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第壱章 色は匂へど
12話 一抹の不安
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初見世の座敷はとんでもない数の幇間と内芸者が呼ばれ、新造や禿は今日のために着飾って得意の技芸を披露し、酒や料理は大盤振る舞い、さらに紙花も舞い散る豪華な座敷が開かれた。
この座敷に掛かった費用などを聞けば、小さな店一つ建てられるくらいの金だと町人たちは驚いたことだろう。
そこに人形の様に硬い表情のまま椿は座っていた。
松川屋惣一郎———。
この人が己の初見世の相手となる。
宴も酣、枕杯を交わすため椿の目の前に座った惣一郎の顔を見ているのか見ていないのか、椿は青褪めたまま少し震えている。
けれどもそれを支えてくれる蓮太郎はいない。
———いや、今日の夜だけは見られたくはなかった。
盃に注がれた酒を惣一郎が煽ると、同じ盃を椿に渡す。三々九度とまでは行かないが仮の祝言の様なものである。
震える両手で盃を丁寧に受け取ると
「この盃を裏返したらどうなるのだろう」
と椿の脳裏にろくでもない考えが浮かぶ。覚悟して来た筈なのに、怖い。
幼いと言われ続けたこの体で男を受け入れられるのだろうか。そもそも惣一郎はかなり背が高く大柄だ。
すらりとしているが背丈の小さな椿からしてみればまるで巨人のように大きい。
盃を口元に運んでゆっくりと飲み干すと、心地よい上質な大吟醸が喉を潤した。
途端に幇間が「枕の契りでござーい」と叫んでどんちゃん騒ぎとなる。
騒然とした座敷に、新造が牡丹に耳打ちする。「中引けでござんす」と。
いよいよ水揚げの時になったのだ。
惣一郎は新造に連れられ椿の寝間に誘われて行った。
牡丹は椿を私室に連れて行くと
「水揚げおめでとうござんす」
と形ばかりの祝辞を口にする。
「椿、おんしはもう新造ではありんせん。今までの様に男にお開帳を求められたからと悲鳴を挙げてはなりんせん」
「あい」
通常、特に大見世では振袖新造に手を出すのはご法度だ。
姐の名代として褥を共にしたとしても決して新造を抱いてはならない。
それ故に手を出されそうになった新造はまず、悲鳴を挙げて助けを呼ぶことを教え込まれる。
だがそれも今日で仕舞だ。
「しっかりとお勤めしなんせ」
「あい」
声を掛けながら椿の簪を一本ずつ丁寧に外していく。
簪や櫛、笄などは武器になりかねないため褥入りの際はすべて外さなければならないのが遊郭の掟だ。殺人や無理心中などが絶えない廓で少しでもそんな悲劇を減らすため、客が武士だった場合腰元の二本差しも見世に預けねばならない。
仕掛けを外し、大きな帯を取ると少し身軽になって、幼い椿の小さな体が際立つ。
あと一年、本来なら十七が水揚げの年でありんしょう!
楼主に詰め寄ったのはほんのひと月前。
幼くも男達が椿の美しさに、技芸に、機転の巡りの早さに、その類稀なる才に水揚げせねば華屋と縁を切ると詰め寄ったが故、忍虎は苦渋の表情ながらも椿の水揚げを決めた。
楼主に詰め寄ったとてどうにもならぬと察して牡丹は悔しいながらも椿の初見世を準備するしかなかった。
どうか何事もなく過ぎますように、と牡丹は心から願う。
椿の部屋は様々に新調された漆塗りの調度と入れ替えられた新しい畳で、井草の良い香りが漂っている。そこに座布団と煙管盆を持ち込み、牡丹は今日客を取らず妹の水揚げを滞りなく進めるために控えることとなる。
椿と二人並んで、牡丹は惣一郎に手を付いて挨拶をする。
「惣一郎様、今日より牡丹に替わり、妹椿がお勤めさせて戴きんす。何卒、椿をよろしくお頼み申しんす」
「不束者でございんすがなるたけ精進してお勤めいたしんすので、よろしくお頼み申しんす」
と椿も深々と頭を下げる。
「ん、牡丹、お疲れさんだったな。ゆっくり休んでな」
そう言って惣一郎は椿を連れて寝間へと消えた。
長かった……。長い七日間だった。けんどやはり解せぬ。
残り六日間の道中、椿は危なげなく外八文字をきれいに描いていた。
仕込みの時からそう、椿は何でも、わっちの言うことは一度聞けば思う通りにこなした。三味線も、歌も、踊りも、おきちゃを迎える作法も全て……。 八文字も内も外もきれいに踏んだ。
度胸のある子だから、本番で緊張のあまり、とは考えにくい。
それが何故初の道中で転ぶなど……。高下駄の前歯が折れる程の大惨事になったのか。今更、考えても詮無きことでありんすが……。
ふんわりと吐き出した煙が花の様に咲いて散る。
埒の明かない考えは大きな不安となって牡丹の心を埋め尽くす。何か予想のできない画策がどこかで起こっている。
だが、一体それによって誰が得をするというのだろう?
