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第八章 シロツメクサとクローバーの丘
01 導く光
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すみれは、司が不在の私室に入る許可を与えられていた。鞘人より発行された、使用期限の定められたカードキーを使うのである。
司の私室の前でカードを取りだし、スロットに滑らせると、ぴ、と小さな電子音が響き、ロックが解除された。
もうあれから何度か入室して馴染みになった部屋へと足を踏み入れれば、自動でドアが閉まる。
一見、押して開く重厚なマガホニー製ドアのように見えるのに、開く時は横にスライドするように開くこのドアを、司はあまり好きではないとぼやいていた。開き方に情緒がないよねえ、というのだ。
(まぁ、確かに……)
とはいえ、司の私室には重要な機密が詰め込まれているのであり、それはあらゆる手段を講じて守らねばならない。
メイドたちも、主のいない時間に勝手に入室することはないのだ。
唯一、入室許可が時間与えられているのは、鞘人のみである。
すみれにゲスト用カードキーが授けられるのは、傍からみても特別な扱いであることは間違いない。だが、司は自らが不在の時、すみれに自由に書庫の整理を任せると言いだしたのだった。
佐古や鞘人にすら触らせなかった、書庫の整理業務だった。
「……私なんかに、出来るとは思えないんだけど、ね……」
リビングを抜け、窓の無いその書庫へと足を踏み入れたすみれは、かちりと電気をつけ、毎度のことながら溜息まじりの独り言を漏らした。
鞘人ならいざ知らず、外国語など英語が少々読めるだけのすみれに、この書庫の整理は無理な話のように思う。実際、すみれはそう訴えたのだが、司は緩く笑ってカードキーをすみれの手に握らせたのだった。
『自由に掃除してくれたらいい。掃除のついでに、もしもなんとなく整理したくなったら、整理もしてくれていいんだ。気楽に読みたいものを読んでもらって構わないしね。貸し出しもするよ』と。
(図書館の清掃員だと思えばいいのかしらね……!)
とはいえ、文字が読めなくても、相当ここの書庫の本が、めちゃくちゃな配列で収まっているらしいことはわかってきたすみれである。
いや、収まっていない本も結構、あった。
至るところにワゴンがあり、そのワゴンに崩れそうな勢いで積み重なっている本も相当数あった。司はああ見えて、整理整頓は苦手らしい。
今日もこないだの清掃の続きだった。棚の埃を掃除し、本の埃を払う。
今のところ、整理というよりは清掃業務しかできていない気はするが、開き直った。
まずは掃除。それからおいおい、整理が必要な場所を司に尋ねればいい。
司はどこに何があるか、これでもわかるらしいから、配列に手を加えるならやはり本人に希望をきいたほうがいいだろう。
そろそろ夏の気配が濃くなってきている。書庫は完全に空調で湿気がコントロールされているから快適だが、確かに少し埃っぽい。
掃除のしがいがあるというものだ。
メイド服も夏服に切り替わった。パフスリーブになり、腕まくりしなくても汚れることもなくなったので、すみれは嬉々として掃除にとりかかった。
ハンディクリーナーやマイクロファイバーの布を駆使しながら、丁寧に本の埃を取って棚を拭いてゆく。
それにしても……黙々と独り、誰とも会話せずに掃除していると、甦ってくるのはこの間の瑰との会話だった。
あれきり、瑰からは連絡はない。すみれも自分からメッセージを送信しようとは思わなかった。
願わくば、もう会うことがありませんように、と思う。
瑰が嫌いなのではない。不思議と嫌いにはなれない。
だが、彼がもつ力と、背負うモノは怖い、と感じた。
彼は言った。いずれすみれは司の傍にいることが苦しくなるだろう、と。それは不吉な予言のようでもあり、呪いのようでもあり。
(……苦しいっていえば、今だって、そうだけど)
ずきりと痛む片想いの胸を押さえ、すみれは吐息する。
(多分、瑰さんはまた別のことを言ってる……はずで)
それが何か、考えるのは怖かった。
だが日数が経つにつれ、瑰との会話は徐々に夢のように現実味の薄いものになっていった。大体、瑰の目的がさっぱりわからない。
すみれはただの居候にすぎない。血縁でもなければ、遺産相続の権利があるわけでもない。瑰とて立場のある人間で、青龍家の居候ごときに拘る理由など何処にもないはずなのだ。
後で調べた。
池崎商事株式会社は、巨大な池崎グループの総合商社で、日本に君臨する五大商社のうちの一つであった。
池崎瑰こそ、そのトップだ。
(……超大金持ちって言うか……私がモノを知らなさすぎた……)
PCで検索をかけ、検索結果の圧倒的すぎるスケールに眩暈を覚え、床にへたりこんだすみれである。
青龍コンチェルンとは代々、深い閨閥関係を結んでおり、二つの勢力は複雑な血縁関係の中で互いに協力しあいながら、日本経済を牽引し続けていた。
司に拾われただけでも、およそ非現実的な出来事なのに、自分の携帯に池崎瑰のアドレスまでもが入っているなど、もはや狐か何かに化かされたのではないか、とさえ思えてくる。
(もう、瑰さんは私のことなんか忘れちゃったんじゃないかな)
書庫整理すら満足には出来ぬメイドを引きぬく暇など、彼には皆無なはずだった。
そう考え始めると、ついつい人に相談するのもなんとなく気が引けて、今に至る。
(ええい、もう忘れよう。掃除掃除!)
