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第六章 盗み聞きのシロツメクサ

02 生涯ただ一人の、想い人

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 二年前の春──

 圓成えんじょう湖示の娘、理愛りあは先日、十六歳を迎えていた。
 十六といっても、彼女は背が小さいが故に、まだ幼さを残していた。顔立ちは大変な美少女だが、誰に聞いても初対面では十三歳程度だと思いこむようだ。

『ねえ、鞘人、この服はどうかしら? 変じゃない?』

 新調した華やかなワンピースを三着ほどリビングの椅子に置いては、その少女は交互にワンピースを身体に当て、くるくると回って見せた。

『ね、これ、やっぱりこれがいいと思うんだけど、鞘人はどう?』
『……大変に、お可愛らしいいでたちでございます、理愛様』

 目を細め、穏やかに頷く鞘人がそこにはいた。

『もーっ、鞘人ってば。何を見せても可愛らしいって言うんだもの。それじゃぁどれに決めたらいいかわからないじゃない!』

 ぷぅっと頬を膨らませれば、なおさら幼く映る。

『司様にお会いになる為の衣装なのでしょう? ご自分が最も映える衣装は何なのか、ご自分で選ぶお力がなければ、真のレディとは申せませんよ』

 柔らかく鞘人は微笑む。

『だってー……これでも一生懸命絞ったのよ? でもどれも素敵で決められないわ……』
『決められないでは困ります、お嬢様』
『つべこべ言わずに貴方の意見を聞かせなさい、鞘人。貴方はどれが一番私に似合うと思うの』

 高飛車に甘えてくる理愛に、やれやれ、と言葉には出さず鞘人は苦笑し──だがそれ以上突き放すことはしなかった。

『……そうですね。私の個人的な主観ではございますが……お嬢様には、やはり白を』

 ピンク系、ブルー系のワンピースを除き、鞘人は白を選ぶ。
 すると、理愛はどこか満足そうに頷くのだった。

『私もほんとはそう思っていたわ。鞘人はやっぱり誰よりも私のことをわかってくれているのね』

 嬉しげに顔を輝かせ、くるくると巻いたロングヘアーをふわりとなびかせる。そんな理愛が無邪気に鞘人の腕にしがみつく度、鞘人は苦笑しながら少女を引きはがさねばならなかった。

『お嬢様。年頃の女性がみだりに男性に触れるものではございません。お放し頂けますか』
『いいのよ、鞘人は特別でしょ?』
『いけません。何が特別ですか。お嬢様の特別は、司様でしょう』

 そう鞘人がたしなめる度に、少女はぱっと頬を染めるのだ。

『……ねえ、鞘人』

 腕を離しながら、微かにかすれた声で、弱々しく少女が呟く。
 先刻までの威勢はどこへやら、しおらしく、どこか不安そうに。

『私、司様のお嫁さんに、なれるかしら』
『……夢が、叶うといいですね』

 きっと叶います、と言ってやりたかった。だがその望みが薄いことを、鞘人は良く知っていた。
 青龍せいりゅうつかさは、鞘人とは正反対の性格をもっているといってもいい。どこか自由人的なフットワークの軽さもある。軽妙な話術と柔らかな笑みでいつの間にか人の心を掴む力に長けていて、気配りも出来る男だった。

 先代はうっかり青龍家を傾かせたが──息子である司は、先代の死後数年で、青龍グループをあっという間に日本の経済を牽引するトップグループへと立て直した凄腕の持ち主だ。
 その性格も表向き、温和で優しさもあり博識で頭もよい。一見非の打ちどころなど無い。

 だが──案外、頑固だ。譲れぬものをはっきりと芯に秘めた男だった。

 彼が押し寄せる見合い話を軒並み断り続けているのは、決して理愛に妻の座をあてがう為などではないことを、鞘人はなんとはなしに察していたのだった。

(司様が理愛様を見る目は、はっきりと、妹に対するそれだ)

