9 / 29
第壱章 色は匂へど
6話 紅の企み
しおりを挟む
「華屋の椿に惣一郎が差し紙を出した、だって?」
飲もうとしていた茶を湯呑ごと落として紅は声をひっくり返した。
琥珀は相変わらずの紅の所作の酷さに別段慌てることもなく、畳に染みが残る前に湯呑を茶托に戻して零れた茶を手拭で拭いた。
「揚げ屋の亭主がそう言ってたんで間違いないと思いんす」
ちゃきちゃきと片付けながら琥珀は昨夜の亭主の言葉を思い出す。
大見世との繋がりが深い吾妻屋は元々酒が入るといらぬことまで良く喋る性質で、その日も琥珀が蔵出しの吟醸を持って行くと、途端に機嫌が良くなり小遣いまで出そうとする有様だった。
布団の中で冷えた酒を盃に注ぎ
「あぁ、牡丹花魁の新造の競り? かははぁ、んな物ぁ数え切れねぇよ。あぁ、けど松川屋が乗り出したから金額は跳ね上がったってぇ話だぜ?」
と盃を煽りながらよく滑る舌を回らせた。
「ちゃんと、本人の口からそう聞いたのかい?」
「あい、いつもの様に酔わせて、褥で聞きんした。酔いのための戯言ではありんせん」
昨夜は……、酒だけではない。褥での情事を琥珀は思い出す。
その、後ろめたささえなければ……。琥珀は褥での情事が嫌いではなかった。
「惣一郎……、あいつ」
ぎり、と奥歯を噛み締めて紅は眉間に皺を寄せた。
惣一郎が遊び歩いているのも牡丹の馴染みであるのも承知で間夫契りをしていたが、そもそも牡丹に張り合う積もりなどはなかったのだ。
だというのに己の客を七人も奪われてへらへらと見世格の違いを受け入れられる程安い躾を受けて来た訳ではない。
大野木屋の看板が掛かっているのだ。
「牡丹と手を切りそうだからって動向を調べてみりゃ、なんてこったい」
間夫契りゆえに正式な馴染みでも敵娼でもないが惣一郎を含めれば奪われた男は八人。
琥珀は更に仕入れた情報を紅に伝えた。
「結局松川屋様と幾つかの店主様は張り合ったけんど、今回は見送るしかなかったそうでありんす。椿花魁を敵娼にする際に動いた金子は、牡丹花魁への手切れ金二百両、椿花魁への突き出し申し入れ金五百両、そして支度金として三百両と合わせて千両だそうでありんす」
先日からやれ五百だの千だのと中見世では決して積まれるはずのない大金を見せびらかすように噂を広めている。
大見世の威厳を保つためとは言え露骨過ぎだ。
「松川屋の大旦那だってわっちにそんな大金を詰んだことありんせんのに……、惣一郎にそんな大金使わせるなんざ大した気に入りようじゃないかい」
「華屋に通っている馴染みに本家を京に持つ大店のご子息がいらっしゃるんで、その方との取引を成立させる条件がある、と仰っていたそうでありんす」
「随分でかい約束をしたもんだね」
「大店同士が繋がるのはやっぱり大見世でありんすから……」
大見世は女を抱くためだけに出入りする客は少ない。
美しい妓が侍る座敷で優雅に酒をたしなむ場は、大店同士が互いの繁盛振りを語り、提携しているのであれば更に絆は深く、繋がりを求めるならば、十分な贅沢をさせ店の規模を知らしめて商談を成立させることも可能だ。
「ふんっ、成功するかどうかも判らない約束に千両。大博打にも程がありんすなぁ」
「あの、姐さん……。あっちはもうこんなこと続けられんせん」
「こんなこと? 初見世前に客と寝ることがかい」
褥に入ること自体が嫌なのではない、どうせいずれはそれが仕事になるのだ。嫌がっていては話にならない。
だが。
「今回を限りに茶屋の亭主や番所の方と閨に入るんはやめんと、噂が大きくなったらそれこそ椿花魁になん勝てやせん。楼主にも花車にも遣り手にも申し訳が立たん」
突き出し、初見世、つまり水揚げをする女は基本生娘の筈なのだ。
「はっ、何甘ったれてんだい。どの見世だって初見世に本物の生娘だなんているもんかい。ちょっと痛がる素振りをして、絞めた鶏の血でも布団につけときゃ破瓜の血だと思うさ」
