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第十四章 シロツメクサと主の愛
01 君を、愛してる
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邸は涼しかった。
元々この辺りは、東京から最も近い隠れた避暑地という扱いであるし、この邸だって避暑のために立てられた青龍家の別荘だったのだから当たり前といえばそうだが──停電でエアコンの効かない状況でも、涼しさを感じる。9月半ばといえば、都市部ではまだまだ夏だが、ここはもう夜になれば秋の気配を感じさせる気候だった。
ましてやどんなに戸締りしていても、こんな暴風の中では、古い邸の窓の隙間から風が吹き込んでくる。邸内の空気も幸か不幸か常に動いていて、湿気は含んでいたが、息苦しいというほどでもなかった。
「あー……さっぱりした。ごめんね、こんな格好でご飯食べることになっちゃって」
濃紺のパジャマに着替えた司が、懐中電灯片手に少し申し訳なさそうにティールームへと入ってきた。停電のせいでドライヤーも使えないので、タオルドライしただけの髪はまだ微かに濡れているようだ。
それでも、この邸の風呂がボイラー式であったことが幸いした。温かな湯を使えただけでも良しとしなければなるまい。
結局、車から降りて玄関に飛び込んでくるまでの間に、取り返しがつかないほどずぶ濡れになった司は、着替えざるを得なくなり、今に至る。鞘人が寄こしてくれた荷物には、明日の分のスーツが新品で一揃え入っていたが、あとはパジャマだけだったのだから、これを着るしか選択肢は無かった。
「おかえりなさい、司さん」
先に司にシャワーを浴びさせ、その間に食事の用意をしていたすみれは、平静を取り繕ろうべく微笑んで見せたものの、内心は叫びだしてしまいそうだった。
風呂上がりで濡れ髪、パジャマ姿の司なんて、こんな機会でもなければそうそう見られなかっただろう。
(……つ、司さん、色っぽい……)
涼しげに開いた首元から、司の鎖骨が覗く。美形は美形でも、どちらかといえば童顔の司だが、鎖骨が露わになると、不思議にそこから雄の色気が香り立つ気がして、すみれは落ちつかなくなった。
「こんな状況ですし、二人だけですから、気になさらないでくださいね」
……などと言いながら、全身で意識しているのはすみれの方だ。
二人でここに泊まることになるなんて、未だに信じられないでいたけれど、司のパジャマ姿を見ると不意に実感した。
本当に、今夜はここで二人きりなのだ……。
(それにしても鞘人さん……なんで……)
疑問は尽きない。
司は、鞘人が謀ったと言った。
何一つ細かいことは説明してはくれなかったが、最初に飛び込んできた時、彼は確かにすみれの怪我を気にしていた。まるで、すみれが怪我をしていると思いこんでいたかのように。
それも鞘人が司に吹き込んだ嘘ゆえだったのだとすれば、一体、鞘人は何を考えて司とすみれをここに置き去りにしたのだろう。
(なんとなくだけど、鞘人さんには私の司さんへの気持ち、バレてる気がするんだよね……)
花瓶を割った時のことを思い出すと、そんな気がしてくる。
だとすればこれは、鞘人がすみれへ気を利かせてくれたサプライズなのだろうか。
(……いやいやいや。それはない。それはないよ……)
恥ずかしい上に自分に限りなく都合のよいその妄想を、すみれはぶんぶんと首を振って追いだした。司に想い人がいることを、鞘人は知っている。その鞘人がすみれと司をどうにかしようとするわけがない。
それに、すみれは現在、謹慎中も同然だったはずだ。
(じゃぁ、なんで?)
……理由を考えることを、一旦すみれは放棄した。
いくら考えても鞘人の思惑を正確に察するなど無理なことだ。それに、彼の意図はわからないにせよ、司と二人きりの時間が持てたことをこっそり嬉しく思ってしまう自分がいる。
だが、喜んでばかりはいられなかった。
本当に情けないが、瑰にも鞘人にも悟られてしまうほど司が好きな気持ちがダダ漏れだというのなら、当然司にはもっと悟られていてもおかしくは無かった。
ただでさえ司は勘の鋭い男だし、すみれは想いが顔に出やすい。自覚はある。
(だめだ……浮かれてちゃ、だめだよ……)
己に必死で言い聞かせ、すみれは司を席に座らせた。
ダイニングのテーブルは、二人きりで使うには大きすぎた。司の提案で、こじんまりとしたティールームで小さいティーテーブルを使って食事をすることにしたのだ。
すみれは執事ではないので、まだ食事の給仕作法についてはよくわからない。普段の食事で見せる鞘人たちの動きを思い出しながら、ぎこちなくワインは赤白どちらがいいのか尋ねると、司は苦笑した。
「いいんだよ、すみれ。自分でやるから君も気楽に座って? 一緒に食べよう」
「そんな。つ、注がせてください……鞘人さんのように上手くは出来ませんけど……でも、させてください……!」
「うーん。じゃ、遠慮なく注いでもらうけど」
すみれを見上げ、艶やかに司が微笑む。
「その代わり、一緒に食べるって約束すること。……ね?」
(あぁ……すごく、久しぶり……)
ふと、すみれは司の微笑みに胸を衝かれた。
今日の司は、すみれが過去に飛ぶ以前の司を思い出させた。優しくいつも微笑んでくれた司と、お互い何かを探り合うこともなく手を繋いで夜の庭を散歩していたあの頃の空気が、流れている。
「お願いだよ。一緒に仲良く座って食べて……すみれ」
労わるように優しく告げられると、鼻の奥がつんと疼いた。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
「うん」
頷く司も嬉しそうだ。
司の指示に従って白を注ぎ、向かいの席に座る。すると司が今度はわざわざ立ちあがり、酒の飲めないすみれの為に用意されていたノンアルコールワインを、フルートグラスへと優雅に注ぎ入れてくれた。
スパークリングワインのように、細かな泡が金色の糸を引くように美しく立ち上る。