すみれは目の前の書棚に集中した。一冊ずつ取り出しては、管理状態を見る。虫干しが必要そうなら仕分けして、埃だけ払うものは払ってゆく。
どんな本でも、一度は中身をぱらりとめくる。八割の本は洋書で、すみれの頭には内容が入ってこない。だが、たまに滅多にない日本語の本があったりすると、面白かった。
「……っ、と……」
流れ作業を黙々とこなしつつ、一つの本を手に取り、開いた。
(あ、日本語)
あまり背表紙をきちんと見ずに中身を開いていたので、軽く驚いて、すみれはそのページに目を走らせた。
珍しいことに、それはどうやら外国の小説を訳したものだった。大体は学術書とか様々な専門書が多いのだが、たまに小説が混じる。
(なになに……? 戦争のお話、かなぁ……)
どうやらこの本はファンタジー系の物語のようだった。
主人公であろう男が、怪我で動けなくなった少年を成り行きでおぶる羽目になり、戦火の中を逃げるシーンだ。
しかし、男もまた、満身創痍で右足に深い傷を負っていた。おまけに魔術も使えない状況のようだ。足を使って逃げるしかない。
少年は、男が怪我をしていることを気にしていた。ひどく足を引きずっていて、とても自分を背負ったまま逃げおおせられるとは思えないのだろう。少年は泣いている。
すみれは思わず手を止め、文字を目で追った。
…………
………………
『もう、いいよ……ねえ……』
少年が言う。シモンはふんと鼻で笑った。
『うるせぇよ。黙ってガキはおぶわれておけ』
『でも、おじさん、逃げられないよ……』
『やってみなけりゃわからねえだろ』
『やってみなくてもわかるよ、僕を背負ってちゃ、あの川渡れないでしょ、おじさん……!』
少年が、背中で嗚咽した。
『もういいよ、おいていってよ、ねえ。魔法使えないのにあの川を越えるとか本当に無理だよ』
『うるせぇよ』
シモンは血の混じった唾を吐き捨て、ぎょろりと目を剥き、呟いた。
『もう、俺とお前は同じパンとスープを食ったんだよ。関わりあっちまった。関わっちまったんだよ!』
『だから……何……?』
『まだわかんねえのか。もうお前を見捨てるってことは、昨日お前にやったパンとスープを地べたに投げ捨てるってこった。やなこった! お前を捨てるってことはなぁ、俺が食うはずだったパンを捨てちまうってことなんだよ! わかるか坊主! このクソ地獄でなぁ、パンは命なんだよ、あぁ おめぇにそれがわかるか!』
シモンのあまりの剣幕に、少年はひっと喉をひきつらせて黙りこんだ。シモンはまた咳き込んだ。唾と共に、血が細かい飛沫となって飛び散った。足の傷はおそらく膿んでいる。肺はポンコツで、喉の奥からは使い古したふいごのような呼吸音がするし、熱の上がりかけている頭は割れるように痛んだ。
大変素敵な状況だったが、残念ながらこの戦場では、これもまた、ありふれた些細な事象にすぎない。
誰もが必死に川を渡ろうともがいていた。川岸には忌々しい怒号が溢れている。溺れた子や老人が泣き叫び、ロバが死にそうな声で嘶いていた。この人波に飲まれてしまえば、もう否応なしに川に突っ込み踏ん張るしかない。
戦争の中のさらに小さな戦争がここにあった。
渡河、という戦争。渡るも地獄、留まるも死だ。
『いいか坊主』
まるで悪鬼のようにうす汚れた顔で眼前の激しい濁流を見据えながら、シモンは言った。
『覚えとけ。もうお前は俺のパンを食ったんだ。俺の命を食いやがったんだ。お前には生き延びる義務がある』
『……』
『お前を捨てるってこたぁな、もう俺が自殺すんのとおんなじなんだよ。わかったら黙っておぶわれてろ、クソ坊主』
少年はそんなシモンをしばし見つめ、また涙を零した。
『おじさん、僕、目までおかしくなったのかな』
『あぁ?』
『僕、おじさんが、神様にみえるんだよ……』
『あぁ、可哀想になぁ、後で目医者を紹介してやるよ、そいつが生き延びていればの話だが、な』
ぶっきらぼうにシモンが吐き捨てる。だが、もう少年はシモンが怖くはなかった──
………………
……
(……よ、よかった……)
このままシモンが少年を見捨てる流れの話ではなかったことに、どことなく安堵して、すみれは吐息した。
とはいえ、これ以上読んでしまうとただの読書になってしまう。
続きが気になるが一ページで我慢しよう、と心を鬼にして本を閉じかけ──だが、すみれはふと何かが気になって手を止めた。
(……なんだろう?)
何が気になるのか、その時のすみれには解らなかった。
どことなく後ろ髪を引かれながらも、ぱたりと本を閉じたその時、ふと、エプロンに入れていた携帯が震えた。
「あ」
小さく声を上げて携帯を慌てて取り出す。新着メッセージだった。
(司さんだ……)
仕事中、携帯は本来持ち歩いてはならない決まりだった。家族からの電話も全て邸で取り次いで、メイド達を呼び出す決まりだ。
だが、今日は何故か司直々の命で、すみれは自分の携帯を持ち歩く羽目になっていた。
『必ず、今日だけは携帯を持っていて。時々メッセージを入れるから、仕事中でもすぐに返事をすること。佐古にも鞘人にも言い含めてあるから、咎められたりはしないよ。いいね? 約束』
朝の食事の後、そう言い含められたのだ。小指まで絡めて約束させられたのだから、すみれもちゃんと携帯は持っていた。
メッセージを開く。
──2件目の会議が終わったよ。ちょっと疲れちゃった。すみれは、書庫整理?
