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【二】雲影
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上士、それも藩の重臣の家とあっては、妻の担う役割も下士のそれとはまったく違う。
芦原家にはひとりいるかどうかの下女下男の類いも、蓮本家では二十をくだらない。
そうした使用人に指示を出し、飯炊きから繕い物、庭の畑仕事に至るまで、家主に代わり奥を取り仕切るのが妻の役目だ。
吉夜の養父・主膳の妻が他界してからの約二年間、蓮本家は後妻を置いていない。
それでもどうにか家の者が回していたので、それぞれのやり方があるようだった。
香代という嫁が来たからといって、すぐに従うとも思えない。
香代自身、田畑の世話や食事の支度の経験はあるものの、自分が動くのと人を動かすのでは訳が違う。
だからこそ、いきなり取り仕切ろうとするのではなく、まずは受け入れてもらうことから始めることにした。
使用人の顔と名前を覚え、少しでも時間を見つけては、声をかけて仕事を労う。
それぞれが得意とすることや性格、指示の伝え方など、気づいたことは細々と手帳に書き記した。
当然のことだが、話すのが好きな者もいればそうでない者もいる。けれど、相手が話す気になるなら、どんな話でも聞いてやった。
人の話を聞くのは、元から香代の得意とするところだ。ひと月が経つ頃には、相談されることも増えてきた。
そんなとき、香代は独断するのではなく、事情を知る者に話を聞き、必要があると思えば吉夜に確認した上で、答えを出すようにした。
長月も半ばにさしかかった秋分の日、縁側に出た香代に、下男が声をかけてきた。
「奥さま。庭の作物のことですが……」
「ああ、そろそろまた畑を耕さないといけませんね。」
うなずいた男の股引は、膝が破れている。香代はあらと口を押さえた。
「衣に穴が開いていますね。新しいものを繕いましょうか」
「い、いえ。まだ、使えますので」
「それなら、傷んだところに布をあてましょう。どちらにしろ、そのままにしていてはすぐ駄目になりますから……着替えたら、持っておいでなさい」
「いえ、そんな。奥さまにお願いするほどのことでは……」
「それくらいの針仕事なら私にもできます。毎日よく働いてくれている証拠なのですから、遠慮せずお持ちなさい」
やりとりを交わしていると、後ろに人の気配がした。
振り向けば、そこには吉夜が立っている。香代は慌てて膝を折り、頭を下げた。
「申し訳ございません。お出迎えもいたしませんで……」
「いや、いい。こっそり帰ってきたんだ」
吉夜は笑って、羽織の紐をほどいた。香代は後ろに回り込んで脱ぐのを手伝う。
薄い絽の羽織から、少し苦みのある匂いが香った。
「……今日も、殿とお香を?」
「ああ……いや、今日はかけ香を頼まれてな。選んだはいいが焚いてみてほしいと言われて、少し焚いてきた」
「かけ香」
部屋の柱にかけておく香だという。室内香だが、お守り代わりでもあると吉夜は言った。
「まだしばらく、虫の寄ってくる季節だからそのためにもな。少し酸味が強いだろう」
言われてみれば、除虫草に似た香りだったように思う。
改めて羽織を顔に近づけた香代に、くっくっと喉を慣らす吉夜の笑い声が聞こえた。
「わたしの匂いがそんなに好きか」
家の者がいるところでは、吉夜は江戸弁ではなくなる。香代は指摘されて我に返り、羽織を軽く袖だたみして持ち直した。
「し、失礼しました……」
うつむいたものの、耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
吉夜はまた喉を鳴らした。
「それにしても、夫以外の男の服を繕うのはいただけないな」
「そんな。繕うというほどでは……」
冗談めかした吉夜の言葉に、下男が慌てて頭を下げた。
「下女の誰かに頼みます」
「ああ、そうするといい」
満足げにうなずく吉夜の前から、下男がいそいそと去って行く。
香代は吉夜の顔と下男の背中を見比べて、ため息をついた。
「……あのくらいなら、わたしでもそう時間をかけずに終わらせますのに」
「そういう問題じゃァない。男心が分かってねェな」
周りに誰もいなくなったからだろう、吉夜は伝法な口調に戻って、細めた目で香代を見下ろした。
「蓮本家のために励んでくれるのァ嬉しいが、たまには俺にも構ってほしいもんだな」
言われて、香代は目を泳がせた。
確かに香代は、朝は日が昇る前から起き出し、火入れから夕餉、日の暮れまで、ほとんどひとところに落ち着くことなく家の中を歩き回っている。吉夜が帰ってくるころにはくたくたで、先に寝ろと言う夫の言葉に甘えていた。
「……申し訳ございません。いつも先にお暇いただき……」
「そういうことじゃねェ」
わかんねぇ奴だな、と吉夜は呟く。ぶっきらぼうなもの言いだが、根に優しさを感じるので怖くはない。
すぼめていた香代の肩に、吉夜の手が乗った。布越しにほんのりと温もりを感じながら、香代は顔を上げる。
吉夜は優しく微笑んでいた。
「たまにはお前さんとゆっくり過ごしたい、と思うが……まあ、仕方ないな。お互い、慣れるまでの辛抱だ。気長に待つさ」