「お嬢様には、これを」
瓶を片手に微笑む司は、パジャマ姿にも関わらずどこかソムリエのように様になっている。
お嬢様、なんて司から呼ばれ、思わずすみれは頬を染めた。停電で頬の色が悟られにくいことにこっそり感謝してしまう。
照明は、グラスの水に浮かべたいくつものキャンドルだけだ。
怖がりのすみれは、テーブルだけでなく室内のいたるところにフローティングキャンドルを配置した。電気とは違い、あたたかで柔らかい光が淡く揺れる中、嵐の轟音がこれでもかといわんばかりに邸全体を包んでいるのに──それでもここはひどく静かに思えた。
穏やかな時間は、すみれが切に求めていた優しさに満ちていて……司が来るまでは怖くて仕方が無かった風の音も、キャンドルの光が届かない場所の暗がりも、今この瞬間、全然怖くは無かった。
「じゃぁ、乾杯」
「乾杯……」
澄んだ音を立てて触れ合うグラスに、キャンドルの光が揺れた。
まるで夢のような光景だった。何処か遠くに、司と共に旅行にでも来たような錯覚を覚える。
それでも、鞘人が作ってくれたのであろうクラブサンドは、目の覚めるような美味しさだった。これは紛れもなく現実だ。
「美味しい……」
呟いて思わず司を見れば、司が嬉しそうに微笑んでいた。
「うん。美味しいね。君と食べてるから、もっと美味しい」
「……っ」
瞬間、嬉しさでふわりと耳までが熱を帯びた気がした。
「し、静かですね」
「……」
気恥ずかしさを誤魔化したくてすみれが思わず口走れば、司が少し目を瞠り、無言のままに優しい笑みを濃くした。
「……あ、えっと」
言った瞬間にすみれは気付いた。外は嵐だ。この轟音の中で何故、静かですねなどと馬鹿みたいなことを口走ってしまったのだろう。
サンドイッチを手に持ったまま、恥ずかしくてますます真っ赤になってしまったすみれを見て、司がふと囁いた。
「うん。でもわかるよ。静かだよね。……誰も、邪魔する者がいない」
「──」
とくんと心臓が弾んだ。いつのまにか、司は真顔だ。
「こんな時間が、ずっと欲しかったよ、俺は」
「……司、さん……」
「君と……二人きりで、過ごしたかった」
キャンドルに煌めく司の黒眸が、一瞬、切なげな熱を帯びたような気がして、すみれの息を詰まらせた。
返答に困る。もう胸が苦しいぐらいに高鳴っていて、煩いほどだ。
甘い台詞は全部、『家族』だからだ。もう何度目になるかわからないそんな戒めを必死に胸の中で唱えながらも、甘酸っぱい気持ちがこみ上げるのを抑えきれない。
司の一言一言で、すみれはすぐに嬉しくなってしまう。けれどもう、素直な気持ちのままに嬉しさに身を任せていてはいけないのだ。
(多分、すぐ、顔に出ちゃうから……だめだよ……)
頬が緩みそうになるのを、必死に唇を引き締めて堪える。
改めて精霊の課した条件は厳しい、とすみれは思った。告白しないことについては言葉さえ気をつけていればいいけれど、堪えても堪えても滲んでしまう想いを悟られないようにするのは、実はもしかしたらひどく困難なことかもしれないのだ。
司はそんなすみれの心を知ってか知らずか──グラスを優美に傾け、どこか悪戯っぽく笑った。
「覚えてる? 最初に君と二人きりの夜を過ごしたのも、嵐の日だったよ。俺たちはよくよく嵐と縁があるらしい」
「あ……」
不意にあの夜が思い出され、すみれははっと息を呑んだ。
「あの日、俺も思ってた。廃屋みたいな小屋の中で君と二人で過ごした最後の時間……外は暴風雨なのにね。不思議に静かだと感じたよ。激しい雨音につつまれていると、耳も麻痺してね。君の存在だけを、ひたすらに感じてた」
「……わたしも、です」
こくこくとすみれも頷いた。
懐かしいその感覚は、すみれにとってはわずか数週間前のことだ。忘れるはずもない。
幼い司を胸に抱いて過ごした最後の穏やかな時間は、それほど長くはなかったはずなのに、とても濃密で──そして限りなく静かな一時だった。
世界の全てが、二人のために息をひそめていた。
「あの時はいろいろ辛い夜だったけれど……今はちょっと、楽しい」
「うん……そうですね」
司と目を見合わせて、すみれは微笑んだ。
「ちょっと、わくわくしますね」
「うん。君と二人だと、余計にね」
秘密を共有するように微笑み合えば、ますます鼓動が走り出すのを止められなかった。
幸せな晩餐の時間は、お互いが抱える不安の核心には触れぬままに過ぎていった。この優しいひとときが、吹きこむ風に掻き消されてしまいそうになるのを、恐れるように。
* * *
すみれが懐中電灯で足元を照らし、司が食器を置いたワゴンを押して食堂まで戻り、二人で流しへと置いた。
食器を洗うのは明日の朝に回すことにした。どうせサンドイッチと付け合わせを食べただけで大して汚れてもいない。万が一食器を割ったりしたら危ないから、細かいことは朝の光の中で行ったほうがいいとの司の言葉に従ったのだ。
「こんなことまでさせてすみません……」
恐縮してすみれが謝ると、何を言ってるのかなぁこの子は、と司が小さく苦笑した。
「二人しかいないんだから、これぐらい二人で協力して当たり前だよ、すみれ」
「……ありがとうございます」
「ん」
とりあえず荷物を置いてあるリビングまで戻るまでの間も、司は当たり前のようにすみれと手を繋いでくれた。
繋がるぬくもりに、心から安堵する。
司がいれば、闇に揺れる嵐の邸も怖くはなかった。
「……まだ、おさまらないね」
廊下の突き当たりにある小さな窓へと、ちらりと司が目をやる。
恐る恐る窓に近寄って、すみれは外を確かめた。
外に照明があるわけでなし、ほぼ何も見えない。窓に叩きつける雨だけが滝のように流れ落ちてゆくだけだ。灯りを持つ自分と司だけが鏡のようにそこには映っている。
「今夜はずっとこんな調子かもしれませんね」
呟いて振り向こうとした時、背後の司が動くのが、窓に映る影でわかった。
そのまま静かに、司がすみれの背後から腕を回した。ふわりと腕の中に囚われ、肩を深く抱き竦められる。
(……!)