なんということはない文面だ。
司からのメッセージなら、なんだって嬉しい。
携帯に飛びつくようにして、『はい、書庫整理をしています。お仕事お疲れ様です!』と返事を打ちながらも──すみれは内心、首を傾げた。
今日に限って、メッセージをするようにわざわざ命じた割には、文面はごく当たり障りのないことばかりだった。
司の意図は、なんなのだろう。朝、理由を聞いたがはぐらかされてしまった。
だが、意図がどうあれ、主がすぐに返事をしてほしいと言うのだから、すみれは全力で答えるのみだ。すぐに送信ボタンを押す。
すると、一分ほどしてすぐにまた返事がきた。
──ありがとう。君も書庫でのんびりしていてね。あーあ。膝枕でもしてほしい気分だよ……。
くすっと思わず微笑みながら、さらに返事を考える。
すみれは迷い──思いきって書いたメッセージを送信した。
『……膝枕、今度しましょうか?』
微かに頬が熱かった。
返事は、今度は2分ほど遅れて届いた。
──言ってみるものだね。じゃぁ、今度の休みに君に膝枕をねだるから、そのつもりでね。楽しみだなぁ。
(……ほっ、ほんとに、やる気なのかな……)
返事に迷うが、出来るだけすぐに返事と言い含められている以上、時間との戦いだったりする。
気恥ずかしさと嬉しさがこみ上げて、軽くパニックになりながらも、『わかりました。がんばりますね』と何のひねりもない返事をするのが精一杯だ。
それきり、また司は忙しくなったのか、メッセージが途絶えた。
(本当に、なんなんだろう……)
内容に緊急性は何もない。楽しさのあまりうっかり忘れそうになるが、このメッセージのやり取りには、やはり司なりの意図があるはずなのだ。
すみれは釈然としない思いに首を傾げながらも、時間をかけて書棚を一つ清掃した。その後は再び夏凛と邸内の清掃を終え、つつがなく八時を迎えた。
今日はおそらくまだ司は帰らないのだろう。一人でゆっくり庭を散歩してから部屋に帰ろう、と決めて、夜の庭へと足を踏み入れたすみれは、小さな手提げかばんからステンレスのマイボトルを取りだした。
あれから、こっそり司の真似をして、水出しレモンティーを愉しんでいるすみれだ。仕事中は従業員用の冷蔵庫の中で冷やして、仕事があがった後、ティーバックを取りだしてティーハニーを少し入れれば、仄かに甘いレモンティーの出来あがりだ。
小さな照明に照らされ草花がふわりと浮かび上がる、少し幻想的な夜の庭園でベンチに座り、冷たい紅茶を飲むのが最近の癒しだった。
バラ園近くのベンチで座ってお茶を飲み始めた頃、再びエプロンのポケットで、携帯が震えた。
(司さんだ)
慌てて取り出し、メッセージを確認する。
──仕事、終わったかな。今、何処にいる? 電話したいんだけどいい?
一つ一つのセンテンスが、短い。
ふと、司は何かを急いでいるのだろうか、とすみれは感じた。この短い文面だけでは何を考えているのか察知することは難しいが──
(昼間のメッセージも、このメッセージも、最初に私が何処にいるか尋ねた気がする……)
『バラ園のベンチですよ、司さんもお疲れ様です。電話、大丈夫です』
と打ち終わり、送信しながら、すみれは再び小首を傾げた。
司はすみれの位置を確認したいのだろうか。だが、どんな理由で気になるにせよ、すみれが青龍家の敷地内に居ることは確実なのだ。邸の何処にいるのか、という細かい位置取りまで確認したいのだとしたら、その意図はなんだろう。確かに敷地は東京ドームいくつ分なのだと突っ込みたくなるほどには大きいのだが。
仕事中に携帯を持つことを命じた意図が、やはり気になった。
(後で聞いてみよう……)
釈然としないまま携帯をベンチに置いて、半分ぐらい紅茶を残したボトルのキャップを閉めながらふぅと一息ついた──その時だった。
足元に、光。
(……え?)
ふわりと光の玉のようなものが、音もなく、地面を走った。
一メートルほど離れた場所で、それが止まる。
どくんとすみれの心臓が波打った。
断じて蛍のような小さいものではない。人の拳ほどの……大きさ。
仄かなオレンジ色の光の玉に目を凝らしても、うまくその像はつかめない。
何があるのか判然としないのに──すみれは感じた。
(……みられて、る……)
明確な意思と視線を、その光の中から感じ取ることができる。あまりのことにすみれは愕然と立ちあがった。
軽く興奮で毛が逆立つ気がする。
幽霊の類なのだろうか。しかし鬼火がこんな風に地面を這ったり、ぴたりと止まったりするなど、聞いたことが無い。
そもそもすみれは霊感らしきものとは無縁に育った。
そんな自分の極めて適当な勘だから当てにはならないとはいえ、光の玉からは、別段邪悪な意思のようなものは感じなかった。
不思議と、怖くはない。そういえばこんな事は初めてではなかった気がする。以前も司と夜の庭を歩いていた時、光るものを見た気はしたのだ。
すみれを誘うように、その光は一メートルほど向こうへと遠ざかった。
「あ」
思わず二、三歩、すみれは踏み出す。それを待って、また光はするりと一メートルほど遊歩道を進む。すみれが追いかけるまで、光は止まってくれていた。
(……誘ってるの……?)
