君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【三】暗雲

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 少しすると、まあ坊を連れた子守が帰ってきた。
 香代はまた赤子と少し遊び、気持ちを整えてから帰路へつく。
 蓮本家を出るとき、ついて行くと言ってきかなかった供は、美弥に気を使わせないよう町外れの茶屋で待たせている。
 あまり待たせるのも悪いので、足早に店へと急いでいた香代は、先の道に見知った人を見つけて、慌てて物陰に隠れた。

(あれは……)

 見間違いでなければ、花の同門のすみだ。
 香代は少し息を潜めてから、そろりと顔を出した。
 町外れの方から戻って来たすみは、自分の家の方へ帰るところだったらしい。
 もう姿は見えず、香代はほっとした。

(気づかれなかったみたい。よかった……)

 町外れへ出ると、茶屋の前で知り合いに呼び止められた。

「まあ、お香代さま! ご無沙汰しております!」

 振り向けば、こちらも花の同門だ。香代によく懐いていた、豆腐屋の娘だった。

「あら、久しぶり。誰かと思ったわ」

 香代が微笑むと、娘は嬉しそうに飛び跳ねた。まだ十五にもならない娘の愛らしさに、自然と笑みが浮かぶ。

「ご結婚なさったと、お師匠に聞きました。とってもいいご縁に恵まれたそうですね! お香代さまほどの女人は早々いませんもの、お幸せになられて何よりです。おめでとうございます!」

 本心からの笑顔が眩しい。香代が「ありがとう」と言うと、娘は声をひそめた。

「同門のすみさんなんかは悔しがっていましたけど、あたしからすれば当然です。見目ばっかりよくたって、あんな腹黒、どんな殿方も御免でしょうよ」

 商いを家業とするその娘にも、すみの当たりは冷たかったのだろう。香代はあいづちを打つのもためらわれて苦笑いした。

「すみさんといえば……」

 娘はキョロキョロと辺りを見回し、「さっきあの辺りにいたんですよ」と畑の方を指差した。見間違いではなかったようだ。娘は首を傾げた。

「なんだか、いかついお侍さんと一緒でしたけど……あの人、お兄さんなんていましたっけ?」

 問われた香代は少し考えたが、思い当たる節はない。

「いえ……いないと思うけど」
「そうですか。……あいびきにしてはこう……顔つきに色気が足りない気がしましたけどねぇ」

 ふうむと考えるように腕組みをする。幼いとばかり思っていた娘の世慣れた姿に、香代は思わず絶句した。

(あ、あいびき……)

 歳は十も下なのに、世俗の機微には香代よりだいぶ敏いようだ。
 自分が疎すぎるのか、娘が敏すぎるのかは分からないが、妙な敗北感があった。

「あの先にあるっていったら、畑とあばら屋くらいで、あの高慢ちきが好みそうなものなんて何もないんですけど」

 当人がいないからだろう、なかなか毒のある言いぶりだ。
 これ以上陰口を聞くのも気乗りせず、香代は「人を待たせているから」と愛想笑いを浮かべた。

「そうですか。あっ、うちの豆腐、もしよければ持って帰ってください! 父ちゃーん! お花の手習いでお世話になったお香代さまが……」

 賑やかな娘の声は、茶屋にいた供にも聞こえたらしい。香代の元にやってきて「慕われてますね」と笑われ、香代は苦笑いを返した。

 ***

 その日、吉夜の帰宅は遅かった。
 共に夕餉を摂ろうと待っていた香代に「今度からは待たなくともいい」と言っただけで黙り込んだ。
 実家で吉夜の話を耳にしていた香代は、夫が何か言われてはいないかと気がかりだったのだが、吉夜はろくに会話を交わすこともないまま、書斎に入ってしまった。

(やっぱりご詮議でもあったのかしら……)

 女を孕ませた――などという噂は、吉夜を知る者ならば、信じることはないだろう。
 けれど、殿の近くに勤めるのに、妙な噂を立てられては差し障りがあるかもしれない。
 吉夜の勤めが奥向きであるならなおさらだ。
 香代は何か話してくれることを期待して、茶を持って吉夜を訪ねた。
 吉夜は香代に気づくと「ああ」とうなずいて、

「ご苦労」

 目すら合わせず、茶を手に取った。
 いつになく無愛想な態度に、香代の心もざわつく。
 そのまま立ち去るべきかとも思ったが、おずおずと口を開いた。

「吉夜さま……なにかありましたか?」

 問えば、吉夜はようやく香代を見た。けれど、視線はすぐに逸らされる。

「いや……別に何も」

 静かな声に、感情はうかがえない。
 夫が話すつもりのないことを、強引に聞き出すのも筋が違う。香代はぐっと堪えて、「そうですか」と微笑みを浮かべた。

「吉夜さま……わたしにできることがありましたら、いつでも、なんなりとお命じくださいね」

 いつかも言った言葉を、誠心誠意、気持ちを込めて繰り返す。
 けれど、吉夜は目を逸らしたまま、「ああ」とうなずいただけだ。
 吉夜と香代の間に、沈黙が流れる。
 どう考えても、吉夜は何か考えている。

(けれど……わたしには、打ち明けてくださらない)

 義姉から聞いた話が関係しているんだろうか。それとも別の話? それとも――
 気まずい沈黙が、香代の不安を膨れ上がらせていく。香代は知らぬ間にうつむいていた。
 空になったお盆に、今日手にした赤子の温もりを思い出す。昨夜交わした吉夜との会話と、そのとき感じた寂しさが再びよみがえる。

(やっぱりわたしは……妻にふさわしくないんだろうか)

 ふっと、香代は思った。殿の近くに侍る吉夜が、誰にどう見られているか、香代は知らない。
 下士出身の、それも月の障りで倒れるような女を、望んで妻にもらったというだけで、馬鹿にされないとも限らない。
 香代なりに精一杯勤めてはいるが、上士の妻としての勤めが果たせていないのかもしれない――
 上士の生活、というものを香代は知らないのだ。その上、主膳の妻がいないとあっては、家づきあいの暗黙の了解も、家を預かる者のすべきことも、夫を支えるための配慮も、誰にも教われない。

(今まで、吉夜さまの優しさに甘えていた……)

 改めてそう気づき、胸が痛む。
 初めて、二人でいることを苦しく感じた。
 沈黙を重苦しく感じたとき、吉夜が口を開いた。

「先に休んでいろ。……俺は少しやることがある」

 静かなその口調に感情はなく、伏せ気味の吉夜の目は見えない。
 夫が何を思い、考えているのか分からない。
 香代は名残惜しく思いながらも、無理に笑みを作って頭を下げた。

「はい。お言葉に甘えて……先に失礼いたします」

 吉夜がうん、とうなずく。香代は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
 ちらりと振り向くと、もの思う風の吉夜の背中が見える。
 その背に、香代がかけられる言葉は何もない。

(吉夜さま……)

 自分ではまだ、力になれることが少なすぎる。

(わたしは……吉夜さまの妻として、役目を果たせているのだろうか……)

 香代は肩を落として、ひとり、冷たい寝所に入った。
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