項に、司の吐息が触れた。
「すみれ……」
吐息だけで、司が名を呼んだ。
「……っ」
刹那、甘い痺れがすみれの背を伝い落ちた。急に自分の耳元でがんがんと脈が鳴り始める。すみれは振り向く事も出来ずに、突然の司の抱擁をただ受け止めた。
「つかさ、さん……?」
「……うん」
司はそれきり、黙っていた。腕の力も強くはない。すみれの右頬に自らの左頬をそっと押し当てるようにして、ひっそりと呼吸を繰り返している。
逃げようと思えば逃げられる柔らかい抱擁を、だが、すみれは逃げずに受け止め続けていた。
どうして、とか、何故、とか。
問えばこの距離が壊れてしまいそうで、すみれはただされるがままだった。息をひそめ、司の吐息だけをひたすらに感じながら、胸の奥をうれしさに震わせることしかできない。
今、司に、抱きしめられている。
気が遠くなるほど、嬉しい。どうにかなってしまいそうなほど、恥ずかしい。自分も汗を流した後だったら良かったのにといたたまれなくなった。
薄着の司からは、体温をいつもより深く感じられる気がする。もう、頭がじんと痺れて、何も考えられない……。
それは、一瞬だったのだろうか。
それとも気が遠くなるほど長い時間だったのだろうか。
二人、身を寄せたまま互いの震える吐息を感じあう、張り詰めた沈黙を──司がやがて破った。
「……逃げないんだね」
「……!」
ぴくりと身体を震わせたすみれの耳元で、司が囁いた。
「もう少しだけ、このままで」
「……」
すみれは耳まで赤く染めたまま、動けなかった。熱っぽく懇願されれば尚のことだ。
この距離は危険だった。司の腕を振りほどかないだけで、自分の想いを気取られてしまいかねないと今更ながら気付いたのに、それでも振りほどけないのだ。
もう少しこのままで、いやずっとこうしていて欲しいなんて、言えない……。
「……君の、人生の負担にはなりたくない。君が、大切だから」
ひっそりと、司が吐息だけで再び囁く。
その切ない響きに、甘く胸を掻き乱され、すみれは微かに喘いだ。
息が、苦しい。
「だから、ね。君がもし、俺を守るために自分の大事な何かを懸けて精霊と取引をしたとするなら、そんなものは、破棄してしまっていい」
「……」
すみれはゆるゆると頭を横に振って見せた。
縋るものが欲しくなる。思わず、自分の鎖骨のあたりに回されている司の腕を右手で縋るように掴んで、ようやく言った。
「でき、ません……」
震える声で答えれば、回された司の腕に不意に力が篭った。
「……どうしても?」
「どうしても、です」
「俺が、主として命令しても?」
司の声音が、ぐっと低くなる。司から溢れだす熱をそこに感じて、下肢の力が抜けてしまいそうになった。
(駄目……)
普段はひどく優しいくせに、そして俺の命令などお飾りだよとも言っておきながら──すみれを腕で囲ってこんな台詞を熱く囁く司は、本当に狡い。未だかつて感じたことのない陶酔感と絶望が同時に押し寄せると同時に、すみれはぞくりと甘い痺れを身体の奥に感じて泣きたくなった。
ひたすらに硬く身を竦め、すみれはきつく瞳を閉じた。
「それでも……ダメです」
答える声が、隠しようもなく、震えた。
「……困った子だね。すみれ。俺はそんなに頼りない?」
「……っ」
耳朶に、司の吐息がふわりと掛かった。
「君が、自分を犠牲にしてまで守らなければいけないほど、今の俺は弱く見えるのかな」
「ち……ちが」
「君の犠牲がなければ、すぐにでも死んでしまいそう?」
「違いますっ。そういう、ことでは……」
ぎくりと震えて思わず背後を振り向けば、息の触れる距離で視線が絡みあった。
司が、ひそやかに微笑む。
「そんなに悲壮な顔をして、可哀想に……嘘のつけない子だね、君は」
「やめ、て……」
もうこれ以上、胸の奥深くをその清涼な瞳で掻き混ぜないで欲しい──
「駄目だよ、すみれ。そんな秘密を一人で抱えないで。俺に、教えて。お願いだ……」
「……っ」
司の体温をこんな距離で感じさせられながら優しい詰問を受けるなど──ほとんど拷問だった。
気が遠くなりそうだ。
(言えない……!)
どんなに望まれても、すみれには言えなかった。
この想いを口にすれば、いや悟られただけで、司の拾った命が再び不運により脅かされる可能性がほんの少しでもあるのなら、すみれには言えない、言えるはずがない。
(やり遂げてみせるって、誓った……)
瞳を閉じ、貝のように口も閉ざし、すみれは歯を食いしばった。
やわらかく崩れそうになる意気地なしの身体に鞭を打ち、下肢に力をこめて自分を支えた。
司の腕に縋るように添えていた手を──離す。
「……離して、ください」
心が離れたくないと悲鳴をあげる。それを無理やりねじ伏せるようにして、あえて冷たい声で告げれば、涙が零れそうになった。
「もう、離してください。お願いです」
「……じゃぁ、ずっと君に尋ねたかった、もうひとつの話をしようか」
ふわりと腕が解かれる。空気が二人の間に入り込み、喪失感にふるりとすみれが震えた、その瞬間。
軽く司がすみれの肩を押した。とん、と上半身が倒れ込んで、たまらずすみれは横の壁に倒れかかった。
(……あ)
同時に、司の両腕が、すみれの両脇の壁に突っぱねられていた。
まともに真正面から見据えられながら、その腕に囲われたのだと気付いた時にはもう、遅い。
挑むように熱を帯びた司の美しい瞳が、吐息も触れる距離ですみれを映している。
吸い込まれてしまいそうな──森に湧く泉にも似た、碧瞳。
「ねえ、すみれ。俺はずっと君を見守ってきたよ。本当に君が俺の探している『すみれ』なのか、確信も持てない赤ん坊の頃から、ずっとね」
低く囁く司の声が、嵐の夜に静かに溶けていった。
「だからね、当然、君の情報はいろいろ集めたよ。でも、解らないことはまだある。少し辛い事を聞くけれど……君がね、自分にとってとても大切な人と死別したのは、ご家族が最初の体験なのかな」
「──え?」
意外な内容に、すみれは目を瞠った。
「誰か、ご家族以外に、かつて死に別れた大切な人は、いるの?」
「い、いえ、まだ──いません。あ、祖父母のお葬式に出たことはありますけど……その時はまだ、小さくて……」
司の意図はわからないまでも、すみれは戸惑いながら正直に答えた。
幸い友人の誰もまだ死んではいないし、祖父母の葬式に出た記憶は一応あっても、幼すぎた。
大切な人とまで言い切れる認識は無かったのだ。
司が頷き、瞳をつと眇めた。
「じゃぁ、ご両親の他に、『死に別れた大切な人』はいないんだね」
「はい」
「そっ…か。じゃぁ、『君が愛している人は、亡くなった人間ではない』、ということになるね」
(……っ!)
不意打ちの台詞に、思わず身が竦んだ。気を抜いていたから余計に心臓がどくりと跳ねた。
司の眼差しが、再び強さを宿す。
「生きているなら、地上の何処かにいるはずだ……それは誰?」
すみれは絶句した。言い訳がきかない場所まで遠まわしに追い詰められたも同然だった。
雷が何処かで轟音と共に堕ち、地上を震わせた。
「……っ」
びりっと緊張する大気を肌で感じ、悲鳴が喉までせり上がる。そんなすみれを冷静に見つめながら、司は再び囁いた。
「君は言ったね。好きな人は、ここにはいない、と。すごく遠くにいるのだと」
「……」
「遠くとは何処なのかと幼い俺は訊ねた。外国なのかと。その俺に君は語った。外国なら良かったのにね、と。外国よりも、もっと遠い場所だよ、と」
(……確かに、言った)
すみれは目を伏せた。もう見つめ合ってはいられなかった。
まさか今、あの夜の会話を引き合いに出されるなど想像もしていなかった。精霊との契約のことを司が気にしているのはよく解っていたが──すみれの想いに直接探りを入れられるなんて、思わなかったのだ。
(なんで)
すみれは震えた。
(どうして、そんなこと、聞くの……!)
