのが、根拠……です」
「……」

 その瞬間、佐古は瞠目し、鞘人も思わず息を呑んだ。
(司様が……?)
 それは、青龍家に勤めて2年の鞘人にとっても寝耳に水だったが、先代の頃からずっとこの家のメイド長を務めてきた佐古にとっては、より衝撃的な内容だったに違いない。

 たかが主の好み、されど、主の好み。

 執事もメイドも主の為にこそ存在する。司の好みを完全に洞察しきっていなかった、という事実は、佐古や鞘人にとって重い事実だ。
 司は今まで、口に入れるものに対して何一つ煩いことを言ったことがない男だった。
 そもそも司という男は、仕事や調べ物、読書に没頭している時は自らのことなど完全に後回しにしてしまう男だ。こちらが水分をとるタイミングを見計らって呼びかけ、初めて「あぁ、じゃぁ頼むよ」と告げるだけ。茶葉の指定もない。コーヒーだろうと紅茶だろうと何でも飲むし、何でも美味しいと言って食べる。

 甘いものは苦手だから、砂糖は決していれないし、甘い茶菓子は客が居る時以外は口にしないが、その他のことについてはおよそ拘りが無いといっていい。
 逆に言えば、仕事に没頭している時は茶葉のことなど心底どうでもいいと思っている男だ。間違いない。

 その司が自分からたまにリクエストする唯一の飲み物が、ミルクティーだった。
 疲労の溜まった時に、リクエストが入る。
 わざわざ指定するぐらいだから、その身体が必要としているのだ。
 そこにまさか不満を抱えているなど、さすがに思いもよらぬことだった。
 主が甘いモノを苦手としていることは鞘人とて無論承知している。だが、砂糖抜きというルールだけは頑として譲らぬ司でも、ミルクの甘さぐらいは時に補給したくなるのだろうと思っていた。

(だが、……そうだ。言われてみれば、あのミルクの仕入れ先は、先代の頃から変えていない)

 先代好みのミルクティーを、幼いころから司も飲んできた。
 当然のように受け入れているかに見えたそれに対して、司がひそかな不満を抱いていたのだとしたら──

 味など、どうでもよかったわけではなく。
 口に出さなかっただけ、ということになる。

 固唾を飲んで鞘人が見守る中、佐古と皆の分のカップにミルクと濃く出した紅茶を注ぎ入れ終わったすみれが、おずおずと唇を開いた。

「試飲、していただけますか」
「……」

 促された佐古が、重い仕草でカップを持ちあげた。一口飲む。
 それを待って、他のメイド達も躊躇いがちに茶を口に含む。
 しかし部屋には先刻とは異なり、重い雰囲気が漂った。
 誰もが佐古の表情を伺って、感想一つ言えないでいる中──

「美味しいと思いますわ。これはこれで」

 大輪のすみれが咲いたような笑顔で堂々と、躊躇い無く真っ先に感想を述べたのは夏凛だった。

「ジャージー牛より、やわらかなコクと甘みです。それでいて、ジャージー牛よりはキレがよいと感じます。しつこくありません。素直でいい甘みではないかと」

 全く佐古の前でも委縮することなく意見を述べる夏凛の度胸は、大したものだと鞘人は内心嘆息する。

「……他の者は?」

 佐古が自分の意見はあくまで伏せ、他のメイド達を促す。4人は居心地悪そうに顔を見合わせ、おずおずと切り出した。

「ま、あ……確かに、美味しい、ですけど」
「喉越しは、爽やか、かも……でもコクはちゃんとありますね」
「甘みも、やさしいけど弱いわけではないし……」

 佐古の顔色を伺いつつ、だからだろう。
 思いきったことを言えないまでも、一応好感触な言葉に、すみれが少しほっとした表情を見せたのもつかの間──メイドの一人が少し複雑な表情で顔を上げた。

「でもぉ……晴野さん。そのミルクって、何処のモノなの?」
「……あの。私の実家のわりと近くにある、牧場のものです……」

 マイナーな牧場名をすみれが口にすると、夏凛を除いたメイド達は一斉に茫然と顔を見合わせた。

「そんな小さな牧場のミルクなんて……名前聞いたことないし……」
「そんなものを旦那様にお出しするんですか?」
「ちょっと……それはどうかと……」

 先ほどは「美味しい」「爽やか」などと一応褒めていたのに、一転して掌を返したような物言いになったメイド達を前に、すみれが少し小さくなって俯いた。無理もない。
 鞘人は内心、歯がゆい想いを噛みしめた。
 どんなに口を出したくても、この場では傍観者を貫くしかない。もうすみれはテストには合格したのだから、口を挟んでも構わないといえばその通りだったが、女のやることに男が半端にくちばしを突っ込んでも、ロクなことにはならない。

「大体、旦那様はイギリス留学も一時期されていたんでしょう? だったらやっぱり向こうでメジャーなジャージー牛乳のほうが馴染みがあるのでは?」

 メイドの一人が放った言葉が、その場をさらに否定的な雰囲気に染めていく。
 息を詰め、その様子を見守る鞘人の視線の先──すみれが、ふと背を正した。
 すみれはゆっくりと深呼吸した。背を正す。
 そして──改めて深く腰から頭を下げ、言った。

「お願いです。一度でいいんです。旦那様に、このミルクティーを飲んで頂く許可を下さい」

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