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第七章 シロツメクサは主の為に

03 幕間『王の瞳と不吉な予言』

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 丁度午後からの講義がひとつ休校になった曇り空の昼下がり、すみれは大学のカフェテリアで、男と共にお茶を飲んでいた。
 安物のアールグレイはまさに色つきのお湯に人工的すぎる香りを添加しましたといった風情の味わいで、ちょっと残念だ。こんなことならコーヒーをいっそ頼んだほうが良かった、と内心すみれは後悔した。
 二カ月、青龍家で鍛えられたせいで、随分舌が肥えてしまったすみれである。
 そして目の前に座って悠然とコーヒーを飲んでいるのは、おちゃらけているんだか鋭いんだかよくわからないあの男──池崎かいだ。

「うん、オレなかなかタイミング良かったよね。すみれちゃんとゆっくりお茶出来るのは嬉しいなぁ」

 窓際の一番眺めのいい席でカップを傾け、うれしそうに瑰が笑う。
 本当にタイミングの良さについては彼の言う通りだ、と、すみれは思う。まるでこちらの講義が休校になるのを見透かすように、瑰はするりと今日、連絡をいれてきた。
 了承したらその二分後には返信がきた。丁度近くに来ているからあと十五分で大学に着くよ、というのだ。
 お陰で、対応を考える暇もなく瑰と合流し、今に至る。

(いい人、だとは思うんだけど)

 すみれがハンカチを落とした場面を目撃したからといっても、本当に持ち主であるすみれのことを突き止めてしまうその行動力は、いささか不可解でもある。軽いナンパ男のようでいて、その実、脳味噌は軽くはなさそうだ。身につけているものはさりげなく高価で、ただの営業マンとは思えない。
 考えてみれば、まだ名前と電話番号、メアド以外、すみれはこの男のことを何も知らなかった。

「……こんなことで、お礼になるんでしょうか」

 すみれは少し困惑しながら、カップをソーサーに置き、瑰を見つめた。
 奢りもせず、ただ目の前に座って茶を飲むのに付き合うだけでお礼になるなんて、どこか心苦しくもある。
 いや、はっきりといえば、借りを返しきっていないような心地悪さが伴う。明確に、お礼と言えるものを返して、それで出来れば終わりにしたかったのだが、これではまるですみれからのお礼になっていない。
 ただ単に、恩人がすみれにお茶を奢ってくれただけという図式ではないか。

「お礼? もちろんなってるよー? でも足りないと思うなら、またデートしてくれたらいいんだよー? オレ今度こそ頑張っていろんなところエスコートしちゃうよ!」

 甘い笑顔で、瑰は相変わらずの軽口を叩く。すみれは苦笑した。

「私なんかより、恋人さんをエスコートしてあげたほうがいいんじゃないですか?」
「あれ、恋人なんかいないよー? 二股かける男に見えるのか……ちょっとショックだな……」

 本気で肩を落として瑰が悄然と俯く。思わず「わぁ、ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」と慌てたすみれを、ちらりと見上げ、瑰はにっと笑った。

「……すみれちゃんは、いい子だね」
「え?」
「ね、すみれちゃんの趣味って何? 教えてよ、すみれちゃんのこと。もっと知りたいな」

 あ、勿論オレのことも聞いてね、いわゆる商社マンだけど。と瑰が先回りして自分の情報を口にする。

「商社マン……ですか……」
「うん。ま、営業じゃなくって、舵取りする役目のほうだけどね」

(つまり、下っ端ではない、ってことなんだろうな)

 何とはなしに言いたいことは把握した。一瞬社長かと思ったが、すぐにそんな馬鹿げた発想はふりはらった。
 企業の社長がこんな場所で一介の大学生相手にお茶をしている暇などないはずだ。
 とはいえ……瑰が社長、という図式は、違和感なく成り立つような気がしてくる──ナンパな口さえ開かなければ、だが。