司の眼差しがひどく熱くて、都合のいい妄想ばかりしてしまいそうになる。
「外国よりも遠い場所なんて、もう死者を想っているとしか考えられないほどの苦しげな目で君は俺に囁いたよね。あれから十七年、俺はその意味をずっと考えてきた。君がタイムトリップしたのなら、遠い場所とはすなわち未来──今この現在のことなのか……それとも死別した人間のことなのか、どちらだろうか。ずっと疑問だった」
吐き出す司の声もまた、苦渋に満ちていた。
どうしてそんな声で語るのだろう。すみれは思う。
私が誰を好きでも、この人には、関係が無いはずなのに。
(だって、司さんには)
──他に、好きな人が、いるはずで……。
「あの十七年前の夜、悲しげに笑った君の笑顔を、俺はずっと忘れることが出来なかったよ。俺はね、君に幸せになってほしかったんだ。死者への想いに囚われて苦しいのなら、いつかそんな苦しみが昇華されるといいなと思った。もしも生きている誰かへの想いが叶わず苦しんでいるのなら──」
(苦しんでるのなら……何……?)
黙りこくった司の言葉の先が、怖いのにどうしても気になった。
思わずそろりと瞳を開けば、再び司の眼差しに絡め取られた。
「……いっそ、ね。そんな男は居なくなれば、君は苦しまずに済むんじゃないか、とも思ったよ。そしたら俺が君を幸せにしてあげられるのにと」
「……え……?」
ひそやかな囁きに、動悸が激しくなる。
胸が破裂しそうだった。
それはどういう意味なのだろう。どうしてそんな熱い目でいつもいつも司は、すみれを見つめてくるのだろう。
その答えに触れることは、出来るのだろうか──
「司、さん」
震え声で名を呼べば、司がふと、優しい目をした。
「でもね、やっぱりそれでも……君が好きな人がいるのなら、その想いが叶うことが君の最上の幸せなのなら、応援しなければいけないと、そう思ってきたよ」
どこか孤独な響きの囁きが、闇に零れていった。
「だって、あの日の君は、その人が好きで好きでたまらなくて、でも遠すぎて全てを諦めなければならないと、自分に言い聞かせているように見えたから……」
(……あぁ……)
恥ずかしさに、再びすみれの体温が跳ねあがった。
司は、あの幼さで本当に正確に、深くすみれを見つめてくれていたのだ。その洞察は限りなく優しくて、限りなくただしい。
けれど──
「だから今夜、君に聞こう。君が今想っている『遠すぎる誰か』って……誰?」
司は聞くのだ。その問いはもう避けられないのだろう。
すみれは泣きたい想いで唇を噛んだ。
どうして。喉元までその問いが込み上げた。
どうして、それを尋ねるのだろう。
どうして、そんなことを十七年もこの人は考え続けてきたのだろう。
知りたい。喉から手が出るほど司の真実が欲しい。けれど同時に、すみれにはこの先の会話が怖かった。司の想いを問えば、自らの想いを告白しないわけにはいかない気がする。
司の心に踏み込みたくても──すみれには、踏み込めないのだ。
踏み入らせるわけには、いかないからこそ。
(いやだ、もう……!)
俯いてすみれは必死に涙を堪えた。この先自分が言わなければいけないことはもうわかっていた。言いたく、ないのに。
もう、黙ってやり過ごすことは叶わない。
胸が引き裂かれるようだった。
この人に、嘘だけは、つきたくなかったのに。
「……すみれ」
司が囁く。彼は彼で、何かを決意しているような、迷いのない声だった。
すみれは深く俯いたまま目を閉じ、声を絞り出した。
「私が、誰を好きでも……司さんには関係ないことだと、思います」
冷たい言葉で大好きな人を突き放して、すみれは心の扉を閉じた。
泣いてしまいそうだ。
本当に、ほんとうに、言いたくはなかったのに……!
(けど、もう無理だよ……!)
すみれは目を閉じ震えるしかなかった。こんな距離で誰を愛しているのかをまともに問われてしまえば、突き放すしかできない。
この想いは悟られてはならない想いだった。誤魔化すことができないなら、嘘をつくしか術は無い。
「お願いです……もう、離して……」
囚われた甘い腕の中から抜け出したかった。これ以上司と向かい合っていたら、もっと嘘を重ねなければならなくなりそうで。
「関係ない、か」
司の声に苦さが滲んだ。
「だとしたら何故、過去に飛ばされたあの場所で、たかが子供相手に、君はどうしてあんなに苦しげだったの。関係ない人のことを話しながらなんであんな目をしていた?」
「司さん……お願い……」
「俺が嫌い?」
「……っ、ち、……っ」
びくりと全身が震えた。
(違う! もう嫌……もう終わりにして……!)
堪え切れず涙が零れ落ちた。
これ以上、嘘を重ねさせないでほしい。もう何も言いたくない、この優しい人を拒絶するようなこと、もう二度と言いたくないのに!
