君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【三】暗雲

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 翌朝、そろそろ家を出る頃になって、吉夜の供がひとり戻ってきた。

「奥さま、いましばらく」

 声をかけられて、表情を引き締める。
 吉夜は陣屋へ向かっているはずだ。供が戻って来たということは、夫になにかあったのだろうか。

「どうかしましたか」

 緊張した香代だったが、供は頭を下げ、主人の言葉を伝えた。

「芦原家への訪問の時間を、少しずらすようにと……」
「え?」

 香代はまばたきした。問わずとも、香代の疑問は顔に出ていたのだろう、男は声をひそめる。

「実は……出がけの途中、十和田兵吾さまをお見かけしまして。吉夜さまがすぐ、香代さまの出立を遅らせるようにと」
「十和田……」

 兵吾という名が誰なのか、にわかには分からなかった。
 けれど、話の流れを考えれば、察しがつく。例の横暴な三男だろう。
 下士から与三郎と言われている男。十和田家を訪れた香代を挑発した男。――吉夜を侮辱した男だ。
 蛇のような粘着質な目を思い出して眉を寄せた。
 夫の言葉ならば従った方がいいだろうし、香代とて会いたい相手ではない。こくりと素直にうなずいた。

「――分かりました。そうします」
「芦原家へは、わたくしがお伝えに行きます」
「お願いします」

 香代はうなずいて、ため息をついた。

(十和田兵吾……)

 思い出すだけでも、気分が悪くなる気がする。
 夫の配慮がありがたかった。

 ***

 兵吾がいなくなったことを確認してから家を出た香代は、午後近くに実家に着いた。
 美弥は香代の顔を見ると喜んで出迎えてくれる。

「香代ちゃん、いらっしゃい!」

 土間の他には六畳三間があるだけの小さな家だ。懐かしくもあり、ほっとする。
 十月になるまあ坊は、もう家の中を好きに這い回っていた。香代が座ると膝元に寄ってきて、腕をがっしとつかまれたと思えば、それを支えに立ち上がったので驚いた。

「まあ。あっという間にこんなに……あんよももうすぐね」
「そうね。ごろごろしているうちは早く大きくなればいいと思うけれど、こうなるともう少しじっとしていてほしかったわ」

 香代は笑いながら、まあ坊の手を取って、膝を曲げ伸ばしする甥につき合った。
 満足した甥が床に戻ったところで、持って来た肌着を取り出す。
 少し大きめに作ったつもりだったが、合わせてみるとちょうどいいようだ。

「ありがたいわ。これから寒くなる時期だから」
「そうですね。今度は綿入れでも作って持って参ります」
「ありがとう。でも、無理しないで。まずは旦那さんの綿入れをつくろってあげなさいな」

 美弥に言われて、香代はうなずいた。実際、手が空いたときには吉夜の綿入れをつくろっているところだ。
 まあ坊の肌着に比べて大きなその衣に向かうたび、改めてしみじみとつまを得たのだと実感するのは、気恥ずかしくも嬉しい時間だった。

「さち。ちょっとまあ坊をお願い」
「はい、奥さま」

 美弥に呼ばれ、子守が顔を出した。香代は少し名残惜しく思いながら子守にまあ坊を託す。

「赤子がいると、ゆっくり話せないからね……そこらを一回り、散歩しておいで」
「分かりました。まあ坊、行きましょうね」

 子守がまあ坊を抱えて庭へ出ていく。それを見送って、香代は改めて頭を下げた。

「すぐに来ようと思っておりましたのに、間が開いてしまいまして。申し訳ありませんでした」
「いいのよ、いろいろ忙しいでしょうし」

 手を振った美弥は、そういえば、と身を乗り出した。

「倒れたと聞いたけど、本当に大丈夫だったの?」
「ええ、まあ……」

 香代はうなずいて、声を潜めた。
 月のものがあって立ちくらみを起こしたのだと答えると、美弥は「ああ」と納得する。

「うちにいるときには、そんなにひどくなかったけれどね。疲れもあったんでしょう」
「そうかもしれません」

 香代はうなずいて、家の中を見渡した。

「兄上は……今日も、お勤めに?」
「ええ……」

 兄が家にいる日を選んだはずだったのだが、あてが外れてしまったらしい。
 美弥はうなずいたものの、何か気がかりがあるようだ。
 義姉の伏せられた目に気づき、香代は軽く顔を覗き込んだ。

「義姉上……なにか、気になることでも?」

 問うと、美弥は目を泳がせた。香代に言うべきかどうか、考えているものらしい。
 香代は膝でにじり寄った。

「義姉上はわたしに、何かあったら話せと言ってくれたではありませんか。わたしとて同じ気持ちです。遠慮などせず、気になることがあるなら話してください」

 香代が訴えると、美弥は目を伏せた。
 「そうね……」と困惑した表情のまま、目を上げる。

「実は……昨日、突然、町外れに住む娘がひとり、うちに押しかけてきたの」

(女?)

 兄と関係が分からない。香代はあいづちを打って先を待った。

「それが――吉夜さまの子を懐妊しているというのよ」
「……え?」
 
 思わぬことに、香代は動きを止めた。美弥は慌てて、「もちろん、わたしも辰之介さまも信じてなどないのだけど」と手を振る。
 美弥の話では、女は八月ほど前、町外れの荒屋に連れ込まれ、蓮本と名乗る男に強引に手篭めにされた、と言ったそうだ。

「辰之介さまは、そんなはずはないと言って追い帰したのだけど……女は今朝になって、自分の父親も連れてきてね」

 蓮本吉夜に会わせろ、娘を傷物にした責任を取れ――そう、近所中に聞こえるような声でがなり立てていたのだという。
 美弥は申し訳なさそうに肩を落とした。

「それで……辰之介さまも仕方なく、上役に相談すると言って、二人を連れて出て行ったの」

 香代はうなずくこともできず、呆然とした。
 女がなぜ、辰之介を訪ねてきたのかは分からない。目付と知って来たのか、吉夜の妻の縁者だと知って来たのか――細かい事情を聞こうとしても、父娘はろくに答えることなく、ただ「蓮本吉夜に責任を取らせろ」の一点張りだったという。
 美弥は困り切ったようにため息をついた。

「本当に、そんなこと、あるわけがないと思うのだけど……うちにはまあ坊もいるし、ああもしつこくどなられては、わたしもほとほと困ってしまって……」

 ごめんなさいね、と美弥が肩を落とす。香代はそっとその肩を撫でた。

「そう……でしたか。大丈夫です、義姉上が気に病むことはありませんよ……」

 頭の中では、夫の名を口にした女のことを思っていた。

(そんなこと、あるわけがない……)

 惚れた女を幸せにしたい――そう言った夫が、気軽に女に手を出すはずがない。
 それは、香代も信じられる。
 けれど、裏でなにものかの思惑がはたらいているような気がした。
 香代はつい暗くなる顔に、無理矢理笑みを浮かべた。
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