 そこに、男女の情愛はなかった。

                             *

 青龍家の邸は、鮮やかな初夏の息吹に満ちていた。
 この時期、バラが庭園の主役だ。一年でもっとも庭が華やぐ時期でもあった。

『理愛、少し司殿と仕事の話があるから、お前は庭でも見せてもらうといい』

 湖示がにこやかに告げると、青龍家のメイドが進み出て案内を申し出た。部屋には司と湖示、そして鞘人と青龍家の老執事の四名のみが残った。

『……で、司殿』

 娘を見送っていた笑顔をふっと消し去り、湖示が司を見つめた。
 逞しい身体をゆったりとソファーに沈め、おもむろに口を開く。

『先日の件だが……どうかね。うちの理愛も十六になった。昔から理愛は司殿を深く慕っている。何度もこの話を掘り返して申し訳ないが、貰ってやっては頂けまいか。無論今は婚約止まりで構わんのだ……結婚は今すぐにとは言わぬ。どうだ』
『……湖示様……』

 司は向かいのソファーで背を正し、頭を下げた。

『何度も申し上げました通り、私にとって、理愛様はかけがえのない妹分でございます。妻にする、といったようなことは、考えられません』
『まぁまぁ、そう決めつけることはない、司殿。男女の情というものは、往々にして暮らし始めてから深く育つもの。恋愛ごっこで己の伴侶を純粋に決めるのが難しい立場であることは、お互い重々承知だろう?』
『……』

 司がしばし黙りこみ、やがて頭を上げた。

『……湖示様。それでは、本当のことを申し上げます』
『……』

 精悍な湖示の眼差しは年齢を感じさせない。百獣の王さながらの風格を宿す瞳と、まだ年若い司の、若いが故に芯を露わにした強い瞳がぶつかった。

『私には、生涯ただ一人と思い定めた女性がおります』
『ほう。そのわりに、女性関係は極めてクリーンだな、司殿。こちらも可愛い娘のためだ。二社ほど雇って君を内偵させたよ』
『ええ。そのようで』

 全く動じず、司は平然と頷いた。叩いても埃が出ないことを確信しているからこその、揺るぎない自信に裏打ちされた余裕だ。
 そんな司に苦笑し、湖示は傍らにおいていた茶封筒2つをあっさりとテーブルの上へと投げだした。

『調査結果だ。品行方正が服を着て歩いているときたもんだ。女性関係もおそらくは過去から現在に至るまでほぼ皆無だろう。……そんなお前さんが一体どこの誰に懸想しているというんだね』
『私の心までは、探偵も探れなかったのでしょう。それだけのことです。……湖示様。私はただ縁談を断るために嘘八百を並びたてているわけではございません。誠意をこめて、今までどなたにもお話しなかった真実を、お話しております。そのことは、どうかお解り頂きたい』

 司が再び頭を下げた。

『御容赦ください、湖示様。私の心が理愛様に傾くことはこの先もありません。この婚姻は、いずれ理愛様の心を不幸にしてしまうでしょう。私は、湖示様の大事なお嬢様を頂けるような器ではございません』
『……司殿。私から何を言おうと、理愛は……諦めんだろう』

 湖示が──その直後、どこか疲れたようにさらに深くソファーに凭れ、目をつむった。

『この話は、理愛たっての願いによるものだ。あの子は諦めんよ』
『……』
『司殿』

 目をつむったまま、湖示が大きな右の掌で顔を覆い、呟いた。

『悪いが、理愛を、今日振ってやってくれ』
『……湖示様』
『そうでなければ理愛も心の整理が出来まい。君に娶ってもらえないのなら、いずれは然るべき所へ嫁に出すしかない。せめて司殿自ら、娘を振ってやってはもらえまいか』

 部屋に、つかの間、重い沈黙が落ちた。

『……わかりました、湖示様』

 静かに頷いた司に、湖示が『嫌な役をさせてしまうな、すまん』と小さく呟く。この半年間、青龍家に対して折に触れて交渉し続けていた縁談話が、見合いの席すら正式に設けられぬまま、座礁した瞬間だった。
 鞘人は声にも表情にも出さぬまま──内心、天を仰いだ。

(あぁ……)

 七割の落胆、残り二割の安堵、一割の自己嫌悪を、噛みしめた。
 どうせ理愛を見送らなければいけないのなら、青龍家に嫁がせたかった。幼いころから理愛が一途に想い続けた司に嫁がせることができれば、胸の片隅は痛んでも、安心できた。
 司に愛されれば、理愛はきっと幸せになれるだろうから。
 ……だがこれほどまでに一途に想い続ける恋すらも、叶わない現実とはなんと皮肉なものだろう。理愛ぐらいの立場になると、恋愛結婚できる確率は限りなく低いというのに。