「で、すみれちゃんの趣味はー? こないだ紅茶の本読んでたよねえ。お茶淹れるの、好きなの?」

 この間の話題の続きに触れられ、すみれは微かに緊張した。だが、好きか嫌いかという話なら、差し支えないはずだ。

「はい、好き、です」
「誰かに淹れてあげたりするんだ?」

 瑰の瞳にまともに覗きこまれる。本当に容姿は文句のない色男だ。ホストでもすれば一瞬でトップを奪えそうな甘やかな眼差しに捉えられ──だが、すみれは冷静だった。
 この眼差しよりも遙かに密やかな熱を帯び、甘く苦しげな眼差しを、すみれは知っている。その瞳に見つめられると、途端にすみれの心臓は不整脈を乱発してしまうのだ。
 瑰の色気は、すみれにとってテレビでみる芸能人のそれと一緒だった。綺麗だけれど、心拍数を左右されたりはしない。自分とは関係なく、触れることもないそれだ。

「……そう、ですね。上手に淹れられるようになりたくて……」

 瑰の前にいながらも、すみれの心は一瞬、司の元へ飛んだ。
 そうだ。この二ヶ月間、わき目もふらず懸命に駆け抜けたのは、司の笑顔が見たかったからだ。
 役にたちたくて。
 美味しいと笑ってほしくて。
 心からほっとできる時間を、作ってあげたくて──

「……その人が好きだ、って顔に書いてる」
「……」

 不意にさらりといい当てられ、すみれは思わず紅茶に噎せそうになった。慌ててカップを置き、口元をハンカチで押さえ、すみれは愕然として目の前の瑰を改めて見つめた。

「ははっ、漸く、俺を見たよね」
 瑰が涼やかに笑う。
「え……漸く、って、さっきからずっと……」
「見てなかったよ。他の男のこと、考えてた」
「……っ」

 全て図星だったから、言い返す言葉さえ失った。
 やはり瑰は鋭い。にこにこと笑いながら、心の奥まで見透かされてしまいそうだ。

「いいなぁー。俺もすみれちゃんにお茶淹れてもらいたいよ。お嬢様なのに美味しいお茶も淹れてもらうだけでなく、自らちゃんと淹れられるなんて最高だよね」
「……あの、えっと……」

 さすがに誤解もここまでくると、放置するには居心地が悪すぎて、すみれは困った顔で首を傾けた。

「その、お嬢様っていうの……誤解ですよ、瑰さん」
「そう? でも、お嬢様でなければあんなリムジン乗って大学にきたりしないと思うよ?」

 不思議そうに瑰が目を丸くする。確かにそうなのだが、しかしやはり誤解だ。

「ええと……その、私、とあるお家に、居候しています」
「……そうなんだ」

 瑰が、ふと、やさしい目になった。
 テーブルに片肘をつき、頬杖をついてすみれを覗き込む。
 先をどうぞ? と、まるですみれを促すような雰囲気で、ゆったりと言葉の先を待たれてしまうと、さらに説明せざるを得ない流れだった。

「なので、お世話になりっぱなしなのも、心苦しいので……せめてお茶ぐらい、家の人に美味しく淹れてあげたいなって思って、頑張っていただけなんです。私自身は、普通の家で生まれ育ちました」

 言葉を選び、すみれは自分のことを注意深く話した。具体的に青龍家のことを語らなければ、守秘義務にも抵触しないはずだった。
 それでも、大学の友人たちにこのことを話したことはなかった。完全に信用したわけではないのだが……それでも瑰には話してもいいか、という気持ちになったのは我ながら不思議だった。

「……お父さんやお母さんはどうしてるのかは、聞かない方がいい?」

 一転して、ひどく静かな声で瑰が囁く。
 そこに瑰なりの労わりを感じ、すみれは小さく笑った。

「交通事故で……。でも、気にしないでください。もう、こうしてお話できるぐらいには、元気ですから」
「──そっ、か。言いにくいことだったろうに、話してくれて、ありがとうね、すみれちゃん」

 瑰が、そっと微笑んで背を正した。

「それで、美味しいお茶は、もう淹れられるようになったの?」
「……はい。上達したと、思います」
「そっかぁ。うーん。いいな。やっぱりいいなぁ、すみれちゃん」

 徐々に声を普段の明るい調子に戻し、瑰がにっと笑った。

「ね、すみれちゃん。俺のお嫁さんにならない?」
「……は?」
「わりと真剣なんだけど」

 と言われても、全く真実味がない。思わずすみれは噴き出した。

「おうちでお茶しない? っていうぐらいの気軽さでお嫁に来いって言う人、初めてみました」
 すみれの呆れた顔をみて、瑰はあははと笑って見せた。

「ま、今こんなこと言って、受けてもらえるはずがないのはわかってるよ。じゃー君の言う通りハードルを下げてお願いしてみよう。俺の家で、俺にお茶淹れてくれないかなぁ」
「…………え?」
「あ、えーっと。これは自宅に連れ込んで君をどうこうしたいとかそういう意味ではありません。俺はこう見えても紳士だよ。勿論すみれちゃんが俺を好きになってくれたらものすごーく嬉しいし、その時は遠慮もしないけど、コレはそういうお話ではないから安心して」