ゆっくりと司が、すみれの伏せた顔に自らの唇を寄せた。
左の耳元に、切なげに乱れた司の吐息を感じた。
「嫌いなら今、そう言いなよ、すみれ」
低い声が、雄のそれだ。
すみれの腰に、ぞくりと甘美な痺れが落ちた。
「真夜中に二人きりの邸の中で男にこんな風に迫られて、拒絶しなければ何をされても文句は言えないよ、すみれ。俺は優しいから何もしないとでもと思った?」
「……っ!」
この先をもう聞いてはならない。はっきりとわかる。知ってどうする。もうすみれの想いは告げることも悟らせることも叶わないのに。
嘘を重ねたくない。司の腕を振りほどきたくない。
好きだと言えないからこそ、嫌いだとまで嘘をつくのは耐えがたかったのに。
「いつかのように逃げないの? じゃぁ、離れない。離さない……っ」
「司さんっ!」
思わず叫んで顔を上げたのと、激しい強さで司の胸に抱きしめられるのは同時だった。
深く抱き竦められたまま──
すみれはその言葉を、奈落に落ちるような絶望と歓喜の狭間で聞いた。
「君を、愛してる……!」
祈りにも似た、その深い響きを。
元々この辺りは、東京から最も近い隠れた避暑地という扱いであるし、この邸だって避暑のために立てられた青龍家の別荘だったのだから当たり前といえばそうだが──停電でエアコンの効かない状況でも、涼しさを感じる。9月半ばといえば、都市部ではまだまだ夏だが、ここはもう夜になれば秋の気配を感じさせる気候だった。
ましてやどんなに戸締りしていても、こんな暴風の中では、古い邸の窓の隙間から風が吹き込んでくる。邸内の空気も幸か不幸か常に動いていて、湿気は含んでいたが、息苦しいというほどでもなかった。
「あー……さっぱりした。ごめんね、こんな格好でご飯食べることになっちゃって」
濃紺のパジャマに着替えた司が、懐中電灯片手に少し申し訳なさそうにティールームへと入ってきた。停電のせいでドライヤーも使えないので、タオルドライしただけの髪はまだ微かに濡れているようだ。
それでも、この邸の風呂がボイラー式であったことが幸いした。温かな湯を使えただけでも良しとしなければなるまい。
結局、車から降りて玄関に飛び込んでくるまでの間に、取り返しがつかないほどずぶ濡れになった司は、着替えざるを得なくなり、今に至る。鞘人が寄こしてくれた荷物には、明日の分のスーツが新品で一揃え入っていたが、あとはパジャマだけだったのだから、これを着るしか選択肢は無かった。
「おかえりなさい、司さん」
先に司にシャワーを浴びさせ、その間に食事の用意をしていたすみれは、平静を取り繕ろうべく微笑んで見せたものの、内心は叫びだしてしまいそうだった。
風呂上がりで濡れ髪、パジャマ姿の司なんて、こんな機会でもなければそうそう見られなかっただろう。
(……つ、司さん、色っぽい……)
涼しげに開いた首元から、司の鎖骨が覗く。美形は美形でも、どちらかといえば童顔の司だが、鎖骨が露わになると、不思議にそこから雄の色気が香り立つ気がして、すみれは落ちつかなくなった。
「こんな状況ですし、二人だけですから、気になさらないでくださいね」
……などと言いながら、全身で意識しているのはすみれの方だ。
二人でここに泊まることになるなんて、未だに信じられないでいたけれど、司のパジャマ姿を見ると不意に実感した。
本当に、今夜はここで二人きりなのだ……。
(それにしても鞘人さん……なんで……)
疑問は尽きない。
司は、鞘人が謀ったと言った。
何一つ細かいことは説明してはくれなかったが、最初に飛び込んできた時、彼は確かにすみれの怪我を気にしていた。まるで、すみれが怪我をしていると思いこんでいたかのように。
それも鞘人が司に吹き込んだ嘘ゆえだったのだとすれば、一体、鞘人は何を考えて司とすみれをここに置き去りにしたのだろう。
(なんとなくだけど、鞘人さんには私の司さんへの気持ち、バレてる気がするんだよね……)
花瓶を割った時のことを思い出すと、そんな気がしてくる。
だとすればこれは、鞘人がすみれへ気を利かせてくれたサプライズなのだろうか。
(……いやいやいや。それはない。それはないよ……)
恥ずかしい上に自分に限りなく都合のよいその妄想を、すみれはぶんぶんと首を振って追いだした。司に想い人がいることを、鞘人は知っている。その鞘人がすみれと司をどうにかしようとするわけがない。
それに、すみれは現在、謹慎中も同然だったはずだ。
(じゃぁ、なんで?)
……理由を考えることを、一旦すみれは放棄した。
いくら考えても鞘人の思惑を正確に察するなど無理なことだ。それに、彼の意図はわからないにせよ、司と二人きりの時間が持てたことをこっそり嬉しく思ってしまう自分がいる。
だが、喜んでばかりはいられなかった。
本当に情けないが、瑰にも鞘人にも悟られてしまうほど司が好きな気持ちがダダ漏れだというのなら、当然司にはもっと悟られていてもおかしくは無かった。
ただでさえ司は勘の鋭い男だし、すみれは想いが顔に出やすい。自覚はある。
(だめだ……浮かれてちゃ、だめだよ……)
己に必死で言い聞かせ、すみれは司を席に座らせた。
ダイニングのテーブルは、二人きりで使うには大きすぎた。司の提案で、こじんまりとしたティールームで小さいティーテーブルを使って食事をすることにしたのだ。
すみれは執事ではないので、まだ食事の給仕作法についてはよくわからない。普段の食事で見せる鞘人たちの動きを思い出しながら、ぎこちなくワインは赤白どちらがいいのか尋ねると、司は苦笑した。
「いいんだよ、すみれ。自分でやるから君も気楽に座って? 一緒に食べよう」
「そんな。つ、注がせてください……鞘人さんのように上手くは出来ませんけど……でも、させてください……!」
「うーん。じゃ、遠慮なく注いでもらうけど」
すみれを見上げ、艶やかに司が微笑む。
「その代わり、一緒に食べるって約束すること。……ね?」
(あぁ……すごく、久しぶり……)
ふと、すみれは司の微笑みに胸を衝かれた。
今日の司は、すみれが過去に飛ぶ以前の司を思い出させた。優しくいつも微笑んでくれた司と、お互い何かを探り合うこともなく手を繋いで夜の庭を散歩していたあの頃の空気が、流れている。
「お願いだよ。一緒に仲良く座って食べて……すみれ」
労わるように優しく告げられると、鼻の奥がつんと疼いた。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
「うん」
頷く司も嬉しそうだ。
司の指示に従って白を注ぎ、向かいの席に座る。すると司が今度はわざわざ立ちあがり、酒の飲めないすみれの為に用意されていたノンアルコールワインを、フルートグラスへと優雅に注ぎ入れてくれた。
スパークリングワインのように、細かな泡が金色の糸を引くように美しく立ち上る。
「お嬢様には、これを」
瓶を片手に微笑む司は、パジャマ姿にも関わらずどこかソムリエのように様になっている。
お嬢様、なんて司から呼ばれ、思わずすみれは頬を染めた。停電で頬の色が悟られにくいことにこっそり感謝してしまう。
照明は、グラスの水に浮かべたいくつものキャンドルだけだ。
怖がりのすみれは、テーブルだけでなく室内のいたるところにフローティングキャンドルを配置した。電気とは違い、あたたかで柔らかい光が淡く揺れる中、嵐の轟音がこれでもかといわんばかりに邸全体を包んでいるのに──それでもここはひどく静かに思えた。
穏やかな時間は、すみれが切に求めていた優しさに満ちていて……司が来るまでは怖くて仕方が無かった風の音も、キャンドルの光が届かない場所の暗がりも、今この瞬間、全然怖くは無かった。
「じゃぁ、乾杯」
「乾杯……」
澄んだ音を立てて触れ合うグラスに、キャンドルの光が揺れた。
まるで夢のような光景だった。何処か遠くに、司と共に旅行にでも来たような錯覚を覚える。
それでも、鞘人が作ってくれたのであろうクラブサンドは、目の覚めるような美味しさだった。これは紛れもなく現実だ。
「美味しい……」
呟いて思わず司を見れば、司が嬉しそうに微笑んでいた。
「うん。美味しいね。君と食べてるから、もっと美味しい」
「……っ」
瞬間、嬉しさでふわりと耳までが熱を帯びた気がした。
「し、静かですね」
「……」
気恥ずかしさを誤魔化したくてすみれが思わず口走れば、司が少し目を瞠り、無言のままに優しい笑みを濃くした。
「……あ、えっと」
言った瞬間にすみれは気付いた。外は嵐だ。この轟音の中で何故、静かですねなどと馬鹿みたいなことを口走ってしまったのだろう。
サンドイッチを手に持ったまま、恥ずかしくてますます真っ赤になってしまったすみれを見て、司がふと囁いた。
「うん。でもわかるよ。静かだよね。……誰も、邪魔する者がいない」
「──」
とくんと心臓が弾んだ。いつのまにか、司は真顔だ。
「こんな時間が、ずっと欲しかったよ、俺は」
「……司、さん……」
「君と……二人きりで、過ごしたかった」
キャンドルに煌めく司の黒眸が、一瞬、切なげな熱を帯びたような気がして、すみれの息を詰まらせた。
返答に困る。もう胸が苦しいぐらいに高鳴っていて、煩いほどだ。
甘い台詞は全部、『家族』だからだ。もう何度目になるかわからないそんな戒めを必死に胸の中で唱えながらも、甘酸っぱい気持ちがこみ上げるのを抑えきれない。
司の一言一言で、すみれはすぐに嬉しくなってしまう。けれどもう、素直な気持ちのままに嬉しさに身を任せていてはいけないのだ。
(多分、すぐ、顔に出ちゃうから……だめだよ……)
頬が緩みそうになるのを、必死に唇を引き締めて堪える。
改めて精霊の課した条件は厳しい、とすみれは思った。告白しないことについては言葉さえ気をつけていればいいけれど、堪えても堪えても滲んでしまう想いを悟られないようにするのは、実はもしかしたらひどく困難なことかもしれないのだ。
司はそんなすみれの心を知ってか知らずか──グラスを優美に傾け、どこか悪戯っぽく笑った。
「覚えてる? 最初に君と二人きりの夜を過ごしたのも、嵐の日だったよ。俺たちはよくよく嵐と縁があるらしい」
「あ……」
不意にあの夜が思い出され、すみれははっと息を呑んだ。
「あの日、俺も思ってた。廃屋みたいな小屋の中で君と二人で過ごした最後の時間……外は暴風雨なのにね。不思議に静かだと感じたよ。激しい雨音につつまれていると、耳も麻痺してね。君の存在だけを、ひたすらに感じてた」
「……わたしも、です」
こくこくとすみれも頷いた。
懐かしいその感覚は、すみれにとってはわずか数週間前のことだ。忘れるはずもない。
幼い司を胸に抱いて過ごした最後の穏やかな時間は、それほど長くはなかったはずなのに、とても濃密で──そして限りなく静かな一時だった。
世界の全てが、二人のために息をひそめていた。
「あの時はいろいろ辛い夜だったけれど……今はちょっと、楽しい」
「うん……そうですね」
司と目を見合わせて、すみれは微笑んだ。
「ちょっと、わくわくしますね」
「うん。君と二人だと、余計にね」
秘密を共有するように微笑み合えば、ますます鼓動が走り出すのを止められなかった。
幸せな晩餐の時間は、お互いが抱える不安の核心には触れぬままに過ぎていった。この優しいひとときが、吹きこむ風に掻き消されてしまいそうになるのを、恐れるように。
* * *
すみれが懐中電灯で足元を照らし、司が食器を置いたワゴンを押して食堂まで戻り、二人で流しへと置いた。
食器を洗うのは明日の朝に回すことにした。どうせサンドイッチと付け合わせを食べただけで大して汚れてもいない。万が一食器を割ったりしたら危ないから、細かいことは朝の光の中で行ったほうがいいとの司の言葉に従ったのだ。
「こんなことまでさせてすみません……」
恐縮してすみれが謝ると、何を言ってるのかなぁこの子は、と司が小さく苦笑した。
「二人しかいないんだから、これぐらい二人で協力して当たり前だよ、すみれ」
「……ありがとうございます」
「ん」
とりあえず荷物を置いてあるリビングまで戻るまでの間も、司は当たり前のようにすみれと手を繋いでくれた。
繋がるぬくもりに、心から安堵する。
司がいれば、闇に揺れる嵐の邸も怖くはなかった。
「……まだ、おさまらないね」
廊下の突き当たりにある小さな窓へと、ちらりと司が目をやる。
恐る恐る窓に近寄って、すみれは外を確かめた。
外に照明があるわけでなし、ほぼ何も見えない。窓に叩きつける雨だけが滝のように流れ落ちてゆくだけだ。灯りを持つ自分と司だけが鏡のようにそこには映っている。
「今夜はずっとこんな調子かもしれませんね」
呟いて振り向こうとした時、背後の司が動くのが、窓に映る影でわかった。
そのまま静かに、司がすみれの背後から腕を回した。ふわりと腕の中に囚われ、肩を深く抱き竦められる。
(……!)
