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第十章 シロツメクサの涙

02 幸運のおまじない

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 それは、司の折れそうな心に、まっすぐに斬り込む言葉だった。
 少年・司は愕然と瞳を瞠り、目の前のメイドを見つめた。
 空気孔の微かな光を背に、すみれと名乗ったメイド姿の女が瞳を細める。
 司の閉ざされた胸に光を灯すように──暗闇の中、清かな笑みが咲いた。

「司さんなら、出来るよ。そんな人に、きっとなれます。私、知ってます。困っている人に手を差し伸べられる素晴らしい人に、司さんはきっとなれる」
「……すみ、れ……」
「お父様やお爺様がなさったことはもう変えられないでしょう。でも、司さんの時代になれば、もっともっと、いろいろ変えていくことができるんじゃないでしょうか」
「……あ……」

 思わず、司は息を呑んだ。心臓が弾んだ。
 未来を、すみれの言葉が今確実に彩り、広げてみせた。
 手のうちからふわりと鳩でも出すように、そこに在ったものを司に気付かせたのだ。
 この手に、自由は確かに在るのだ。だが司の知を持ってしても、不思議なほどに気付けなかったことだった。
 仔猫一匹すら助けられなかった自分の『不自由』など、覚悟さえあればいつでも打ち破れるものではなかったか。

 閉塞した環境の中で、弱音を打ち明ける人間すらいなかった司を、
 この不思議な天使が──優しく導き、囁いた。

 貴方は、生まれ変われるよ、と。

「末端で泣く人が、できるだけ少なくなるような、そんな組織を、司さんが作ってください。そんな司さんに、いつか逢いたいから…。だから……私、頑張ってきますね」
「……すみれ……」

 すみれがまた、微笑んだ。
 可憐でしなやかな──そう、シロツメクサの花が綻ぶように。

「……行きます。少し、待っていて。必ず帰ります」

 こつん……雨に濡れた額が、司の額に優しく押し当てられる。
 先ほどまで口うつしまで受けていたはずなのに、改めて近づいたすみれの唇に、司の心臓がとくんと鳴った。
一瞬、またあの優しい唇に口づけられるかと思った。だが、額を押しあてただけで、すみれはゆっくりと離れていった。

「……幸運の、おまじないですよ」

 言い残し──すみれはするりと雨の降りしきる戸外へと、出て行った。
 助けを呼ぶこの判断が、吉と出るか、凶と出るか。
 残された司は、ぐったりと床に寝ころんだまま、ただ静かに涙を零した。

(……くそっ……震えてるくせに……なんで君は……!)

 最後に額を押しつけたすみれの、掌。
 司の頬にそっと添えられていたその手は、はっきりと震えていた。寒さのせいだけではあるまい。
 必死で司を不安にさせまいと健気に微笑みながらも、あの手だけは正直だった。
 そうだ、殺人鬼紛いの男がうろついているかもしれない戸外へ飛び出すことが、怖くないはずがない。
 例え年上であっても、すみれの肩はあんなにも細かったのに。

(すみれ──君は、誰なの……?)

 華奢なくせに、やたら頑張り屋で。
 司のために何故か必死になって──そんな様は、まるで天からいきなり遣わされた新米天使さながらだ。
けれどすみれには翼はない。
 必死で身体を張って、司を救おうとこの地上でもがく彼女は全身雨に打たれ、靴すら穿かぬ足はもう泥と血に塗れていた。
 無残で、無様で、
 なのにどうしてあんなにも美しい?

(帰ってきてよ、すみれ。絶対だ……絶対だよ……!)