吉夜はひとりごちるように言って、歩き出す。香代はその背について行きながら、吉夜の羽織を胸に抱きしめた。
芦原家にはひとりいるかどうかの下女下男の類いも、蓮本家では二十をくだらない。
そうした使用人に指示を出し、飯炊きから繕い物、庭の畑仕事に至るまで、家主に代わり奥を取り仕切るのが妻の役目だ。
吉夜の養父・主膳の妻が他界してからの約二年間、蓮本家は後妻を置いていない。
それでもどうにか家の者が回していたので、それぞれのやり方があるようだった。
香代という嫁が来たからといって、すぐに従うとも思えない。
香代自身、田畑の世話や食事の支度の経験はあるものの、自分が動くのと人を動かすのでは訳が違う。
だからこそ、いきなり取り仕切ろうとするのではなく、まずは受け入れてもらうことから始めることにした。
使用人の顔と名前を覚え、少しでも時間を見つけては、声をかけて仕事を労う。
それぞれが得意とすることや性格、指示の伝え方など、気づいたことは細々と手帳に書き記した。
当然のことだが、話すのが好きな者もいればそうでない者もいる。けれど、相手が話す気になるなら、どんな話でも聞いてやった。
人の話を聞くのは、元から香代の得意とするところだ。ひと月が経つ頃には、相談されることも増えてきた。
そんなとき、香代は独断するのではなく、事情を知る者に話を聞き、必要があると思えば吉夜に確認した上で、答えを出すようにした。
長月も半ばにさしかかった秋分の日、縁側に出た香代に、下男が声をかけてきた。
「奥さま。庭の作物のことですが……」
「ああ、そろそろまた畑を耕さないといけませんね。」
うなずいた男の股引は、膝が破れている。香代はあらと口を押さえた。
「衣に穴が開いていますね。新しいものを繕いましょうか」
「い、いえ。まだ、使えますので」
「それなら、傷んだところに布をあてましょう。どちらにしろ、そのままにしていてはすぐ駄目になりますから……着替えたら、持っておいでなさい」
「いえ、そんな。奥さまにお願いするほどのことでは……」
「それくらいの針仕事なら私にもできます。毎日よく働いてくれている証拠なのですから、遠慮せずお持ちなさい」
やりとりを交わしていると、後ろに人の気配がした。
振り向けば、そこには吉夜が立っている。香代は慌てて膝を折り、頭を下げた。
「申し訳ございません。お出迎えもいたしませんで……」
「いや、いい。こっそり帰ってきたんだ」
吉夜は笑って、羽織の紐をほどいた。香代は後ろに回り込んで脱ぐのを手伝う。
薄い絽の羽織から、少し苦みのある匂いが香った。
「……今日も、殿とお香を?」
「ああ……いや、今日はかけ香を頼まれてな。選んだはいいが焚いてみてほしいと言われて、少し焚いてきた」
「かけ香」
部屋の柱にかけておく香だという。室内香だが、お守り代わりでもあると吉夜は言った。
「まだしばらく、虫の寄ってくる季節だからそのためにもな。少し酸味が強いだろう」
言われてみれば、除虫草に似た香りだったように思う。
改めて羽織を顔に近づけた香代に、くっくっと喉を慣らす吉夜の笑い声が聞こえた。
「わたしの匂いがそんなに好きか」
家の者がいるところでは、吉夜は江戸弁ではなくなる。香代は指摘されて我に返り、羽織を軽く袖だたみして持ち直した。
「し、失礼しました……」
うつむいたものの、耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
吉夜はまた喉を鳴らした。
「それにしても、夫以外の男の服を繕うのはいただけないな」
「そんな。繕うというほどでは……」
冗談めかした吉夜の言葉に、下男が慌てて頭を下げた。
「下女の誰かに頼みます」
「ああ、そうするといい」
満足げにうなずく吉夜の前から、下男がいそいそと去って行く。
香代は吉夜の顔と下男の背中を見比べて、ため息をついた。
「……あのくらいなら、わたしでもそう時間をかけずに終わらせますのに」
「そういう問題じゃァない。男心が分かってねェな」
周りに誰もいなくなったからだろう、吉夜は伝法な口調に戻って、細めた目で香代を見下ろした。
「蓮本家のために励んでくれるのァ嬉しいが、たまには俺にも構ってほしいもんだな」
言われて、香代は目を泳がせた。
確かに香代は、朝は日が昇る前から起き出し、火入れから夕餉、日の暮れまで、ほとんどひとところに落ち着くことなく家の中を歩き回っている。吉夜が帰ってくるころにはくたくたで、先に寝ろと言う夫の言葉に甘えていた。
「……申し訳ございません。いつも先にお暇いただき……」
「そういうことじゃねェ」
わかんねぇ奴だな、と吉夜は呟く。ぶっきらぼうなもの言いだが、根に優しさを感じるので怖くはない。
すぼめていた香代の肩に、吉夜の手が乗った。布越しにほんのりと温もりを感じながら、香代は顔を上げる。
吉夜は優しく微笑んでいた。
「たまにはお前さんとゆっくり過ごしたい、と思うが……まあ、仕方ないな。お互い、慣れるまでの辛抱だ。気長に待つさ」
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