この座敷に掛かった費用などを聞けば、小さな店一つ建てられるくらいの金だと町人たちは驚いたことだろう。
そこに人形の様に硬い表情のまま椿は座っていた。
松川屋惣一郎———。
この人が己の初見世の相手となる。
宴も酣、枕杯を交わすため椿の目の前に座った惣一郎の顔を見ているのか見ていないのか、椿は青褪めたまま少し震えている。
けれどもそれを支えてくれる蓮太郎はいない。
———いや、今日の夜だけは見られたくはなかった。
盃に注がれた酒を惣一郎が煽ると、同じ盃を椿に渡す。三々九度とまでは行かないが仮の祝言の様なものである。
震える両手で盃を丁寧に受け取ると
「この盃を裏返したらどうなるのだろう」
と椿の脳裏にろくでもない考えが浮かぶ。覚悟して来た筈なのに、怖い。
幼いと言われ続けたこの体で男を受け入れられるのだろうか。そもそも惣一郎はかなり背が高く大柄だ。
すらりとしているが背丈の小さな椿からしてみればまるで巨人のように大きい。
盃を口元に運んでゆっくりと飲み干すと、心地よい上質な大吟醸が喉を潤した。
途端に幇間が「枕の契りでござーい」と叫んでどんちゃん騒ぎとなる。
騒然とした座敷に、新造が牡丹に耳打ちする。「中引けでござんす」と。
いよいよ水揚げの時になったのだ。
惣一郎は新造に連れられ椿の寝間に誘われて行った。
牡丹は椿を私室に連れて行くと
「水揚げおめでとうござんす」
と形ばかりの祝辞を口にする。
「椿、おんしはもう新造ではありんせん。今までの様に男にお開帳を求められたからと悲鳴を挙げてはなりんせん」
「あい」
通常、特に大見世では振袖新造に手を出すのはご法度だ。
姐の名代として褥を共にしたとしても決して新造を抱いてはならない。
それ故に手を出されそうになった新造はまず、悲鳴を挙げて助けを呼ぶことを教え込まれる。
だがそれも今日で仕舞だ。
「しっかりとお勤めしなんせ」
「あい」
声を掛けながら椿の簪を一本ずつ丁寧に外していく。
簪や櫛、笄などは武器になりかねないため褥入りの際はすべて外さなければならないのが遊郭の掟だ。殺人や無理心中などが絶えない廓で少しでもそんな悲劇を減らすため、客が武士だった場合腰元の二本差しも見世に預けねばならない。
仕掛けを外し、大きな帯を取ると少し身軽になって、幼い椿の小さな体が際立つ。
あと一年、本来なら十七が水揚げの年でありんしょう!
楼主に詰め寄ったのはほんのひと月前。
幼くも男達が椿の美しさに、技芸に、機転の巡りの早さに、その類稀なる才に水揚げせねば華屋と縁を切ると詰め寄ったが故、忍虎は苦渋の表情ながらも椿の水揚げを決めた。
楼主に詰め寄ったとてどうにもならぬと察して牡丹は悔しいながらも椿の初見世を準備するしかなかった。
どうか何事もなく過ぎますように、と牡丹は心から願う。
椿の部屋は様々に新調された漆塗りの調度と入れ替えられた新しい畳で、井草の良い香りが漂っている。そこに座布団と煙管盆を持ち込み、牡丹は今日客を取らず妹の水揚げを滞りなく進めるために控えることとなる。
椿と二人並んで、牡丹は惣一郎に手を付いて挨拶をする。
「惣一郎様、今日より牡丹に替わり、妹椿がお勤めさせて戴きんす。何卒、椿をよろしくお頼み申しんす」
「不束者でございんすがなるたけ精進してお勤めいたしんすので、よろしくお頼み申しんす」
と椿も深々と頭を下げる。
「ん、牡丹、お疲れさんだったな。ゆっくり休んでな」
そう言って惣一郎は椿を連れて寝間へと消えた。
長かった……。長い七日間だった。けんどやはり解せぬ。
残り六日間の道中、椿は危なげなく外八文字をきれいに描いていた。
仕込みの時からそう、椿は何でも、わっちの言うことは一度聞けば思う通りにこなした。三味線も、歌も、踊りも、おきちゃを迎える作法も全て……。 八文字も内も外もきれいに踏んだ。
度胸のある子だから、本番で緊張のあまり、とは考えにくい。
それが何故初の道中で転ぶなど……。高下駄の前歯が折れる程の大惨事になったのか。今更、考えても詮無きことでありんすが……。
ふんわりと吐き出した煙が花の様に咲いて散る。
埒の明かない考えは大きな不安となって牡丹の心を埋め尽くす。何か予想のできない画策がどこかで起こっている。
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