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第十四章 シロツメクサと主の愛

02 夜の終わりに

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 全身が、燃え立つ気がした。
 司の腕に抱かれて聞いたその言葉を受け止めて、すみれは震えた。

(あぁ……)

 甘い悦びがこみ上げる。司の吐息も微かに乱れていた。まるでその想いの強さを知らしめるように。

「初めて逢ったあの時からずっと、君を想い続けてた……」
「……だ、って。かぞく、だって」

 やっとの思いで絞り出した声は、涙で掠れた。

「確かな絆が欲しいと願ったから、そう言った」
「だ、だって。でも。ずっと……司さんは心に決めた人が、いるって」
「そう……いつかの話を聞いていたのかい?」
「……っ」

 一瞬びくりとしたすみれだが──無作法に立ち聞きしたことを知っても、司はそれを咎めるつもりはないようだった。
 くすっと笑って、司がすみれの耳元で囁く。

「翌日、泣いていたのは、もしかしてそのせいだった?」

 そうです、とうっかり頷きかけ──すみれは歯を食いしばり、遮二無二首を横に振った。泣いたことを肯定すれば、何故泣いたのか、その理由を司に自分で告げたも同然になってしまう。
 ぎりぎりの綱渡りだった。
 すみれの本音が、否応なしに引きずり出されてゆく。

「違うの? もし……そのせいで泣いてくれたのだとしたら、俺は嬉しいんだけど、ね。混乱させたかもしれないけれど、俺が生涯ただ一人だと思い定めていたのは、君だよ、すみれ。言ったよね。十七年前から俺は君のことしか見ていなかった」

 初恋だからね、と司は静かに笑った。

「好きだよ、すみれ。だからこそ、君が他の人を愛し続けているのなら、その想いを尊重しなければいけないとずっとずっと己にそう言い聞かせて今まできたよ。だけど、ねえ、すみれ。他に好きな人がいるのなら、何故君は今、俺の腕の中で泣いてるの? どうして俺の為に危険を冒してまで過去へ来たの。自分の何かを犠牲にしてまで……!」
「──ゆるして……つかさ…さ……」

 嗚咽が、込み上げる。それを無理やり呑みこんで、すみれは崩れそうな足に必死で力をこめた。
 司の心がずっとずっと欲しかった。
 こんなにも欲しい愛が目の前にあるのに、受け取れないのだ。
 これ以上会話をし続けていれば、痛みは、もう避けられない……。

「何度でも、言うよ。俺は君を愛してる。──君は?」

 沁み入るようなその想いを笑顔で受け入れて、私もですと告げられたらどんなにかいいだろう。ほんとうに、どんなにか。

(……言えない……!)

 気の狂いそうな歓喜と絶望がここにあった。
 司は禁忌に触れている。これ以上、触れさせるわけにいかない。

(悟られたら、終わりなんだ──私しっかりしろ!)

 甘い悦びに酔っている場合ではなかった。どうしたらいい。何を言えばいい。すみれは必死に動かぬ頭に鞭を打った。
 もう、嫌われたくないなどと甘えたことを言っている場合ではない。煽れば即死の毒の小瓶に、司は今手をかけている。このままにしているわけには、いかなかった。
 嫌われても、酷く傷つけてでも、この先に触れさせてはいけない。
 ゆっくりと、すみれは腕に力をこめた。司を突き放すようにして、腕の長さの分だけ、二人の間に距離を作る。

「……すみれ……」

 距離を置かれた司の眼差しが、暗く翳った。
 その腕が、ゆっくりと降ろされる。
(──傷つけた……)
 すみれは司の胸板に手を突っぱねたまま、しばらく喘いだ。
 苦しい。酸素がさっきから頭に入ってこない。呼吸が引き攣れたように乱れた。今からもっと酷い嘘をつかねばならない。こんな酷いことを口にすればきっと司をさらに傷つける。わかっていて、それでも、もう、術が無かった。
 胸の奥でもう一人の自分が慟哭する。泣き叫ぶそれを捩じ伏せた。

(……忘れちゃ、だめだ……!)