(だからこそ、この縁談に、賭けていただろうに)

 理愛の悲哀を想像して胸が裂けそうになる。
 なのに──心の何処かで安堵している。
 これでまだ、理愛の傍にいられる……誰かのものになった理愛を見送らずに済む……。
 理屈ではない、そんなエゴイストな感情が湧きあがることが苦しい。こんな想い、少しも理愛の為にはならないのに。
 本当に胃がぎりっと痛みを訴え、鞘人の眉が微かに顰められた。
 ふと、タキシードのポケットで、携帯のバイブが震えた。液晶を見れば圓成家からの呼びだしだ。

(こんな時に……)

 苛立ちながらも静かに一礼し、その場を一旦退席して廊下で通話ボタンを押す。
 客人が知らされていた便より一便、早めの飛行機で成田に着いたという。鞘人は歯噛みした。
 先に鞘人だけでも急ぎ邸に戻らなければならなくなった。大切な客人だ。執事の長である鞘人でなければ、湖示の代理としての応対上、礼を欠く。
 鞘人がひとまず一人で邸に戻り、代わりに圓成家から新たに迎えのリムジンを寄こすから、それまで湖示たちは青龍家で過ごしておいてほしいとの要請に応えつつも、何か胸騒ぎがした。
 夕方から雨と予報が出ている。

(大丈夫だろうか)

 自らがステアリングを握らないリムジンに、主と理愛を乗せることへの不安を、ふと感じた。こんなことは初めてのことだ。
 他の執事とて、運転技術は皆、第二種運転免許を取得しているのだから腕は確かだ。何故これほどまでに不安になるのかと、鞘人は邸へとリムジンを走らせながら舌打ちした。

(貴女が泣くと、わかっているからだろうか)

 今日、確実に絶望の淵に叩き落とされることになるだろう愛しい人の泣き顔が、手に取るようにはっきりと目に浮かぶ。後ろ髪を引かれるような想いで、鞘人は先に独り邸へと帰ったのだった。

 主と理愛が乗車したリムジンを自ら運転できなかったことを、
 鞘人が死ぬほど悔やむのは、その数時間後だった。

 二人を乗せたリムジンは、雨でスリップして右車線から左車線へと倒れ込んできたダンプカーに巻き込まれた。
 救急車を呼ぶまでもなく──二人は、即死だった。

                     *   *   *

「2年前の、あの日……貴方は、生涯ただ一人と思い定めた女性がいるからと、理愛様を拒んだ……」

 鞘人のどこか陰鬱な声が、廊下に響く。
 雨音は強さを増していた。まるでこの薄暗い廊下に、鞘人という名の二年前の思い出と共に閉じ込められてしまうような、そんな感覚に司は、微かな眩暈を覚える。

 そう、想い人がいるからと真実を告げ、理愛を振った。
 振られたその日、帰宅途中の交通事故で、理愛は父と共に逝ったのだ。

 あの日、司もまた、鞘人とは違う絶望を感じていた。
 どう言い訳しようと、一人の少女を失意の底に突き落とした挙句、そのままに逝かせてしまったことは事実だった。
 理愛の想いは本当に純粋だった。それこそ利害や資産がどうのといった思惑の外で、幼いころから生まれ育った極めて純度の高い想いであったことを、司はよく知っていた。
 それでも、受け入れることは出来なかった。
 いたいけな少女を拒んででも、貫きたい想いが、司にもあったのだ。
 誠心誠意を尽くして理愛に詫び、その想いに応えられないことを告げた。だがどれほど誠意を尽くそうと、乙女の心を傷つけずにこの話を終わらせることなど、出来なかった。

「──それが貴方の、理愛様に対する精一杯の誠意だったのだと、本当はそんなことはわかっているのです」

 鞘人が、どこか寂しげに口元を歪め、呟いた。

「貴方の夢は貴方だけのもので、理愛様の夢もまた理愛様だけのものだ。それも解っています」
「……うん、そうだね」

 司は頷く。淡々と、穏やかに。

「……けれど、私は知っています。理愛様は貴方を誰よりも幸せにしたかったのだ、ということを。幸せにしてもらいたい、その気持ちと同じだけ、理愛様は貴方のことも幸せにして差し上げたかったのです……ご自分の手で」