嘘が当たり前の遊郭で、妓の水揚げを本物の生娘だと信じているのは相当なぼんくらだけだろう。大抵は嘘も寛容に受け入れるのが男の粋という物なのだ。
「確かに質の悪い見世などでは、同じ女郎を違う客に何度も生娘だと偽り、高い揚げ代を吹っ掛けたりするのはあっちも知っておりんす」
「小見世じゃその程度常套手段さ。それだけじゃない、中見世じゃ楼主が自分の見世の妓を突き出し前に食っちまうご時勢さ。具合を確認するとかなんとか大義名分掲げてねぇ、笑い話にもなりゃしない」
その程度、琥珀だって十分に知っている。
忘八と呼ばれるクズが多い楼閣の集まりだ。
見世の中で何が起ころうが、ここは嘘偽りが誠と言われる世界なのだ。
しかし、それは中見世止まりの話。
少なくとも大見世ではそんな暴挙は赦されていないと聞いている。
「華屋の、椿さんは生娘だと、聞きんした」
突き出しをきれいなままで迎えられる羨ましさを感じながら琥珀は目を伏せて震わせる。
「ふんっ、どうだか。別嬪だってぇなら尚更、男がいない筈無いだろ。……そうだ。ふふっ、ふははっ、あはっ」
なんの悪巧みを思い付いたのだろう、唇の端を醜く歪めて吊り上げるこの笑い方が決して良心的である筈もないのだ。
「惣一郎を呼んできとくれよ。今頃なら揚げ屋通りの茶屋で夜見世が出るのを待ってるだろうからさ。わっちはもう張見世に出る時間だからね。あーあ、看板なんて名ばかり。お茶挽くのだけはごめんこうむりたいからねぇ」
惣一郎様を?
どうして。
「あ、あい……」
しかし、惣一郎に想いを寄せている琥珀は、姐の企みがいかなるものであったとしても彼と逢えるなら、と醜い下心が顔をのぞかせる。
「く、くふふ……、 当日の牡丹の顔が見ものだねぇ、ふふふ、ふは、あーはっは」
楼閣中に響き渡る程笑い声を高く響かせながら紅は悦に入る。
琥珀は一抹の不安を覚えたが、仕方なく揚げ屋通りに向かった。
飲もうとしていた茶を湯呑ごと落として紅は声をひっくり返した。
琥珀は相変わらずの紅の所作の酷さに別段慌てることもなく、畳に染みが残る前に湯呑を茶托に戻して零れた茶を手拭で拭いた。
「揚げ屋の亭主がそう言ってたんで間違いないと思いんす」
ちゃきちゃきと片付けながら琥珀は昨夜の亭主の言葉を思い出す。
大見世との繋がりが深い吾妻屋は元々酒が入るといらぬことまで良く喋る性質で、その日も琥珀が蔵出しの吟醸を持って行くと、途端に機嫌が良くなり小遣いまで出そうとする有様だった。
布団の中で冷えた酒を盃に注ぎ
「あぁ、牡丹花魁の新造の競り? かははぁ、んな物ぁ数え切れねぇよ。あぁ、けど松川屋が乗り出したから金額は跳ね上がったってぇ話だぜ?」
と盃を煽りながらよく滑る舌を回らせた。
「ちゃんと、本人の口からそう聞いたのかい?」
「あい、いつもの様に酔わせて、褥で聞きんした。酔いのための戯言ではありんせん」
昨夜は……、酒だけではない。褥での情事を琥珀は思い出す。
その、後ろめたささえなければ……。琥珀は褥での情事が嫌いではなかった。
「惣一郎……、あいつ」
ぎり、と奥歯を噛み締めて紅は眉間に皺を寄せた。
惣一郎が遊び歩いているのも牡丹の馴染みであるのも承知で間夫契りをしていたが、そもそも牡丹に張り合う積もりなどはなかったのだ。
だというのに己の客を七人も奪われてへらへらと見世格の違いを受け入れられる程安い躾を受けて来た訳ではない。
大野木屋の看板が掛かっているのだ。
「牡丹と手を切りそうだからって動向を調べてみりゃ、なんてこったい」
間夫契りゆえに正式な馴染みでも敵娼でもないが惣一郎を含めれば奪われた男は八人。
琥珀は更に仕入れた情報を紅に伝えた。
「結局松川屋様と幾つかの店主様は張り合ったけんど、今回は見送るしかなかったそうでありんす。椿花魁を敵娼にする際に動いた金子は、牡丹花魁への手切れ金二百両、椿花魁への突き出し申し入れ金五百両、そして支度金として三百両と合わせて千両だそうでありんす」