本当に何故怖くないのかが不思議だった。光の意思もすんなりと感じ取れる。
怖いといえば、このメルヘンな状況についていけている自分が若干怖いが──もはや四の五の言っていられない。
すみれはその光を追い始めた。すみれが追いつくのをきちんと待ちながら、光は夜の庭を抜け、やがて東館を回りこんでゆく。
建物の裏へ広がる広大な森へ続く道を、すみれは駆けた。
……そうして、バラ園のベンチには、携帯だけが残った。
再び携帯が鳴り、今度は電話の着信を知らせるメロディが響く。だが、それを受話すべき主は、もう傍にはいないのだった。
*
すみれが、電話に出ない。
司はその後何度か電話をかけた。だが何度かけなおしても、虚しく呼び出し音が響くだけだ。すみれの携帯は今、完全に主を失っている。
それは、司の『記憶』と一致している事象だった。
そう、すみれは今から始まる運命の数時間、携帯を失うはずなのだ。
それは遙か十七年前から定められていたことだ。
解ってはいたが、現実にすみれとの連絡手段が途絶えたと思うと、壮絶な喪失感が司を襲った。
司は、リムジンの後部座席で己を落ちつかせるべく深呼吸を繰り返した。気分が果てしなく急いてゆく。だが自分が急いたところで何もできない『傍観者』であることも、司は理解していた。
それでも平静でいるのは、無理だった。
本当によりによって今日、高速に乗る羽目になるとは──。
急な仕事がまるで司を邪魔するように連続で入ったことを怨んでも、もう状況は覆せない。
しかも邸近くのインターチェンジは普段なら空いているはずなのに、事故渋滞ときた。いかに鞘人が運転しているといっても、これでは速度は出ない。
「……っ」
返事の来ない携帯を握りしめ、司は呻いた。
久しぶりに心臓ががんがんと煩く鳴り始める。身体中が総毛立つような興奮で、喉がひきつれるように乾いた。
(ついに、始まった)
事が起こるとすれば、それは『今日』だった。
今日、何事も起こらないなら、この先一年間、おそらくもう何も起こらないのではないかと司は考えていた。
そのためにすみれに今日一日、携帯を所持させたのだ。
もうすみれの仕事は終わっている。後は散歩でもして部屋に帰るしか用事はないはずだ。今、返事が途絶えるばかりか、電話にも出ないのはタイミングとして不審すぎる。
──始まったのだ。
『時』が繋がるのは、間違いなく今夜だ。
十七年間待ち続けた運命が、今、始まりを告げている。
「鞘人」
押し殺した声で司は執事の名を呼んだ。
はい、と鞘人が答える。
「急げ」
「……」
一方、命じられた鞘人は、一瞬黙りこんだ。
高速道路で赤いテールランプが連なる事故渋滞に、リムジンは嵌り込んでいる。幸いまだ完全に止まってはいないが、ごく低速でのノロノロ運転を余儀なくされているこの状況で、急げ、という命令はひどく理不尽だ。
しかし司は、理不尽な命令を、徒にする主ではない。
「……急げ、と申されましたか、司様」
静かに鞘人は問うた。
果たして、彼の主はもう一度、はっきりと命じた。
「もう一度言う。急げ、鞘人」
「……畏まりました、司様」
その瞬間、鞘人はウィンカーを出し、ハンドルを左へ切った。本来通行が禁止されている路側帯へと、鞘人は表情ひとつ変えずにリムジンを侵入させたのだ。その動きに躊躇いはない。
迷惑なほどに車幅の広いリムジンが、信じられぬ速度で車の群れを尻目に疾駆する。それでも横に並ぶ車をこするヘマはしない鞘人だ。
「……もうじき出口とはいえ、今頃、他の車から私は物凄い勢いで怨まれ、罵倒されていると思われます」
鞘人が無表情で呟く。司は動じもせずシートに背を預け、薄く笑った。
「うん、悪いけど怨まれておくれよ。鞘人」
「畏まりました。ではこのような不届き者を雇う司様は悪の親玉ということになりますが、異論はございませんね」
「あぁ。一度悪役やってみたかったんだよねえ」
司は、目を閉じ、小さく呟いた。
「でも、生憎、倒すべき『敵』の正体が解らない、ときたよ」
「……そうですか」
意味深な主の言葉にあえて深くは訊ねず、ご安心くださいと鞘人は呟いた。
「敵の正体がどうあれ、部下に無茶ぶりするのは、悪役の特権ですよ、司様」
「……なんだい鞘人。やけに優しいね」
「今頃気付かれましたか──出口です、司様」
司は小さく頷き、緑の双眸を眇めた。
* * *
輝く光には、意思をはっきりと感じた。すみれを待ち、決して離れすぎないで、行儀よく遊歩道だけを選んで駆けてゆく。導くように先導するその輝きを追って、すみれはひたすら走った。
胸騒ぎがする。
何かがこの光の導く先に待っている。
そんな、奇妙で何の確証もない予感が身体の中に膨れ上がってゆくのだ。
(何処へ、連れていかれるの……!)
青龍家の敷地内には森林地帯もあるぐらいだから、正直働いていても、一介のメイドごときに敷地内の全てを把握するのは無理だ。裏庭の辺りは特に、用事でもなければそうそう出向くことはない。いくつかの建物が点々と存在するが、それも抜けてゆくと辺りは濃密な闇を湛え始めた。
この辺りにはもう、庭を飾っていた照明は無い。遊歩道には一応、一定間隔で街灯こそあるものの──もしもあの光が、メインの遊歩道を逸れて横道に入ったら最後、頼れる光源は、夜空を悠然と渡る月の清かな光と、追い掛ける光球が放つ自身の輝きだけだ。
今宵は幸か不幸か、満月だ。
夜八時を過ぎ、少しずつ高くあがりはじめた満月が煌々と暗い森を照らす。だがそれも生い茂る森の奥深くまでは照らせないだろう。
ついに、光の玉は右へと逸れた。
そこは小さな小道がぽっかりと暗く口をあけている。一応バラを纏わせたガーデンアーチがその入り口を飾ってあったから、人の手がまったく入っていない場所へ続くわけではない、はずだ。
しかし、夜の小路に入り込むのは怖い。
恐れていた事態に、ついにすみれの足は竦んだ。
(どうしよう……!)
光の玉が止まる。地面で、すみれを少し誘うように揺れている。
アーチの手前で、すみれは思わずポケットを探り、そして愕然とした。
……やってしまった。携帯を、紛失している。
司の私室の前でカードを取りだし、スロットに滑らせると、ぴ、と小さな電子音が響き、ロックが解除された。
もうあれから何度か入室して馴染みになった部屋へと足を踏み入れれば、自動でドアが閉まる。
一見、押して開く重厚なマガホニー製ドアのように見えるのに、開く時は横にスライドするように開くこのドアを、司はあまり好きではないとぼやいていた。開き方に情緒がないよねえ、というのだ。
(まぁ、確かに……)
とはいえ、司の私室には重要な機密が詰め込まれているのであり、それはあらゆる手段を講じて守らねばならない。
メイドたちも、主のいない時間に勝手に入室することはないのだ。
唯一、入室許可が時間与えられているのは、鞘人のみである。
すみれにゲスト用カードキーが授けられるのは、傍からみても特別な扱いであることは間違いない。だが、司は自らが不在の時、すみれに自由に書庫の整理を任せると言いだしたのだった。
佐古や鞘人にすら触らせなかった、書庫の整理業務だった。
「……私なんかに、出来るとは思えないんだけど、ね……」
リビングを抜け、窓の無いその書庫へと足を踏み入れたすみれは、かちりと電気をつけ、毎度のことながら溜息まじりの独り言を漏らした。
鞘人ならいざ知らず、外国語など英語が少々読めるだけのすみれに、この書庫の整理は無理な話のように思う。実際、すみれはそう訴えたのだが、司は緩く笑ってカードキーをすみれの手に握らせたのだった。
『自由に掃除してくれたらいい。掃除のついでに、もしもなんとなく整理したくなったら、整理もしてくれていいんだ。気楽に読みたいものを読んでもらって構わないしね。貸し出しもするよ』と。
(図書館の清掃員だと思えばいいのかしらね……!)
とはいえ、文字が読めなくても、相当ここの書庫の本が、めちゃくちゃな配列で収まっているらしいことはわかってきたすみれである。
いや、収まっていない本も結構、あった。
至るところにワゴンがあり、そのワゴンに崩れそうな勢いで積み重なっている本も相当数あった。司はああ見えて、整理整頓は苦手らしい。
今日もこないだの清掃の続きだった。棚の埃を掃除し、本の埃を払う。
今のところ、整理というよりは清掃業務しかできていない気はするが、開き直った。
まずは掃除。それからおいおい、整理が必要な場所を司に尋ねればいい。
司はどこに何があるか、これでもわかるらしいから、配列に手を加えるならやはり本人に希望をきいたほうがいいだろう。
そろそろ夏の気配が濃くなってきている。書庫は完全に空調で湿気がコントロールされているから快適だが、確かに少し埃っぽい。
掃除のしがいがあるというものだ。
メイド服も夏服に切り替わった。パフスリーブになり、腕まくりしなくても汚れることもなくなったので、すみれは嬉々として掃除にとりかかった。
ハンディクリーナーやマイクロファイバーの布を駆使しながら、丁寧に本の埃を取って棚を拭いてゆく。
それにしても……黙々と独り、誰とも会話せずに掃除していると、甦ってくるのはこの間の瑰との会話だった。
あれきり、瑰からは連絡はない。すみれも自分からメッセージを送信しようとは思わなかった。
願わくば、もう会うことがありませんように、と思う。
瑰が嫌いなのではない。不思議と嫌いにはなれない。
だが、彼がもつ力と、背負うモノは怖い、と感じた。
彼は言った。いずれすみれは司の傍にいることが苦しくなるだろう、と。それは不吉な予言のようでもあり、呪いのようでもあり。
(……苦しいっていえば、今だって、そうだけど)
ずきりと痛む片想いの胸を押さえ、すみれは吐息する。
(多分、瑰さんはまた別のことを言ってる……はずで)
それが何か、考えるのは怖かった。
だが日数が経つにつれ、瑰との会話は徐々に夢のように現実味の薄いものになっていった。大体、瑰の目的がさっぱりわからない。
すみれはただの居候にすぎない。血縁でもなければ、遺産相続の権利があるわけでもない。瑰とて立場のある人間で、青龍家の居候ごときに拘る理由など何処にもないはずなのだ。
後で調べた。
池崎商事株式会社は、巨大な池崎グループの総合商社で、日本に君臨する五大商社のうちの一つであった。
池崎瑰こそ、そのトップだ。
(……超大金持ちって言うか……私がモノを知らなさすぎた……)
PCで検索をかけ、検索結果の圧倒的すぎるスケールに眩暈を覚え、床にへたりこんだすみれである。
青龍コンチェルンとは代々、深い閨閥関係を結んでおり、二つの勢力は複雑な血縁関係の中で互いに協力しあいながら、日本経済を牽引し続けていた。
司に拾われただけでも、およそ非現実的な出来事なのに、自分の携帯に池崎瑰のアドレスまでもが入っているなど、もはや狐か何かに化かされたのではないか、とさえ思えてくる。
(もう、瑰さんは私のことなんか忘れちゃったんじゃないかな)
書庫整理すら満足には出来ぬメイドを引きぬく暇など、彼には皆無なはずだった。
そう考え始めると、ついつい人に相談するのもなんとなく気が引けて、今に至る。
(ええい、もう忘れよう。掃除掃除!)
すみれは目の前の書棚に集中した。一冊ずつ取り出しては、管理状態を見る。虫干しが必要そうなら仕分けして、埃だけ払うものは払ってゆく。
どんな本でも、一度は中身をぱらりとめくる。八割の本は洋書で、すみれの頭には内容が入ってこない。だが、たまに滅多にない日本語の本があったりすると、面白かった。
「……っ、と……」
流れ作業を黙々とこなしつつ、一つの本を手に取り、開いた。
(あ、日本語)
あまり背表紙をきちんと見ずに中身を開いていたので、軽く驚いて、すみれはそのページに目を走らせた。
珍しいことに、それはどうやら外国の小説を訳したものだった。大体は学術書とか様々な専門書が多いのだが、たまに小説が混じる。
(なになに……? 戦争のお話、かなぁ……)
どうやらこの本はファンタジー系の物語のようだった。
主人公であろう男が、怪我で動けなくなった少年を成り行きでおぶる羽目になり、戦火の中を逃げるシーンだ。
しかし、男もまた、満身創痍で右足に深い傷を負っていた。おまけに魔術も使えない状況のようだ。足を使って逃げるしかない。
少年は、男が怪我をしていることを気にしていた。ひどく足を引きずっていて、とても自分を背負ったまま逃げおおせられるとは思えないのだろう。少年は泣いている。
すみれは思わず手を止め、文字を目で追った。
…………
………………
『もう、いいよ……ねえ……』
少年が言う。シモンはふんと鼻で笑った。
『うるせぇよ。黙ってガキはおぶわれておけ』
『でも、おじさん、逃げられないよ……』
『やってみなけりゃわからねえだろ』
『やってみなくてもわかるよ、僕を背負ってちゃ、あの川渡れないでしょ、おじさん……!』
少年が、背中で嗚咽した。
『もういいよ、おいていってよ、ねえ。魔法使えないのにあの川を越えるとか本当に無理だよ』
『うるせぇよ』
シモンは血の混じった唾を吐き捨て、ぎょろりと目を剥き、呟いた。
『もう、俺とお前は同じパンとスープを食ったんだよ。関わりあっちまった。関わっちまったんだよ!』
『だから……何……?』
『まだわかんねえのか。もうお前を見捨てるってことは、昨日お前にやったパンとスープを地べたに投げ捨てるってこった。やなこった! お前を捨てるってことはなぁ、俺が食うはずだったパンを捨てちまうってことなんだよ! わかるか坊主! このクソ地獄でなぁ、パンは命なんだよ、あぁ おめぇにそれがわかるか!』
シモンのあまりの剣幕に、少年はひっと喉をひきつらせて黙りこんだ。シモンはまた咳き込んだ。唾と共に、血が細かい飛沫となって飛び散った。足の傷はおそらく膿んでいる。肺はポンコツで、喉の奥からは使い古したふいごのような呼吸音がするし、熱の上がりかけている頭は割れるように痛んだ。
大変素敵な状況だったが、残念ながらこの戦場では、これもまた、ありふれた些細な事象にすぎない。
誰もが必死に川を渡ろうともがいていた。川岸には忌々しい怒号が溢れている。溺れた子や老人が泣き叫び、ロバが死にそうな声で嘶いていた。この人波に飲まれてしまえば、もう否応なしに川に突っ込み踏ん張るしかない。
戦争の中のさらに小さな戦争がここにあった。
渡河、という戦争。渡るも地獄、留まるも死だ。
『いいか坊主』
まるで悪鬼のようにうす汚れた顔で眼前の激しい濁流を見据えながら、シモンは言った。
『覚えとけ。もうお前は俺のパンを食ったんだ。俺の命を食いやがったんだ。お前には生き延びる義務がある』
『……』
『お前を捨てるってこたぁな、もう俺が自殺すんのとおんなじなんだよ。わかったら黙っておぶわれてろ、クソ坊主』
少年はそんなシモンをしばし見つめ、また涙を零した。
『おじさん、僕、目までおかしくなったのかな』
『あぁ?』
『僕、おじさんが、神様にみえるんだよ……』
『あぁ、可哀想になぁ、後で目医者を紹介してやるよ、そいつが生き延びていればの話だが、な』
ぶっきらぼうにシモンが吐き捨てる。だが、もう少年はシモンが怖くはなかった──
………………
……
(……よ、よかった……)
このままシモンが少年を見捨てる流れの話ではなかったことに、どことなく安堵して、すみれは吐息した。
とはいえ、これ以上読んでしまうとただの読書になってしまう。
続きが気になるが一ページで我慢しよう、と心を鬼にして本を閉じかけ──だが、すみれはふと何かが気になって手を止めた。
(……なんだろう?)
何が気になるのか、その時のすみれには解らなかった。
どことなく後ろ髪を引かれながらも、ぱたりと本を閉じたその時、ふと、エプロンに入れていた携帯が震えた。
「あ」
小さく声を上げて携帯を慌てて取り出す。新着メッセージだった。
(司さんだ……)
仕事中、携帯は本来持ち歩いてはならない決まりだった。家族からの電話も全て邸で取り次いで、メイド達を呼び出す決まりだ。
だが、今日は何故か司直々の命で、すみれは自分の携帯を持ち歩く羽目になっていた。
『必ず、今日だけは携帯を持っていて。時々メッセージを入れるから、仕事中でもすぐに返事をすること。佐古にも鞘人にも言い含めてあるから、咎められたりはしないよ。いいね? 約束』
朝の食事の後、そう言い含められたのだ。小指まで絡めて約束させられたのだから、すみれもちゃんと携帯は持っていた。
メッセージを開く。
──2件目の会議が終わったよ。ちょっと疲れちゃった。すみれは、書庫整理?