 守ろうとしているのは誰よりも愛しい、司の命ならば。

「……司さん、ごめんなさい」
 俯いたまま、すみれは呻くように囁いた。
「私が好きな人は、別にいます」
「……誰」

 感情を無くした司の声が、痛い。
 すみれは、目を閉じた。

「…………池崎かいさん、です」

 告げた瞬間──
 司が、一瞬息を呑んだ。

                    *   *   *

 その反撃は、確かに司に鋭い衝撃をもたらしていた。
 さしもの司からも血の気が引いた。あまりにもそれはタイミングが悪すぎる一言だったからだ。
 つい先日、池崎瑰からの封書を受け取ったばかりだった。あれに書かれた内容を考えれば──すみれの言葉は、嘘だと笑い飛ばすことが難しいぐらいには真実味を帯びていて、司の胸を確かに効果的に抉ったのだ。

「……それが、『外国より、遠い場所』にいる人?」

 あえて感情を削ぎ落した声で、司は問いかけた。すみれの態度の変化を一片たりとも見逃さぬ覚悟だった。
 この子は何かを隠している。
 あの夜からこっち、すみれは秘密だらけだ。

「……そうです」

 腕をつっぱねたま、俯き、目を合わせずにすみれが言う。

「俺の目を見て話して、すみれ」

 容赦なく命じた。小さく睫毛を震わせ、すみれがゆっくりと目を上げた。
 絶望とも、壮絶な覚悟ともつかぬ影が、その瞳に揺れていた。

「瑰殿に、何処で逢ったの」
「大学の、裏門まで、セイトくんに送り迎えしてもらった日があって。その時、ハンカチを落としてしまって……近くの建物に、その時、瑰さんがいて、それを見てたそうです。後日、大学で、瑰さんが私をみつけて、ハンカチを渡してくれて……知りあいました」

 意外にも細かいことをすみれは告げた。なるほど、と司は内心頷く。
 それは把握している情報と確かに変わらない。つまり、その情報は真実だった、ということだ。
 苦い思いを噛みしめながら、司は薄く笑った。

「そう。でも、だったら別に『遠い存在』でもないと思うよ。お茶もしたんでしょ?」
「……っ、なんで、知って……!」

 すみれは司からの意外な一撃にうろたえたものの──やがて目を伏せ、「……遠いですよ」と、震える声で告げた。

「あの人は、司さんと同じ世界の人です。庶民だった私にとって、瑰さんは、雲の上の人ですから」
「……」

 表情を強張らせたまま、すみれが言う。それは上っ面では整合性が取れているかのように聞こえるが、ひどく中身のない空疎な言葉だった。
 司の頭は徐々に冷えていった。

「お茶したのは何回?」
「……い、一回……です」
「それで? それだけで、『好きになって良かった』と?」
「──」

 十七年前に──いや、すみれの時間軸で言うならつい先日──苦悩の果てにすみれが告げた言葉を突き付けてやると、すみれは苦しげに目を逸らした。

「すみれ。目、逸らさないで」
「……っ」

 再び、怯えたその瞳を捕まえて、司はうっすらと微笑んだ。

「じゃ、すみれ。瑰殿と結婚してみる?」
「……は?」

 一拍置いて、信じられない言葉を聞いたとでも言うように、ぽかんとその可愛らしい唇が開く。

「だから。そんなに好きなら、結婚してみる?」
「……あ、あの。なに、を……言って……」

 すみれの手から音を立てて懐中電灯が滑り落ちた。床に落ちても幸い壊れなかったらしい。あさっての方向を照らし続けるその微かな光の中で、司はすみれと見つめ合った。

「それが君の幸せなら、婚約できるように取り計らうよ、明日にでも」
「……そん、な……」

 低く告げた司の声音に、すみれが突っぱねた手をびくりと震わせ、やがて腕を降ろした。
 人一人分の寒々しい空間を開けて改めて向かい合い──すみれが震える唇を開いた。

「そんなのは、困ります。わ、私は……司さんや、瑰さんとは、違います」
「どう違うの」
「そんな、い、いきなり、結婚とか、婚約とか言われても困ります……も、もっと、普通の人は、お付き合いとかして、喧嘩もしたりして、ようやく結婚とか、決めるものだと、思います……」

 セピアの光の中では顔色までは伺えない。だが、あからさまにすみれは怯えていた。
 ふぅん、と司は呟いた。

「そう。違う、か……俺は確かに異質な存在かもしれない。今すぐにでも君と結婚したいから」
「……」

 すみれが痛みを感じたようにきつく目を閉じた。

「ご、めんな、さい」
 悲しいほど弱々しく、すみれが囁く。

「ごめんなさい。司さん……」

 その謝罪は何に対してなのだろうか、とぼんやり司は考える。
 司の求愛を受け入れられないことに対してだろうか。
 それとも、何かを隠し、偽り続けることに対して、なのだろうか。
しばらく俯いて啜り泣くすみれを眺め──やがて司は、溜息と共にそっとすみれの両手を自らの両手でくるむように包んだ。

「……辛い想いをさせたね。ごめん、すみれ」

 司の囁きが、ひっそりと暗い廊下へ落ちた。
(あぁ……)
 一方、すみれは、もういっそ断崖絶壁へ身を投げてしまいたい衝動に駆られた。拙い嘘で傷つけたのはすみれなのに、さらに謝らせてしまった。本当に最低だ。

「司、さん……」

 ごめんなさい、とまた口をついて出てしまいそうな言葉を、すみれはぐっと呑んだ。
 きっと、すみれからの謝罪は、司をさらに傷つけるだけだ……。
 もう、これ以上虚しい言葉を重ねたくない。

「さ。一度この話は終わりにしよう」
 悲しい時間に区切りをつけるように、司が囁く。

「ただし、精霊との契約内容について聞きだすことについては、諦めたわけではないけどね」
「……」
「今は、休戦ってところかな」

 有難い申し出に、こくりとすみれは頷いた。本当にもう、このあたりで一度緊張を解いて貰わなければ限界だったのだ。

                    *   *   *

(……えっと……どう、しよ……)

 もう頭が悲しみのあまり飽和状態で働かないと思っていたが──いざ、洗面所に入ると、いったん思考が現実に対処すべく切り替わった。
 鞘人が用意してくれた着替えを確認する。司と同じような内容で女性用のパジャマと下着一式、化粧品などが全て新品で揃っていた。
一瞬、下着まで鞘人が用意したという事実に、羞恥で頬が燃えたが──よく見ればこれは全て、すみれも見覚えのあるものだ。

(本館の、ゲスト用のストックだ……なーんだ……)

 少し安堵し、すみれは頭を振って余計な羞恥を切り捨てた。青龍邸は周囲になんの商業施設もない山の中に存在しているので、ゲスト側の用意にもし何か不備があっても、決して不自由をさせないように、ありとあらゆるものがあらかじめ用意されているのである。
 とはいえ、鞘人も、すみれの胸のサイズまでは確信できなかったのだろう。ブラについては、Mサイズのそっけないスポーツブラのみが用意されていた。そのことに逆に安心する。
メイド服も新品が用意されていたが、これは明日着るものだし、まさか夜寝る時もメイド服姿というわけにはいかない。
 つまるところ、夜間はどう足掻いても、司と同じくパジャマを着るしかない、という結論になる。

 しかし──普段なら人目も気にすることはないから、上半身は素肌にパジャマを着ればいい。だが、今日はこれを着た後でも司と顔を突き合わせる羽目になるのだ。

(……ブラ無しってわけには、いかない、よね)

 真っ赤になりつつ、すみれはシャワーを浴びた後の着替えについて長考した。正直、ブラをつけてもなお、パジャマ姿を司に晒すのは恥ずかしい。しかし、冬場ならまだナイトガウンを羽織ることも出来るだろうが、今は夏だ。そんな便利な選択肢はない。
 覚悟を決め、すみれは急いでシャワーを浴びた。シャワールームの隣の部屋で司が待ってくれているのだ。
 本当はそれでもまだ怖かった。田舎のトイレを怖がって、母親にドアのすぐ外で待っててよ!と叫ぶ子供のような心細さを覚えたものの、まさか司に、ドアのすぐ外で待っていてくれと懇願するわけにもいかない。
 それに司は覗くような男ではないとわかってはいるが、シャワールームの近くに居られるのは、いささか恥ずかしくもある。
 怖さを我慢して、暗いシャワールームの中に持ちこめるだけのキャンドルを持ちこんで窓際にそっと置くと、すみれはその光の中で手早く身体を清めた。
 だが、いざ洗面所に戻りパジャマを取り出すと、覚悟を決めたはずだった胸に気恥ずかしさがこみ上げた。
 司のパジャマは綿のぱりっとした生地だったが、すみれの為に用意されたパジャマはふんわりした生地だった。
 上質な着心地のそれは、胸に大きな白いリボンがあしらってある、ワンピース型のものだ。裾にもフリルがついていて、ゲスト用の物の中でも最も可愛らしい部類のものではないか。
 もっと普通のパジャマが他にもあるのに。

(……よりにもよってこれを着ろっていうんですか鞘人さん!)

 袖を通し、鏡で全身を確認して、すみれは火照る頬を押さえた。
 これではまるで、新婚初夜の奥さんのようだ。
 下肢がすーすーして、ひどく心もとない。

「お、お待たせしました……」

 果たしてすみれがそれを着て隣の部屋へ行くと──いくつか集めたキャンドルの光のもと、書庫から出してきたらしい本を読みふけっていた司が顔を上げ、しばらくすみれをまじまじと凝視したものだった。

「……あ、あの」

 すみれは落ちつきなく視線を泳がせた。
 司の瞳の前で、やはり冷静ではいられない。自分の姿は、司の目にどう映っているのだろう。気になる。とても気になる。

「へ、んでしょうか? 何か……」

 あまりにじっと見つめられるので息も出来ない。
 苦し紛れに尋ねたすみれに、司はやがて「あぁ……」と嘆息し立ちあがった。
 手に持ったグラスの中で灯る炎を掲げてすみれを照らし、司が眩しげに瞳を細める。

「……ちょっと、理性が崩れそうになったよね」
「え?」
「可愛いよ……すみれ」

 司の声に、隠しきれない熱が滲む。瞬間、嬉しさと恥ずかしさがないまぜになり、かっとすみれの頬が燃えた。
 本当に、全てを無情に浮き上がらせる電気の灯りが無くてよかった。
 司とこうして二人パジャマ姿で向き合って、甘い言葉を囁かれたりしたら、顔色に全ての感情が露わになってしまう。
 電気の灯りの下では、自分の想いを隠し通す自信が、全くなかった。この淡いキャンドルの光の中ですらそれは怪しい。

「さて、問題があります」
 キャンドルを浮かべたグラスを片手に持ったまま、司が少しおどけるように囁いた。

「君はここを掃除してくれたから、もう知ってると思うけどね。ここ、ベッドは一つしかないんだよ」
「……あ」

 司が言わんとしていることを察し、すみれも愕然と目を瞠った。
 そうだ。ここは元々家族だけで過ごす内輪だけの別荘として用意されたものだから、わりと慎ましやかな建物だった。
 本来二つあったらしい寝室のうち一つは、内装の傷みも酷かった為、現在は物置になってしまっている。
 今は、司がたまに仮眠に使うらしいベッドが、残りの寝室に一つ残されてあるのみだった。
 ダブルベッドとはいえ──恋人同士でもない関係の男女が一緒に眠るには狭い。

「君が、ベッドで寝てよ。俺はいいから」
 司が優しい目でそんなことを言う。すみれは慌てた。

「ちょ、ちょっと待ってください。私がベッドですか?」
「うん。だって、女の子の君を床やソファーに寝かせられないよ」
「……で、でも、その……使用人が旦那様をベッドから追い出すなんておかしいと思います」
「可愛いパジャマ姿で何を言ってるのかなぁ、この子は」

 こつん、と額同士を不意にくっつけられ、すみれは息を呑んだ。
 唇が触れそうなほど間近で、司が甘く微笑む。

「俺はそもそも根本的に君を使用人だとは思っていないし、今は『メイド』さんにではなく、俺の大切な女性である晴野すみれさんにお話しているんだけどね?」
「……っ」

 瞬間沸騰湯沸かし器のごとく、すみれは耳まで熱く染めて絶句した。

(ま、またっ……そういう殺し文句を言う……この人は…っ!)

 くっつけられた額が痺れるようだった。司の存在を感じて、息もままならない……。
 胸が、甘苦しく疼いた。
あんな酷い振り方をしたすみれに、相変わらず司は優しいのだ。まるでいつものように態度が変わらない──というより、むしろ告白したからだろうか、前より司が大胆にすみれへの愛情を表現してくれることに安堵しながらも──そんな司が内心、何を想っているのだろうと思うと、すみれはいたたまれなくなる。
 どこか名残惜しそうに、司が再び額を離し囁いた。

「さ。君はベッドで寝てね。俺のことは気にしなくていいよ」
「気にします」
「いーの。別に徹夜は慣れてるよ。書庫で本でも読んで過ごすから」

 本当に徹夜するつもりらしく、司が平然と言う。
 すみれは若干青ざめた。

「しょ、書庫に、いくんですか?」
「ん? うん。書庫だと読む本には困らないし」

(いやそういう話じゃないんです司さんっっ!!!!)

 すみれは身震いした。
 こともあろうに司は一人で書庫にいってしまうつもりらしい。ということは、すみれは嵐の夜にたった一人、停電中の古めかしい洋館の寝室に取り残される、ということだ。
 絶対に……寝られない。
 司がいるから今こうして耐えていられるが、独りだったら気が狂いそうなほど怖いに違いない。それぐらいに電気の灯らぬ古い洋館というのは独特の雰囲気を持っている。キャンドルの炎も一度怖いと思い始めると、炎によって生み出される影は、闇と影をゆらりとさせ、得体のしれぬものへと変えてしまう。
 幽霊なんて幸い見たことのないすみれだが、今夜が記念すべき初体験となるかもしれない。

(そんなぁ……)

 顔を強張らせたすみれを見下ろし、司がそっと笑った。

「もしかして、怖い?」
「う……」
「ま、停電中だし、外はこんな嵐だしね……心細い気持ちはわかるんだけど」

 困ったな、と司が呟く。

「そんな泣きだしそうな目をされたら、置いて行けなくなるよ……」
「い、行かなければいいと思います」

 もうこの際必死だった。
 とにかく一人きりだけは避けたい。正直、羞恥より何よりも、独りで寝室に取り残される恐怖が勝った。
 そっと司の手首を握り締め、すみれは頭を下げた。

「すみません。すごく怖いです。お願いです一緒にいてください」
「……」

 司が困ったように黙りこむ気配を感じる。ますます泣きたくなって、すみれは頭を下げたまま、羞恥を捩じ伏せて声を上げた。

「そ、その。ベッド、なんとか二人で寝られますしっ……い、一緒に、寝れば、いいと思います……わたし隅っこで小さくなってますから。だから……」
「…………」

 それでも、まだ司は黙っている。

「……お、願いします……」
 俯いたまま、ついに声に涙を滲ませたすみれの前で、司が深い溜息をついた。

「……すみれ」
「は、い」

 そっと目を上げれば、微かに苦しげな司の眼差しにぶつかった。

「わかってるの? 俺は、君を好きなんだよ」
「……」
「寝込み、襲われてもいいの? 嫌だよね、そんなの」
「……っ、う……」

 すみれは、涙目で絶句した。
 嫌だよね? と言われても困る。嫌じゃないものをまた嫌だと嘘を重ねなければいけないのだろうか。

(ほんとは、この人と、両思いなのに)

 触れられて、嫌なはずなどないのだ。
 すみれは途方にくれて司を見上げた。もう言葉が尽きた。
 こっぴどく振った男に一緒のベッドで寝てくれと懇願することがどんなに酷く都合のよい行為なのか、そんなことはすみれだって理屈では解っている。そう、解っているのだ。
 だが──本当に、洒落抜きで、独りは怖い。それにやはり疲れているであろう司を、床やソファーで寝かせるなんて許容し難かった。かといってすみれが床で寝るのは司も許さないだろう。
 今なら土下座も辞さない気分だった。もう一度懇願しよう、と本気で膝を折りかけた時だった。

「……安心しな。襲ったりしないよ、すみれ」

 ふと、優しい目で、司が苦く微笑んだ。
「わかったよ。傍にいる。……俺の負けだよ、すみれ」

                    *   *   *

 仕切りも作らず、二人は同じベッドの上に横たわった。
 本気で隅っこで小さくなり、司の邪魔にならないようにしようとするすみれに、司はひとしきり笑って手招きしたものだった。

「いいから、普通に寝な。俺は背中を向けるから、安心して」

 別に司を警戒などしてはいない。いや男性扱いしていないという意味ではない。しかし、司は襲わない、と言ったし、すみれはそんな司を信じていた。
 無理やりここで襲うような男でないことは、よくわかっている。
 すみれは、本当に司の邪魔になりたくないだけだったのだ。気を悪くさせただろうか……?
 すみれは少し慌てて、タオルケットを握り締め声を上げた。

「あ、あの」
「ん?」

 背を向けようとした司が、優しい目で振りかえる。
 誠実さと、微かな熱情を同時に孕む眼差しは、穏やかそうに見えて何処か狂おしいものだったから──すみれの心臓はまたも早鐘を打ち始めた。
 この深い眼差しを前にして、安い謝罪など何の意味があるだろう。
 司はすみれを愛してくれていて、
 なのに、すみれはそれに応えられないのだ……。

「……おやすみなさい、司さん……」
「うん。おやすみ、すみれ」

 微笑んで、司が再び背を向ける。すみれもそっと背を向けて眠ろうとして──だが、また言い忘れたことを思い出し、その身体の動きを止めた。

「……あ、あの……司さん」
「んー?」

 司の方を向いたまま囁いたすみれに、司がのんびりと背中で応じる。そのことにどこか安心しながらも、すみれは申し訳ない気持ちで囁いた。

「こんな時に、ごめんなさい。私、あの、お邸の花瓶……割ってしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」
「あぁ……」

 くすっと小さく司の背が笑う気配がした。

「じゃ、弁償代わりに、今度こそ膝枕お願いしようかな」
「──」

 一瞬、胸が詰まり、返答が遅れた。
 そうだ。前にメッセージで膝枕をねだられた。だがあの日すみれは過去へと飛び……そしてまさかの幼い司に膝枕をする羽目になったのだ。
 けれど、現在の司には、未だ膝枕の約束を果たせていない。それどころではない怒涛の日々だった。
 横たわる沈黙に何を思ったのだろう。司は一瞬後、ふと吐息した。

「……嘘だよ。別に無理にしなくていいからね」
「司、さん……」
「でも、そうだね……。仕事中に泣いてしまうほどの君の悲しみを癒せる権利が──せめて欲しいよ」

 ぽつり、司が漏らしたその囁きに、すみれは愕然と目を見開いた。
(……あぁ)
 胸郭が、強く突き上げる涙の気配に、震えた。
 これから何度、こんな悲しい言葉を交わさなければならないのだろう。

「おやすみ、すみれ」

 微かに身じろぎし、呟いた司の背が、先刻よりも少し丸く小さくなった──そんな気がした。

 そうして背中あわせになり、おやすみを言いあって目を閉じたところで、こんな切なさを抱えて寝られないことはわかっていた。
 すみれは、嵐の轟音の中で、司の寝息にひそかに聞き耳を立てた。
 だが、背中合わせの体勢では、激しい雨音の中で寝息を正確に聞き取ることなど不可能だ。
 かなりの時間を置いて、すみれはそっと、司に当たらぬように慎重に寝がえりを打った。
 司は薄手のタオルケットを腰の辺りへおざなりに掛けただけで眠っている。その愛しい背をこっそり見つめ、すみれは瞳を細めた。