先日からやれ五百だの千だのと中見世では決して積まれるはずのない大金を見せびらかすように噂を広めている。
大見世の威厳を保つためとは言え露骨過ぎだ。
「松川屋の大旦那だってわっちにそんな大金を詰んだことありんせんのに……、惣一郎にそんな大金使わせるなんざ大した気に入りようじゃないかい」
「華屋に通っている馴染みに本家を京に持つ大店のご子息がいらっしゃるんで、その方との取引を成立させる条件がある、と仰っていたそうでありんす」
「随分でかい約束をしたもんだね」
「大店同士が繋がるのはやっぱり大見世でありんすから……」
大見世は女を抱くためだけに出入りする客は少ない。
美しい妓が侍る座敷で優雅に酒をたしなむ場は、大店同士が互いの繁盛振りを語り、提携しているのであれば更に絆は深く、繋がりを求めるならば、十分な贅沢をさせ店の規模を知らしめて商談を成立させることも可能だ。
「ふんっ、成功するかどうかも判らない約束に千両。大博打にも程がありんすなぁ」
「あの、姐さん……。あっちはもうこんなこと続けられんせん」
「こんなこと? 初見世前に客と寝ることがかい」
褥に入ること自体が嫌なのではない、どうせいずれはそれが仕事になるのだ。嫌がっていては話にならない。
だが。
「今回を限りに茶屋の亭主や番所の方と閨に入るんはやめんと、噂が大きくなったらそれこそ椿花魁になん勝てやせん。楼主にも花車にも遣り手にも申し訳が立たん」
突き出し、初見世、つまり水揚げをする女は基本生娘の筈なのだ。
「はっ、何甘ったれてんだい。どの見世だって初見世に本物の生娘だなんているもんかい。ちょっと痛がる素振りをして、絞めた鶏の血でも布団につけときゃ破瓜の血だと思うさ」
嘘が当たり前の遊郭で、妓の水揚げを本物の生娘だと信じているのは相当なぼんくらだけだろう。大抵は嘘も寛容に受け入れるのが男の粋という物なのだ。
「確かに質の悪い見世などでは、同じ女郎を違う客に何度も生娘だと偽り、高い揚げ代を吹っ掛けたりするのはあっちも知っておりんす」
「小見世じゃその程度常套手段さ。それだけじゃない、中見世じゃ楼主が自分の見世の妓を突き出し前に食っちまうご時勢さ。具合を確認するとかなんとか大義名分掲げてねぇ、笑い話にもなりゃしない」
その程度、琥珀だって十分に知っている。
忘八と呼ばれるクズが多い楼閣の集まりだ。
見世の中で何が起ころうが、ここは嘘偽りが誠と言われる世界なのだ。
しかし、それは中見世止まりの話。
少なくとも大見世ではそんな暴挙は赦されていないと聞いている。
「華屋の、椿さんは生娘だと、聞きんした」
突き出しをきれいなままで迎えられる羨ましさを感じながら琥珀は目を伏せて震わせる。
「ふんっ、どうだか。別嬪だってぇなら尚更、男がいない筈無いだろ。……そうだ。ふふっ、ふははっ、あはっ」
なんの悪巧みを思い付いたのだろう、唇の端を醜く歪めて吊り上げるこの笑い方が決して良心的である筈もないのだ。
「惣一郎を呼んできとくれよ。今頃なら揚げ屋通りの茶屋で夜見世が出るのを待ってるだろうからさ。わっちはもう張見世に出る時間だからね。あーあ、看板なんて名ばかり。お茶挽くのだけはごめんこうむりたいからねぇ」
惣一郎様を?
どうして。
「あ、あい……」
しかし、惣一郎に想いを寄せている琥珀は、姐の企みがいかなるものであったとしても彼と逢えるなら、と醜い下心が顔をのぞかせる。
「く、くふふ……、 当日の牡丹の顔が見ものだねぇ、ふふふ、ふは、あーはっは」
楼閣中に響き渡る程笑い声を高く響かせながら紅は悦に入る。
琥珀は一抹の不安を覚えたが、仕方なく揚げ屋通りに向かった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる