どうかあなたが

五十嵐

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50 逃す(のがす)

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これからの事を考えながら、樹はかおるの手を握り続けた。近いこれからと遠いこれから。

扉を開けると近いこれからに向けた準備がすぐそこにあった。荷物を指定してもらう必要はない。
これが本来のかおるなのかどうかは分からないが、すべてがきっちり揃えられている。

「あれだね。」
樹の言葉にかおるが小さく頷く。
「明日着る服と、下着か、あとは。」
「服は、クローゼットの中にちゃんと吊るしてあります。下着は、ちょっと待っていて下さい。」

あわてて下着を引き出しから用意するかおるを見ながら、樹は思わず『Take your time.』と呟いていた。
日本語の『ゆっくり』よりも、英語のこの表現が今のかおるにはとても必要に思えて。本来の意味よりは単語そのものが表す『時間』を自分のものにして欲しかった。

樹の家へ行くことになったのは急なこと。明日の服や下着の用意がなされていないのは当然なのに、かおるはそこに落ち度を感じているように見える。前回荷物をまとめていた時と比べて、明らかに何かがおかしい。
やはり、明日からの出張に、恭祐との時間に不安が募っているのだろうか。

スーツケースは既に空港へ送ったと聞いている。まとめてあるのは手持ちの荷物。
「あの、この荷物、もう一度点検していいですか?」
「ああ。でも何か足りなければ空港でもある程度買えるし、陸の孤島へ行くわけではないんだから現地調達だってできる。むしろその方が楽しいと思うけど。」
「そう、…ですよね。わたしったら、薬品とかも含めてこれ以上ないくらい色々用意したって言うのに。」

好き好んで恐怖する状況に飛び込む人間はいない。かおるは少しでも恭祐という恐怖に備える為に荷物をまとめていたのだと樹は思った。
「かおる、今、会社、辞めるか?もう、いいよ。」
だからだろうか、樹はかおるがこれ以上恐怖と向かい合わなくて済む言葉を発していた。

「ふふ、それ、経営者一族の方が言う言葉じゃないですよ。」
「いいよ、今は、オレ、かおるのことを愛しているだけの男だから。」
「…樹さん、わたしを今、ここで抱いてもらえますか?」

樹はかおるを引き寄せると、優しく抱きしめた。
「そういう意味で言ったんじゃありません。」
「分かってる。でも、不安定なかおるに付け入ることはしたくない。場所とか状況に拘りたかったから、プロポーズもやり直したくらいなのに。でも、これは…やり直しが効かなくなる。最高な時に最高な感覚を味わってもらいたいんだ、オレは。入籍、結婚式とプロセスを踏んで、最後に本当にオレのものになってもらいたい。案外ロマンチストで、笑うか、オレを?」
「いいえ、涙が出ます。自分の馬鹿さに。こんなに思ってくれているのに、樹さんが。」


かおるは樹の言った『辞める』を選択する為の、ひと押しが欲しかった。それも決定的な一押しが。
恭祐との出張にもう未練等なくなるくらい、引き継ぎを全う出来ず何を言われても関係ないと思えるくらいの。
だから、抱いて欲しいと言ったのだ。この行為を求める理由が間違っていると知りながら。

樹がかおるの言った『怖さ』や『支配』をどうとらえたのか100%は分からない。
けれども、会社を辞めるように言ったということは、言葉そのものが持つ意味で理解したのだろう。

でも、本当は違う。本質は。
好きだから、切り捨てられたくない『恐怖』。好きだから『支配』されたいとどこかで願っている自分。
樹に抱かれれば全ての未練が断ち切れるように思えた。だから出てしまった一言だった。

もし、樹が恭祐へかおるとの事を伝え、おめでとう等の祝福する言葉があったのならば…。それはそれで、言葉で切り捨てられるようで良かったように思える。たとえ、心の中では祝福などしていなくても。でも、樹は恭祐には告げていない。とすれば、後で知った時に恭祐はいつものような蔑む目でかおるを見るだろう。かおるの中の本当の気持ちや理由を、まるで猛禽類の鋭い爪が抉り掴むような視線で。

「樹さん、わたし、あの、」
かおるは樹に正直に自分の気持ちと状況を話そうとした。そうしなくてはいけない気がして。会社を辞める理由を含め全てを今こそ話さなくてはいけないと。
けれどその表情は固く、樹には不安や恐怖で雁字搦めになっているようにしか見えてなかった。

「時間をかけよう、気持ちの整理に。大丈夫、かおるにはオレがついているから。」
言わなくてはいけないと分かっているのに、樹の表情と声の優しさはかおるに安心を与えてくれる。こんな馬鹿なことを思い囚われている自分に好意を抱き許してくれる存在が傍にいてくれるのだという。

人はやり直しが出来るのならば、『あの時』に戻りたいというターニングポイントがいくつもある。かおるにとって、これから起こることの『あの時』はこれが最後のタイミングだったのかもしれない。

言わなかった、言えなかった言葉たち。樹は全てを言葉にすることがどれだけ重要か教えてくれていたというのに。
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