 嬉しいことと、悲しいことが、一度に押し寄せた嵐の夜の終わりに、それでもこうして司は傍で眠ってくれる。
 司が、すみれを、十七年も前からひたすら一途に想ってくれていたのだという事実が、震えるほど嬉しい。
それと同じ深さで、気がおかしくなりそうなほど苦しかった。
 嘘を、ついてしまった。
 この先、何度司を傷つけ──そのことに自分も傷つく、そんな不毛な行為を繰り返すのだろう。果ては、見えない。

「……んー……」

 不意に、司が喉奥で微かな声をたて、寝がえりを打った。
 向かい合う形になってはっと息を呑んだすみれの手に、司の左手が重なった。それだけではすまなかった。
 司の手が、無意識にだろうか、すみれの手をぎゅっと掴んだのだ。

「……っ!」

 びくんとして、すみれは司の顔を確かめた。
 枕元に置いたLED照明の蝋燭を模した微かな灯りで、司がやっぱり目を閉じていることはわかった。規則正しい寝息を、今度は微かに感じた。

(……び、っくり、したぁ……)

 どうやら寝ている司が無意識に手を掴んだらしい。
 驚きが去ると、切ないよろこびが胸を苛んだ。司の手のぬくもりがひどく愛しい。あぁ、と吐息し、すみれは目を細めた。
 ……泣いて、しまいそうだ。

(司さん、好きです……大好きです)

 そっと彼を起こさぬように、司の手を空いたすみれの手で上からも柔らかく包みこんでみた。
 このまま手を引き寄せて口づけてしまいたい。
司は寝ているのだからきっと不可能ではない──一瞬その誘惑に負けそうになり、だがすみれは歯を食いしばって耐えた。

 万が一、今この瞬間にでも司が起きてしまったら、口づけた言い訳は苦しいものになる。想いを悟られたら全ておしまいなのだと、何度も強く自分に言い聞かせ、すみれは吐息を震わせた。
 苦しい。
 片想いだと思っていたこの数カ月、ひたすらに苦しかった。
 だけど今は──もっと苦しい。
甘く悦びで疼く胸の裏側が、同じだけ悲しさに焼け付くようだ。
 涙が、音もなく零れ落ちた。
 声を出して泣くわけにはいかない。静かに、涙が流れ落ちるままに任せ、すみれはしばらく黙って泣いた。
 自分をこれほどに深く愛してくれている司を、この先も拒絶し続けなければいけないのだろうか。
 絶望のあまり、気が遠くなりそうだ。

(……あぁ、そ、っか……)

 不意に、腑に落ちた。
 若くして死ずべき運命だった司の命を拾う為には、犠牲は避けられないと精霊は確か言った。
 なるほど。そうか。確かにこの痛みは激烈だ。
 すみれにとって、それは少なくとも現時点において、自分の命を半分差し出すことよりもまだ苛烈な痛みだった。
 それぐらいの犠牲は必要だったということなのだろう。考えてみれば当然だった。救いたいのは司の命なのだ。
 涙もなく差し出せる犠牲では、安過ぎる。
 きっと、すみれにとって一番苦しい犠牲を、奇跡は代償として求めたのだ。それが、理屈でなく解った瞬間だった。
 やがて、すみれは名残惜しい想いを振り切り、司の手に被せていた自分の手を離した。このまま寝てしまったら、言い訳できない気がしたからだ。
 司に握られている自分の左手だけは、どうしようもなかった。

(……これぐらい、いいよね?)

 そっと目を閉じ、すみれは泣き笑いした。寝ぼけてすみれを掴んでくれた司の手から、確かに伝わるぬくもりがある。
 きっとこのぬくもりは、神様がくれたささやかな慰めなのだ。
 享受、させてもらおう。
 そう決めて、握られた手を動かさずそのまますみれが目を閉じ──しばらくたって規則正しい寝息を漏らし始めた頃。

「……」
 ゆっくりと、司の瞳が開かれた。

 やがて世界はうっすらと光を帯びてゆく。
 鳥のさえずりが響きだす頃には、風雨は夢のように去っていた。 

 朝靄たゆたう世界の中心で、
 司は、ずっとすみれを見つめ続けていた。

 ひたすらに、狂おしく。
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