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第五章 シロツメクサ、試練の日

02 無名のミルク、その勇気

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 すみれはゆっくりと深呼吸した。背を正す。
 そして──改めて深く腰から頭を下げ、言った。

「お願いです。一度でいいんです。旦那様に、このミルクティーを飲んで頂く許可を下さい」
「……」

 皆がしんとなった。沈黙が心臓に沁みる。
 下げた頭を上げぬまま、すみれはプレッシャーに耐え、目を閉じた。
(だって、諦めきれないよ……!)
 自信など今もない。けれど。

「あくまで旦那様に選んで頂きたいと思うんです。選ばせて、差し上げたいんです」

 何様だと、罵倒されることも覚悟の上だった。それでもすみれはあえて口にしてみる。
 選ばせて、あげたいと。

「思ったんです。私。この大きなお邸の中で、いちいちミルクの些細な甘さごときに、口なんか出していられないぐらいに、旦那様はお忙しいですよね」

 ようやくすみれは頭を上げた。メイド達の視線が相変わらず肌に痛い。けれどそれを跳ね飛ばしてでも、伝えたいことがあった。

「私達なら台所にいってミルクを足したり、砂糖を足したりも好きなようにするでしょう。好みの味になれば、なんとなく嬉しくて落ち着くと思います。それって小さな幸せですよね?……でも旦那様は、それすら口でいちいち誰かに説明して、自分の代わりに淹れてもらわなきゃいけない立場で……」

 司は、何でも持っている人だと思っていた。
 溢れる財、人望、彼を主と仰ぎ仕える使用人たち。
 でも、きっと、事はそう単純じゃない。

「……些細なことほど、きっと思い通りにならないで、でも黙ってる。そんなことが……多分、旦那様にはある、と思います」

 あの夜、飲ませてもらったレモンティーをすみれは思い出していた。
 本人の言う通り、それは安物なのだろう。
 けれど司は、あのレモンティーを淹れて飲む時間を、もしかしたら『気分転換』という軽い言葉以上に大事にしているのかもしれなかった。

 それは誰にも邪魔されず、
 自分で自分の思い通りにできる──
 ささやかで、
 けれどかけがえのない一杯なのかもしれないから。

「……聞いた? みんな」

 腕組みして見つめていた夏凛が、腕を解き、つとその場に立ちあがった。

「このミルクティーを旦那様に飲んで頂いた上で、判断してもらえばそれでいいじゃない。なんにも不都合ないと思うわ。大体ね、貴女たちの中に、一人でも無名の牧場の牛乳取り寄せる勇気もってる人、いるの?」
「……っ」

 メイド達が恥ずかしそうに押し黙った。
 ほらみたことか、と夏凛が瞳を眇めた。

「みんな、他人の目が怖いでしょ。ブランド力が欲しいでしょ。でも自分の舌だけを頼りにこの子は無名のミルクを取り寄せたのよ。貴女方、そこまで旦那様のこと深く思いやれるの?」

 ぐるりと皆を見渡し、やがて夏凛は佐古を見つめた。

「……佐古さん。どうでしょう。私はこれを旦那様にお出ししていいと思います。というより反対する意味がわかりませんわ」
「……」

 どこか疲れたような表情で、佐古もまたふらりと席から立った。

「貴女方、そのミルクティーの味はどう思うの。正直におっしゃい」

 残り四人を見回し問うた佐古に、おずおずと、メイドたちは意見を述べた。

「悪くないと……思います」
「……ジャージーとは別の、美味しさを感じました」
「飲んだ後がすっきりしていて……これはこれで、アリかと」
「まぁ……確かに、美味しいです」

 四人の言葉を聞き、佐古は、ゆっくりと頷いた。

「……では夏凛。お前がこの場をまとめなさい。どういう結論になろうと、私はそれをこの場の総意として受け入れます」

 佐古の意外な言葉に、皆が息を呑んだ。ここにきてまだ日の浅いすみれとて驚いたぐらいである。
 佐古が、決定権を部下に委ねる場面を、今まで見たことがなかったからだ。
 夏凛も驚きに目を瞠り──やがてふっと微笑んだ。

「……だそうですよ、みなさん。多数決とりましょ。旦那様に選んで頂いてもいい、と思われる方」
「……はい」

 そろり、と、控え目ながらもメイド達全員が手を上げた、その時だった。

「──うん。めでたく決まったところで、そろそろ、いいかな」

 開いていた控室のドアから、この場の硬い雰囲気を簡単に緩めてしまうような間延びした声と共にひょいと顔を出したのは──誰あろう司だった。

「あー、そうそう。イギリスでもジャージー牛乳の流通量はそんなに多くないよ? 値段だってちょっとお高いしね。だから普段はみんな普通の牛乳を飲んでる。たまに欲しい時に、用途に応じてジャージー牛乳を買うって感じかなぁ。……ただ、どの牛乳だろうと、あっちでは低温殺菌がメインだったことは確かだけど、ね」