なんということはない文面だ。
司からのメッセージなら、なんだって嬉しい。
携帯に飛びつくようにして、『はい、書庫整理をしています。お仕事お疲れ様です!』と返事を打ちながらも──すみれは内心、首を傾げた。
今日に限って、メッセージをするようにわざわざ命じた割には、文面はごく当たり障りのないことばかりだった。
司の意図は、なんなのだろう。朝、理由を聞いたがはぐらかされてしまった。
だが、意図がどうあれ、主がすぐに返事をしてほしいと言うのだから、すみれは全力で答えるのみだ。すぐに送信ボタンを押す。
すると、一分ほどしてすぐにまた返事がきた。
──ありがとう。君も書庫でのんびりしていてね。あーあ。膝枕でもしてほしい気分だよ……。
くすっと思わず微笑みながら、さらに返事を考える。
すみれは迷い──思いきって書いたメッセージを送信した。
『……膝枕、今度しましょうか?』
微かに頬が熱かった。
返事は、今度は2分ほど遅れて届いた。
──言ってみるものだね。じゃぁ、今度の休みに君に膝枕をねだるから、そのつもりでね。楽しみだなぁ。
(……ほっ、ほんとに、やる気なのかな……)
返事に迷うが、出来るだけすぐに返事と言い含められている以上、時間との戦いだったりする。
気恥ずかしさと嬉しさがこみ上げて、軽くパニックになりながらも、『わかりました。がんばりますね』と何のひねりもない返事をするのが精一杯だ。
それきり、また司は忙しくなったのか、メッセージが途絶えた。
(本当に、なんなんだろう……)
内容に緊急性は何もない。楽しさのあまりうっかり忘れそうになるが、このメッセージのやり取りには、やはり司なりの意図があるはずなのだ。
すみれは釈然としない思いに首を傾げながらも、時間をかけて書棚を一つ清掃した。その後は再び夏凛と邸内の清掃を終え、つつがなく八時を迎えた。
今日はおそらくまだ司は帰らないのだろう。一人でゆっくり庭を散歩してから部屋に帰ろう、と決めて、夜の庭へと足を踏み入れたすみれは、小さな手提げかばんからステンレスのマイボトルを取りだした。
あれから、こっそり司の真似をして、水出しレモンティーを愉しんでいるすみれだ。仕事中は従業員用の冷蔵庫の中で冷やして、仕事があがった後、ティーバックを取りだしてティーハニーを少し入れれば、仄かに甘いレモンティーの出来あがりだ。
小さな照明に照らされ草花がふわりと浮かび上がる、少し幻想的な夜の庭園でベンチに座り、冷たい紅茶を飲むのが最近の癒しだった。
バラ園近くのベンチで座ってお茶を飲み始めた頃、再びエプロンのポケットで、携帯が震えた。
(司さんだ)
慌てて取り出し、メッセージを確認する。
──仕事、終わったかな。今、何処にいる? 電話したいんだけどいい?
一つ一つのセンテンスが、短い。
ふと、司は何かを急いでいるのだろうか、とすみれは感じた。この短い文面だけでは何を考えているのか察知することは難しいが──
(昼間のメッセージも、このメッセージも、最初に私が何処にいるか尋ねた気がする……)
『バラ園のベンチですよ、司さんもお疲れ様です。電話、大丈夫です』
と打ち終わり、送信しながら、すみれは再び小首を傾げた。
司はすみれの位置を確認したいのだろうか。だが、どんな理由で気になるにせよ、すみれが青龍家の敷地内に居ることは確実なのだ。邸の何処にいるのか、という細かい位置取りまで確認したいのだとしたら、その意図はなんだろう。確かに敷地は東京ドームいくつ分なのだと突っ込みたくなるほどには大きいのだが。
仕事中に携帯を持つことを命じた意図が、やはり気になった。
(後で聞いてみよう……)
釈然としないまま携帯をベンチに置いて、半分ぐらい紅茶を残したボトルのキャップを閉めながらふぅと一息ついた──その時だった。
足元に、光。
(……え?)
ふわりと光の玉のようなものが、音もなく、地面を走った。
一メートルほど離れた場所で、それが止まる。
どくんとすみれの心臓が波打った。
断じて蛍のような小さいものではない。人の拳ほどの……大きさ。
仄かなオレンジ色の光の玉に目を凝らしても、うまくその像はつかめない。
何があるのか判然としないのに──すみれは感じた。
(……みられて、る……)
明確な意思と視線を、その光の中から感じ取ることができる。あまりのことにすみれは愕然と立ちあがった。
軽く興奮で毛が逆立つ気がする。
幽霊の類なのだろうか。しかし鬼火がこんな風に地面を這ったり、ぴたりと止まったりするなど、聞いたことが無い。
そもそもすみれは霊感らしきものとは無縁に育った。
そんな自分の極めて適当な勘だから当てにはならないとはいえ、光の玉からは、別段邪悪な意思のようなものは感じなかった。
不思議と、怖くはない。そういえばこんな事は初めてではなかった気がする。以前も司と夜の庭を歩いていた時、光るものを見た気はしたのだ。
すみれを誘うように、その光は一メートルほど向こうへと遠ざかった。
「あ」
思わず二、三歩、すみれは踏み出す。それを待って、また光はするりと一メートルほど遊歩道を進む。すみれが追いかけるまで、光は止まってくれていた。
(……誘ってるの……?)