 押しつぶされそうな不安と、身体の痛みと熱の苦しみがないまぜになって、司は吐きそうになる。
 生理的には最悪なコンディションの中で、ただただ、すみれの言葉だけが鮮やかに脳裏に輝いて──太陽のように司の胸を照らした。
 もう、この輝きを、一生忘れることはないだろう。
 この日が己の分岐点だと、司は不意に気付いた。

 今、心から強く、生きたいと思う。

 これほどに生を願ったことは未だかつて無い。弱い自分を、もうこのままにはしたくなかった。
 生きるとはなんだろう。先人たちが踏みにじった涙に詫びてまっすぐ前を向く為に、出来ることはなんだろう。
 意思を貫く痛みを超え続ける。その繰り返しが生ならば、もう俯いていてはいけないのだ。
 花の名を持つ可憐な少女が、
 救えなかった仔猫の小さな鳴き声が──教えてくれたではないか。

「……生き延びるさ」
 震える息の下、司はひっそりと呻いた。
「生き延びて……ボクは変わるよ……変えて見せる、から……!」
 だから戻ってくれと、ひたすらに司は祈った。

(だって、ちゃんと君にありがとうって、まだ、言っていない……)

 司を見捨てることは、自分の命を今ここに捨てていくのと同じだと、そう告げたすみれの瞳に嘘はなかった。
 この先、どれほどの出会いを重ねようと、そこまでの言葉を現実に行為として示せる者がどれほどいるだろう?
 この奇跡のような出会いには、必ず理由があるはずだった。
 それを知らなければいけない。なんとしてでも、だ。

 ……すみれと触れた額が熱いのは、もう、熱のせいだけではない。

                    *   *   *

 左右を確認する。
 豪雨の中、視界は極めて悪い。おそらくは誰もいない。そう思って走り出す以外なかった。
 地面を蹴った。
 雨の中、冷たいアスファルトを二―ソックスだけの足で駆け抜けてゆく。もうとっくにそれは破れていた。
 すみれの心臓が恐怖で躍りだす。目も開けていられない豪雨、聴覚を麻痺させる雨音。

 ──背後から男たちが迫ったとしても恐らく気付けない。

 だからこそ、もう振り向かなかった。振り向く時間さえ惜しい。
 賽は、投げられたのだ。
 電話ボックスは灯りがついていて残酷なほどに明るい。すみれは歯噛みした。ずっと光が恋しかったくせに、今はその光の中に飛び込むのがひどく恐ろしい。
 周囲は雨のもたらす深い闇だ。電話ボックスだけが煌々と輝いていて、中に入るすみれは丸見えだ。
 こちらからは何も──見えない。
 それでもすみれに躊躇いは無かった。ドアを掴み乱暴に開く。中に入ると、雨がふわりと途切れ、生温かい空気に身体が包まれた。

 手を開く。左の掌に書きこんだ番号を、震える指で必死に叩いた。
 コールはゆっくりと、もどかしいほどに三回。

『はい。青龍でございます』

 静かな、初老の男の声が響く。

「司さんを保護しました。私は晴野すみれと言います。犯人から少し離れた工場の中の小さな小屋に隠れています。助けてください」

 前置きもなく告げた。受話機の向こうでどっとざわめきが走る。
 場所を確認された。場所は解らないので工場名で探してくださいと告げる。

「それと、救急車も。司さんが高熱を出して苦しんでいます。犯人から何度か頭とわき腹に暴行をうけています。早く……」

 声が、こみ上げる嗚咽で微かに震えた。

「早く、助けてあげて……!」

 受話機はそのまま邸にいた警察の指示に従い、四百円全てを突っ込んで、フックにかけずに放置した。逆探知がかかっている。
 すみれは祈るような思いで電話ボックスから離脱した。叩きつける豪雨の中へ、再び身を躍らせる。
 全速力で、駆けた。身体中が歓喜で総毛立った。
 助けを呼べた。希望は明日へと……十七年後の未来へと、今確実に繋がったのだ。

(クローバーの精、あなたが幸運を司る精霊だと言うなら、守って……守ってよ! 今、守って!)

