金木犀の涙

星空凜音

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 午後の仕事を開始して数時間。
 同じ体勢でパソコン画面を見続けていたせいか、若干の背中の痛みに首を回した。
 周りも同じくパソコン画面に向かってる社員が多く、少々の体を動かす動作等、誰も気にしない。
 腕にしている時計を見れば、十五時半を過ぎた所だった。
 秋山は午後、営業部の女性社員―――美也万ミヤマ 朱莉アカリに連れられて打ち合わせに行っている為、席はがらんとしていた。
 最も、今日の午後は外での打ち合わせ組が多いのか、社内も人がまばらでいつもより静かだが。

沢野サノさん」

 仕事の続きをしようとパソコン画面へ首を戻したと同時に、左斜め後ろから呼ばれた。
 体を動かさないまま首を上げて、左目でチラッと声の主を確認すると、見慣れない女性社員が立ってるようだった。
 ミルクティーブラウンとかいう感じの色に染められ緩く巻かれたミディアムの髪、ホワイトのニット、クリーム色のスカートと順に目に入る。

(………誰だっけ?)

 記憶力が悪い訳では無いが、昔からつい人の名前を覚える事に関して良い方では無い。
 失礼だと自覚はあるが無理なものは無理だ。
 名前と顔を一致させるように、仕事で疲れた脳をフル回転させて立っている女性社員の名前を頭の中で探した。

「…あー……っと、はい。」

 結局、俺の脳は名前を取り出す事が出来ず、仕方無しに返事だけして軽く立ち上がった。
 名前を覚えられていないとも知らず、俺を呼んだ女性社員は目が合うと軽く笑みを浮かべながら口を開いた。

「沢野さんも珈琲、要りますか?」

 そう言って女性社員の目は、パソコンの左隣に置いていた飲み口がシルバーのブルーのタンブラーを見ていた。
 よく見ればタンブラーの中はあと一口の量。
 ―――序でに入れようとしてくれたのか。偶々目に付いたからなのか…。
 正直な所、こういう気遣いは苦手だ。
 下手すれば気持ち悪いとすら感じる。
 自分がよく知ら無い人間にされるのが駄目だった。

「あ、俺は大丈夫。お気遣い無く。」

 癖的なものだが、小学校の頃からだから仕方無い。
 大人だから態度には出さないが、社会人として、無難な対応で断った。

「そうですか?」

 ―――分かりました。と会釈して女性社員が去ってから、自分の席に戻る。
 体の向きを戻して、仕事の続きをやろうとデスクに向かうと、左斜め前の席に居た同期―――巴志乃ハシノ リョウと目が合った。

「………何だ?」

 物言いたげな視線に、思わず言葉を投げた。

「別にー。」

 ショートヘアの黒髪を揺らし首を左右に振った後、戯けたような目をして俺と自分のノートパソコンを交互に見る巴志乃。
 言葉と行動が伴ってない気がして逆に気になった。

「いや、何かあるだろ?」

 直ぐに引き下がらなかった事が意外だったのか、顔を上げた巴志乃は頬杖を付いて、苺色に塗られた唇を上下に開いた。

「色んな意味で好かれるのは分かるんだけど、もう少し愛想良くしても良い気がしてね。……ま、いいんだけど。」

「無愛想でも無いだろ。」

「うーん。………硬いのよ沢野。」

(………硬い?…表情がって事か?)

 巴志乃の一言が引っ掛かった。
 頭の中で言葉の意味を汲み取ろうと考えたが、先に言葉を続けたのは巴志乃だった。

「あ、顔ってだけじゃないんだけどね~」

(―――寧ろ顔は確定なのかよ…)

「………それより、」

 何と無く続けて言われた巴志乃の言葉にモヤッとしつつも、話題の焦点を変えようとした。

「今の女性社員、誰か知っているか?」

 俺の質問に、綺麗にアイラインが引かれた巴志乃の二重が見開かれる。

 ―――ヤバい。

 咄嗟に不味い質問をしてしまった気がして、内心焦った。

「誰って…事務のモギキさんでしょ。」

 聞き覚えの無い名前にさっきの焦りは何処かへ行き、代わりにハテナが浮かんだ。
 取り敢えず、平静を保ちつつ言葉を返す。
 表面では平静を保ちつつも、実際眉だけは動いてしまったが。