 微笑みながらもその表情はごく真面目で品のあるものへと切り替わる。今までの人懐っこい雰囲気から一転し、瑰は改まった仕草で、骨ばった両の手を身体の前で組み合わせ、軽くティーテーブルに置いてすみれを見た。

「実は、俺の邸もね。そこそこ大きいんだ。優秀な人材を現在、募集中なんだよね」
「……えっと……」
「つまりね。君を、本気で引き抜きたくなってきたんだ」
「瑰、さん?」
「うちに、来ない?」
「あ、あの……」

 冗談、という流れではなさそうだ。
 すみれは戸惑い、言葉を詰まらせた。
 瑰は、相変わらず力強く笑んでいる。

「待遇は、絶対に今より良くするよ。勿論、大学にも行かせてあげる。学費もだす。……雑用はしなくてもいいんだ。俺に、暇な時にお茶を淹れてくれるだけでいい。専属のメイドさんってところかな」
「いえ、その……あの……瑰さんて…一体……」

 何者なのか。
 問いかけて、すみれは不意に気付く。
 そうだ。瑰の色気や余裕、それらは全て一般の人間には持ちえない、人の上に立つ男特有の圧倒的なスケールの大きさからくるものだった。まったく色合いは違えど、司もまた、人の上に立つ者のオーラを纏っている。
 それらは、根幹においては同種のものだ。
 何故に気付かなかったのだろう。
 雄々しい体躯から放たれる、王者の風格に──

「……何者かと問われると、池崎瑰としか言いようがない、かな」

 緩やかに微笑み、瑰が囁く。

「本気で、君を、引き抜きたい。後の憂いなど全く心配いらないよ。全て俺が綺麗に後始末つけて、君の身柄を引き取る」
「そんな……あの。ほんとに意味がわかりません……私なんてただ紅茶を少し上手に淹れられるだけの、ただの学生なんですけど……」

 会って間もない男に、欲しいと望まれるほど、自分に価値があるとは到底思えない。そう考えて、だがすみれは微妙なデジャウを感じて息を呑んだ。
 そうだ。かつて、会ってもいないすみれの身柄を引き取ると望んでくれた者はいた。司だ。
 彼の中には、少なくともすみれを引き取りたいと望む、明確な理由があった。それがいかに荒唐無稽であろうとも、だ。

(じゃぁ、この人の、私を欲しがる理由って、何?)

 瑰には瑰なりの理由があるはずだ。疑問をぶつけるようにじっと彼を見つめたすみれの視線の先──瑰は苦笑を浮かべた。

「警戒、させちゃったね。でも、ほんと、可愛い君のお茶が飲みたいっていう気持ちに嘘はないよ。お金なら、いくらでも用意できるんだけど……どう、かな?」

 それきり口を閉ざし、瑰は真顔になった。すみれの返答をじっくりと待とうというのだろう。
 冗談のような話だが──瑰が何故か本気だということは、わかる。
 そして戯言ではなく恐らく本当に、すみれの人生が買える程度のお金を動かすことなど造作もない世界に住む人間なのだろう、ということも。
 艶やかな男の眼差しに酔わされそうになりながらも、すみれの頭の片隅は醒めていた。この眼差しよりももっと胸を揺らす瞳を、もう、すみれは知っている。

「……すみません。あの、お金の問題ではないので……」
 ぺこりと頭を下げ、すみれは詫びた。

「今お世話になっている人に、私、全然まだ、御恩を返しきれていないと思っています。お茶を淹れるぐらいしか、今は出来ることが無くて……だから、自分に出来ることは、この先も出来る限り頑張りたいんです。その人に喜んでもらいたいし、少しでも何か力になれることがあったら……したいです」
「……」
「だから……瑰さんのメイドさんには、なれません。ごめんなさい」
「……うん、そう言うと、思ってた」