 歯を食いしばり、すみれは最後の力を使い疾走した。
 工場の通用門をあけ──すみれはついに、再び内側から閂を閉めた。
 追っ手は、無い。やった。やりとげた。

「……っ、く……うぅ……ぁ……っ」

 壁にそのまま寄りかかり、すみれは荒い呼吸を繰り返しながら、再び発作のように激しく泣きじゃくった。
 緊張の糸が切れて、安堵が涙腺を決壊させてしまう。それでもいいと、すみれは自分を少しだけ許した。
 意味のある存在になれた今ならば、
 これぐらい、赦されるだろうから──。

                    *   *   *

 すみれが、戻ってきた。
 司は細目を開いて、あぁ、と吐息する。身体中を歓喜が満たした。嬉しくて、涙を堪えるのが、つらい。

「ね。戻ってきましたよ。もう大丈夫。みんながここを見つけて、助けを寄こしてくれますよ」
「……うん」

 司はぐらぐらと眩暈でふらつくのを堪え、身体を起こそうと力を込めた。だが悲しいかな、自力ではやはり上半身すら起こせない。
 すみれが慌てて、そんな司を支えてくれた。雨に濡れそぼったすみれは、芯まで冷えているようだった。
 せめて温めてやりたい。
 だが、今の司にはそんな力もなかった。自分もずぶ濡れだ。

「……っ、ぁ」

 すみれが跪いた姿勢を保てず、ぐらりとその場にへたりこんだ。
 司を抱いたまま、背後の土嚢に力なく寄りかかる。
 どうやら、すみれもまた、力を使い果たしてしまったようだった。

「ごめ…なさい……私も……力が、抜けちゃった……」
「うん……」

 司もぐったりとすみれの胸に身体を預けたまま、微かに頬を紅潮させた。
 赤ん坊ではないのだ。母ではない女性の胸のふくらみに、こうして触れて平気でいられるほど子供ではない。
 だがすみれは、全くそのあたりは気にしていないようだった。さすがに口うつしで紅茶を与えてくれた時は、少し恥ずかしそうにしていた気がするが、胸に司を抱きしめることにはほとんど躊躇いがないようだ。
 司はメイド服越しに、すみれの鼓動を感じた。まだ全力疾走の余韻が残っているのか、その鼓動は少し早いけれど。

「お茶、飲みますか……?」

 ゆったりと司の後頭部を撫でながら、掠れ声ですみれが問う。
 その穏やかな響きに、束の間の安息が訪れたことを司は悟った。もう、後は救助を待てばいいのだ……。
 深い安心がこみ上げると、ほんの少し、全身状態は落ちついてきた気がした。吐き気も少し遠ざかる。精神的なものも大きかったのだろう。

「ううん……すみれ、それより……言わせて」
 司が顔をあげる。
「……ありがとう、すみれ」
「……」

 少し間があいて、すみれがふわりと笑んだ。

「……よかった。司さんに恩返し、できたかな……少しは」
「恩返し……?」
「ふふ。こちらの話です。もう、ニワトリが先か、卵が先か、わかんなくなってきましたけど、ね……」

 司をさらに抱きしめ、すみれが嬉しそうに謎めいたことを囁く。
 胸の甘いふくらみに押し付けられたまま、司は気恥ずかしさを噛みしめた。

(ちょっと……すみれってば、本当、無防備すぎだよ……)

 少し悔しくなる。
 子供扱いとは、まさにこのことを言うのだ。
 弛緩して安心しきっているすみれの身体が告げている。まだ、君は警戒すべき『男』ではないのだ、と。

「……すみれこそ、お茶飲みなよ……喉、乾いたでしょ……」

 このままこうしていたいのに、胸のふくらみから逃れたい気持ちも高まって複雑な思いに囚われる。恥ずかしさを紛らわすように囁いた司の言葉に、だが、すみれが優しげな笑みを零した。