「…何時から居たっけ?」

 ―――ハァー…ッ……

 巴志乃から絵に描いたような盛大な溜め息が漏れた。

「半年まで行ってないけど、三ヶ月?位は経ってるわよっ。沢野って本っっっ当何か~…うん、そういう所も!」

「…悪かったな。けど、本気マジで知らなかったっつーか…顔も名前も覚えが無い。」

 巴志乃が呆れた態度を取っても仕方無い。
 が、そんな変わった名前ならば、一度挨拶があれば何と無く記憶に残っていても良い筈だった。
 だが、生憎、本当に記憶に無い。
 これは俺の癖が原因とは言えないのではないか?

「あの子の入社の時…朝礼、沢野居なかったっけ?」

 巴志乃の顔には“信じられない”と書いてあったが、本気で覚えが無かった。

(知らねー…つーか、今後関わり合いあるのか?……いや、同じ会社だけど、今更覚えるかっつーとそれも自信は………)

 頭の中でブツブツと文句を述べながら、三ヶ月前の朝礼を一瞬思い出そうとぐるぐる考えてみた。
 うちの会社は事務を担当する社員の勤務フロアは、七階だ。
 経理事務や一般事務の社員は、必要な書類等を届けたら七階フロアへ直ぐ戻る。そんな印象が強い。
 営業事務の社員だけは、八階に営業部の部署がある為、一部を除いて営業の社員と二人一組で仕事をしている。
 ただ、同じフロアでも俺や巴志乃、秋山の仕事は営業では無い為に、営業事務との関わりも少なかった。
 出勤時やお昼休みに外出から帰って来た時みたく、社内で擦れ違い様に挨拶する程度と言える。

「午後出勤か有休の日だったなら居なかっただろうけど」

(三ヶ月前なんて覚えてねー)

「まぁ良いわ。取り敢えず、モギキさんていうから」

 ―――覚えておくべきね。
 巴志乃は途中まで言って、仕事へ戻りパチパチと自分のノートパソコンをブラインドタッチ並みでタイプし始めた。
 終わりの一言は聞こえなかったが、俺にはそう聞こえた気がした。
 巴志乃が仕事へ戻った為、俺も仕事の続きをやろうとパソコン画面へ首と視線を戻しす。
 十八時半迄あと数時間。
 定時キッカリには上がらないが、十九時前には仕事を終わらせる予定だった。
 送別会の時間まで集中して手を動かした。



 十八時二十七分―――…パチッ。
 取引先企業の一社の担当にメールを送信した所で、凡そ良い時間になっていた。
 一日の仕事が終わったという感覚からか、少しホッとしている自分が居た。

(……今日の本番はこれからの送別会だけどな)

 ホッとする気持ちとは反対に、苦手な飲み会が始まる怠さが何処からか込み上がる。
 送別会へ向かう前に、特に理由は無いが、珈琲を飲んでおこうとミニキッチンへ行く為、タンブラーを持って席を立った。
 三台、コーヒーマシーン、カプセル式コーヒーメーカー、エスプレッソメーカーが並ぶ木製のキッチンの足元の棚を開けて、自分が飲みたい珈琲を選ぶ。

(―――…っ…あ、忘れてた!)

 棚を開けてしゃがみ、少し前屈みになって珈琲の袋を取ろうとした時に、昼間来ていたメッセージを返していなかった事に気付いた。
 連絡の内容は大した事では無いだろうが、今日の送別会の事を送って無かったと思い出し、直ぐ様スマートフォンを取り出す。
 珈琲の袋を棚に置きながら、メッセージアプリを開くと、昼間に見えた明るいテンションからの挨拶から始まる恋人からの文章が目に入って来た。
 ―――ポン……カツカツ…ガヤガヤ…
 片手で返事を打っている最中に、エレベーターの扉が開き、歩く足音と複数の話し声でフロアが一気に五月蝿くなった。
 外出組が戻って来たのだと思った。

「あ、沢野さん!」

 賑やかな話し声の中、呼ばれた声に反応して指を止め振り向けば、マフラーを取りながら笑顔で歩いて来る秋山の姿が目に入った。
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