項に、司の吐息が触れた。
「すみれ……」
吐息だけで、司が名を呼んだ。
「……っ」
刹那、甘い痺れがすみれの背を伝い落ちた。急に自分の耳元でがんがんと脈が鳴り始める。すみれは振り向く事も出来ずに、突然の司の抱擁をただ受け止めた。
「つかさ、さん……?」
「……うん」
司はそれきり、黙っていた。腕の力も強くはない。すみれの右頬に自らの左頬をそっと押し当てるようにして、ひっそりと呼吸を繰り返している。
逃げようと思えば逃げられる柔らかい抱擁を、だが、すみれは逃げずに受け止め続けていた。
どうして、とか、何故、とか。
問えばこの距離が壊れてしまいそうで、すみれはただされるがままだった。息をひそめ、司の吐息だけをひたすらに感じながら、胸の奥をうれしさに震わせることしかできない。
今、司に、抱きしめられている。
気が遠くなるほど、嬉しい。どうにかなってしまいそうなほど、恥ずかしい。自分も汗を流した後だったら良かったのにといたたまれなくなった。
薄着の司からは、体温をいつもより深く感じられる気がする。もう、頭がじんと痺れて、何も考えられない……。
それは、一瞬だったのだろうか。
それとも気が遠くなるほど長い時間だったのだろうか。
二人、身を寄せたまま互いの震える吐息を感じあう、張り詰めた沈黙を──司がやがて破った。
「……逃げないんだね」
「……!」
ぴくりと身体を震わせたすみれの耳元で、司が囁いた。
「もう少しだけ、このままで」
「……」
すみれは耳まで赤く染めたまま、動けなかった。熱っぽく懇願されれば尚のことだ。
この距離は危険だった。司の腕を振りほどかないだけで、自分の想いを気取られてしまいかねないと今更ながら気付いたのに、それでも振りほどけないのだ。
もう少しこのままで、いやずっとこうしていて欲しいなんて、言えない……。
「……君の、人生の負担にはなりたくない。君が、大切だから」
ひっそりと、司が吐息だけで再び囁く。
その切ない響きに、甘く胸を掻き乱され、すみれは微かに喘いだ。
息が、苦しい。
「だから、ね。君がもし、俺を守るために自分の大事な何かを懸けて精霊と取引をしたとするなら、そんなものは、破棄してしまっていい」
「……」
すみれはゆるゆると頭を横に振って見せた。
縋るものが欲しくなる。思わず、自分の鎖骨のあたりに回されている司の腕を右手で縋るように掴んで、ようやく言った。
「でき、ません……」
震える声で答えれば、回された司の腕に不意に力が篭った。
「……どうしても?」
「どうしても、です」
「俺が、主として命令しても?」
司の声音が、ぐっと低くなる。司から溢れだす熱をそこに感じて、下肢の力が抜けてしまいそうになった。
(駄目……)
普段はひどく優しいくせに、そして俺の命令などお飾りだよとも言っておきながら──すみれを腕で囲ってこんな台詞を熱く囁く司は、本当に狡い。未だかつて感じたことのない陶酔感と絶望が同時に押し寄せると同時に、すみれはぞくりと甘い痺れを身体の奥に感じて泣きたくなった。
ひたすらに硬く身を竦め、すみれはきつく瞳を閉じた。
「それでも……ダメです」
答える声が、隠しようもなく、震えた。
「……困った子だね。すみれ。俺はそんなに頼りない?」
「……っ」
耳朶に、司の吐息がふわりと掛かった。
「君が、自分を犠牲にしてまで守らなければいけないほど、今の俺は弱く見えるのかな」
「ち……ちが」
「君の犠牲がなければ、すぐにでも死んでしまいそう?」
「違いますっ。そういう、ことでは……」
ぎくりと震えて思わず背後を振り向けば、息の触れる距離で視線が絡みあった。
司が、ひそやかに微笑む。
「そんなに悲壮な顔をして、可哀想に……嘘のつけない子だね、君は」
「やめ、て……」
もうこれ以上、胸の奥深くをその清涼な瞳で掻き混ぜないで欲しい──
「駄目だよ、すみれ。そんな秘密を一人で抱えないで。俺に、教えて。お願いだ……」
「……っ」
司の体温をこんな距離で感じさせられながら優しい詰問を受けるなど──ほとんど拷問だった。
気が遠くなりそうだ。
(言えない……!)
どんなに望まれても、すみれには言えなかった。
この想いを口にすれば、いや悟られただけで、司の拾った命が再び不運により脅かされる可能性がほんの少しでもあるのなら、すみれには言えない、言えるはずがない。
(やり遂げてみせるって、誓った……)
瞳を閉じ、貝のように口も閉ざし、すみれは歯を食いしばった。
やわらかく崩れそうになる意気地なしの身体に鞭を打ち、下肢に力をこめて自分を支えた。
司の腕に縋るように添えていた手を──離す。
「……離して、ください」
心が離れたくないと悲鳴をあげる。それを無理やりねじ伏せるようにして、あえて冷たい声で告げれば、涙が零れそうになった。
「もう、離してください。お願いです」
「……じゃぁ、ずっと君に尋ねたかった、もうひとつの話をしようか」
ふわりと腕が解かれる。空気が二人の間に入り込み、喪失感にふるりとすみれが震えた、その瞬間。
軽く司がすみれの肩を押した。とん、と上半身が倒れ込んで、たまらずすみれは横の壁に倒れかかった。
(……あ)
同時に、司の両腕が、すみれの両脇の壁に突っぱねられていた。
まともに真正面から見据えられながら、その腕に囲われたのだと気付いた時にはもう、遅い。
挑むように熱を帯びた司の美しい瞳が、吐息も触れる距離ですみれを映している。
吸い込まれてしまいそうな──森に湧く泉にも似た、碧瞳。
「ねえ、すみれ。俺はずっと君を見守ってきたよ。本当に君が俺の探している『すみれ』なのか、確信も持てない赤ん坊の頃から、ずっとね」
低く囁く司の声が、嵐の夜に静かに溶けていった。
「だからね、当然、君の情報はいろいろ集めたよ。でも、解らないことはまだある。少し辛い事を聞くけれど……君がね、自分にとってとても大切な人と死別したのは、ご家族が最初の体験なのかな」
「──え?」
意外な内容に、すみれは目を瞠った。
「誰か、ご家族以外に、かつて死に別れた大切な人は、いるの?」
「い、いえ、まだ──いません。あ、祖父母のお葬式に出たことはありますけど……その時はまだ、小さくて……」
司の意図はわからないまでも、すみれは戸惑いながら正直に答えた。
幸い友人の誰もまだ死んではいないし、祖父母の葬式に出た記憶は一応あっても、幼すぎた。
大切な人とまで言い切れる認識は無かったのだ。
司が頷き、瞳をつと眇めた。
「じゃぁ、ご両親の他に、『死に別れた大切な人』はいないんだね」
「はい」
「そっ…か。じゃぁ、『君が愛している人は、亡くなった人間ではない』、ということになるね」
(……っ!)
不意打ちの台詞に、思わず身が竦んだ。気を抜いていたから余計に心臓がどくりと跳ねた。
司の眼差しが、再び強さを宿す。
「生きているなら、地上の何処かにいるはずだ……それは誰?」
すみれは絶句した。言い訳がきかない場所まで遠まわしに追い詰められたも同然だった。
雷が何処かで轟音と共に堕ち、地上を震わせた。
「……っ」
びりっと緊張する大気を肌で感じ、悲鳴が喉までせり上がる。そんなすみれを冷静に見つめながら、司は再び囁いた。
「君は言ったね。好きな人は、ここにはいない、と。すごく遠くにいるのだと」
「……」
「遠くとは何処なのかと幼い俺は訊ねた。外国なのかと。その俺に君は語った。外国なら良かったのにね、と。外国よりも、もっと遠い場所だよ、と」
(……確かに、言った)
すみれは目を伏せた。もう見つめ合ってはいられなかった。
まさか今、あの夜の会話を引き合いに出されるなど想像もしていなかった。精霊との契約のことを司が気にしているのはよく解っていたが──すみれの想いに直接探りを入れられるなんて、思わなかったのだ。
(なんで)
すみれは震えた。
(どうして、そんなこと、聞くの……!)