「私は、いいんです。司さんが飲みたいだけ、飲んでね」
「なん、で……良くないよ……」
「いいんです。……多分、もうすぐ、お別れだから」
「え」

 ぎょっとして、司は顔を上げた。眩暈で視野がぐらつく中、不安が急に突き上げた。
 お別れ、とすみれは言った。
 何故だ。すみれだって満身創痍だ。一緒に病院にいくのが当然だし、警察にも事情説明が必要だし、そもそも助けてくれたお礼もしなければいけないのに。

「一緒にきてよ、すみれ。助けてくれたんだ、ちゃんと……お礼、したいし、それに……っ」
 君が何処の誰なのか、きちんと知りたいのに。
「……」
 すみれは、必死に喘ぎながら訴える司を見つめて──困ったように微笑んだ。

「また、逢えますよ、司さん」
「いや、だ……何、言ってるんだよっ……今、一緒に、きてよ……」
「……」

 もう、すみれは言葉を返さなかった。ただ静かに微笑んで、司の頭をぽんぽんと宥めるように撫でてくる。
 その仕草が何よりもはっきりと語っていた。別れの時が来たのだ、と。
 不思議に、司にもそれは理解できた。
 本当に『別れ』は来るのだ、もうじき。
 それはきっと、すみれが不思議と司のことに詳しかったり、メイド服を着ていたり、突然雨の工場地帯に助けにきてくれたりしたことと、決して……無関係ではあるまい。
 突然現れたメイドは、やはり突然どこかに消えてしまうのかもしれなかった。
 司は言いようのないやりきれなさに襲われ、息を詰まらせた。
 何なんだ、このひとは。突然現れて、他人の子供のために危険を冒して身体を張って助け出して。口うつしで甘い紅茶まで飲ませて膝枕までして甘やかしておいて。
 なのに礼もさせず消える気なのか。
 そんなの許さない……!

(甘い紅茶なんか、今まで、絶対飲んだりしなかったのに)

 あまつさえ、司をこんな風に抱きしめたりして。
 ……こんなにも無防備で、すみれこそ大丈夫なのだろうか。そのうちコロっと悪い男に騙されたりしそうじゃないか。
 もやもやした気持ちを持て余して彼女を見上げれば、やっぱり優しくすみれが微笑む。
 女性を見てこんな風に身体が熱くざわつくのは、初めてだった。

(なんだよ、もう……)

 こんな可愛い顔して。頼りない華奢な躯のくせに。
 それでもボクをおぶって歩いて。怖かっただろうに一人で助けを求めに塀の外まで出て命を賭けたりして。
 なんだよ。もう。本当、なんなんだよ。

「ねえ、すみれは……誰なの」
「……」
「なんで、僕を、知ってるの」
「……うーん」

 すみれがまた、困ったように小首を傾げ、微笑んだ。

「なんで、と言われると……うーん……司さんがね、私を見つけてくれたから。だから、私も司さんを知っているの」

 あいまいな、だけど、不思議と誠実な響きで答える。

「……意味が、わからないよ……」
「いつか、わかるよ」

 透明な眼差しで歌うように囁く甘い声が、熱に浮かされた司の五感へ切なく響いた。
 この人を、もう手放したくない。なのに悲しい予感は強まるばかりだ。
 もうすぐ──本当にお別れなのだ。

「……好きな人、いるの? すみれ」

 あぁもう。
 司は内心舌うちした。自分は一体何を尋ねているんだろう。
 熱のせいか、己の感情をうまく制御できない。

「へ?」
「だから。好きな人いるのって聞いてるんだよっ……すみれは、その……ちょっと、人が良すぎる……へんな奴に、つかまりそうで、心配」

 訊かれてもいないのに、こっぱずかしい質問をした理由を弁解しながら、司は荒い息を継いだ。
 はぐらかされるのかもしれないと思った。所詮すみれからすれば、こんなのはガキの戯言のはずだった。大体当の自分が不審者にとっ捕まった立場で言う台詞ではないことは、百も承知だった。

 だがその瞬間、すみれはぐっと瞳を見開き──息を呑んだ。
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