 鞘人の語尾が、微かに震えた。
 直立不動のままの彼の肩が震えるのを、司は少し離れた場所から、ただ見守っていた。
 憐れみでもなく、労わりでもなく、ただ、まっすぐに。

「……今となっては、貴方を怨んでなどいません、司様。心から、そう言えます。
 けれど、理愛様の最期の言葉を思い出すたびに、どうしても、もどかしくなる。
 それこそ私がくちばしを挟むべき事柄ではないと、百も承知でそれでも──」

 一度言葉を切り、鞘人は呻くように囁いた。

「理愛様を拒んでまで、貴方が貫きたかった想いがあるのなら……『それ』をせめて、実らせて頂きたい、と。そう思ってしまうのです」

(……そうでなければ、理愛ちゃんが浮かばれない、か)

 司は溜息と悟られぬよう、そっと息をついた。
 鞘人という男は、不器用だ。
 おそらくは二年前、放っておけば理愛を追って死んでいたろう。
 当時、退職した鞘人は、実家にも帰らず、質素なビジネスホテルに転がり込んでいた。
 独り、死んだ魚の目をして部屋の片隅にただ蹲っていた鞘人を、再び日の当たる場所に引きずり出したのは、司だ。
 圓成湖示と理愛が逝き、湖示の妻までもが自害した。
 その上この有能で孤独な執事までも、自死させたくはなかった。

 だが──司もまた、これ以上の悲劇を見るに耐えず、自らが救われる為に鞘人に手を差し伸べた自分を知っていた。だからこそ、この男が司に寄せる理不尽な期待も夢も、無理からぬことだと思うのだ。

 何かに縋り、何かに希望を見い出さなければ──生きてはゆけぬ時もある。
 その弱さごと、司は鞘人を引き受けた。怒りや怨みがあるなら、それも全て引き受ける覚悟で。
 あの日の理愛の悲哀と涙──司は、鞘人と顔を突き合わせる度にそれらを思い出さずにはいられない。それでいいのだ。
 彼女を傷つけた自分には、それを忘れずに墓場まで持っていく義務がある。

 ……すまない、と、鞘人に謝ったことはない。言ってはならない言葉だった。

「……前にも言ったね、鞘人。君の望みを、解りやすい形で叶えてあげることは今のところ、難しいと」

 司は穏やかに、部下を諭す。
 己に出来るのは、ただひたすらこの男に嘘をつかず、向き合うことだけだ。全てを話せるわけではないとしても。
 わかりやすく、すみれと恋仲になれば、この男は納得するのだろう。
 他人に幸せのあるべき形を押しつけることがどんなに滑稽なことかも、聡明なこの執事には本当はわかっているのだ。
 だから、司も、押し付けるなとは言わない。
 まだあれから二年。
 鞘人には、もう少し時が必要で。

「そうでしょうか。司様がそう思いこんでいらっしゃるだけのように思えますが……」
「今は、そう見えるよね」

 言外に──今はまだ君にはわからないのだと、そう告げた司に、鞘人はしばし薄い唇を噛んで立ちつくしていた。

「……やはり、理解し難く思います」

 長い沈黙の後、再び鞘人がぽつりと呟いた。

「何故、貴方はそこまで頑なに、すみれ様を家族というポジションに据え置こうとするのです」
「……頑なになっているつもりはないよ。ただ、物事には順番があるだろう?」

 駄々っ子に諭すように司が静かに囁けば、鞘人の白い頬に微かな赤みが差した。

「ねえ鞘人。家族は……いや、血縁は、決して取り替えのきかぬものだよね。俺はまず、彼女にとってそういう者になっておきたかった。たとえ血の繋がりはなくとも」
「……」
「決して縁の切れぬ存在に、なっておきたかったんだよ。俺にとって彼女は……」


 ──俺の、全てだから。


 囁くように告げた司の語尾は──だが、すみれには聞こえなかった。
 凍ったように立ちつくしたまま、すみれは雨音の狭間でさみしく鼓膜を震わせるそれらの会話を、悄然と受け止めていたのだった。

(──2年前って)

 つまりそれは、夏凛が話してくれた、圓成えんじょう湖示と理愛の命日で。

(2年前のその日に……司さんは……)

 理愛を、振ったのだ。
 ──生涯ただ一人と思い定めた女性がいるから、と。
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