どうかあなたが

五十嵐

文字の大きさ
52 / 90

50 逃す(のがす)

しおりを挟む
これからの事を考えながら、樹はかおるの手を握り続けた。近いこれからと遠いこれから。

扉を開けると近いこれからに向けた準備がすぐそこにあった。荷物を指定してもらう必要はない。
これが本来のかおるなのかどうかは分からないが、すべてがきっちり揃えられている。

「あれだね。」
樹の言葉にかおるが小さく頷く。
「明日着る服と、下着か、あとは。」
「服は、クローゼットの中にちゃんと吊るしてあります。下着は、ちょっと待っていて下さい。」

あわてて下着を引き出しから用意するかおるを見ながら、樹は思わず『Take your time.』と呟いていた。
日本語の『ゆっくり』よりも、英語のこの表現が今のかおるにはとても必要に思えて。本来の意味よりは単語そのものが表す『時間』を自分のものにして欲しかった。

樹の家へ行くことになったのは急なこと。明日の服や下着の用意がなされていないのは当然なのに、かおるはそこに落ち度を感じているように見える。前回荷物をまとめていた時と比べて、明らかに何かがおかしい。
やはり、明日からの出張に、恭祐との時間に不安が募っているのだろうか。

スーツケースは既に空港へ送ったと聞いている。まとめてあるのは手持ちの荷物。
「あの、この荷物、もう一度点検していいですか?」
「ああ。でも何か足りなければ空港でもある程度買えるし、陸の孤島へ行くわけではないんだから現地調達だってできる。むしろその方が楽しいと思うけど。」
「そう、…ですよね。わたしったら、薬品とかも含めてこれ以上ないくらい色々用意したって言うのに。」

好き好んで恐怖する状況に飛び込む人間はいない。かおるは少しでも恭祐という恐怖に備える為に荷物をまとめていたのだと樹は思った。
「かおる、今、会社、辞めるか?もう、いいよ。」
だからだろうか、樹はかおるがこれ以上恐怖と向かい合わなくて済む言葉を発していた。

「ふふ、それ、経営者一族の方が言う言葉じゃないですよ。」
「いいよ、今は、オレ、かおるのことを愛しているだけの男だから。」
「…樹さん、わたしを今、ここで抱いてもらえますか?」

樹はかおるを引き寄せると、優しく抱きしめた。
「そういう意味で言ったんじゃありません。」
「分かってる。でも、不安定なかおるに付け入ることはしたくない。場所とか状況に拘りたかったから、プロポーズもやり直したくらいなのに。でも、これは…やり直しが効かなくなる。最高な時に最高な感覚を味わってもらいたいんだ、オレは。入籍、結婚式とプロセスを踏んで、最後に本当にオレのものになってもらいたい。案外ロマンチストで、笑うか、オレを?」
「いいえ、涙が出ます。自分の馬鹿さに。こんなに思ってくれているのに、樹さんが。」


かおるは樹の言った『辞める』を選択する為の、ひと押しが欲しかった。それも決定的な一押しが。
恭祐との出張にもう未練等なくなるくらい、引き継ぎを全う出来ず何を言われても関係ないと思えるくらいの。
だから、抱いて欲しいと言ったのだ。この行為を求める理由が間違っていると知りながら。

樹がかおるの言った『怖さ』や『支配』をどうとらえたのか100%は分からない。
けれども、会社を辞めるように言ったということは、言葉そのものが持つ意味で理解したのだろう。

でも、本当は違う。本質は。
好きだから、切り捨てられたくない『恐怖』。好きだから『支配』されたいとどこかで願っている自分。
樹に抱かれれば全ての未練が断ち切れるように思えた。だから出てしまった一言だった。

もし、樹が恭祐へかおるとの事を伝え、おめでとう等の祝福する言葉があったのならば…。それはそれで、言葉で切り捨てられるようで良かったように思える。たとえ、心の中では祝福などしていなくても。でも、樹は恭祐には告げていない。とすれば、後で知った時に恭祐はいつものような蔑む目でかおるを見るだろう。かおるの中の本当の気持ちや理由を、まるで猛禽類の鋭い爪が抉り掴むような視線で。

「樹さん、わたし、あの、」
かおるは樹に正直に自分の気持ちと状況を話そうとした。そうしなくてはいけない気がして。会社を辞める理由を含め全てを今こそ話さなくてはいけないと。
けれどその表情は固く、樹には不安や恐怖で雁字搦めになっているようにしか見えてなかった。

「時間をかけよう、気持ちの整理に。大丈夫、かおるにはオレがついているから。」
言わなくてはいけないと分かっているのに、樹の表情と声の優しさはかおるに安心を与えてくれる。こんな馬鹿なことを思い囚われている自分に好意を抱き許してくれる存在が傍にいてくれるのだという。

人はやり直しが出来るのならば、『あの時』に戻りたいというターニングポイントがいくつもある。かおるにとって、これから起こることの『あの時』はこれが最後のタイミングだったのかもしれない。

言わなかった、言えなかった言葉たち。樹は全てを言葉にすることがどれだけ重要か教えてくれていたというのに。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

惑う霧氷の彼方

雪原るい
ファンタジー
――その日、私は大切なものをふたつ失いました。 ある日、少女が目覚めると見知らぬ場所にいた。 山間の小さな集落… …だが、そこは生者と死者の住まう狭間の世界だった。 ――死者は霧と共に現れる… 小さな集落に伝わる伝承に隠された秘密とは? そして、少女が失った大切なものとは一体…? 小さな集落に死者たちの霧が包み込み… 今、悲しみの鎮魂歌が流れる… それは、悲しく淡い願いのこめられた…失われたものを知る物語―― *** 自サイトにも載せています。更新頻度は不定期、ゆっくりのんびりペースです。 ※R-15は一応…残酷な描写などがあるかもなので設定しています。 ⚠作者独自の設定などがある場合もありますので、予めご了承ください。 本作は『闇空の柩シリーズ』2作目となります。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...