司の眼差しがひどく熱くて、都合のいい妄想ばかりしてしまいそうになる。
「外国よりも遠い場所なんて、もう死者を想っているとしか考えられないほどの苦しげな目で君は俺に囁いたよね。あれから十七年、俺はその意味をずっと考えてきた。君がタイムトリップしたのなら、遠い場所とはすなわち未来──今この現在のことなのか……それとも死別した人間のことなのか、どちらだろうか。ずっと疑問だった」
吐き出す司の声もまた、苦渋に満ちていた。
どうしてそんな声で語るのだろう。すみれは思う。
私が誰を好きでも、この人には、関係が無いはずなのに。
(だって、司さんには)
──他に、好きな人が、いるはずで……。
「あの十七年前の夜、悲しげに笑った君の笑顔を、俺はずっと忘れることが出来なかったよ。俺はね、君に幸せになってほしかったんだ。死者への想いに囚われて苦しいのなら、いつかそんな苦しみが昇華されるといいなと思った。もしも生きている誰かへの想いが叶わず苦しんでいるのなら──」
(苦しんでるのなら……何……?)
黙りこくった司の言葉の先が、怖いのにどうしても気になった。
思わずそろりと瞳を開けば、再び司の眼差しに絡め取られた。
「……いっそ、ね。そんな男は居なくなれば、君は苦しまずに済むんじゃないか、とも思ったよ。そしたら俺が君を幸せにしてあげられるのにと」
「……え……?」
ひそやかな囁きに、動悸が激しくなる。
胸が破裂しそうだった。
それはどういう意味なのだろう。どうしてそんな熱い目でいつもいつも司は、すみれを見つめてくるのだろう。
その答えに触れることは、出来るのだろうか──
「司、さん」
震え声で名を呼べば、司がふと、優しい目をした。
「でもね、やっぱりそれでも……君が好きな人がいるのなら、その想いが叶うことが君の最上の幸せなのなら、応援しなければいけないと、そう思ってきたよ」
どこか孤独な響きの囁きが、闇に零れていった。
「だって、あの日の君は、その人が好きで好きでたまらなくて、でも遠すぎて全てを諦めなければならないと、自分に言い聞かせているように見えたから……」
(……あぁ……)
恥ずかしさに、再びすみれの体温が跳ねあがった。
司は、あの幼さで本当に正確に、深くすみれを見つめてくれていたのだ。その洞察は限りなく優しくて、限りなくただしい。
けれど──
「だから今夜、君に聞こう。君が今想っている『遠すぎる誰か』って……誰?」
司は聞くのだ。その問いはもう避けられないのだろう。
すみれは泣きたい想いで唇を噛んだ。
どうして。喉元までその問いが込み上げた。
どうして、それを尋ねるのだろう。
どうして、そんなことを十七年もこの人は考え続けてきたのだろう。
知りたい。喉から手が出るほど司の真実が欲しい。けれど同時に、すみれにはこの先の会話が怖かった。司の想いを問えば、自らの想いを告白しないわけにはいかない気がする。
司の心に踏み込みたくても──すみれには、踏み込めないのだ。
踏み入らせるわけには、いかないからこそ。
(いやだ、もう……!)
俯いてすみれは必死に涙を堪えた。この先自分が言わなければいけないことはもうわかっていた。言いたく、ないのに。
もう、黙ってやり過ごすことは叶わない。
胸が引き裂かれるようだった。
この人に、嘘だけは、つきたくなかったのに。
「……すみれ」
司が囁く。彼は彼で、何かを決意しているような、迷いのない声だった。
すみれは深く俯いたまま目を閉じ、声を絞り出した。
「私が、誰を好きでも……司さんには関係ないことだと、思います」
冷たい言葉で大好きな人を突き放して、すみれは心の扉を閉じた。
泣いてしまいそうだ。
本当に、ほんとうに、言いたくはなかったのに……!
(けど、もう無理だよ……!)
すみれは目を閉じ震えるしかなかった。こんな距離で誰を愛しているのかをまともに問われてしまえば、突き放すしかできない。
この想いは悟られてはならない想いだった。誤魔化すことができないなら、嘘をつくしか術は無い。
「お願いです……もう、離して……」
囚われた甘い腕の中から抜け出したかった。これ以上司と向かい合っていたら、もっと嘘を重ねなければならなくなりそうで。
「関係ない、か」
司の声に苦さが滲んだ。
「だとしたら何故、過去に飛ばされたあの場所で、たかが子供相手に、君はどうしてあんなに苦しげだったの。関係ない人のことを話しながらなんであんな目をしていた?」
「司さん……お願い……」
「俺が嫌い?」
「……っ、ち、……っ」
びくりと全身が震えた。
(違う! もう嫌……もう終わりにして……!)
堪え切れず涙が零れ落ちた。
これ以上、嘘を重ねさせないでほしい。もう何も言いたくない、この優しい人を拒絶するようなこと、もう二度と言いたくないのに!
ゆっくりと司が、すみれの伏せた顔に自らの唇を寄せた。
左の耳元に、切なげに乱れた司の吐息を感じた。
「嫌いなら今、そう言いなよ、すみれ」
低い声が、雄のそれだ。
すみれの腰に、ぞくりと甘美な痺れが落ちた。
「真夜中に二人きりの邸の中で男にこんな風に迫られて、拒絶しなければ何をされても文句は言えないよ、すみれ。俺は優しいから何もしないとでもと思った?」
「……っ!」
この先をもう聞いてはならない。はっきりとわかる。知ってどうする。もうすみれの想いは告げることも悟らせることも叶わないのに。
嘘を重ねたくない。司の腕を振りほどきたくない。
好きだと言えないからこそ、嫌いだとまで嘘をつくのは耐えがたかったのに。
「いつかのように逃げないの? じゃぁ、離れない。離さない……っ」
「司さんっ!」
思わず叫んで顔を上げたのと、激しい強さで司の胸に抱きしめられるのは同時だった。
深く抱き竦められたまま──
すみれはその言葉を、奈落に落ちるような絶望と歓喜の狭間で聞いた。
「君を、愛してる……!」
祈りにも似た、その深い響きを。
応援ありがとうございます!
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