 飄々とした口調でメイド達の誤解を解きながら、司が控室に入ってくる。
 司が現れた、ただそれだけのことなのに、控室の雰囲気がふわりと華やいだ。

「つか……っ、だ、旦那様……」
 常に司を名前で呼ぶ癖が出てうっかり舌を噛みそうになったすみれを見て、司が緩く微笑んだ。

「ね、ちょっと、俺にもここでミルクティー淹れてよ。味をみたい」
 気軽にねだった司の言葉に、佐古が驚いて立ちあがった。

「旦那様、いけません。お茶でしたらお部屋でお待ちください、このような従業員の控室などでお茶をお飲みになるなど……」
「佐古。ちょっとぐらい許してよ。俺はどこでだって構わない」
「しかし」
「そのミルクで淹れたミルクティーを、今、飲みたいんだ。仕事あがりで疲れてるからね」

 確かに出先から戻ってきたばかりなのだろう、司は仕事着のスーツ姿のままである。軽くネクタイを緩めながら、司はにっこりと笑った。笑顔だが、譲る気がないとその顔に書いてある。
 珍しく、自らの仕事以外のことで我を通そうとする主の言葉に、佐古もそれ以上反対は出来ないと悟ったのか──力なく溜息を漏らし、すみれを見た。

「淹れて差し上げて、晴野さん」
「……は、はい……」

 すみれは呆然と頷いた。
 突然の本番である。
 まさかいきなりテスト当日に、控室などで司に茶を振る舞うことになるとは思いもしなかったすみれだ。
 ましてや初めて、すみれの独断で取り寄せたミルクを使ったお茶を司に出すとなると、緊張は二倍に膨れ上がりそうだった。
 用意を始めた手が、微かに震えている。ポットの蓋を取り落としそうになり、すみれは息を呑んだ。

(うわぁぁぁぁ……っ、ど、どうしよ……!)

 ぎゅっと一度目を閉じ、開く。
 ちらりと無意識に助けを求めるような気持ちで司を見た、その時だった。
 席についた司が、さりげなく右手をあげた。
 自らの頬を、人差し指で軽くぽんぽんと叩く。そして小首を傾げ、ちょっと笑って見せた。

(……あ……)

 司の言葉が、不意に鮮やかに甦った。
 ほらほら。笑ってよ、すみれ。
 今も司の笑顔は、そう言っている。

『俺も、君の喜ぶ顔を思い浮かべながらお茶の準備をするのは、とても楽しかったよ』

 思い出される、温かなその言葉。緊張を解くように、すみれの頬を軽くつまんだ優しい指の感触──。
(……そうだ)
 このテストに受かるために気付かなければいけなかったことを、言葉でなく紅茶で教えてくれたのは──司だ。
(……笑おう)

 そして楽しめばいい。すみれは不意に気付いた。
 ようやく、ずっと目標にしてきた小さな夢が叶うのだ。縮こまっている場合ではなかった。

(そっか。私、もう司さんにお茶淹れても、いいんだ……!)

 一拍も二拍も遅れて、その嬉しさはこみ上げてきた。
 この一杯を、司のことを想いながら、大切に淹れればいい。
 その気持ちはきっと、紅茶をより美味しくする。司があのレモンティでそのことを教えてくれたのだから……。

「今回は、ミルクティにはベアウェル茶園のディンブラを用意しました。ピーククオリティのもので、エグみもなく、深い甘みのあるお茶です……この間、鞘人さんに飲ませて頂いたんですが、ほんとに美味しかったので選びました」
「うん。楽しみだなぁ」

 ポッドに茶葉を投入しながら、すみれは司に笑顔で話しかける。司も実に楽しげに応じて、場が急に柔らかくなりはじめた。

「……そのミルクさ」
 司がのんびりと尋ねる。

「なんで、そこから取り寄せたの? 知り合いでもいたの?」
「……いいえ。昔……」

 ゆっくりと、時間をかけて。
 ミルクティーにふさわしい濃さにすべく、茶葉の味と香りを抽出する間に手際よくテーブルセッティングをしながら、すみれは司の問いに応じた。