 瑰が微笑った。

「俺はそこそこ人を見る目はあるから。相手がお金を積んで動く人間かどうかは、すぐわかっちゃうんだよね。すみれちゃんはそういう人間じゃない。まして会って二回目でこんなこと言われても、引いちゃうよね。だからこれはいわゆる『掴み』だとでも思ってもらえれば。……今日明日でいい返事が貰えると思うほど、俺もお花畑じゃないよ」
「瑰さん……」
「……お金で動かない君だからこそ、欲しくなっちゃうよねえ。それに」

 つと、瑰の瞳が眇められた。

「残念ながら、俺としたことが、お金以外に手持ちのカードが無くてね。時間すらも無いんだもんなぁ……もっと君とゆっくり、お茶しながら普通に仲良くなれたらいいのに、ね」

 本当に残念そうに呟く瑰の頬に、どこか孤独な陰りが差した。

「……ごめん。そろそろ時間なんだ」
「あ、はい」

 立ちあがった瑰が、テーブルの隅の伝票をさらりと指先でつまみあげる。それがささやかなお茶会終了の合図だった。
 会計を済ませ、外に出ると、小雨が降り始めていた。

「やれやれ。すみれちゃん、傘持ってたよね。途中まで一緒に行ってもらっていいかな? 可愛い君と相合傘したいんだよねー」

 軽口に苦笑しながらも、すみれは快く頷いた。まだ時間はある。

「はい、勿論です。駅まで送りましょうか?」
「んーん。いいよ、正門までで。人を待たせてあるからさ……貸して」

 傘立てに入れていたすみれの傘を、瑰は当然のように受け取り、開いた。
 自分から相合傘を頼んでおきながら、瑰の右肩は濡れてしまうほどに傘を余分にすみれへと差しかけ、瑰がおどけて微笑む。

「どうぞ、お嬢様。お入りください」
「お嬢様じゃありませんよ。瑰さんのほうがおぼっちゃまとかご主人様とか呼ばれる立場ですよね?」
「おぼっちゃまはない。ないない……! 勘弁して、すみれちゃん」

 ひとしきり笑い、瑰は歩きだしながら瞳を細めた。

「ね、すみれちゃん」
「何ですか?」

 雨が、ぱたぱたとすみれの傘を叩く。成り行き上、身を寄せ歩きながらすみれは瑰を見上げた。
 キャンパス内で、瑰はやはり目立っている。トップモデルもかくやといった容姿は否応なしに人の注目を集め、隣に立つすみれは落ちつかない。だが、瑰自身は悠然としたものだった。
 おそらくは、見られるということに慣れている。

「あのね、さっきの話だけどさ。今、決めなくていいから」
「……瑰さん……」

 いくら返事を待ってくれたところで、すみれの意思は変わらない。他の人のメイドになどなるつもりはなかった。
 しかし、そう伝えようとしたすみれの唇に、不意に瑰の人差し指が伸びた。二人の歩みが止まる。
 骨ばった指で、瑰はすみれの唇をそっと塞ぎ──囁いた。

「返事も、今はしないで」
「……っ」
「この先辛くなった時、俺の言葉を思い出してね、すみれちゃん。俺はいつでも君の逃げ場所になる用意が、ある」
「……?」

 すみれは瑰の指先で唇を塞がれたまま、息をひそめた。
 この人は……何を言っているのだろう。

「……君が泣くところは、見たくないって、思っちゃったんだよね」
 指が、離れてゆく。
 どこか謎めいた台詞と共に再び歩きだしながら、瑰が緩く微笑んだ。

「司の傍にいることが苦しくなったら、いつでも、おいで」
「……瑰、さん……?」

 どこか不吉な色を宿す予言めいた言葉にも震えたが──それよりも強い衝撃に打たれ、すみれは一瞬絶句した。
 司、と確かに瑰は言った。一度もすみれが口に出さなかったその名前を、まるで古くからの知り合いのようにさらりと。

「知っていたんですね……」

 声が震えた。
 多分、最初から、瑰はすみれの素姓を知っていたのだ。
 愕然としながらも、腑に落ちた。そうだ、ちょっと考えればわかることだったのかもしれない。
 青龍家のリムジンも、ナンバーを照合すれば何処の物か調べはつくだろう。もしかしたら、見る者が見ればナンバー以外にも特徴はあるかもしれない。
 瑰が、司と同じ世界の住人だったとすれば尚更だ……。