本当に何故怖くないのかが不思議だった。光の意思もすんなりと感じ取れる。
怖いといえば、このメルヘンな状況についていけている自分が若干怖いが──もはや四の五の言っていられない。
すみれはその光を追い始めた。すみれが追いつくのをきちんと待ちながら、光は夜の庭を抜け、やがて東館を回りこんでゆく。
建物の裏へ広がる広大な森へ続く道を、すみれは駆けた。
……そうして、バラ園のベンチには、携帯だけが残った。
再び携帯が鳴り、今度は電話の着信を知らせるメロディが響く。だが、それを受話すべき主は、もう傍にはいないのだった。
*
すみれが、電話に出ない。
司はその後何度か電話をかけた。だが何度かけなおしても、虚しく呼び出し音が響くだけだ。すみれの携帯は今、完全に主を失っている。
それは、司の『記憶』と一致している事象だった。
そう、すみれは今から始まる運命の数時間、携帯を失うはずなのだ。
それは遙か十七年前から定められていたことだ。
解ってはいたが、現実にすみれとの連絡手段が途絶えたと思うと、壮絶な喪失感が司を襲った。
司は、リムジンの後部座席で己を落ちつかせるべく深呼吸を繰り返した。気分が果てしなく急いてゆく。だが自分が急いたところで何もできない『傍観者』であることも、司は理解していた。
それでも平静でいるのは、無理だった。
本当によりによって今日、高速に乗る羽目になるとは──。
急な仕事がまるで司を邪魔するように連続で入ったことを怨んでも、もう状況は覆せない。
しかも邸近くのインターチェンジは普段なら空いているはずなのに、事故渋滞ときた。いかに鞘人が運転しているといっても、これでは速度は出ない。
「……っ」
返事の来ない携帯を握りしめ、司は呻いた。
久しぶりに心臓ががんがんと煩く鳴り始める。身体中が総毛立つような興奮で、喉がひきつれるように乾いた。
(ついに、始まった)
事が起こるとすれば、それは『今日』だった。
今日、何事も起こらないなら、この先一年間、おそらくもう何も起こらないのではないかと司は考えていた。
そのためにすみれに今日一日、携帯を所持させたのだ。
もうすみれの仕事は終わっている。後は散歩でもして部屋に帰るしか用事はないはずだ。今、返事が途絶えるばかりか、電話にも出ないのはタイミングとして不審すぎる。
──始まったのだ。
『時』が繋がるのは、間違いなく今夜だ。
十七年間待ち続けた運命が、今、始まりを告げている。
「鞘人」
押し殺した声で司は執事の名を呼んだ。
はい、と鞘人が答える。
「急げ」
「……」
一方、命じられた鞘人は、一瞬黙りこんだ。
高速道路で赤いテールランプが連なる事故渋滞に、リムジンは嵌り込んでいる。幸いまだ完全に止まってはいないが、ごく低速でのノロノロ運転を余儀なくされているこの状況で、急げ、という命令はひどく理不尽だ。
しかし司は、理不尽な命令を、徒にする主ではない。
「……急げ、と申されましたか、司様」
静かに鞘人は問うた。
果たして、彼の主はもう一度、はっきりと命じた。
「もう一度言う。急げ、鞘人」
「……畏まりました、司様」
その瞬間、鞘人はウィンカーを出し、ハンドルを左へ切った。本来通行が禁止されている路側帯へと、鞘人は表情ひとつ変えずにリムジンを侵入させたのだ。その動きに躊躇いはない。
迷惑なほどに車幅の広いリムジンが、信じられぬ速度で車の群れを尻目に疾駆する。それでも横に並ぶ車をこするヘマはしない鞘人だ。
「……もうじき出口とはいえ、今頃、他の車から私は物凄い勢いで怨まれ、罵倒されていると思われます」
鞘人が無表情で呟く。司は動じもせずシートに背を預け、薄く笑った。
「うん、悪いけど怨まれておくれよ。鞘人」
「畏まりました。ではこのような不届き者を雇う司様は悪の親玉ということになりますが、異論はございませんね」
「あぁ。一度悪役やってみたかったんだよねえ」
司は、目を閉じ、小さく呟いた。
「でも、生憎、倒すべき『敵』の正体が解らない、ときたよ」
「……そうですか」
意味深な主の言葉にあえて深くは訊ねず、ご安心くださいと鞘人は呟いた。
「敵の正体がどうあれ、部下に無茶ぶりするのは、悪役の特権ですよ、司様」
「……なんだい鞘人。やけに優しいね」
「今頃気付かれましたか──出口です、司様」
司は小さく頷き、緑の双眸を眇めた。
* * *
輝く光には、意思をはっきりと感じた。すみれを待ち、決して離れすぎないで、行儀よく遊歩道だけを選んで駆けてゆく。導くように先導するその輝きを追って、すみれはひたすら走った。
胸騒ぎがする。
何かがこの光の導く先に待っている。
そんな、奇妙で何の確証もない予感が身体の中に膨れ上がってゆくのだ。
(何処へ、連れていかれるの……!)
青龍家の敷地内には森林地帯もあるぐらいだから、正直働いていても、一介のメイドごときに敷地内の全てを把握するのは無理だ。裏庭の辺りは特に、用事でもなければそうそう出向くことはない。いくつかの建物が点々と存在するが、それも抜けてゆくと辺りは濃密な闇を湛え始めた。
この辺りにはもう、庭を飾っていた照明は無い。遊歩道には一応、一定間隔で街灯こそあるものの──もしもあの光が、メインの遊歩道を逸れて横道に入ったら最後、頼れる光源は、夜空を悠然と渡る月の清かな光と、追い掛ける光球が放つ自身の輝きだけだ。
今宵は幸か不幸か、満月だ。
夜八時を過ぎ、少しずつ高くあがりはじめた満月が煌々と暗い森を照らす。だがそれも生い茂る森の奥深くまでは照らせないだろう。
ついに、光の玉は右へと逸れた。
そこは小さな小道がぽっかりと暗く口をあけている。一応バラを纏わせたガーデンアーチがその入り口を飾ってあったから、人の手がまったく入っていない場所へ続くわけではない、はずだ。
しかし、夜の小路に入り込むのは怖い。
恐れていた事態に、ついにすみれの足は竦んだ。
(どうしよう……!)
光の玉が止まる。地面で、すみれを少し誘うように揺れている。
アーチの手前で、すみれは思わずポケットを探り、そして愕然とした。
……やってしまった。携帯を、紛失している。
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