「家族で、小さい頃、訪れたことがある牧場なんです」
「……なるほど」

 司が、少しやさしい目をした。

「その時飲んだミルクの味が、今も忘れられなくて。でも、記憶の味って美化されていたりしますよね。本当に美味しいのか、それとも、家族みんなで楽しく飲んだから忘れられないほど美味しいと、記憶してしまっただけなのか……正直、今日まで自信はなくて」

 ミルクジャグからカップへ、ミルクインファーストの掟に従い心をこめて注ぐそれは、今は亡き家族と共に飲んだ思い出のミルクだ。

「でも、今日取り寄せて飲んでみて、思ったんです。やっぱり、美味しいって。お口にあうかどうかはわかりませんが……」

 続いて、茶葉特有の深い甘さの出た濃いレッドブラウンの紅茶を、たっぷりのミルクの中へ注ぐ。すると綺麗なミルクブラウン色に染まったミルクティーが生まれる。
 美しいその色は、ミルクティーの美味しさの証だ。
 やっと茶を司に出せる。そのことが嬉しくてたまらなくて、少し涙腺が緩みそうになり、すみれは困った。

 ずっと考えていた。司にとってこの邸で取り寄せているミルクの甘さが過剰なのだとしたら、代わりに選ぶミルクは何がいいだろう、と。

 もう日も迫っていたし、いろんな牧場やメーカーのミルクを取り寄せて悠長に味比べするような暇はなかった。
 ふと思い出したのは、幼いころに訪れた牧場で飲んだミルクの味だ。その美味しさは、すみれの記憶に鮮やかに刻まれていた。
 あれから時が経ち──かの牧場が低温殺菌の牛乳を産出し続ける小規模ながらも優良な牧場として、着実に地域に受け入れられつつあると知って、すみれはこのミルクを取り寄せると決めたのだった。

「……一度、つ…、だ、旦那様に、飲んで頂きたくて」
「うん……」

 司が頷き、小さく笑った。
 佐古や皆の手前、司を司さんと呼べないで舌を噛みそうになっているすみれの不器用さに微笑んでいるのだろうが、馬鹿にされている感じは受けない。皆がいる場所では気を遣って、司もすみれのことを春野さんと呼ぶが、司からはいつだって暖かな心が寄せられている。
 期待してしまいそうに、なるほどに。

「ずっと、俺に出すミルクティーのことを考えてくれていたんだね。ありがとう……晴野さん」
「……っ」

 司の言葉に、一瞬、すみれはぱっと鮮やかに頬を染めた。どくん、と心臓が波打つ。
 胸の奥、理屈ではどうにもできない場所が、疼いた。
 こんな自分が気恥ずかしいと思いながらも、感情の揺れはどうしようもなかった。一度自覚してしまうと、意識せざるをえない。
(この人が、好きなんだ、わたし……)
 改めて考えると途方に暮れるしかなかった。相手はただの青年ではない。庶民の自分が本来、気安く言葉を交わせるような人でないことも、解っていた。

「……紅茶、頂くよ」

 司が微笑む。すみれは多少緊張した面持ちで頷いた。
 口に出せないし、今は出すつもりもない想いだ。けれど、ミルクティーは精一杯、司のことを想って淹れた。飲んでもらえるなら本望だ。
 そっとカップを口に運び、司がそれを口に含むのを、どこか祈るような面持ちですみれは見つめた。

「……うん」

 一度、司は目を閉じた。
 喉越しのいい、優しい甘さのミルクティーを味わった司が、どこか満足げに息を吐いた。

「……俺は、これがいいな。丁度いい甘みになった」
 静かに、噛みしめるように呟いて、司は目を開いた。
「美味しい。本当に、すごく美味しいよ。明日から、ミルクティーが欲しい時は君にお願いしてもいい?」

 すみれはようやく緊張から解き放たれ、ぱっと微笑んだ。

「はい、喜んで……

 うっかりしていた。その後、メイド服を着ている時に旦那様を司さんと呼ぶなど何事か、と佐古から容赦ない叱責が飛んだのは御愛嬌である。


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(※……作中でも司に述べさせた通り、イギリスでも、別に誰もがジャージー牛乳を当たり前のように毎日飲んでいるわけではないよ、というスタンスで書かせて頂いてます)

(※……ロンネフェルト社の『イングリッシュブレックファスト セントジェームス』は、これを書いた当時、あくまでリーフとして出回っている商品のほうを想定して書いていました。ロンネフェルトの『イングリッシュブレックファスト』は、缶入りはすでに廃番になり、一般的にはティーバックで広く出回っていますね……現在がどうなのかはわかりません。ひとまず、紅茶通の方もそうでない方も生温かい目でさらりと読み流していただければと……)
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