「そうだね」

 瑰が、苦笑まじりに答えた。
 正門から少しだけ離れた場所に、黒いリムジンが横付けされている。その横に立っていた強面の男が、こちらに歩み寄ってきた。
 おそらくあれが、瑰のリムジンと従者なのだろう。

「……瑰さんは、何故、私に……近寄ってきたんですか」

 全く意図が理解できないなりに、それでも軽く青ざめたのは、何か冷たい予感めいたものがすみれの背筋を走ったからだ。

「んー。最初はね、わりと好奇心が八割だったよ。あの堅物が傍においた女の子がどんな子なのか、知りたくて。でも、確かめちゃった今となっては少し後悔してるかな。君が、想像以上に一途でこころの可愛い子だったから、さ」

 飄々と、瑰が言う。だがその瞳は笑ってはいなかった。

「──司が、好きなんだね。すみれちゃん」
「……っ」
「一つだけ信じてほしいんだけど。……隠していることはあるけれど、今日君に話したことに、嘘はない」

 すみれに向き直り、長身を少し屈めると、瑰はすみれの掌を包むようにして傘の柄を丁寧に握らせた。

「それだけは、本当だよ。君のこと、気にいったんだ」
「……瑰さん……」
「今日はありがとう。楽しかった」

 傘の下から離れ、瑰が背を伸ばした。
 あぁ、とすみれは声にならぬ声をあげた。このひとは、こんなにも大きかっただろうか──
 雨の中に立った瑰の髪が揺れる。
 天然のものなのか、色素の薄い艶やかな髪へ、光る雨粒が落ちてゆく。まるで百獣の王の鬣に水晶でもあしらったように。
 その合間から覗く美しい瞳が、すみれへ微笑む。
 すみれはいよいよ絶句した。何故気付かなかったのだろう。

(この人の瞳……!)

 ──その奥に潜む、峻烈な孤独に裏打ちされた、強さ。
 何かを切り捨てることを厭わぬ者の持つ深い影が、そこにはあったのだ。
 いつの間にか近寄ってきていた強面の従者が──執事なのかどうかは判然としないが──そんな瑰に黙って黒い傘を差しかけた。
 スーツ姿の従者は、隻眼だった。左目が美しい装飾の施された革の眼帯で覆われている。残った右目が、鋭くすみれを捉えた。
 ぞくりとする。雨のせいだろうか。寒気がした。

 ──足元が、冷えてゆく。

「じゃ、ね。今度会う時は──」
 瑰はどこか痛みを堪えるような、小さな笑みを浮かべ言った。

「君を、泣かせちゃうかもしれないから、先に謝っておくよ。ごめんねすみれちゃん」
「……何を、言ってるんですか……?」

 問いかけた声は、知らず震えた。

「泣かせる分、責任はとる。俺の元においで、すみれちゃん」

 君の逃げ場所になってあげる。
 そんな、慰めにもならない言葉を残して背を向ける瑰に、すみれは震える声を上げた。瑰の謎の言葉も気になるが、すみれも一つだけどうしても言っておかなければならないことがあった。

「まっ……待ってください、瑰さん!」
「ん?」

 振り向いた瑰に、すみれは深く頭を下げた。

「お願いがあります」
「うん、なになに?」
「私が、司さんを好きだということ……絶対に、司さんには、言わないでほしいんです……」

 口ぶりからして、瑰と司が知りあいなのは間違いなかった。瑰の口からすみれの気持ちを代弁されてはならない。念には念をいれておかなければならなかった。

「……へえ」
 一瞬の間を置いて、瑰が優しげな声で囁いた。

「いいよ。わかった。約束する。そのかわりすみれちゃん」
「……はい?」
「俺のお嫁さんになってよ」

 すみれはまたも絶句した。これは笑うべきところだろうか。それとも真面目に何か抗議するところなのだろうか。会話が噛み合わなさすぎて、ついていけない。

「……あのぉ……」
「ははっ。困ってる困ってる。そんなすみれちゃんも可愛いよ」

 瑰が笑う。

「じゃーね、すみれちゃん」
 脱力したすみれを残し、瑰はなおも笑いながらひらひら手を振ったのだった。
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